2017年9月11日

子育て・教育に悩んでいる親・先生へ 『いじめと不登校』 前編


引きこもりや不登校の相談を受けることがある。相談に来た家族に、なにか良いお土産でも持って帰ってもらえたら、と思って読んでみたら、非常に良い本だった。引用が多くて長いため、二回に分ける。
日本人の特徴的な考え方として、努力したものは誰でも偉くなると思っているんですよ。そんなばかなことはないんですね、ほんとうは(笑) 中学校に入って成績が悪いと、お前はだめだ、競争で負けてると言われる。子どもが怒るのは当たり前ですよ。そのときに、「お前は勉強しなくても、そのうちなんか面白いこと見つけるのやろな」と言ってあげられる大人がいないんですね。
ある意味でいうとアメリカとかヨーロッパのほうが日本よりは競争は激しいところがあります。が、価値観が多様化してるから、そんなに簡単に自分はもうだめだなんて、子どもが思わないわけです。勉強しなくても面白い世界がいっぱいあるってことを知ってるんですね。
一方、日本の親は「うちの子は何番」しかない。先生もそういう言い方をする。その前提には、どんな人間でも努力したら一番になれる。成績の悪いやつは努力していないという共通の認識があるんです。
これに関連して、「うちの子は何番か」にしか目が行かない、そんな親たちのエピソードが紹介してあった。

ある先生が子どもたちを島に連れていって、
「これは勉強じゃないから、普段と違う友だちの姿が見えるはず。みんな、自分のクラスの子にどんな良いところがあるか、よく見てください」
そうして、帰った後に子どもたちに○○君にはどんな良いところがあったかを書かせた。先生は、それをまとめなおして皆に返した。そうすると、そこには自分の良いことばっかり書いてある。子どもたちはものすごく喜んで家へ持って帰ったのだが、親からはぜんぜん反応がなかった、というもの。

「日本の父性を復権せよ」という論調に対して。
父性を復権すれば問題が解決するという論調もありますが、これには疑問が残ります。社会の仕組みとしてあっただけで、もともと日本には復権すべき父性なんてなかったんですから。明治の父親は威厳があった、戦前のお父さんは立派だったというけれど、あれは父性として偉かったんじゃない。父親を偉く思わせるような仕組みが世の中にあったというだけでね。むしろ個人としての父親は、日本国全体に奉仕する存在だった。
だから復権じゃなくて父性は創造すべきだと僕は言っているんです。
学校の先生にも読んでもらいたい部分が多い。
活きる力が育っていくための「土壌」として親や教師が存在する。このことを具体的に言うと、「安心して好きなことができる」環境ということになるだろう。「あの先生が居てくれる」、というだけで、子どもたちが心をはずませて好きなことができる。そのなかで、子どもたちの生きる力は、まちがいなく育ってくる。
ある高校の先生のエピソードが面白かった。作文が嫌いな子が多いので、その先生は生徒らに、
「ほんとうに嫌いみたいだから、どんなに作文が嫌いかを互いに話したらどうだろうか」
と提案し、さらに、
「授業中だから、声に出さずに筆談で。ただし、方言まる出しで良い」
と付けくわえた。生徒らは一対一になり、作文に関する恨み・つらみについて語り合った。
しばらく経った頃、先生が「あんたら、えらい書いているけど、読んでもええか」って聞くと「かまへん」というんで、みんなの前で読むんです。みんな面白いから大喜びする。そこで先生が「これ、ちょっと面白いから、一般の高校生にも分かるようにしようと思ったらどうしたらええんやろうか」といって、みんなで作文直していくんです。最後にはちゃんとした作文ができあがる。つまり「作文は嫌いだ」という作文になっている。
その一年後には、みんな原稿用紙に二十枚とか、それぐらいの作文を書くようになったそうです。
ある中学校での話。
女の子の髪の毛の長さが決まっていたところがあるのです。それを撤廃したんです。しばらく経って、ある先生に「自由にして、何か変わりましたか」と伺いましたら「子どもの顔を見るようになりました」と。それまでは、髪の毛ばかり見ていたというんです。
ここまで極端なことはないにしても、似たようなことは多いのかもしれない。

後編へつづく

<関連>
子どもらしい詩が胸をうつ 『一年一組せんせいあのね』

0 件のコメント:

コメントを投稿

コメントへの返信を一時中止しています。
一部エントリでコメント欄に素晴らしいご意見をいただいており、閲覧者の参考にもなると思われるため、コメント欄そのものは残しております。
また、いただいたコメントはすべて読んでおります。