ビートたけし 引きこもり対策には「1人部屋禁止法案」
反対である。
「引きこもり対策」としては逆効果で、有害にさえなりうる。
というのも、安心して引きこもれる場所のない子たちは、別の安心できる場所を求め、よりハイリスクなところに引きこもる恐れがあるから。一人部屋をなくせば、ネットで知り合った人の家やネットカフェなど、引きこもる場所が変わるだけだろう。
たけしさんの主張は、「アル中は、酒をなくせばいなくなる」というのと同じ発想だ。ズバッと大胆なことを言っているように見えるかもしれないが、ハッキリ言って、陳腐である。
これくらいは誰もが思いつくアイデアであり、すでにそれに近い実力行使がなされており、そして効果はほとんどない。
たけしさんの切り口はけっこう好きなのだが、そのたけしさんにしてこれである。
「あぁ、引きこもってる人たちって、この程度の認識でしか見られていないんだな」
という参考にはなった。
一人部屋をなくせば引きこもりの問題が解決?
あまりに安易で苦笑すら漏れてしまう。
たけしさんには、
「国が安全な引きこもり施設を作ってあげれば良いじゃねぇか」
くらいは言って欲しかった。
2019年12月6日
2019年11月7日
田代まさしさん逮捕へのコメントを見て思うこと
田代まさしさん逮捕で、普段かなり見識ある発言をしている人でも「薬物こわい」にフォーカスを当てすぎていて残念である。というのも、「こわい」にとらわれすぎると、「手を出したら終わり」になるし、それは容易に「そんなものに手を出した奴が悪い」に変わってしまう。
実際には、ハマらない人も、回復する人もいる。
意外かもしれないが、
「覚せい剤はしばらくやったことあるが、合わなかった」
と自然にやめてしまい、依存症に至らずに済んだという人は少なくない。
決して「手を出したら終わり」ではないのだ。酒やタバコと同じで、悪い意味での相性がある。相性が合うと、すんなり入って、そこから抜け出せなくなる。
本当に「こわい」のは薬物ではなく、田代さんが再使用するに至った個人的な問題や環境、入手経路が身近にあるという社会的な背景などのほうだし、もちろん依存症そのものが「こわい病気」である。
たとえば、糖尿病はこわいが、糖はこわくない。高血圧や動脈硬化はこわいが、塩分や脂質はこわいものではない。
もちろん違法か違法でないかの違いはあるし、それは社会的には重要なところだが、医療において「病気」として考えた場合、こわいのは「依存症」であって「薬物」ではない。
それから、「反省して欲しい」というコメントも見られるが、田代さんに対して世間が反省を求める必要などない。当たり前だが、使用した本人が最も後悔しているし、そもそも依存症は「反省で治る病気」ではない。
いくら反省しても再発は起こりえるし、反省なんてしなくとも回復することだってある。
これは、医療者であれば、臨床現場でのヒヤリハットやアクシデントに置き換えてみると分かりやすい。
ミスは起こりうる。だから対策を練る。
反省していないから、反省が足りないから、ミスが起こるわけではない。もっと反省すればミスが減るというわけでもない。
依存症も、反省よりは対策が重要かつ有効なのだ。
余談ではあるが、田代まさしさんがいた「RATS & STAR」には「ドブネズミからスターになる」という想いがあったそうだ。
鈴木雅之率いる不良グループがドブネズミからスターを目指したのに対し、法政大学に進学した甲本ヒロトは「リンダリンダ」で「ドブネズミみたいに美しくなりたい」と歌い上げた。
ドブネズミにまつわる二つのグループの対比が、なんだか美しい。
ちなみに、「RATS & STAR」は、逆から読んでも「RATS & STAR」である。
実際には、ハマらない人も、回復する人もいる。
意外かもしれないが、
「覚せい剤はしばらくやったことあるが、合わなかった」
と自然にやめてしまい、依存症に至らずに済んだという人は少なくない。
決して「手を出したら終わり」ではないのだ。酒やタバコと同じで、悪い意味での相性がある。相性が合うと、すんなり入って、そこから抜け出せなくなる。
本当に「こわい」のは薬物ではなく、田代さんが再使用するに至った個人的な問題や環境、入手経路が身近にあるという社会的な背景などのほうだし、もちろん依存症そのものが「こわい病気」である。
たとえば、糖尿病はこわいが、糖はこわくない。高血圧や動脈硬化はこわいが、塩分や脂質はこわいものではない。
もちろん違法か違法でないかの違いはあるし、それは社会的には重要なところだが、医療において「病気」として考えた場合、こわいのは「依存症」であって「薬物」ではない。
それから、「反省して欲しい」というコメントも見られるが、田代さんに対して世間が反省を求める必要などない。当たり前だが、使用した本人が最も後悔しているし、そもそも依存症は「反省で治る病気」ではない。
いくら反省しても再発は起こりえるし、反省なんてしなくとも回復することだってある。
これは、医療者であれば、臨床現場でのヒヤリハットやアクシデントに置き換えてみると分かりやすい。
ミスは起こりうる。だから対策を練る。
反省していないから、反省が足りないから、ミスが起こるわけではない。もっと反省すればミスが減るというわけでもない。
依存症も、反省よりは対策が重要かつ有効なのだ。
余談ではあるが、田代まさしさんがいた「RATS & STAR」には「ドブネズミからスターになる」という想いがあったそうだ。
鈴木雅之率いる不良グループがドブネズミからスターを目指したのに対し、法政大学に進学した甲本ヒロトは「リンダリンダ」で「ドブネズミみたいに美しくなりたい」と歌い上げた。
ドブネズミにまつわる二つのグループの対比が、なんだか美しい。
ちなみに、「RATS & STAR」は、逆から読んでも「RATS & STAR」である。
2019年4月23日
認知症と自動車免許についての雑感
池袋の事故で、高齢者の免許返納についての話が盛り上がっている。しかし、高齢者が免許返納したら安心、というわけではない。
認知症で、免許返納したことを忘れて、何度も運転してしまう人もいるからだ。
だから、認知症の場合は、返納だけでなく「運転できない環境」作りが大切である。
よくやるのは鍵隠しで、それなりに有効だが、なかには怒り出す人もいる。
「鍵はどこだ?」と聞かれて「乗せられない」「渡せ!」と押し問答するのではなく、「一緒に探そう」と言って、本人が「運転の必要な用事」を忘れるか諦めるまでの時間稼ぎをするほうが良い。
ある家族はガソリンを空にした「捨て車」を置いていた。認知症の人が何かの用事を思い立ち、「運転しよう」と車に乗っても、エンジンがかからず奮闘するうち「何かの用事」は忘れてしまい、本人のなかで「運転の必要がなくなる」というのが、この「捨て車」作戦だ。
一番厄介なのは、運転に必要な認知・判断・操作の能力は明らかに衰えているのに、鍵を隠して「一緒に探そう」や「捨て車」作戦が通じるほどには認知症が進んでいない場合である。こういう状況で困り果てている家族は非常に多いのではなかろうか。
「車を手放す」という方法は究極の手段という気もするが、同居世帯で車をゼロにできない場合には難しいだろう。そして、せっかく車を手放したのに、隣の家の鍵つけっぱなしの車に乗って行ってしまった、というケースも経験した(へき地病院時代)。このケースの場合、認知症は前頭側頭型であった。
認知症で、免許返納したことを忘れて、何度も運転してしまう人もいるからだ。
だから、認知症の場合は、返納だけでなく「運転できない環境」作りが大切である。
よくやるのは鍵隠しで、それなりに有効だが、なかには怒り出す人もいる。
「鍵はどこだ?」と聞かれて「乗せられない」「渡せ!」と押し問答するのではなく、「一緒に探そう」と言って、本人が「運転の必要な用事」を忘れるか諦めるまでの時間稼ぎをするほうが良い。
ある家族はガソリンを空にした「捨て車」を置いていた。認知症の人が何かの用事を思い立ち、「運転しよう」と車に乗っても、エンジンがかからず奮闘するうち「何かの用事」は忘れてしまい、本人のなかで「運転の必要がなくなる」というのが、この「捨て車」作戦だ。
一番厄介なのは、運転に必要な認知・判断・操作の能力は明らかに衰えているのに、鍵を隠して「一緒に探そう」や「捨て車」作戦が通じるほどには認知症が進んでいない場合である。こういう状況で困り果てている家族は非常に多いのではなかろうか。
「車を手放す」という方法は究極の手段という気もするが、同居世帯で車をゼロにできない場合には難しいだろう。そして、せっかく車を手放したのに、隣の家の鍵つけっぱなしの車に乗って行ってしまった、というケースも経験した(へき地病院時代)。このケースの場合、認知症は前頭側頭型であった。
2018年7月9日
【大口病院事件】 同業者はあの容疑者の気持ちが分かるのか!?
あの容疑者に対して同業者から「気持ちは分かる」「分からなくもない」という意見が出ていることに驚く。
本当に分かるのか?
分からなくもないのか?
俺は違うだろうと思う。
まったく別の感情を同じのものと勘違いして、「分かる」「分からなくもない」と感じているのではないか。
「自分のシフトでは亡くならないで欲しい」と「自分の次のシフトで是非とも死んで欲しい」とはまったく別物である。ところが、これを同じものと勘違いして人がいるのではなかろうか。
前者は医療者として理解できるが、後者は人としてまったく理解できない。そして、報道によると容疑者の動機は後者のようである。
これを混同したまま「分かる」「分からなくもない」と発信すると、発信者が誤解を受けて損するし、医療・介護業界も変な目で見られることになる。
改めて強調する。
「自分のシフトでは亡くならないで欲しい」と「自分の次のシフトで是非とも死んで欲しい」とはまったく別物である。
そしてもし、「自分の次のシフトで是非とも死んで欲しい」という気持ちも分かる気がするのなら、いますぐにでも職を替えたほうが良い。
それは患者さんのためであり、あなた自身のためでもある。
本当に分かるのか?
分からなくもないのか?
