2018年9月14日

絶望に寄り添うのは、絶望 『絶望名人カフカの人生論』


カフカのネガティブさに何度も吹き出してしまった。幸運にも、俺はまだ「絶望」というほどのものを体験したことがない。あるいは、もしかすると体験したけれど忘れているだけなのかもしれないが、いずれにしろ幸せなことである。

さて、カフカのネガティブさの中でも、俺のお気に入りはこれ。
将来に向かって歩くことは、ぼくにはできません。
将来に向かってつまずくこと、これはできます。
いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。
しかもこれ、ラブレターの一節だというから驚きだ。

本書は、そんなネガティブ人間カフカの絶望名言を集めたもの。シンプルで読みやすく、ちょっと肩の力が抜ける感じがして良かった。

ちなみに、著者の頭木弘樹氏はツイッターもされている。
→ @kafka_kashiragi

2018年9月13日

残酷な結末を知らないまま、一生懸命に人生を歩んでいく女性の物語 『いつかの夏 名古屋闇サイト殺人事件』


2007年8月24日に起こった殺人事件。被害者は磯谷利恵さん。1976年7月の生まれで、当時31歳。俺の一学年下ということになる。彼女が2歳のころ、父親が白血病で亡くなり、母親が一人で必死に育て上げた女性だった。

そんな利恵さんが、面識のない男3人に強盗目的で拉致され、首を絞められながらも、「生きたい」「死にたくない」「殺さないって約束したじゃない」と抵抗し、コンクリートを砕くためのハンマーで頭を何度も殴られ、それでもなお絶命せず、とうとう顔に粘着テープを31周も巻かれ、さらにハンマーで40回以上も殴られ、そしてついに窒息死してしまう。

本書では、冒頭部分で彼女の最期の様子が描かれ、その後に彼女の生い立ちの話が始まる。それは彼女が生まれる前、両親の出会いにまで遡って語られる非常に丁寧な伝記で、読者は一人の赤ん坊が幼女から少女、女性へと成長していく姿を微笑ましく見守ることになる。ところが、読者は彼女の凄惨な最期をすでに知っているのだ。読み進めながら、「彼女の時間がここで止まれば良いのに」と何度感じたことか……。

本書では3人の男たちの裁判についても描かれる。これについては中身を知らないまま読んで欲しいので、ここでは触れない。ただ、司法の世界に対する苛立ちと不信感が強まったことだけは記しておきたい。

ノンフィクションではあるが、自ら語るはずのない被害者の内面・心情を記述しすぎているのではないか、という印象はある。それはノンフィクションとしてはマイナス点かもしれないが、こうして内面・心情を想像で補って描写したからこそ、読者は深刻に、より身近な問題として、この事件について考えられるのかもしれない。

とても辛い内容だったが、素晴らしい本だった。

2018年9月11日

怪物の独白が凄まじい 『フランケンシュタイン』


フランケンシュタインというと「頭に釘の刺さった怪物」を思い浮かべる人も多いかもしれないが、『フランケンシュタイン』はヴィクター・フランケンシュタイン博士の苗字であり、博士によって創りだされた怪物には「怪物」という名前しか与えられていない(これもまた「怪物」の哀しみを引き立てる)。

大雑把なストーリーは、ロバート・デ・ニーロの映画『フランケンシュタイン』がわりと忠実になぞっている。ただ小説では、怪物を創りだす工程についての記述はほとんどない。映画のほうが人体を継ぎあわせたり電気を用いたりと「もっともらしく」描かれていた。それもそのはず。この小説はいまから200年前の1818年に発表されているのだ。そんな古い時代に、これほどのものが書かれたのだから驚きである。

さらに驚くのは、この小説を書いたのが、当時まだ20歳だった女性作家メアリー・シェリーだということ。20歳! しかも処女作である。おそろしい才能だ。

構成は大きく三つに分かれており、まず怪物を生み出すまでのフランケンシュタイン博士の青春が語られる。次に怪物が、生まれてから博士に再会するまでの苦労を独白する。この部分が本当にすごい。苦しみや哀しみがひしひしと伝わってくる。後半は博士と怪物の静かなる対決で、現代人の感覚からすると怪物に同情的になるのではなかろうか。
「博士、可哀想じゃないか、どうにかしてやってくれよ!」


映画でも感じた切なさは、小説のほうがより強く滲み出ている。改めて、デ・ニーロの映画を観たくなった。

2018年9月10日

うつをみたら、アルコール問題を疑え! 『アルコールとうつ・自殺 「死のトライアングル」を防ぐために』


アルコールと自殺に関する薄い本。値段も手ごろなわりに、統計もしっかり載っているので、ある程度の読書力のある人であれば当事者、家族、医療者のいずれにとっても有用だろう。

