2012年2月4日

パッション ~イスカリオテのユダを中心に~

Passion

という単語には、『情熱』のほかに、『受難』という意味もある。どのような語源からそういうことになったのか、それは分からないけれど、イエスの生涯を見ると、二つの意味が同時に、すんなりと受け入れられる。今までもこれからも、彼ほどの情熱を持った人はいないであろうし、また彼ほど自らの苦難を抗うことなく受け入れた人もいないだろう。

この映画を観るのは二度目。初めて観たのは一年ほど前で、途中で寝てしまった。ここ最近になって、さまざまな本でイエスや弟子たちの生涯を知り、そうして改めて観てみると、あら不思議、面白さがグンと増した。

裏切り者として有名なイスカリオテのユダは、祭司長たちにイエスを売ったことを悔いて自殺した。一方、ペテロは命が惜しくてイエスなど知らないと言い張ったが、後にカトリックの初代教皇となる。その他の弟子たちも、イエスを守ることなく逃げ出した。しかし、現代になってなお、裏切り者と言われるのはユダだけである。彼の裏切り、彼の罪とは、はたしてイエスを売ったことなのだろうか?

おそらくそうではない。

イエスは、弟子たちの弱さを受け容れていたし、自らの弱さも知っていた。そして、弱いけれども逃げない、しかし戦いもしないということを、非常に大切にしていた。強い信念を持って、苦難を受け容れる、『Passion』、すなわち情熱と受難なのである。ユダは、自らの裏切りを後悔したのであれば、自分の愚かさや弱さから目を背けずに、生涯を賭してイエスの生き方や教えを広めるべきだったのだ。イエスにとって、自殺を選ぶことは最大の罪であり、生き続けることこそが裏切りへの贖罪であった。そのことを、イエスの弟子の中で最も賢かったと言われるユダが気づけなかったのだろうか。いや、気づいてもなお、自らを永遠に罰し続けるために自殺を選んだのかもしれない……。

と、少々ユダびいきな考察をしたのだが、ふと、これもまた違うのではないかと思い至った。

では、ユダの最大の罪はなんだったのだろうか。それは「イエスはユダを赦す」ということを信じきれなかったことかもしれない。
「赦されないことをしてしまった」
という後悔は、
「イエスはすべての罪を背負い、すべての者を赦す」
ということを否定している。ユダの自殺は、イエスを信じきれなかったことの結果に過ぎず、「イエスを信じる」ことを捨てたことこそが、ユダの最大の裏切りであり、罪だったのだ。

パウロという人物がいる。
熱心にキリスト教を広めた人で、新約聖書の著者の一人と言われている。キリスト教においても崇敬されている彼だが、当初はキリスト教徒らを強烈に迫害していた。彼は、あることをきっかけにイエスに心酔し、以後は自らの命をも恐れず布教に力を入れる。パウロが敬われるのは、自らの罪から逃げることなく向き合い、赦されると信じきって生きたからであろう。

ユダには以前から興味があるので、また改めていろいろと考えてみたい。

4 件のコメント:

  1. Ciao Willwayさん
    私はもユダがなぜか気にかかり
    ヨーロッパ人たちのように、嫌いになれません

    ちなみに、ペテロはどうも虫が好きません 笑

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  2. >junkoさん
    遠藤周作によると、ペテロは気が弱かったということですし、頼りない感じかもしれないですね(笑)
    でも、最後に殉教するときにイエスと同じ十字架は恐れ多いからと逆さ十字に磔けられたという逸話は、なんだか胸を打たれました。

    今の一番のお気に入りはパウロです。

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  3. おもしろかったです
    うまく言葉に尽くせないのだけど、
    体温を感じて読みました。
    私の尊敬するDrがイエスはおられたと心から信じておられて
    「私なら我が子を十字架にはかけられない。どうしても出来ない」と
    よくおっしゃられていました。
    実在する。きっと居たんだ。そこの想いはこんな風だったかもしれない。
    ブログエッセイなんですが深く感想がこみ上げてくる内容でした。
    次回も楽しみにしております。

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    1. >匿名2012年6月6日 18:35
      ありがとうございます。イエスは確かに実在したのだろうと俺も思っています。現在伝わっていることの全てが事実だとは思わないですが、「そういう人」がいたことは確かなんだろうな、くらいですが。
      キリスト教徒ではないのですが、キリスト教関係の小説やエッセイは好きで結構読んでしまうのです。

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