俺は違うだろうと思う。
まったく別の感情を同じのものと勘違いして、「分かる」「分からなくもない」と感じているのではないか。
「自分のシフトでは亡くならないで欲しい」と「自分の次のシフトで是非とも死んで欲しい」とはまったく別物である。ところが、これを同じものと勘違いして人がいるのではなかろうか。
前者は医療者として理解できるが、後者は人としてまったく理解できない。そして、報道によると容疑者の動機は後者のようである。
これを混同したまま「分かる」「分からなくもない」と発信すると、発信者が誤解を受けて損するし、医療・介護業界も変な目で見られることになる。
改めて強調する。
「自分のシフトでは亡くならないで欲しい」と「自分の次のシフトで是非とも死んで欲しい」とはまったく別物である。
そしてもし、「自分の次のシフトで是非とも死んで欲しい」という気持ちも分かる気がするのなら、いますぐにでも職を替えたほうが良い。
それは患者さんのためであり、あなた自身のためでもある。
2018年4月26日
ダッシュ村から、断酒村へ! 山口達也さんに期待すること
山口達也、30秒間頭を下げて謝罪 芸能活動を無期限謹慎
入院時点では「依存症」の診断はつかなかったかもしれないが、現時点ではどうだろう。依存症という現実を受け容れ、断酒治療に踏み切るのが、本人にとって一番良いことではなかろうか。そして、ジャニーズ事務所も、高校2年生から所属している彼のことを大切に思うならサポートして欲しい。
今回の未成年女性への行動で彼から離れるファンはいても、彼が「病気だから」という理由でファンをやめる人はほとんどいないだろう。
TOKIOのメンバーと力を合わせて、ダッシュ村ならぬ断酒村を創ったら良いんだよ!!
冗談はともかくとして、マジメな話、彼ほどの発信力を持つ人であるから、今後この苦しい経験を活かして「アルコール依存症への啓蒙活動」に携わってもらえると、救われる人がとても多いはずだ。
山口達也さん。
そういう再起のしかたは、鉄腕ダッシュで多くの奇跡を起こしてきたあなたにしかできない、あなたにならできることなのかもしれません。
TOKIOでの活躍を待っています。
1月15日ころからアルコール関係で体が不調になり入院し、翌2月12日に退院。その日の昼から飲酒し、酩酊状態になり典型的なアルコール依存症の人の行動じゃないか……。
入院理由は「肝臓の不調」とし、アルコール依存は否定した。遠い芸能界の人の話だが、酒にまつわる事件なだけに他人ごととは思えず、同情を禁じ得ない。もちろん、今回は被害者がいるので「酔っていたから」で済まされる話ではないし、その点について厳しい処分があっても仕方がない。
入院時点では「依存症」の診断はつかなかったかもしれないが、現時点ではどうだろう。依存症という現実を受け容れ、断酒治療に踏み切るのが、本人にとって一番良いことではなかろうか。そして、ジャニーズ事務所も、高校2年生から所属している彼のことを大切に思うならサポートして欲しい。
今回の未成年女性への行動で彼から離れるファンはいても、彼が「病気だから」という理由でファンをやめる人はほとんどいないだろう。
TOKIOのメンバーと力を合わせて、ダッシュ村ならぬ断酒村を創ったら良いんだよ!!
冗談はともかくとして、マジメな話、彼ほどの発信力を持つ人であるから、今後この苦しい経験を活かして「アルコール依存症への啓蒙活動」に携わってもらえると、救われる人がとても多いはずだ。
山口達也さん。
そういう再起のしかたは、鉄腕ダッシュで多くの奇跡を起こしてきたあなたにしかできない、あなたにならできることなのかもしれません。
TOKIOでの活躍を待っています。
2018年1月30日
水道のリチウム濃度が高いと、犯罪率・自殺率が下がる!?
1990年、米国テキサス州で「水道水のリチウム濃度が高い地域では自殺率や犯罪率が低い」という発見があった。そこで、大分県でも調査されたところ、確かに水道水リチウム濃度が高いと自殺率が低いことが分かった。さらに、オーストラリアの全99州においても同じ結果であった。これらについて、社会経済的要因や医療要因などを補正しても、やはり「水道水のリチウム濃度の高さと自殺率の低さは関係がある」ということが確認された。ただし、イギリス東部の調査では相関関係は認められなかった。
炭酸リチウムは躁うつ病の治療に使われる薬で、商品名はリーマスという。リチウムは最も軽い金属元素で、長時間のうちに海水中などを循環しつづけている。その海水中には、およそ2300億トンのリチウムが溶けていると言われている。
テキサスや大分、オーストラリアで調査対象となった地域の水道水のリチウム濃度は、いくら高いといってもそう極端に高いわけではない。普通の治療に必要な量を水道水のリチウムで摂ろうとするなら、毎日60トンの水を飲む必要がある。言い換えるなら、それほどに薄い水道水リチウムでも、犯罪率や自殺率を少し下げる程度の効果はあるということだろう。
上記は『臨床精神医学』を読んでいて、一般の人にもなかなか面白い話題だと思ったので紹介することにした。

炭酸リチウムは躁うつ病の治療に使われる薬で、商品名はリーマスという。リチウムは最も軽い金属元素で、長時間のうちに海水中などを循環しつづけている。その海水中には、およそ2300億トンのリチウムが溶けていると言われている。
テキサスや大分、オーストラリアで調査対象となった地域の水道水のリチウム濃度は、いくら高いといってもそう極端に高いわけではない。普通の治療に必要な量を水道水のリチウムで摂ろうとするなら、毎日60トンの水を飲む必要がある。言い換えるなら、それほどに薄い水道水リチウムでも、犯罪率や自殺率を少し下げる程度の効果はあるということだろう。
上記は『臨床精神医学』を読んでいて、一般の人にもなかなか面白い話題だと思ったので紹介することにした。
2017年11月10日
病院の待ち時間を改善、あるいはクレームを減らす方法
ホリエモンこと堀江貴文氏が病院の予約と待ち時間について文句を言っていた。
ごもっともな意見ではあるのだが、医師の立場から現状を説明しておきたい。
まず、この問題の根本的な解決策はずっと以前から存在している。
「予約枠を少なくし、どんな状況にも融通をきかさない」
これ一発で即解決だ。ただし、そうすると患者が予約をとる段階で「予約が一杯」と断られることが激増するだろう。また、午前中しか病院に来れない人にも、「午前はどこも空いていません。16時半なら大丈夫です」という対応をせざるを得なくなる。そのかわり、皆さんが大嫌いな「待ち時間」はほとんどなくなる。
例えばうちの外来は、当初30分で5人枠だった。しかし、それでは入りきらないので30分8人枠になってしまった。朝一からギュウギュウ詰めである。30分で8人みるのは不可能なので、少しずつ時間がおしていく。後の患者の待ち時間は延びていく。そして次回の予約をとる時に、
「(朝一の)9時半はもう一杯だから、10時で良いですか?」
と頼んでみるが、
「いや、9時半で」
そうピシャリと言われてしまうことが多い。押し問答している時間が勿体ないので、8人枠に9人目を入れることになる。
医療側としては、「融通をきかせて、そのかわり待ち時間が長くなる」か、「待ち時間を減らすために、徹底的に融通をきかさない」か、正直どちらでも良いのである。なぜなら、どちらにしても、「待ち時間が長い!」と怒られるか、「少しくらい融通をきかせても良いじゃないか!」とキレられるか、そういうクレームの来るのが目に見えているからだ。
少し考えを発展させてみる。制度上の問題はさておいて、長い待ち時間の解決策として、「順番を一人ぶん繰り上げるのに1000円負担する」というのを考えた。その1000円は、繰り下げられた人の診療費から差し引くのだ。30分早くみてほしければ、5~10人くらいを飛ばすだろうから5000円から1万円が必要だ。
こうすれば、医療者はクレームが減り、長く待つのが嫌な金持ちはいくらか払って時間を買えるし、待てる人は自分の時間を1000円に換金できる。皆が少しずつハッピーになれる。これには、「朝一で並んで次々と後ろの人を抜かせて稼ぐ人が出るのでは?」という反論もあるだろうが、よく考えてみて欲しい。朝一に並んだら、ほとんど待たずに診察に入るので稼ぎようがない。お金を出して追い抜くほうも、3人待ちくらいなら我慢するだろう。逆に30人待ちを3万円払ってすっ飛ばすような人も稀だろう。そしてこの1000円は払い戻し制ではなく、あくまでも「診療代から引く」だけなので、早く並んだからといって、その人が儲けるわけではない。もちろん、病院の利益も変わらない。
こんなシステムを作ったところで、利用する人はほとんどいないかもしれない。しかし、それでも良い。要は、待たされる人に「状況を自分で選択させる」ことが重要なのだ。「金を払って早くみてもらう」という選択肢があるにも関わらず、「金を払わずに待つ」ことを選んだ。この感覚があるだけで、待ち時間に対するクレームは大幅に減るだろう。病院側としても、もしクレームがあっても「こういう選択肢がありますよ」と提示すれば済むので助かる。
このあたりの考えは、渋滞を研究した下記の本に大きく影響を受けている。

なんにしろ、堀江さん、良い思考ネタをありがとう。
<関連>
あなたの集中力と注意力が試される! 白いチームのパスをカウントせよ!! 『となりの車線はなぜスイスイ進むのか?』
<参考>
なんかいい具合に病院の待ち時間ネタが炎上しておるな。
慈恵医大病院で腎臓結石破砕から数ヶ月後のアフターケア診断。10:30予約でピッタリに行ったのに未だ診察待ち。次の仕事に間に合わないので診断受けずに1080円払って退散。やっぱダメだな日本の医療業界。安かろう悪かろう。医療保険制度の改革も必要だし、病院経営も改める所多し。
— 堀江貴文(Takafumi Horie) (@takapon_jp) 2014, 5月 9
人の時間を何だと思ってるんだ?って事。寿命を伸ばしに来てるのに待ち時間で人生を浪費するという矛盾 RT @hidex97: これはホント思いますね。遅れるならメールでもラインでも良いから一言くれればこっちも調整出来るんだよと。何の為の予約だよと。
— 堀江貴文(Takafumi Horie) (@takapon_jp) 2014, 5月 9
ごもっともな意見ではあるのだが、医師の立場から現状を説明しておきたい。
まず、この問題の根本的な解決策はずっと以前から存在している。
