2015年9月29日

精神科医は自分の視線さえも診療ツールとして使っている

精神科医にとっては、視線も診療ツールである。

こういう文言の後に「だから、視線のやり場にも気を配りましょう」というのでは、ツールの使い方の説明になっていない。もちろん、気を配ることで自分なりに視線の使い方に関する気づきがあり、そこから洞察が芽生えることはあるかもしれないが、アドバイスとしては不親切だろう。

ツール、というからには大雑把にでも使い方を説明できなければいけない。そこで思い出すのが大工のツールである金槌。まだ小学生の頃、日曜大工の真似事で板に釘を打ち付けて遊ぶのだが、釘がまっすぐに入る時と、斜めになってしまう時とがあった。単に自分の腕の振りが悪いとばかり思っていたが、実は先端の叩く部分(頭という)には平らな面と凸になった面があると教えてもらい、この平らな面を使うように心がけるだけで釘をまっすぐ打てるようになった。

視線がツールであるというからには、「金槌には平らな面と凸面がある」くらいの大雑把さでも良いので、「気を配りましょう」では終わらない具体的なアドバイスというものがあるはずだ。そういうわけで、今からここでツールとしての視線の使い方を教示できれば良いのだが、今まさに自分が暗中模索な状態なので、そういうレベルに達していない。

すいません。

ところで視線だけでなく、姿勢、服装、診察の始め方や終わり方、言葉遣い、その他もろもろの細かい点もツールとして使い方を言語化できるはずだ。人によってはこれを、診療のマニュアル化と批難するかもしれない。しかし先の金槌の例えで言えば、同じ金槌を使うにしても、人が違えば完成品が異なるのと同じように、診療の細部がツールとして言語化されても、できあがる診療は人それぞれになるはずだ。コツを伝えることと、マニュアル化とはまったく違うものなのである。

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