2019年1月28日
悲運の天才アラン・チューリングの半生 『イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密 』
ナチスが開発した最強の暗号機「エニグマ」。そのエニグマを解読するために集められた天才たちのうち、特に有名な数学者アラン・チューリングを主人公にした物語。チューリングは数学者としてより、コンピュータの生みの親としてのほうが知られているかもしれない。
地味な映画だが、非常に素晴らしい内容だった。唯一、ちょっと惜しい点を挙げるなら、チームの男たちが一丸となるシーンがちょっと唐突というか、安っぽいというか……。彼らが団結していく様子をもう少し詳しく描くほうが、もっと感情移入できたかもしれない。
サイモン・シンの名著『暗号解読』を事前に読んでおくと、映画の面白さがより一層引き立つはずだ。
2019年1月25日
慰霊と鎮魂に生涯を捧げた男の悲喜こもごも 『硫黄島いまだ玉砕せず』
第二次大戦において、硫黄島が激戦地だったということはなんとなく知っている。硫黄島決戦に関する本も読んだことがある。戦死者は、日本兵が1万8千人前後(正確な数は分かっていないようだ)、米兵が6821人。米軍にとっても戦死者が多く、決して易々と陥落させた島ではない。
この激戦の島に大佐として赴任しながらも、米軍の攻撃直前に異動となってしまい、日本軍玉砕の報せを遠い地で知るしかなかった男がいる。彼の名は和智恒蔵。戦後すぐに僧籍に入り、恒阿弥として慰霊と鎮魂、遺骨の収集に全人生を捧げた。
そんな彼の半生や人となりを、彼が残した資料や同士らへのインタビューから描いていくノンフィクション。まったく知らない人の伝記であるにもかかわらず、説明不足や過剰がなく、非常に読みやすかった。絶版であるのが惜しい名著。
2019年1月24日
CGオタクたちが夢見た映画制作 『ピクサー 早すぎた天才たちの大逆転劇』
2019年1月22日
高評価の理由はイマイチ分からないが、観て損したとまでは思わない(笑) 『パシフィック・リム』
2019年1月21日
登山ドキュメンタリ映画 『MERU/メルー』
2019年1月17日
「認知症という生きかた」を探る 『認知症の人々が創造する世界』
施設に入所している認知症の人が、スタッフの手に負えないくらい興奮するなどの問題で入院になることがある。入院後も興奮を引きずる人はいるが、特になにか新たな治療をすることもなく落ち着くケースもある。施設に問題があるとか、入院治療が素晴らしいとか、そういうことではなく、多くの場合、その人にとっての「興奮スイッチ」「静穏ポイント」といったものがマッチするかどうかなのだろう。
看護師である著者は、認知症病棟の人たちと接しながら観察し、彼らの「認知症という生きかた」を探っていく。この「認知症という生きかた」は本文中に出てきた表現で、強く印象に残った。認知症はすぐに命取りになるような病気ではないから、発症後も「彼らなりの生きかた」で人生は続く。それが「認知症という生きかた」だ。そういう目で彼らの行動を見たとき、それまで無意味・無目的だと思っていた行動に、彼らなりの意味・目的があることに気づく。
いやいや、実際そんなふうにきれいにまとまることは少なくて、やっぱり意味も目的も不明のままということは多い。それは著者も充分に承知していて、「やっぱり分からない」というようなことも書いている。しかし、著者の「分かろうとする姿勢」には、大いに学ぶべきところがある。
認知症の診療を行なう者として、大いに刺激になる一冊であった。
2019年1月11日
ビッグデータへのビッグな愛を感じる(笑) 『誰もが嘘をついている ビッグデータ分析が暴く人間のヤバい本性』
「A/Bテスト」というのをご存じだろうか?
「無作為抽出比較対照試験」という長ったらしくて取っつきにくい名前を、グーグル社内でこう呼び始め、いまやインターネットマーケティングに定着した手法である。
たとえばブログの端っこに出てくる広告で、「ここをクリック!」と「いますぐクリック!」の2パターンを用意し、どちらのクリック率が高いかを調べる。この調査は、手間暇とお金がほとんどかからないうえ、膨大な数の対象者に無料かつ無意識で参加させることができる。
フェイスブックも同様のテストを行ないながら、フィードや広告のクリック率を高めようとしているそうだ。いや、フェイスブックに限らず、おそらくツイッターも、インスタグラムも、その他の企業も、こういうテストを取り入れることで、少しずつサイトを改善していき、自社サイトの中毒性を高めているのだ。
素直にすごいと思うと同時に、知らず知らずのうち依存性をどんどん強められているのは、ちょっと怖い気もする。だが冷静になって考えると、飲食物にしろ、本にしろ、音楽や映画にしろ、いかにして消費者をリピーターにするかというテーマで改良を重ねているわけで、グーグルはじめネット企業がやっていることはそれと大して変わらないのだ。おそらく、ネットでの「A/Bテスト」になんとなく抵抗感があるのは、そのテストが非常に安価であるにもかかわらず、直接的かつ強烈な効果を持っているからだろう。なんというか、「操られている」感がすごくするのだ。となると今度は、この抵抗感をどうやれば薄められるか、ということさえ「A/Bテスト」のテーマになるのではなかろうか。
「A/Bテスト」の深淵、おそるべし。
さて、本書のタイトルも副題も、「ビッグデータから得られた人間の本性」をテーマにしているように感じられるが、それはあくまでも導入に過ぎない。特に前半はセックスにまつわる話が非常に多いが、全てを読めば「ビッグデータを用いた社会科学の良質な入門書」というところ。まずは多くの人が興味を持ちそうな話題から入り、「A/Bテスト」をはじめとしてビッグデータがどう用いられているのか、そしてこれからどういうことができるのか、どういうことはやっちゃいけないのか、ということが論じてある。
著者の「ビッグデータへのビッグな愛」を感じるような本であった。