「予約枠を少なくし、どんな状況にも融通をきかさない」
これ一発で即解決だ。ただし、そうすると患者が予約をとる段階で「予約が一杯」と断られることが激増するだろう。また、午前中しか病院に来れない人にも、「午前はどこも空いていません。16時半なら大丈夫です」という対応をせざるを得なくなる。そのかわり、皆さんが大嫌いな「待ち時間」はほとんどなくなる。
例えばうちの外来は、当初30分で5人枠だった。しかし、それでは入りきらないので30分8人枠になってしまった。朝一からギュウギュウ詰めである。30分で8人みるのは不可能なので、少しずつ時間がおしていく。後の患者の待ち時間は延びていく。そして次回の予約をとる時に、
「(朝一の)9時半はもう一杯だから、10時で良いですか?」
と頼んでみるが、
「いや、9時半で」
そうピシャリと言われてしまうことが多い。押し問答している時間が勿体ないので、8人枠に9人目を入れることになる。
医療側としては、「融通をきかせて、そのかわり待ち時間が長くなる」か、「待ち時間を減らすために、徹底的に融通をきかさない」か、正直どちらでも良いのである。なぜなら、どちらにしても、「待ち時間が長い!」と怒られるか、「少しくらい融通をきかせても良いじゃないか!」とキレられるか、そういうクレームの来るのが目に見えているからだ。
少し考えを発展させてみる。制度上の問題はさておいて、長い待ち時間の解決策として、「順番を一人ぶん繰り上げるのに1000円負担する」というのを考えた。その1000円は、繰り下げられた人の診療費から差し引くのだ。30分早くみてほしければ、5~10人くらいを飛ばすだろうから5000円から1万円が必要だ。
こうすれば、医療者はクレームが減り、長く待つのが嫌な金持ちはいくらか払って時間を買えるし、待てる人は自分の時間を1000円に換金できる。皆が少しずつハッピーになれる。これには、「朝一で並んで次々と後ろの人を抜かせて稼ぐ人が出るのでは?」という反論もあるだろうが、よく考えてみて欲しい。朝一に並んだら、ほとんど待たずに診察に入るので稼ぎようがない。お金を出して追い抜くほうも、3人待ちくらいなら我慢するだろう。逆に30人待ちを3万円払ってすっ飛ばすような人も稀だろう。そしてこの1000円は払い戻し制ではなく、あくまでも「診療代から引く」だけなので、早く並んだからといって、その人が儲けるわけではない。もちろん、病院の利益も変わらない。
こんなシステムを作ったところで、利用する人はほとんどいないかもしれない。しかし、それでも良い。要は、待たされる人に「状況を自分で選択させる」ことが重要なのだ。「金を払って早くみてもらう」という選択肢があるにも関わらず、「金を払わずに待つ」ことを選んだ。この感覚があるだけで、待ち時間に対するクレームは大幅に減るだろう。病院側としても、もしクレームがあっても「こういう選択肢がありますよ」と提示すれば済むので助かる。
このあたりの考えは、渋滞を研究した下記の本に大きく影響を受けている。
この本で述べられていたことで参考にしたのは、「都市部の渋滞をどう解消するか」について。都市部で渋滞している車の多くは駐車場を探してグルグル回っているらしい。駐車場は安値合戦となっているが、渋滞緩和のためには駐車場代を大幅に上げるよう提案している。そうすると車が減って渋滞は解消され、バスなどの公共交通機関の利用者が増え、利用者が増えると運賃やルートなどの利便性が改善されるのだ。
なんにしろ、堀江さん、良い思考ネタをありがとう。
<関連>
あなたの集中力と注意力が試される! 白いチームのパスをカウントせよ!! 『となりの車線はなぜスイスイ進むのか?』
<参考>
なんかいい具合に病院の待ち時間ネタが炎上しておるな。
2017年10月19日
『暴れる精神障害患者に鎮静剤投与は違法』 まず警察へ!!
『家族が突然に興奮して暴れ出したら、救急車よりも先に警察へ通報をするべきだ』にも書いた通りであるが、下記事例の場合、相手が刃物を持っていたわけで、その状況で医師に診察を依頼する感覚のほうがおかしい。また、そんな依頼を受けて、のこのこと往診に出向いた医師にも責任はあるだろう。
『暴れる精神障害患者に鎮静剤投与は違法』
「問診が不足」「注射なしでも搬送できた」と医師敗訴
暴れていて会話が成り立たない精神障害患者に対し、医師は病院に送るために押さえ付けて精神安定剤を投与しました。裁判所は、注射をせずとも搬送できたとして、医師の注射を違法であると認定しました。
<事件の概要>
1998年2月、町議会の議員であった男性Aは、町長に対して、52歳の妻から暴力をふるわれたことを話した。町長は、以前にも腹部を刺されたなどの話を聞いていたことから、町の「しあわせ課」に相談したらどうかと助言した。
Aは町役場を訪れ、町職員3人に対し、妻が暴力をふるって自分の身が危ない旨を相談し、妻を医師に診察してもらうことにした。Aは職員に同行してもらい病院医師の聴取を受けたが、病院医師は「妻本人を診察しないと最終的な判断はできない」として、往診可能なB精神科開業医を紹介した。
なお、病院の求めに応じて町職員が作成した書面には、妻の行動について(1)妻は長男出産後あたりから異常と思える言動が目立ち始めた(2)8年前、妻は上半身裸でいきなりカセットテープの束でAを殴りつけた(3)Aが家に入ろうとすると妻は刃物を持って暴れる(4)妻は暴力団員に「Aを殺してほしい」と依頼した(5)妻は三角関係のもつれから関係者と公道でカーチェイスを演じた――ことなどが書かれていた。
Aは長男とともにB医師の医院を訪れ、妻がAを包丁で刺したことや、物を投げたりしたこと、カーチェイスを演じたことなどを話し、妻を入院させたいとの希望を伝えたが、B医師は「妻を直接診察しないと入院の必要性を判断できない」旨答えた。
同日夜、Aは町長宅に「妻が刃物を振り回し、とても家の中に入れない。自分の身が危ない」と言ってやって来た。町長は町職員を介してB医師に「早く往診してほしい」旨を伝えた。そのため、Bは翌日の16時ころに往診することを決めた。翌日16時ころ、Bは移送先の病院の医師に「今から注射をして連れて行く」旨伝えた。病院の医師は「診察に支障があるから注射をせずに連れて来てほしい」旨を話したが、Bは「刃物を持っているからとても無理」などと答えた。
AはBと長男、町職員3人とともに自宅へ向かった。Aは長男と一緒に妻に対して医師の診察を受けるよう話したところ、妻がAの顔を叩いたため、Aは「何するんや」と叫び、長男と協力して妻を押さえ付けた。騒ぎを聞いてB医師と町職員3人が家の中に入ると、妻はソファ上に押さえ付けられていた。
Bは妻に医師である旨を話して問診しようとしたが、妻は興奮しており、会話が成り立つ状態ではなかった。AはBに対して妻を落ち着かせてほしいと依頼したため、Bは町職員3人に妻の体を押さえるよう指示し、イソミタール、レボトミンおよびピレチアを注射した。
注射後おとなしくなった妻は病院に搬送され、病院医師の診察を受けた。診察の結果、妻は心因反応と診断されて、Aの同意のもと医療保護入院することになった。
これに対して妻は、精神安定剤を注射して無理やり病院に連行したことは違法だとして、2003年4月、町とB医師を相手取り、1100万円の損害賠償を求めて提訴した。
<判決>
裁判所は、市(町村合併後の自治体)とB医師に対し、連帯して110万円の損害賠償を支払うよう命じた。
裁判所は、精神障害患者の病院搬送に関し、「本人を移送するために、保護者となるべき者の同意のもとで、本人の行動を制限する措置を取ることも、その方法が社会通念上相当と認められ、かつ必要最小限のものである限り許されるというべきである」との一般的基準を示した上で、「精神安定剤の投与については、(中略)身体の拘束などのほかに適切な方法がない場合に限られると解するのが相当である」との見解を示した。
その上で、「原告を診察するためには、まず、Aおよび長男と妻を引き離し、妻の興奮が静まるか否かを見極めながら、十分に問診を尽くすことが必要というべきである。それにもかかわらずB医師は、問診を試みて会話が成り立たないことを確認すると、間もなく妻に本件注射をしており、(中略)十分に問診を尽くしたとは言いがたい」と認定。そして、「Bは、妻が現にAに暴力をふるったり、刃物を振り回したりしている状況を見ておらず、ほかに、問診時において妻に自傷他害の恐れが顕著であるなど、直ちに精神安定剤を注射して妻の興奮を静める必要があったことを示す具体的な事情もうかがわれない」「いかに妻が興奮状態であったとしても、その場には成人男性6人がいたのであるから、精神安定剤を注射しなくても自傷他害の事態を防止し、妻を安全に病院に移送することは可能であったというべきである」などとした。
そして、妻に自傷他害の恐れがあるなど緊急に入院させる必要性は認められず、精神安定剤の注射も社会通念上相当とは認められないとして、注射は違法であるとの判決を下した(京都地裁06年11月22日判決)。
<解説>
暴れていて会話が成り立たない精神障害患者に対し、病院に送るために押さえ付けて精神安定剤を投与することは許されるのか。このケースでは、違法であると判断されました。
医療保護入院とは、治療や保護のために入院を要すると精神保健指定医によって診断された場合、保護者の同意により、本人の同意がなくても精神科病院に入院させることができる制度です。1998年当時、指定医の診察を受けさせるための移送手続についての規定は存在しませんでした。
移送には原則として患者本人の同意が必要となりますが、裁判所は、保護者となるべき者の同意がある場合は本人の同意がなくても精神科病院に移送することは可能、との見解を示しています。この見解は、患者が適切な医療を受けられるようにするという精神保健福祉法の趣旨からしても、正しい判断でしょう。
では、移送のために精神安定剤を投与するのはどうかといえば、今回の注射に対しては「社会通念上相当と認められず、かつ移送の目的を達するのに必要最小限のものとはいえない」と判断しました。
裁判所が重視したのは、(1)精神障害か否か確認するための問診ができていないこと(2)患者が女性で、現場に6人の成人男性がいたことから、精神安定剤以外の方法による抑制措置も可能であったこと(3)自傷他害の恐れが顕著とはいえないこと(4)移送先病院の医師が精神安定剤の投与に消極的な見解を示していたこと――などのようです。
