細かくは読まなかったが、日本の差別と関わりのある部分をざざっと呼んだ。以下、引用。
サンボがアメリカで差別語だという説があり、それにまつわる話として。
「黒人差別をなくす会」の有田太君が、『ブラック・サンボくん』を発刊した「子ども文庫の会」の山本まつよ氏にあてた手紙で「おばさんは、日本にいる黒人の子どもが、『サンボ』とからかわれて泣いているのを知っていますか」と聞いている。私には、日本の子どもが『ちびくろサンボ』を読んで黒人をいじめるようになるとは思えないが、たとえ黒人を「サンボ」といっていじめたとしても、そのことは「サンボ」という言葉とは無関係である。絵本の主人公の名前が「ヤンボー」でも「マーボー」でも、その子は黒人の子どもをからかうだろう。問題にすべきなのは、そのことであって、「サンボは差別語だから使ってはダメ」という教え方は逆立ちしている。それに「サンボ」が差別語でない日本で、そんなことを教えても、使わなくなる子どもと、おもしろがって使う子どもと、どちらが多いだろう。まさに、藪をつついて蛇を出す行為といわなくてはならない。
差別に対する異議をとなえる手段として差別語をなくそうとするのは、言葉の「デリカシー要求運動」にしかならず、本当の意味で差別をなくすことにはつながらない。
目的を忘れると手間が倍加する。(サンタヤナ)
差別問題は難しいので近寄らない方がいい、という態度は「礼儀正しい差別」を助長する。
差別される痛みは差別された者にしか分からない」という立場で被差別者を擁護したり、擁護を強要したりする態度こそが、むしろ差別を強化する場合もある。
「被差別者の痛み」とは何だろうか。……簡単じゃないか、踏まれた足が痛んでいるんだよ。……なるほど。しかし、俺にはお前の左足を踏んでいるのは、お前の右足に見えて仕方がないんだよな。
はっきり言おう。「被差別者の痛み」を成り立たせている最も本質的な要素は、被差別者自身のコンプレックス、劣等感である。社会的抑圧が強くても、それがなければ被差別の痛みは起こらない。差別問題について考えている人の中でも意外に理解されていないのが、被差別者自身が自分の劣等性を内面化している、ということである。つまり、被差別者は、無意識のうちに自らを劣っていると思っているのだ。被差別者はみんな差別に対して怒っているではないか、内面化しているなら怒りがわくのはおかしい、という反論が予想されるが、差別されて怒ることと、自分の劣等性を内面化していることは矛盾しない。
(中略)被差別者の中には「差別はいけない」「差別は間違っている」ということが、心の底から了解できる状態はなかなか育ちにくく、むしろ社会に対する後ろめたさや自分自身に対するコンプレックスが容易に育っていく。
(中略)自分のマイナスイメージを克服した人が過去をふり返って思い当たるのは「差別される痛み」は外からやってくるのではなく、社会の価値基準を無意識に内面化している自分自身から生まれてくる、ということである。
(中略)だからといって、被差別者であることを内面化してコンプレックスを抱いている人がダメであるとか、コンプレックスを持っていない人が立派であるとか、そういうことを言いたいわけでは全然ない。ただ、そうしたコンプレックスを抱えていることは、当人にとっても辛いことだし、反差別運動にも悪い影響を与える。だから被差別者の内なる差別意識の存在を認め、それを克服する道を探ってみようと思うのだ。
「部落民の背中に『私は部落民です』なんて貼り紙をしてはいけません」と言ってまわっても、根本的な解決にはならないのである。最後にもう一つ長い引用を、と思ったが、需要がそうあるとも思えないのでやめた。全体的には『ちびくろサンボ』がメインではあるが、日本での差別問題に関する話は実に読みごたえがあったので、興味ある人はぜひ一読を。
<参考>
徹底追及 「言葉狩り」と差別
カニは横に歩く 自立障害者たちの半世紀
放送禁止歌
日本人は子どものころから「差別してはいけません」と教わるせいか、「差別している」と言われることをすごく嫌がるが、「差別とはなにか」を教わりも考えもしないで育つことが多いため、なぜそう言われたかにピンと来ない。
— いちはさん (@Willway_ER) 2013年3月23日
Ciao Willwayさん
返信削除>「被差別者の痛み」を成り立たせている最も本質的な要素は、被差別者自身のコンプレックス、劣等感である。
まったくそう思います
わたしの家は男三人、女二人
姉が25歳になった頃、よく兄弟で喧嘩すると兄たちに売れ残り!と言われて喧嘩になっていた
25で売れのこりってのも、早くね??と思うけど
兄達は姉のコンプレックスと知っていたから、彼女をうち負かすためにそこを責めてたわけでさ
まあ、喧嘩ってのはそんなもんよね
それに比べて、わたしは、30になっても、40を越えても
その言葉を一度も使われたことがないのです
それは、わたしの激りんに触れないと彼らが知ってるからだよね
身近な例ですが
そう思ったのでした ははは 笑
>junkoさん
削除25で売れ残り!? たしかに20年くらい前は、クリスマスケーキになぞらえていた歌もあったように思います。
被差別者の痛みについては、いろいろ思うところもあるのですが、この作者の意見はなかなか分かりやすくて、だから正解というわけでもないでしょうけれど、考えるきっかけには良かったです。
>>差別に対する異議をとなえる手段として差別語をなくそうとするのは、
返信削除>>言葉の「デリカシー要求運動」にしかならず、本当の意味で差別をなくすことにはつながらない。
>>差別問題は難しいので近寄らない方がいい、という態度は「礼儀正しい差別」を助長する。
そのことを看破しておられるあなたがなぜ、てんかん協会と同じような言い分に肩入れされるのでしょうか。
不思議でなりません。
2002年の道交法改正のときのてんかん協会の言い分はこうでした。
「欠格条項に病名を盛り込むことは、特定の病気に対する偏見を引き起こし、雇用差別などにつながる」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8B%E8%BB%A2%E5%85%8D%E8%A8%B1%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%AC%A0%E6%A0%BC%E6%9D%A1%E9%A0%85%E5%95%8F%E9%A1%8C
病気への偏見という問題を参照。
現在も彼らの見解は変わっていません。
差別をなくすために本来あるべき運動とは、無知や偏見と戦うことではないのですか?
対症療法的に見えなくすれば、そこにある差別がなくなるとでもいうのでしょうか。
一昔前のアメリカの黒人問題への対処として行われたアファーマティブアクションのような発想で
一意であるべき自動車運転免許の能力基準にダブルスタンダードを認め下駄を履かせるという逆差別を進めれば
それでよいのでしょうか。
無知や偏見は正す。適正の違いは違いとして受け入れ、例え一部でもそのつけを他人にまわさない。
これが正しいと思います。
4月16日の記事にコメントを投稿させていただきました。
このコメントと4月16日一つ目は無視でもかまいませんが、二つ目の投稿に是非ともご回答を頂戴したく存じます。
唐突に失礼いたしました。
〆
P.S.
かわいい赤ちゃんのご誕生、おめでとうございます。
>匿名May 5, 2012 02:33 PMさん
削除まずは娘について、ありがとうございます。
で、ですね……。またてんかんについてかぁ、と思うわけです。
>無知や偏見は正す。
この通りです。
まずはそこを正していただくために書いたエントリがあるんですが、読んでないんでしょうか? 一応、改めて紹介しますが、あなたは無知や偏見を正すことをせずに、その無知のつけを他人にまわしていると、俺はそう思いますよ。
http://psichiatra.blogspot.jp/2012/04/blog-post_1252.html