2019年1月8日
なんちゅうものを読んでしまったのだろう……、だが面白かった! 『人喰観音』
2019年1月4日
患者さんや家族を勇気づける
患者さんや家族に「治りますか?」「前のようになれますか?」と問われたとき、病気について詳しく説明するのも一つの方法だが、
「同じような病気・症状から、回復して元気にされているかたはいます」
という経験例を語るほうが、彼らを勇気づける。
小児がん病棟のなかには、回復した子どもたちの写真を貼っているところがあるらしい。いままさに我が子が入院して闘病している親は、そういう写真の中から、我が子と状況の似ている子どもを見つけ、そこに我が子の未来を見て希望を抱くのだ、と。
里見清一先生の本に、そんなことが書いてあった。
さて、精神科の場合である。身体の不調を訴えて内科や他の身体科を受診し、各種検査したものの異常が見つからなかった人が精神科に紹介されてきたときは、初診で、
「大丈夫! 同じような人を何人もみてきたし、たいていみんな良くなっていますよ」
という声かけをしてきた。
間違っても、
「症状を全部とろうとは考えず、上手に付き合えるようになりましょう」
なんて説明はしたことがない。
そして、初診で「大丈夫!」と声かけするようになってからのほうが、それまでより患者さんたちの治りが良いように感じる。
あとになって「治せるって言ったじゃない!」と責められることを恐れて防衛的な説明をするより、大船に乗った気になってもらうほうが治療的ではあるのだろう。
もしも「治せるって言ったじゃない!」と責められたら、初診時のカルテをパラパラとめくりながら、
「ふぅむ……、こちらに初めて来られたときは、いまよりだいぶキツかったのではないでしょうか?」
と振り返ってもらう。そして、そこで初めて「症状とうまく付き合う」という選択肢について「そっと触れる」。
この「そっと触れる」も大切だ。
なぜなら、患者さんだってそれくらいのことは薄々察しているからで、それを精神科医がダメ押しする必要はない。というより、そういうことはやってはいけない。
そしてこのとき、患者さんには、
「自分がうっすら考えていることと、主治医の考えとは、ゆるやかに重なっているようだ」
と感じてもらうくらいが良いだろう。
ここでも「ゆるやかに重なる」程度が良い。というのも、いくら自分の意見と一致しているからといって、主治医がそのものズバリを明言してしまうと、なんとなくしらけたり反発したりするものだからだ。
たとえば、こういう場面を想像してみて欲しい。
尊敬や信頼や親しみを寄せる人と話していて、自分の意見を言おうかどうかというとき。相手がこちらの意見を支持することを、明言ではなくさりげなく、しかもタイミング良く言及する。それで、思わず心強くなって自分の意見に自信が持てる。
そんな経験はないだろうか。それに近い感覚である。
だから主治医として、尊敬は無理でも、患者さんから信頼や親しみくらいは感じられるようでなければならない。そして、さりげなく支持する言葉をタイミングよく発するための感覚を磨いていく必要がある。
「同じような病気・症状から、回復して元気にされているかたはいます」
という経験例を語るほうが、彼らを勇気づける。
小児がん病棟のなかには、回復した子どもたちの写真を貼っているところがあるらしい。いままさに我が子が入院して闘病している親は、そういう写真の中から、我が子と状況の似ている子どもを見つけ、そこに我が子の未来を見て希望を抱くのだ、と。
里見清一先生の本に、そんなことが書いてあった。
さて、精神科の場合である。身体の不調を訴えて内科や他の身体科を受診し、各種検査したものの異常が見つからなかった人が精神科に紹介されてきたときは、初診で、
「大丈夫! 同じような人を何人もみてきたし、たいていみんな良くなっていますよ」
という声かけをしてきた。
間違っても、
「症状を全部とろうとは考えず、上手に付き合えるようになりましょう」
なんて説明はしたことがない。
そして、初診で「大丈夫!」と声かけするようになってからのほうが、それまでより患者さんたちの治りが良いように感じる。
あとになって「治せるって言ったじゃない!」と責められることを恐れて防衛的な説明をするより、大船に乗った気になってもらうほうが治療的ではあるのだろう。
もしも「治せるって言ったじゃない!」と責められたら、初診時のカルテをパラパラとめくりながら、
「ふぅむ……、こちらに初めて来られたときは、いまよりだいぶキツかったのではないでしょうか?」
と振り返ってもらう。そして、そこで初めて「症状とうまく付き合う」という選択肢について「そっと触れる」。
この「そっと触れる」も大切だ。
なぜなら、患者さんだってそれくらいのことは薄々察しているからで、それを精神科医がダメ押しする必要はない。というより、そういうことはやってはいけない。
そしてこのとき、患者さんには、
「自分がうっすら考えていることと、主治医の考えとは、ゆるやかに重なっているようだ」
と感じてもらうくらいが良いだろう。
ここでも「ゆるやかに重なる」程度が良い。というのも、いくら自分の意見と一致しているからといって、主治医がそのものズバリを明言してしまうと、なんとなくしらけたり反発したりするものだからだ。
たとえば、こういう場面を想像してみて欲しい。
尊敬や信頼や親しみを寄せる人と話していて、自分の意見を言おうかどうかというとき。相手がこちらの意見を支持することを、明言ではなくさりげなく、しかもタイミング良く言及する。それで、思わず心強くなって自分の意見に自信が持てる。
そんな経験はないだろうか。それに近い感覚である。
だから主治医として、尊敬は無理でも、患者さんから信頼や親しみくらいは感じられるようでなければならない。そして、さりげなく支持する言葉をタイミングよく発するための感覚を磨いていく必要がある。
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