確かに、押さえ付けた時点で興奮が認められただけでは精神障害があるという判断をすることはできません。しかし、医師であることを告げても興奮状態で会話が成り立たない状況であったことからすると、「患者と家族を引き離し、興奮が静まるか否かを見極めて十分に問診を尽くさなければならない」との裁判所の判断は、少し形式的すぎて、現場での緊急性をあまり考慮していないように思えます。また、興奮状態にある患者を無理に押さえ付けたまま移送することは、かえって患者の安全を害することにもなりかねないでしょう。
医療保護入院について、患者の同意を欠く場合の移送手続が定められていないことも、裁判所の判断に影響を及ぼした可能性は否定できませんが、この裁判所の判断は、やや精神科医師に酷な印象を受けます。
【執筆】蒔田覚=弁護士(仁邦法律事務所)
http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/series/dispute/201209/526539.html
2017年9月28日
ある未来を選ぶことは、別の未来を捨てること
少し古い2012年のニュースで「妊婦の血液で、胎児がダウン症かどうかがほぼ確実にわかる新型の出生前診断を、国立成育医療研究センター(東京)など5施設が導入することがわかった」というのがある。これはかなり物議を醸した。
ふと思うのだが、「ダウン症の子なら、わたし生みたくない」と考えて中絶した女性は、その後に健康な子を産んで、その子が成長していく過程で、「こんな言うことをきかない子は欲しくなかった」とか、「こんな成績の悪い子だとは思わなかった」とか、「こんな不良になる子だなんて……要らない」とか、そういうふうにならないのだろうか。いや、さすがにそれは考えすぎだと思う。まず、お腹の中の生命に対してそこまで割り切れる人も、生まれてきた子に対してそこまで冷淡になれる人もいないだろうと……、信じたい。
変な例え話になるが、ゲームの中に、最初にキャラがランダムで決まるようなものがあって、ファミコン時代には好みのキャラが出るまで延々とリセットボタンを押すなんてことがあった。出生前診断のニュースを見ると、そういうゲームを思い出す。
もちろん、生まれた子どもがダウン症だと経済的・精神的に苦しいという場合はある。例えば第1子がダウン症だった場合、次の子までダウン症だと養育する経済的・精神的負担はきっと想像以上のものだろう。だからそういう場合に限ってはこういう検査を許可する……、というのも難しい話で、経済的・精神的負担というものは客観評価できないから、負担が大きいか小さいかは親の主観でしか決めようがない。どんなに金持ちで時間的に余裕があっても、ダウン症児を育てるだけの「親力」がない人はたくさんいるだろうし、逆に貧しくて忙しくてもダウン症児と向き合える「親力」を持っている人もたくさんいるだろう。
ここで誤解して欲しくないのは「親力」に高低や優劣があるという話ではないということ。「親力」とは、数値で表すものではなく、きっと「種類」だ。足の速い人と勉強のできる人を比べることができないのと同じように、ダウン症児を育てきれる人とそうでない人の「親力」は、種類が違うのだと思う。そして、これまたややこしい話なのだが、そういう「親力」というのは実際に親になってみないと分からないものなのだ。
この手の話題では、「デリケートで難しい問題だ」と締めくくるのが無難ではあるが、それだと何も主張していないのに等しいと思っているので、自分は賛成か反対か、そしてどう考えるかを書かなければなるまい。
出生前の検査という手段がある以上、それを受ける自由は保障されるべきであるし、その結果として増えるかもしれない中絶に関しても、現在の法律に則って行なわれる限りは認められるべきだと思う。ただ、検査そのものについては嫌悪感とまではいかないまでも、違和感のようなものがある。やはり、俺はこの検査の存在には漠然とではあるけれど反対だ。そうは言っても検査は既に存在しているし、前述したように各妊婦の事情を考慮して検査を認めたほうが良いような場合もある。それなら、今できることは、その事情をなるべく客観評価できる基準を作っていくことだろう。
ただ、やっぱり最後にこう思う。
自分にどんな「親力」が備わっているか分からない段階から、ダウン症児と「その子の親である自分」という2人の未来を見限るというのは、ちょっと早計ではないのかな。
<追記>重要
友人である小児科医から一言あり、重要だと思ったので付言しておく。この検査は、ダウン症(21トリソミー)以外に13トリソミー(Patau症候群)と18トリソミー(Edwards症候群)も見つけることができる。下記記事の『重い障害を伴う別の2種類の染色体の数の異常も同様にわかる』というのがこの二つの染色体異常のことである。そして、この二つは生まれてすぐに死んでしまうことがほとんどで、妊娠初期にこの二つを見つけることにこそ検査の意義がある。だから、ダウン症についてだけ議論するのはちょっと違うんじゃないか、ということであった。
<関連>
ダウン症児は親を選んで生まれてくる
座敷わらしの正体
ふと思うのだが、「ダウン症の子なら、わたし生みたくない」と考えて中絶した女性は、その後に健康な子を産んで、その子が成長していく過程で、「こんな言うことをきかない子は欲しくなかった」とか、「こんな成績の悪い子だとは思わなかった」とか、「こんな不良になる子だなんて……要らない」とか、そういうふうにならないのだろうか。いや、さすがにそれは考えすぎだと思う。まず、お腹の中の生命に対してそこまで割り切れる人も、生まれてきた子に対してそこまで冷淡になれる人もいないだろうと……、信じたい。
変な例え話になるが、ゲームの中に、最初にキャラがランダムで決まるようなものがあって、ファミコン時代には好みのキャラが出るまで延々とリセットボタンを押すなんてことがあった。出生前診断のニュースを見ると、そういうゲームを思い出す。
もちろん、生まれた子どもがダウン症だと経済的・精神的に苦しいという場合はある。例えば第1子がダウン症だった場合、次の子までダウン症だと養育する経済的・精神的負担はきっと想像以上のものだろう。だからそういう場合に限ってはこういう検査を許可する……、というのも難しい話で、経済的・精神的負担というものは客観評価できないから、負担が大きいか小さいかは親の主観でしか決めようがない。どんなに金持ちで時間的に余裕があっても、ダウン症児を育てるだけの「親力」がない人はたくさんいるだろうし、逆に貧しくて忙しくてもダウン症児と向き合える「親力」を持っている人もたくさんいるだろう。
ここで誤解して欲しくないのは「親力」に高低や優劣があるという話ではないということ。「親力」とは、数値で表すものではなく、きっと「種類」だ。足の速い人と勉強のできる人を比べることができないのと同じように、ダウン症児を育てきれる人とそうでない人の「親力」は、種類が違うのだと思う。そして、これまたややこしい話なのだが、そういう「親力」というのは実際に親になってみないと分からないものなのだ。
この手の話題では、「デリケートで難しい問題だ」と締めくくるのが無難ではあるが、それだと何も主張していないのに等しいと思っているので、自分は賛成か反対か、そしてどう考えるかを書かなければなるまい。
出生前の検査という手段がある以上、それを受ける自由は保障されるべきであるし、その結果として増えるかもしれない中絶に関しても、現在の法律に則って行なわれる限りは認められるべきだと思う。ただ、検査そのものについては嫌悪感とまではいかないまでも、違和感のようなものがある。やはり、俺はこの検査の存在には漠然とではあるけれど反対だ。そうは言っても検査は既に存在しているし、前述したように各妊婦の事情を考慮して検査を認めたほうが良いような場合もある。それなら、今できることは、その事情をなるべく客観評価できる基準を作っていくことだろう。
ただ、やっぱり最後にこう思う。
自分にどんな「親力」が備わっているか分からない段階から、ダウン症児と「その子の親である自分」という2人の未来を見限るというのは、ちょっと早計ではないのかな。
<追記>重要
友人である小児科医から一言あり、重要だと思ったので付言しておく。この検査は、ダウン症(21トリソミー)以外に13トリソミー(Patau症候群)と18トリソミー(Edwards症候群)も見つけることができる。下記記事の『重い障害を伴う別の2種類の染色体の数の異常も同様にわかる』というのがこの二つの染色体異常のことである。そして、この二つは生まれてすぐに死んでしまうことがほとんどで、妊娠初期にこの二つを見つけることにこそ検査の意義がある。だから、ダウン症についてだけ議論するのはちょっと違うんじゃないか、ということであった。
<関連>
ダウン症児は親を選んで生まれてくる
座敷わらしの正体
妊婦血液で胎児のダウン症診断…国内5施設で
妊婦の血液で、胎児がダウン症かどうかがほぼ確実にわかる新型の出生前診断を、国立成育医療研究センター(東京)など5施設が、9月にも導入することがわかった。
妊婦の腹部に針を刺して羊水を採取する従来の検査に比べ格段に安全で簡単にできる一方、異常が見つかれば人工妊娠中絶にもつながることから、新たな論議を呼びそうだ。
導入を予定しているのは、同センターと昭和大(東京)、慈恵医大(同)、東大、横浜市大。染色体異常の確率が高まる35歳以上の妊婦などが対象で、日本人でのデータ収集などを目的とした臨床研究として行う。保険はきかず、費用は約20万円前後の見通しだ。
検査は、米国の検査会社「シーケノム」社が確立したもので、米国では昨年秋から実施。妊婦の血液にわずかに含まれる胎児のDNAを調べる。23対(46本)ある染色体のうち、21番染色体が通常より1本多いダウン症が99%以上の精度でわかるほか、重い障害を伴う別の2種類の染色体の数の異常も同様にわかる。羊水検査に比べ5週以上早い、妊娠初期(10週前後)に行うことができる。
(2012年8月29日10時04分 読売新聞)
2017年7月24日
為末大さんの「不健康に暮らす人が一定数いてもいいが、その人の保険料は健康な人も負担している」を弁護しつつ、一つ指摘しておきたい
為末大さんが炎上している。きっかけはツイッターでのこの発言だ。
ただ、そこで彼に振り返って欲しいのは、いわゆる「アスリート」のストイックなトレーニング生活は、決して健康生活ではなく、むしろ「自己責任かつ極端な不健康生活」になりうるということ。
たから、為末さんは、