印象的だったところを紹介していく。

アルコール問題が認められた自殺者の特徴として、「道に迷ったときに、人に道を尋ねることができない」人たち、というのがある。これを読んで、ギクーッ、となった男性は多いんじゃなかろうか。たしかに道は尋ねたくない……。

さて、日本における男性社会の慣習(?)で、悩んでいる友人や同僚がいたら「晩飯でも行くか」「ちょっと飲みに行くか」というのがある。著者の松本先生はこの慣習を修正して、
悩んでいる同僚がいたら一緒に晩飯ではなくランチを
と勧めている。なるほど。でも、俺は人と一緒にしらふでご飯を食べるのが苦手で、似たような人も多いのではなかろうか……。とはいえ、こんな話を読むと、松本先生の勧めに従いたくもなる。
会社の同僚で最近表情がさえず、元気のない奴がいた。仕事もあまり手がつかない感じだ。それで、少し話を聞いて元気づけようと思い、「今夜、一緒に晩飯を食わないか?」と誘った。一緒に酒を酌み交わしながら話していると、その同僚も酒がまわって少し元気づいたのか、ふだん会社で話さない家族の話や、学生時代の話などをしてくれた。二人で意気投合して、二次会でカラオケに行こうという話になり、深夜まで大いに歌い、盛り上がった。そして、最後は笑顔で別れたはずなのに、翌朝未明に死なれてしまった……。
アルコールは一時的には気分を持ち上げてくれるが、数時間後には以前にもまして気分が悪化し、衝動的で自己破壊的な行動が起こりやすくなると言われる。その端的なケースだろう。
「追いつめられたときに、飲みながら物を考えるな!」
アルコールは二次的にうつ状態を引き起こすし、すでにうつ病の人であれば、その症状や経過を悪化させる。だから、治療中は原則として禁酒である。が、しかし、実際の診療では酒を飲みながら治療している人は多い。せめて治療中だけでも断酒を、と勧めても、いまのところ上手くいったためしがない。臨床技術の精進が必要だし、工夫の余地がまだまだありそうだ。
酒は2合まで!
この根拠は「1日あたり日本酒換算で2合半以上飲酒する人では自殺リスクが高くなる」というもの。各学会が低リスク飲酒として提示しているのは「1日1合まで」。しかし、酒好きな人たちにとってはやや厳しすぎて実現性に欠ける。そこで松本先生は「自殺リスクを高めない飲酒量」として日本酒2合までを提案している。普通の缶ビールなら350mlを3本、ワインならグラス3杯半、ウイスキーならダブルで2杯。愛飲家のみなさん、これならどうだろう。

最後に、医療者向けの言葉。医師免許とりたての研修医は「女性をみたら妊娠と思え!」と口酸っぱく言われる。それと似たことを、すべての医療者の頭に入れておいて欲しい。

うつをみたら、アルコール問題を疑え!

2018年9月7日

高齢者に「言わずもがなの心配」を言葉にして差し上げること

海釣りが趣味という高齢男性(単身)の診察で、毎回のように、
「この病院でも毎年、何人かは転落事故で運ばれますよ。釣りのときには、くれぐれも気をつけてくださいね」
と声をかけていた。男性は、そのたび嬉しそうに「おうおう、大丈夫」と笑顔で頷かれた。

こういうのは「言わずもがなの心配」だろう。

我が身を振り返ると、43歳の俺は、65歳の母から「風邪ひかないように」「ストレスためないように」と言わずもがなの心配をされる。そのいっぽうで、6歳の長女や4歳の次女に「落ちるよ」「危ないよ」「暑いよ」「寒いよ」と言わずもがなの心配をする。

言わずもがなの心配を、「される」、「する」。

いまの俺は、その両方を体験する立場にいる。これはきっと幸せなことなのだ。
だがいずれ、母親がいなくなる。そうなれば、「される」は激減する。

「言わずもがなの心配」は、大人になるにつれてされなくなるものだ。それが単身者や夫婦二人だけで生活している人たちならなおさらだろう。だから、月一回の診察でされる「言わずもがなの心配」が、嬉しく感じられるのかもしれない。

「言わずもがなの心配をされること」には、子ども時代や若かりし日に親からかけてもらった言葉を思い出させる「ノスタルジアや照れくささを伴う嬉しさと癒やし」があるのではなかろうか。