2012年12月12日

俺たちの頭蓋骨

両脇を林に挟まれた田舎道を車で走りながら、ふと昔のことを思い出した。

子どもの頃。
小学5年生か6年生くらいだったろうか。
田舎の小学校に通う俺は、家まで一直線に帰ることは少なかった。平々凡々な毎日の帰り道をいかに刺激的にできるか。小学生の俺たちは、そんなことばかり考えていたのかもしれない。だから、学校から家までの間にある川や林を、遠回りだと分かっていても、敢えて通って帰ることが多かった。

そんなある日。弟から、林の中に白骨死体があると聞いた。実際に行ってみると、林道から少し離れた場所、草や岩に隠れた位置に白いものが見えた。それは、確かに、人間の頭蓋骨、シャレコウベに見えた。友人たちも、俺も弟も妹も、その頭蓋骨には近づかなかった。それでも、俺たちは毎日のように、その頭蓋骨を見に行った。誰も近づかず、石を投げてみたり、棒切れを投げてみたりした。頭蓋骨に当たって向きが変われば、全体像が見えるかもしれない。そんな期待を抱きながら、俺たちは物を投げ続けた。しばらくすると飽きて帰ることが多かった。時には、誰か一人が急に怖くなって「わーっ」と言いながら逃げ出た。すると、恐怖が伝染して皆が一斉に叫びながら逃げ出した。そうやって頭蓋骨のもとへ通い詰めながらも、俺たちは誰一人として頭蓋骨には近づかなかった。そこには、なんとも言えない怖さがあった。

その怖さの正体を、俺は今さらながらに考えてみる。もう25年くらい前の話だが、だからこそ当時の自分の気持ちが分かる気がする。俺たちは、いや、少なくとも俺は、本物の頭蓋骨を間近で見ることに恐怖していた。これは紛れもない事実だ。だけど、それ以上に、
「その頭蓋骨は、実は単なる石だった」
という現実を突きつけられることの方が怖かったんじゃないだろうか。それが頭蓋骨だと信じて通う日々は刺激的だった。平凡に倦んだ俺の心は、その刺激の虜になっていたのだ。だから、その刺激のもとである頭蓋骨が、実は単なる石であることを知りたくなかったんだろう。あの時、恐らく誰もが、半信半疑よりは信じる方に近い側にいたはずだ。同時に、怖さにも似た「疑い」を多かれ少なかれ持っていたと思う。だから、途中からは近づくことが何となくタブーになっていた気がする。ある意味で、あの頭蓋骨は俺たち皆の財産だったのだ。

俺の中での頭蓋骨ブームは、あっさりと終わりを告げた。きっかけは、妹が父に頭蓋骨の話をしたことだった。妹は小学校低学年なりの無邪気さで、父親が面白がったり、怖がったり、そういう反応を期待していたのだろう。ところが、林の中に頭蓋骨があるという話を聞いた父は真剣な顔で、
「それはどこだ」「それは本当か」「それが本当なら警察に連絡しなければ」
というようなことを言った。子どものファンタジー的な楽しみを解さない父の顔と声に、妹の顔がこわばっていたことを覚えている。「警察」という言葉があまりに現実的で空々しかった。俺たちの頭蓋骨は、警察が調べるようなものじゃなかったのだ。石や棒切れを投げて本物かどうかを手探りし、投げたものが当たって頭蓋骨の向きが少し変われば、それだけで皆が息を飲む。そういう類のものだったのだ。近づいて調べるなんてことはしてはいけないものだった。そして俺は、父の冷静で冷酷な言葉を聞きながら、なぜだか、あの頭蓋骨が単なる石であることを確信したのだった。

それ以来、頭蓋骨の場所へは行かなかった。

2 件のコメント:

  1. 笑った。
    そしてなんだか心にぐっとくるというか、考えさせられると言うか・・・

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  2. >なおこさん
    せつない少年時代の一幕でした(笑)

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