「不健康な人の保険料は健康な人も負担している」
これをアスリート仲間にこそビシッと言って、こう付け加えるべきなのだ。
「あなたたちがストイックで不健康なトレーニングに打ち込めるのは、保険料を負担している多くの健康な人たちのおかげなのですよ」
為末さんに反対する人は多かった。そして、『言うに事欠いて「一定数いてもいいが」ですか』という意見に対して彼は、
「国民の全員がアスリート生活したらもたない」
と返ってくるのではないか。男性が全員力士、女性は全員マラソンランナーの国は、確実に滅びるはずだ。
それから、「不健康な人が一定割合以上になるともたない」というのを突き詰めると、
「一日の睡眠は何時間から何時間まで、食事は身長あたり何キロカロリー、運動時間は何十分、等々、国の発展のため、あるいは国の衰亡を防ぐため、生活を細かく決められ監視される社会」
が見えてくる。まるでオーウェルの小説『1984』のようだ。
おそらく、極端に破滅的な不健康生活(アスリートを除く)をする人は、一定割合以上にはならない。それは、極端にストイックなトレーニング生活を送るアスリートが一定割合以上にはならないのと同じだ。正規分布ではないにしても、「極端」なものが、限られた割合以上にはなることはないだろう。
この話題に関連して「喫煙者からは保険料を多くとるべきだ」という意見についても考えてみる。この意見にはいくぶん賛成でもあるが、「不健康なことを自己責任でやっているから」という理由なら、「月のランニング距離がXキロメートル以上の人」など過度のトレーニングをやっている人からも保険料を多くとるべきだという理屈にならないだろうか……。
個人的には、「不健康生活が医療費を圧迫しているぞ、このままだともたないぞ」と警鐘を鳴らすよりは、「コンビニ受診が医療を圧迫しているぞ、このままだともたないぞ」と指摘するほうが事実に近いのではないかと思う。
<参考>
為末大氏「不健康に暮らす人が一定数いてもいいが、その人の保険料は健康な人も負担している」が炎上の件
為末さんのこの発言を敢えて弁護するが、彼はあくまでも「自己責任かつ極端な不健康生活」を対象にツイートをしたのだろうと思う。不健康に暮らす人が一定数いてもいいが、その人の保険料は健康な人も負担している— 為末 大 (@daijapan) 2017年7月19日
ただ、そこで彼に振り返って欲しいのは、いわゆる「アスリート」のストイックなトレーニング生活は、決して健康生活ではなく、むしろ「自己責任かつ極端な不健康生活」になりうるということ。
たから、為末さんは、
「不健康な人の保険料は健康な人も負担している」
これをアスリート仲間にこそビシッと言って、こう付け加えるべきなのだ。
「あなたたちがストイックで不健康なトレーニングに打ち込めるのは、保険料を負担している多くの健康な人たちのおかげなのですよ」
為末さんに反対する人は多かった。そして、『言うに事欠いて「一定数いてもいいが」ですか』という意見に対して彼は、
と答えていた。だが、これはブーメランのように、はい、一定数なら耐えられますが、全員が不健康な生活をして病気になる確率が高まり保険料があがるともたないと思います https://t.co/JMRZY74kWI— 為末 大 (@daijapan) 2017年7月19日
「国民の全員がアスリート生活したらもたない」
と返ってくるのではないか。男性が全員力士、女性は全員マラソンランナーの国は、確実に滅びるはずだ。
それから、「不健康な人が一定割合以上になるともたない」というのを突き詰めると、
「一日の睡眠は何時間から何時間まで、食事は身長あたり何キロカロリー、運動時間は何十分、等々、国の発展のため、あるいは国の衰亡を防ぐため、生活を細かく決められ監視される社会」
が見えてくる。まるでオーウェルの小説『1984』のようだ。
おそらく、極端に破滅的な不健康生活(アスリートを除く)をする人は、一定割合以上にはならない。それは、極端にストイックなトレーニング生活を送るアスリートが一定割合以上にはならないのと同じだ。正規分布ではないにしても、「極端」なものが、限られた割合以上にはなることはないだろう。
この話題に関連して「喫煙者からは保険料を多くとるべきだ」という意見についても考えてみる。この意見にはいくぶん賛成でもあるが、「不健康なことを自己責任でやっているから」という理由なら、「月のランニング距離がXキロメートル以上の人」など過度のトレーニングをやっている人からも保険料を多くとるべきだという理屈にならないだろうか……。
個人的には、「不健康生活が医療費を圧迫しているぞ、このままだともたないぞ」と警鐘を鳴らすよりは、「コンビニ受診が医療を圧迫しているぞ、このままだともたないぞ」と指摘するほうが事実に近いのではないかと思う。
<参考>
為末大氏「不健康に暮らす人が一定数いてもいいが、その人の保険料は健康な人も負担している」が炎上の件
2017年7月18日
「本当の自分」症候群の人たちへ。見ろ、嗅げ、そして息をしろ。そこに自分があるじゃないか!
「本当の自分」なんてものはない。あるのは「今そこにいる自分」だけである。
そういう目で、以下の記事を読んでみて欲しい。
どういうわけか、「本当の自分」という言葉や、それに類するものは人気がある。○○占いというものが毎年流行るが、中身を見るとあれは占いではなく、分析もどきだ。誕生日、名前、血液型から、「あなたは○○な人です」と書いてあるだけだ。そして、その中で自分が考えている「こうありたい」と一致する部分を見つけて、「当たっている」と感激したり、「本当の自分はこれなんだ」と自己満足にひたったりする。
「自分探し」もそうだ。そんなもの、探すまでもない。鏡を見る必要さえない。息をしてみれば、そこで空気を感じているのが自分である。
心理テストがもてはやされるのも似たようなもので、自分で自分の深層心理を探ってみたり、友人に試してみたり、そこまでして「本当の自分」(と本人が思っているもの)を知りたいものなのか。あえて「本当の自分」という言葉を使うとしたら、キャラ作りをしているのも「本当の自分」だし、それに疲れているのも「本当の自分」。
あなたはあなた自身でしかありえないなのだから、「本当の自分」を見失うなんてことは、絶対にないんだよ。
見ろ、嗅げ、そして息をしろ。そこに自分があるじゃないか!
そういう目で、以下の記事を読んでみて欲しい。
若者に広がる「キャラ疲れ」とは?~『キャラクター精神分析』この記事にあるように、たとえば「いじられキャラを演じている自分」がいるとする。それは「本当の自分」ではないのだろうか。いいや、そうではない。そういうキャラを演じることで、何らかの利益を得ようとしている自分がいて、その希望が叶おうが叶うまいが、その行為に疲れようが疲れまいが、そういうことをしている自分が、まぎれもない「自分自身」なのだ。
「『私、キャラ変えしたいんです。このままじゃ、自分が馬鹿になりそう』。山陰地方のある中学校に設けられた相談室。夏の初め、臨床心理士の岩宮恵子さんのもとを制服姿の女子生徒が訪れた」
これは昨年11月20日付の朝日新聞朝刊に掲載された「キャラ 演じ疲れた」という記事の抜粋です。この女子生徒は友だちからツッコまれるのを防ぐために"天然キャラの不思議ちゃん"を演じていたそうなのですが、あまりに「本当の自分」とかけ離れたキャラ設定だったため、それに疲れてしまったというのです。
他にも同記事では、"いじられキャラ"を演じてクラスの居場所を確保したり、"毒舌キャラ"と呼ばれていた女子が、実は「まわりに毒舌を期待されて疲れる」と悩んでいるエピソードが紹介されています。しかし、こうした若者たちの多くは他人のキャラに関しては饒舌に説明できるのですが、いざ自分自身のこととなると「よくわからない」と答えるだけだったそうです。
この「わからない」の意味について、精神科医の斎藤環さんは「みんなからどういうキャラとして認知されているかはわかるが、それが自分の性格と言われてもピンとこない」ということだと指摘します。つまり、"いじられキャラ""おたくキャラ""天然キャラ""毒舌キャラ"など、他人から認知されているこうした「キャラ設定」と、自分が「本当は」こうだと思っている人格との間に「ズレ」が生じているというのです。
しかし、どうして彼ら・彼女らはこのような「ズレ」を受け入れてしまうのか。斎藤さんは「キャラを演じているにすぎないという自覚が、かえってキャラの背後にある『本当の自分』の存在を信じさせ、また保護さえしてくれる」からだと言います。要するに、若者たちにとって「キャラ」とは、自分を偽るものではなく、あくまで守るものとして機能しているのです。そして、あまりにそのギャップが大き過ぎると、「本当の自分」がわからなくなってしまい、演じ続けることに疲れてしまうというわけです。
しかし、彼ら・彼女らは「キャラ」を演じてまで守ろうとする肝心の「本当の自分」について、「よくわからない」としか答えられません。何とも皮肉な話ですが、今の若者たちは自分自身を守ろうとすればするほどそこから遠ざかり、ますます「本当の自分」を見失ってしまうのです。
どういうわけか、「本当の自分」という言葉や、それに類するものは人気がある。○○占いというものが毎年流行るが、中身を見るとあれは占いではなく、分析もどきだ。誕生日、名前、血液型から、「あなたは○○な人です」と書いてあるだけだ。そして、その中で自分が考えている「こうありたい」と一致する部分を見つけて、「当たっている」と感激したり、「本当の自分はこれなんだ」と自己満足にひたったりする。
「自分探し」もそうだ。そんなもの、探すまでもない。鏡を見る必要さえない。息をしてみれば、そこで空気を感じているのが自分である。
心理テストがもてはやされるのも似たようなもので、自分で自分の深層心理を探ってみたり、友人に試してみたり、そこまでして「本当の自分」(と本人が思っているもの)を知りたいものなのか。あえて「本当の自分」という言葉を使うとしたら、キャラ作りをしているのも「本当の自分」だし、それに疲れているのも「本当の自分」。
あなたはあなた自身でしかありえないなのだから、「本当の自分」を見失うなんてことは、絶対にないんだよ。
見ろ、嗅げ、そして息をしろ。そこに自分があるじゃないか!
2017年6月28日
市川海老蔵さんが「ブログ更新しすぎ」と批判されるのはおかしい。現代の服喪として「喪ログ」「喪イッター」はもっと認知・受容されるべきである!
市川海老蔵、ブログ“更新しすぎ”批判の声に「許してください」
ブログやツイッターによる「喪ログ」「喪イッター」(俺造語)は、現代における服喪の一つとして認められるべき、実に意義のあるものだ。
最愛の祖父や敬愛する放射線科医長が他界した際には、あれこれと文章を書いた。書くことで気持ちが整理され、思い出が文章として刻まれ、数年たって読み返したときにも「書いて良かった」と思える。
辛いときだからこそ、書いて送信して、書いて送信して、コメントもらって慰められて、癒されて、安心して、でも、ふと気を抜くとやっぱり寂しくなって、切なくなって、つらくなって、また書いて送信して、書いて送信して……。
この行為の、どこに責められるべき部分があるというのか。
ブログやツイッターによる「喪ログ」「喪イッター」(俺造語)は、現代における服喪の一つとして認められるべき、実に意義のあるものだ。
最愛の祖父や敬愛する放射線科医長が他界した際には、あれこれと文章を書いた。書くことで気持ちが整理され、思い出が文章として刻まれ、数年たって読み返したときにも「書いて良かった」と思える。
辛いときだからこそ、書いて送信して、書いて送信して、コメントもらって慰められて、癒されて、安心して、でも、ふと気を抜くとやっぱり寂しくなって、切なくなって、つらくなって、また書いて送信して、書いて送信して……。
この行為の、どこに責められるべき部分があるというのか。
2017年4月18日
みんなに伝えるための被災映像の撮りかた
一年前、地震直後の緊急ニュースを生放送で観ていた。テレビカメラマンが、落ちているものばかりをクローズアップで撮っていてセンスないなぁと思った。視聴者としては、落ちたのがタイルなのか、それともレンガなのかなんてことはどうでもよく、どこから落ちたのか、その建物はどうなっているのか、あるいは広角映像で「どういう場所が危険なのか」を知りたいはずだ。
ボーリング場のでかいピンのオブジェが落ちていた生映像はインパクトがあったが、肝心の「それは元々どこにあったのか」が映されなかった(実は6階建ての屋上から落ちている)。「ないはずの場所にある巨大物」はインパクトが大きく、その反対に「あるべき場所に何もない」映像は一見すると地味だが、実はすごく大切な情報である。震災や事故を撮るとき、カメラマンにはクローズアップだけでなく広角映像もたくさん映して欲しい。崩れた石垣のドアップは衝撃的だが、俯瞰した映像を見ないと全体像がつかめない。イメージがわかない。
放射線科医に関するこんな話がある。胸部レントゲンを読影すると、ほぼ全員が腫瘍を見落とすことはなかった。しかし、片方の鎖骨がないのを見落とされることが多かった。つまり、「ないはずのものがある」は見落とされにくいが、「あるべきものがない」は見過ごされやすいということだ。
目立つところにフォーカスしすぎない、全体像を把握する。これは医療では当たり前。刃物で腹を刺されて腸がはみ出している人をみても、まずは呼吸や意識を確認する。腹に刺さった刃物や出ている腸(「ないはずのものがある」)に気をとられて、「あるはずのもの(呼吸や意識)がない」ことを見落としてはいけない。
それから、報道番組で、九州の地図を熊本中心に切り取って何町がどうのこうのとやっていた。それは確かに近隣住民にとっては大切な情報だが、九州全域や日本地図も適宜出さないと、どの辺りでどんなことが起きているのか全くイメージの湧かない人たちがいるはずだ。被災地域の人や関係者に情報を伝えるのと同時に、被災地には縁もゆかりもない人たちに「他人事ではない」と感じてもらえるような放送を目指して欲しい。そのためには、クローズアップして切り取られた地図だけでなく、広域の地図も出さないといけない。
全体的にクローズアップしすぎな報道と映像を見ながら、これを医療現場でやると患者を救えないな……、と感じたのだった。
ボーリング場のでかいピンのオブジェが落ちていた生映像はインパクトがあったが、肝心の「それは元々どこにあったのか」が映されなかった(実は6階建ての屋上から落ちている)。「ないはずの場所にある巨大物」はインパクトが大きく、その反対に「あるべき場所に何もない」映像は一見すると地味だが、実はすごく大切な情報である。震災や事故を撮るとき、カメラマンにはクローズアップだけでなく広角映像もたくさん映して欲しい。崩れた石垣のドアップは衝撃的だが、俯瞰した映像を見ないと全体像がつかめない。イメージがわかない。
放射線科医に関するこんな話がある。胸部レントゲンを読影すると、ほぼ全員が腫瘍を見落とすことはなかった。しかし、片方の鎖骨がないのを見落とされることが多かった。つまり、「ないはずのものがある」は見落とされにくいが、「あるべきものがない」は見過ごされやすいということだ。
目立つところにフォーカスしすぎない、全体像を把握する。これは医療では当たり前。刃物で腹を刺されて腸がはみ出している人をみても、まずは呼吸や意識を確認する。腹に刺さった刃物や出ている腸(「ないはずのものがある」)に気をとられて、「あるはずのもの(呼吸や意識)がない」ことを見落としてはいけない。
それから、報道番組で、九州の地図を熊本中心に切り取って何町がどうのこうのとやっていた。それは確かに近隣住民にとっては大切な情報だが、九州全域や日本地図も適宜出さないと、どの辺りでどんなことが起きているのか全くイメージの湧かない人たちがいるはずだ。被災地域の人や関係者に情報を伝えるのと同時に、被災地には縁もゆかりもない人たちに「他人事ではない」と感じてもらえるような放送を目指して欲しい。そのためには、クローズアップして切り取られた地図だけでなく、広域の地図も出さないといけない。
全体的にクローズアップしすぎな報道と映像を見ながら、これを医療現場でやると患者を救えないな……、と感じたのだった。
2017年2月16日
『リレンザ服用の男子中学生が転落死』というニュースを読んで思うこと
リレンザ服用の男子中学生が転落死
インフルエンザそのものに異常行動を引き起こす何かがあるとか、タミフルやリレンザとの関連性が明らかでないのにマスコミが騒ぎすぎとか、あれこれ言われている。
でも一番大切なのは、異常行動があってもなくても、病気で寝込んでいる子の側には、誰かがついていてあげるということではかなろうか。
異常行動が原因で亡くなる子も可哀想だが、側に付き添うことができない事情のある親も可哀想である。そこを考慮せずに、「薬のせいだ」と騒いでも、「いや、インフルエンザそのものに原因があるんだ」という反論で議論しても、誰も幸せにならないんじゃないのか?
病んだ子に必ず家族が付き添えるようにするには、どうしたら良いだろうか。
「医学」ではなく「医療」では、人を救うためにこういうことも考えるべきではなかろうか。もちろん、「医療」という枠だけではおさまらず、もっと大きな話が必要にはなるだろうけれど。
インフルエンザそのものに異常行動を引き起こす何かがあるとか、タミフルやリレンザとの関連性が明らかでないのにマスコミが騒ぎすぎとか、あれこれ言われている。
でも一番大切なのは、異常行動があってもなくても、病気で寝込んでいる子の側には、誰かがついていてあげるということではかなろうか。
異常行動が原因で亡くなる子も可哀想だが、側に付き添うことができない事情のある親も可哀想である。そこを考慮せずに、「薬のせいだ」と騒いでも、「いや、インフルエンザそのものに原因があるんだ」という反論で議論しても、誰も幸せにならないんじゃないのか?
病んだ子に必ず家族が付き添えるようにするには、どうしたら良いだろうか。
「医学」ではなく「医療」では、人を救うためにこういうことも考えるべきではなかろうか。もちろん、「医療」という枠だけではおさまらず、もっと大きな話が必要にはなるだろうけれど。
リレンザ服用の男子中学生が転落死 産経新聞 2/15(水) 12:04配信
東京都品川区で14日、インフルエンザ治療薬「リレンザ」を服用した中学2年の男子生徒(14)がマンション4階の自室から転落し、死亡していたことが15日、警視庁大井署などへの取材で分かった。同署が事故とみて詳しい状況を調べている。
大井署によると、14日午後0時50分ごろ、品川区大井のマンションで、男子生徒の母親(53)から「息子がいない」と110番通報があった。駆けつけた警察官が捜索したところ、敷地内のフェンスに服などが引っかかり、宙づり状態になっている男子生徒を発見。搬送先の病院で死亡が確認された。
生徒は同日午前、病院でインフルエンザの診断を受けてリレンザを処方され、薬を飲んで自室で1人で休んでいたという。部屋の窓が開いており、真下に転落したとみられる。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170215-00000529-san-soci
2017年1月22日
「金銭授受はいじめから逃れるためだった」「おごりおごられる関係」、だからイジメじゃない。そんなバカな話あるか!!
福島県から横浜市に自主避難した中学1年生がいじめを受けた問題。
横浜市の第三者委員会は、報告書で「金銭授受はいじめから逃れるためだった」と指摘し、「おごりおごられる関係」として「いじめ」とは認定しなかった。
イジメと認定すべきかどうか、俺は詳細を知っているわけではないので判断保留。気持ちとしては、絶対に認定すべきだと思う。だだし、ここでの本旨はイジメ認定ではなく、言葉の使い方だ。
第三者委員会が用いた「おごりおごられる関係」、これが非常に腹が立つ。
「おごりおごられる」という場合、互いに「おごる時もあるし、おごられる時もある」という意味だ。
たとえば結婚式の友人スピーチで、新郎とは「助け、助けられ」「励まし、励まされ」「抜きつ、抜かれつ」など言った場合、こちらが助けたり励ましたり抜いたりすることもあったが、相手から助けられ励まされ抜かれることもあった、ということだ。
イジメで一方的に殴られる子どもを表現するのに、「殴り殴られる関係」とは言わない。その表現だと、普通は「互いに殴り合った」と解釈する。AがBを殴ったら、BがAから殴られたのは言うまでもない。もしそこで「殴り、殴られる関係」なんて言うなら、それは「馬から落馬する」「頭痛が痛い」と同じ二重表現である。
ただし、一方的におごらされている場合に「おごりおごられる関係」というのは、二重表現ではあるけれど、日本語として破綻しているわけではない。嘘を言っているわけでもないし、矛盾しているわけでもない。こういう表現を聞いたら「おごるだけでなく、おごられることもあった」と解釈するのが一般的というだけだ。だから、第三者委員会としては、
「わたしたちは嘘は言っていません。そちらが、互いにおごり合ったと解釈したのでしょう」
ということだ。非常にずる賢い。
次に、百歩譲って、加害者が被害者におごることもあったとする。150万円も巻き上げていれば、その中から1万円分くらいは「おごった」ことがあったかもしれない。それなら「おごり、おごられる関係」で間違いないだろうか。いいや、そんなことはない。
「おごりおごられる関係」という報告書を書いた人物に問いたい。
あなたが上司から、断れない食事に誘われることが多いとしよう。あなたが支払う時は5万円の料亭で、上司が支払う時は5千円の焼き肉。これが何年も続いて、あなたの負担は数百万円にもなるのに、上司のほうは数万円。これを「おごりおごられる関係」と言うだろうか? 絶対に言わないはずだ。世間一般では、パワー・ハラスメント、パワハラ、大人のイジメという。
こんな誤魔化しの報告書を出すような、そんなずる賢い人間にはならないように!!
原発避難の小学生が「150万円払わされた」→横浜市教委「いじめ認定できない」Twitterでは疑問続出
横浜市の第三者委員会は、報告書で「金銭授受はいじめから逃れるためだった」と指摘し、「おごりおごられる関係」として「いじめ」とは認定しなかった。
イジメと認定すべきかどうか、俺は詳細を知っているわけではないので判断保留。気持ちとしては、絶対に認定すべきだと思う。だだし、ここでの本旨はイジメ認定ではなく、言葉の使い方だ。
第三者委員会が用いた「おごりおごられる関係」、これが非常に腹が立つ。
「おごりおごられる」という場合、互いに「おごる時もあるし、おごられる時もある」という意味だ。
たとえば結婚式の友人スピーチで、新郎とは「助け、助けられ」「励まし、励まされ」「抜きつ、抜かれつ」など言った場合、こちらが助けたり励ましたり抜いたりすることもあったが、相手から助けられ励まされ抜かれることもあった、ということだ。
イジメで一方的に殴られる子どもを表現するのに、「殴り殴られる関係」とは言わない。その表現だと、普通は「互いに殴り合った」と解釈する。AがBを殴ったら、BがAから殴られたのは言うまでもない。もしそこで「殴り、殴られる関係」なんて言うなら、それは「馬から落馬する」「頭痛が痛い」と同じ二重表現である。
ただし、一方的におごらされている場合に「おごりおごられる関係」というのは、二重表現ではあるけれど、日本語として破綻しているわけではない。嘘を言っているわけでもないし、矛盾しているわけでもない。こういう表現を聞いたら「おごるだけでなく、おごられることもあった」と解釈するのが一般的というだけだ。だから、第三者委員会としては、
「わたしたちは嘘は言っていません。そちらが、互いにおごり合ったと解釈したのでしょう」
ということだ。非常にずる賢い。
次に、百歩譲って、加害者が被害者におごることもあったとする。150万円も巻き上げていれば、その中から1万円分くらいは「おごった」ことがあったかもしれない。それなら「おごり、おごられる関係」で間違いないだろうか。いいや、そんなことはない。
「おごりおごられる関係」という報告書を書いた人物に問いたい。
あなたが上司から、断れない食事に誘われることが多いとしよう。あなたが支払う時は5万円の料亭で、上司が支払う時は5千円の焼き肉。これが何年も続いて、あなたの負担は数百万円にもなるのに、上司のほうは数万円。これを「おごりおごられる関係」と言うだろうか? 絶対に言わないはずだ。世間一般では、パワー・ハラスメント、パワハラ、大人のイジメという。
こんな誤魔化しの報告書を出すような、そんなずる賢い人間にはならないように!!
原発避難の小学生が「150万円払わされた」→横浜市教委「いじめ認定できない」Twitterでは疑問続出
2016年12月8日
千葉大学の強姦加害者たちは決して特別なわけではないが、極特殊ではある
千葉大学の強姦事件に関わった連中は、決して特別なわけではないが、かといって当たり前の人たちでもない。
特別ではない、というのは、アルコール(に限らず酩酊する物質、不眠など)で判断力が鈍り、特に「抑制がとれる」のは万人に共通しているから。
日ごろは穏やかなのに、酒を飲むと粗暴になる人がいる。こういう人は、粗暴な内面を理性で押さえつけているのだろうし、酒がその抑制をとるので、粗暴な面が噴出する。こういう人を見ると「本当は危ない人」と考えがちだが、「粗暴な内面を抑制する理性の強い人」とも考えられる。
酒は理性による抑制をとる。これは万人に共通で、千葉大学の強姦事件に関わった連中も特別ではない。しかし、抑制がとれた男はみんな強姦するか、まして集団強姦に及ぶかというと、絶対にそんなことはない。だから、その点で彼らは極特殊と言える。
抑制がとれたのが原因で集団強姦に及ぶということは、普段理性で押さえつけている内面は強姦魔ということだ。
少し厳しいが、そう思えてならない。
倫理、心性とは別に、判断力低下という点でも残念な連中である。
その強姦がバレないと判断したのか、バレても問題視されないと判断したのか、問題視されても退学にまではならないと判断したのか、退学になってでも被害者のことを集団で強姦したいと判断したのか。どの段階をとっても残念な連中である。
さて、加害者は、今は拘置所にいるのだろうか? 俺はそのほうが彼らにとって幸せだろうと思う。国立医学部に合格し、もうすぐ医師になるという自慢の息子が、集団強姦で全国に名前が出て一転。実家は針のむしろだ。友人も慰める言葉は持たないだろう。そんな現実を見ないで済む拘置所のほうが良いに決まっている。
特別ではない、というのは、アルコール(に限らず酩酊する物質、不眠など)で判断力が鈍り、特に「抑制がとれる」のは万人に共通しているから。
日ごろは穏やかなのに、酒を飲むと粗暴になる人がいる。こういう人は、粗暴な内面を理性で押さえつけているのだろうし、酒がその抑制をとるので、粗暴な面が噴出する。こういう人を見ると「本当は危ない人」と考えがちだが、「粗暴な内面を抑制する理性の強い人」とも考えられる。
酒は理性による抑制をとる。これは万人に共通で、千葉大学の強姦事件に関わった連中も特別ではない。しかし、抑制がとれた男はみんな強姦するか、まして集団強姦に及ぶかというと、絶対にそんなことはない。だから、その点で彼らは極特殊と言える。
抑制がとれたのが原因で集団強姦に及ぶということは、普段理性で押さえつけている内面は強姦魔ということだ。
少し厳しいが、そう思えてならない。
倫理、心性とは別に、判断力低下という点でも残念な連中である。
その強姦がバレないと判断したのか、バレても問題視されないと判断したのか、問題視されても退学にまではならないと判断したのか、退学になってでも被害者のことを集団で強姦したいと判断したのか。どの段階をとっても残念な連中である。
さて、加害者は、今は拘置所にいるのだろうか? 俺はそのほうが彼らにとって幸せだろうと思う。国立医学部に合格し、もうすぐ医師になるという自慢の息子が、集団強姦で全国に名前が出て一転。実家は針のむしろだ。友人も慰める言葉は持たないだろう。そんな現実を見ないで済む拘置所のほうが良いに決まっている。
2016年11月28日
乙武さんへ。暗黙の了解と「見て見ぬふり」は違うし、立場の弱い人が「何も言えない」のは決して了解ではないですよ!
乙武洋匡さん、離婚理由を語る 「不倫は暗黙の了解あったが…」「乙武の妻に耐えられなくなったのでは」 フジテレビ系ワイドナショーに出演
「暗黙の了解」というのは、たいてい片方だけがそうだと思い込んでいるだけのことが多い。
通常、「見て見ぬふり」を「暗黙の了解」とは言わない。たとえば、歩きタバコを注意しないのも、同級生のイジメを止められないのも、それは決して「了解」しているわけではない。もしも、歩きタバコしている人やイジメっ子が「何も言わなかったのは、暗黙の了解があったからだろう」というのは、ただの開き直りである。
だから、ここで乙武氏が用いる言葉は、「妻は、見て見ぬふりをしてくれていたんだと思います」くらいが妥当だったはずだ。それを「妻とは暗黙の了解があった」と言ってしまう、というか、そういうふうに考えてしまうところに、彼の人格が色濃くにじみ出ている気がする。
これは、イジメっ子が、
「イジメじゃないです! 遊んでるんです! アイツだって嫌とは言わなかったし!! 他人にはわからない暗黙の了解があったんですよ!!」
なんて言っているのと、まったく同じ感覚なわけである。
乙武氏は、基本的にはイジメっ子体質なのだろう。
つい最近も、原発避難いじめで大金を奪われていた子どもについて「率先して金を渡していた」と判断した教育者らがいた。ああ、そういえば、乙武氏も教育者であった……。
「暗黙の了解」というのは、たいてい片方だけがそうだと思い込んでいるだけのことが多い。
通常、「見て見ぬふり」を「暗黙の了解」とは言わない。たとえば、歩きタバコを注意しないのも、同級生のイジメを止められないのも、それは決して「了解」しているわけではない。もしも、歩きタバコしている人やイジメっ子が「何も言わなかったのは、暗黙の了解があったからだろう」というのは、ただの開き直りである。
だから、ここで乙武氏が用いる言葉は、「妻は、見て見ぬふりをしてくれていたんだと思います」くらいが妥当だったはずだ。それを「妻とは暗黙の了解があった」と言ってしまう、というか、そういうふうに考えてしまうところに、彼の人格が色濃くにじみ出ている気がする。
これは、イジメっ子が、
「イジメじゃないです! 遊んでるんです! アイツだって嫌とは言わなかったし!! 他人にはわからない暗黙の了解があったんですよ!!」
なんて言っているのと、まったく同じ感覚なわけである。
乙武氏は、基本的にはイジメっ子体質なのだろう。
つい最近も、原発避難いじめで大金を奪われていた子どもについて「率先して金を渡していた」と判断した教育者らがいた。ああ、そういえば、乙武氏も教育者であった……。
2015年11月19日
罪の償いとは何だろう? 模範囚とはどういう意味だろう? 刑務所で大人しく過ごすことが罪を償うということなのか? 『白昼凶刃』
通り魔によって、1歳男児、3歳女児、27歳の母が殺害された現場を目撃した主婦はこう語る。

白昼凶刃―隣りの殺人者
昭和56年6月17日、歩行者6人を次々と刺し、4人を殺害した川俣軍司(本書内では川本軍平と記載されている)の生い立ちから犯行、裁判の結審までを追いかけたルポである。自分の子どもがちょうど3歳と1歳、妻が29歳で、被害者とまさに同じような家族構成であるために他人事とは思えず、胸が痛む話であった。妻子3人を失った会社員は、若くして父母を亡くし、兄弟姉妹もいなかったため、幸せな家庭に憧れていたそうだ。ようやく手に入れた幸せな家庭生活を踏みにじられ、その後しばらくは酒浸りで体調を崩し、
逮捕後、犯行方法を確かめるため、警察署で婦人警官を被害者に見立てて再現させたところ、川俣は冷静に再現してみせた。たいていの被疑者は罪の意識にとらわれて手足がすくむそうだが、川俣は平然とやる。それがあまりにも真に迫っているもので、襲われる役の婦人警官が逃げ腰になるほどだったという。
こんなことをしておきながら、警察には、
「殺す意志はなかった、俺が刺したらたまたま死んでしまった」
というようなことを言ってのける。遺族でなくても腹立たしい言い分だが、遺族であれば気も狂わんばかりになるだろう。
死刑を免れて無期懲役で結審した後、川俣は弁護士らに控訴したいと言い出した。二名の弁護士は必死になってそれを止めた。すると川俣は数日考えた後に控訴を取り下げることにする。そして弁護士に、
「先のことはともかく、今は罪の償いをしなさいよ」
弁護士にそうたしなめられて、川俣はこう言った。
模範囚とはどういう意味だろう?
刑務所で大人しく過ごすことが罪を償うということなのか?
ふと、神戸連続児童殺傷事件の加害者である「元少年A」を思い出した。彼が事件をネタに本を出版したりホームページを作成したりして、遺族の心情を逆なでし続けているにもかかわらず、「元少年A」という匿名で守られていることに違和感と腹立たしさを抱く人は多いだろう。これに対し「法に則った処罰を受けて、罪は償ったのだから」という意見もある。
人を殺した罪を償うということは、そういうことなのだろうか?
俺は違うと思う。
そして、法的に処罰しても罪の償いができない人間には、それ相応の社会的処罰が必要だとも思う。「元少年A」に関して言えば、それは実名と顔写真の公開だろう。
本書の話とは無関係なところへ話が飛んだが、そんなことを考えさせられた。
<関連>
人を殺すとはどういうことか
「倒れた奥さんは『ロアール』の前に仰向けになり、痛い痛いと苦しんでいたいので、“すぐ助けが来るからね”と声をかけてあげました。幼稚園の子は仰向けに倒れて苦しがり、お腹から腸が飛び出して、それを両手でつかんで身をよじっていました。お母さんはその横に倒れて、何かを訴えているようなので、“お子さんはだいじょうぶよ”と声をかけてあげたら、そのとたんに動かなくなりました。診療所の先生はバギーに乗ったまま倒れている赤ちゃんを介抱していましたが、“まもなく死ぬ”といわれ、赤ちゃんはボクシングをするような恰好で両手を前に突き出し、目を開いて口惜しそうな顔をしていました」
白昼凶刃―隣りの殺人者
昭和56年6月17日、歩行者6人を次々と刺し、4人を殺害した川俣軍司(本書内では川本軍平と記載されている)の生い立ちから犯行、裁判の結審までを追いかけたルポである。自分の子どもがちょうど3歳と1歳、妻が29歳で、被害者とまさに同じような家族構成であるために他人事とは思えず、胸が痛む話であった。妻子3人を失った会社員は、若くして父母を亡くし、兄弟姉妹もいなかったため、幸せな家庭に憧れていたそうだ。ようやく手に入れた幸せな家庭生活を踏みにじられ、その後しばらくは酒浸りで体調を崩し、
「この家に居れば妻や子が居る気がして、部屋で子どもとフザけっこする夢を見る」と洩らし、行き先を明かさずに引っ越しをしたようだ。
逮捕後、犯行方法を確かめるため、警察署で婦人警官を被害者に見立てて再現させたところ、川俣は冷静に再現してみせた。たいていの被疑者は罪の意識にとらわれて手足がすくむそうだが、川俣は平然とやる。それがあまりにも真に迫っているもので、襲われる役の婦人警官が逃げ腰になるほどだったという。
こんなことをしておきながら、警察には、
「殺す意志はなかった、俺が刺したらたまたま死んでしまった」
というようなことを言ってのける。遺族でなくても腹立たしい言い分だが、遺族であれば気も狂わんばかりになるだろう。
死刑を免れて無期懲役で結審した後、川俣は弁護士らに控訴したいと言い出した。二名の弁護士は必死になってそれを止めた。すると川俣は数日考えた後に控訴を取り下げることにする。そして弁護士に、
「今度こそ家庭をもって幸せになりたい。でもお勤めは無理でしょう。誰も雇ってくれないだろうから。……、いや、世の中には物好きがいるから、俺のことを使ってくれるかもしれない」そんなことを饒舌に語った。
「先のことはともかく、今は罪の償いをしなさいよ」
弁護士にそうたしなめられて、川俣はこう言った。
「だから、模範囚になれば、早く出所できます。十年も経てば出れるから」罪の償いとは何だろう?
模範囚とはどういう意味だろう?
刑務所で大人しく過ごすことが罪を償うということなのか?
ふと、神戸連続児童殺傷事件の加害者である「元少年A」を思い出した。彼が事件をネタに本を出版したりホームページを作成したりして、遺族の心情を逆なでし続けているにもかかわらず、「元少年A」という匿名で守られていることに違和感と腹立たしさを抱く人は多いだろう。これに対し「法に則った処罰を受けて、罪は償ったのだから」という意見もある。
人を殺した罪を償うということは、そういうことなのだろうか?
俺は違うと思う。
そして、法的に処罰しても罪の償いができない人間には、それ相応の社会的処罰が必要だとも思う。「元少年A」に関して言えば、それは実名と顔写真の公開だろう。
本書の話とは無関係なところへ話が飛んだが、そんなことを考えさせられた。
<関連>
人を殺すとはどういうことか
2015年9月18日
僕の父は母を殺した
小学校6年生の時に、実父が実母を殺した。
事件当初は、母が酔った上での溺死と思われた。父と二人で支え合いながらの二年間を過ごし、そして父は著者の目の前で詐欺容疑にて逮捕される。それからしばらくして、テレビニュースで父が母を保険金目当てで殺人したという情報を知ることになる。

著者は父を激しく憎み、それから何年もの間、万引きやバイク泥棒と素行は荒れ狂い、自殺未遂も繰り返した。そしてついに、自らの前進のため拘留中の父と会う決意をする。
父と直接に話し、手紙をかわし、著者は裁判では認められなかった「父にとっての事実」を知る。しかし、だからといって、「裁判では認められなかったが、父の言い分のほうが真実だ」とは主張しない。あくまでも「父の話」であり、周囲はともかく自分はそれを信じる、と明言するに留めている。そして、父が高裁で死刑判決を受けた後も、なんとか死刑を免れるように手を尽くす。
「死刑に反対というわけではない。ただ、自分は加害者家族であると同時に、被害者遺族でもある。そして自分のように、被害者遺族が死刑判決を望まない、そんなケースもあるのだということを伝えたいだけ」
そういうふうに著者は語る。
本のカバーに顔も含めた全身の写真を使い、実名を明かしたうえで、こういったことを主張していくのは相当に勇気が必要だっただろう。また不利な扱いを受けることも多かっただろう。それでも著者は腹をくくって、表舞台で堂々と自分の考えを訴えている。
冗長さもなく、スッキリとまとまっており、時おり涙ぐまずにはいられなかった。
どうにもショボい「元少年A」とは大違いである。
事件当初は、母が酔った上での溺死と思われた。父と二人で支え合いながらの二年間を過ごし、そして父は著者の目の前で詐欺容疑にて逮捕される。それからしばらくして、テレビニュースで父が母を保険金目当てで殺人したという情報を知ることになる。
著者は父を激しく憎み、それから何年もの間、万引きやバイク泥棒と素行は荒れ狂い、自殺未遂も繰り返した。そしてついに、自らの前進のため拘留中の父と会う決意をする。
父と直接に話し、手紙をかわし、著者は裁判では認められなかった「父にとっての事実」を知る。しかし、だからといって、「裁判では認められなかったが、父の言い分のほうが真実だ」とは主張しない。あくまでも「父の話」であり、周囲はともかく自分はそれを信じる、と明言するに留めている。そして、父が高裁で死刑判決を受けた後も、なんとか死刑を免れるように手を尽くす。
「死刑に反対というわけではない。ただ、自分は加害者家族であると同時に、被害者遺族でもある。そして自分のように、被害者遺族が死刑判決を望まない、そんなケースもあるのだということを伝えたいだけ」
そういうふうに著者は語る。
本のカバーに顔も含めた全身の写真を使い、実名を明かしたうえで、こういったことを主張していくのは相当に勇気が必要だっただろう。また不利な扱いを受けることも多かっただろう。それでも著者は腹をくくって、表舞台で堂々と自分の考えを訴えている。
冗長さもなく、スッキリとまとまっており、時おり涙ぐまずにはいられなかった。
どうにもショボい「元少年A」とは大違いである。
2015年9月8日
安保法案に興味がある人であれば立場を問わず読んでおくべき一冊 『メディア・コントロール―正義なき民主主義と国際社会』
安保法案というと、賛成派でも反対派でも、多くの人が「アメリカ」の存在を意識すると思う。ではそのアメリカが、どういう外交戦略をとり、実際にどういうことをしてきたのか、ということを真っ正面から指摘して突っ込んでいるのが本書。著者は現代における知の巨人とも言われるノーム・チョムスキー。

2001年9月11日のテロ以前は、あまり深く考えることもなくアメリカ礼賛主義であったが、その後の対テロ戦争という大義と、アフガニスタン爆撃やイラク攻撃などを見て、アメリカはちょっと危ない国なのではないかと感じ始めた。素晴らしいところがたくさんあるのは確かだと思うけれど、どうもそれだけじゃないぞ……、という警戒感。
一般人を巻き込んだテロへの報復が大義として成り立つのなら、アメリカの首都ワシントンだって他国から報復攻撃を受けるだけの充分な資格があるではないか。ベトナムを見よ、ハイチを思い出せ、アフガニスタンやニカラグアやパナマでやったことをふり返れ。というのが、これまでアメリカがやってきたことを「大義」という色眼鏡をつけずに見据えたチョムスキーの、ちょっと過激だが、確かに一理あると思わせる意見。
今のところ、俺は安保法案に対して消極的賛成派だが、本書は賛成か反対かに関わらず、安保法案に興味がある人であれば立場を問わず読んでおくべき一冊だろう。平和憲法云々の議論は置いといて、アメリカと超親密な蜜月関係を築いて保つことが本当に良いことなのかどうか、考えさせられること請け合いである。
2001年9月11日のテロ以前は、あまり深く考えることもなくアメリカ礼賛主義であったが、その後の対テロ戦争という大義と、アフガニスタン爆撃やイラク攻撃などを見て、アメリカはちょっと危ない国なのではないかと感じ始めた。素晴らしいところがたくさんあるのは確かだと思うけれど、どうもそれだけじゃないぞ……、という警戒感。
一般人を巻き込んだテロへの報復が大義として成り立つのなら、アメリカの首都ワシントンだって他国から報復攻撃を受けるだけの充分な資格があるではないか。ベトナムを見よ、ハイチを思い出せ、アフガニスタンやニカラグアやパナマでやったことをふり返れ。というのが、これまでアメリカがやってきたことを「大義」という色眼鏡をつけずに見据えたチョムスキーの、ちょっと過激だが、確かに一理あると思わせる意見。
今のところ、俺は安保法案に対して消極的賛成派だが、本書は賛成か反対かに関わらず、安保法案に興味がある人であれば立場を問わず読んでおくべき一冊だろう。平和憲法云々の議論は置いといて、アメリカと超親密な蜜月関係を築いて保つことが本当に良いことなのかどうか、考えさせられること請け合いである。
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