2019年6月28日

精神科医がみたホームレス 『漂流老人ホームレス社会』


著者はホームレス支援のNPO法人「TENOHASHI」の代表であり、精神科医でもある。精神科医としての視点で、特に精神疾患に着目して、ホームレスの高齢者について語られている。

あれこれ考えさせられることが多く、大いに感銘を受けたし、著者の活動を尊敬もするのだが、良くも悪くも「大都会・東京の話だな」というひねた感想も抱いてしまった。東京は、人口に比べれば福祉が足りないのかもしれないが、ド田舎では福祉が「足りない」のではなく「ない」。一般的にいって「足りない」は「ない」よりマシである。田舎にホームレスがいないのは、福祉や支援が充実しているからではなく、そもそも東京のようには福祉も支援もないからだろう。炊き出しもない、シェルターもない、残飯を漁るような店もない。そんな田舎でホームレス生活はできない。

ド田舎の愚痴はさておき、本書で一番考えさせられたのが、精神疾患のある人を受け容れてくれる総合病院が少ないという話。「精神科医がいないから対応できない」と言われてしまうのだ。そして、その逆に、救命センターなどで治療を受けた精神疾患患者を精神科病棟へ転院させようとすると、精神科は「身体の合併症管理ができない」という理由で渋る。こうして患者さんは宙ぶらりんにされてしまう。

精神疾患は、関わる人の冷静さを少し奪う。精神疾患を敬遠する人からだけでなく、支援する側の人からも冷静さを奪うので、互いにヒートアップしやすい。こういう状況はホームレス問題と違って、都会だけに限った話ではない。ド田舎の総合病院の中でも日常茶飯事で、身体科医と精神科医、身体科病棟と精神科病棟が、それぞれの得意・不得意分野をめぐって、押したり引いたりしている。

冷めた目と一歩引いた態度も大切だよな、なんてことを考えさせられた。

2019年6月27日

ホメオパシーとプラセボと悪魔と魔術師 (後編)

悪魔は自らの名前を知られると、魔術師に服従しなければならない。

世の中には人を不安にさせる正体不明のものがある。これに名前をつけることで人は少しだけ安心する。さらに仕組みや正体を知ることで、そういう不安は人に「服従」する。例えば原因不明の熱や痛みは苦しい上に不安だが、病院で診察を受けて病名がつくと、たとえ熱や痛みがそのまま変わらなくても少しだけ安心できる。これは一般の人にとって、「病名がつく」=「原因が分かる」=「対処法がある」と思えるからだろう。(※)

精神科の診察室でも、病気ではないと判断して「病名はありません」と告げるとガッカリした表情をする人がいる。「この悩み、この辛さ、この苦しみが病気でないのなら、いったい何なんだ!?」という不安や憤りや失望があるのだろうし、「性格傾向や生活習慣の問題」とは考えたくないという心理もはたらくだろう。いずれにしろ、病名を欲しがる人は少なくない。

まるで魔術師が悪魔の名前を知って服従させようとするのと同じだ。というより、「得体の知れないものに名前をつけることで安心する」という人間の性質が、メタファー(隠喩)として悪魔と魔術師の関係になったのだろう。

ところでその逆、つまり「安心感を与えるもの」に名前をつけるとどうなるのだろうか。典型例が偽薬「プラセボ」であるが、これはあまりに広く認知されてしまっており、患者は「あなたが与えられたのはプラセボです」と言われた途端に効果を感じなくなるだろう。この「プラセボ」に巧妙な化粧を施したものがホメオパシーである。患者は「あなたが与えられたのはプラセボです」と言われても、「いいえ、そんなインチキではありません。ちゃんとホメオパシーと“名前のついた”治療です」と反論するだろうし、プラセボ効果は簡単には消えない。

同様に、ほぼ全ての代替医療において「名前をつけた」ことは意義深い。名前がなければプラセボとも言えないただのオマジナイだったものが、名前を持つことによって効力を発揮するようになったのだ。少なくとも一部の信心深い、あるいは騙されやすい人にとっては。

前後編のまとめとして思うのは、論文の著者・板村論子先生は一般精神医学で充分に多くの患者を救えるだけの人柄精神療法を身につけていらっしゃるのだから、よりによってホメオパシーなんかに手を出されなくとも……といったところである。精神医療界は、貴重な人材をあっち側にとられてしまったのだな、きっと。


※実際には原因不明の病名もたくさんあり、原因が分かっていても治療法・対処法がないことも多々ある。

<関連>
ホメオパシーとプラセボと悪魔と魔術師 (前編)
プラセボ薬の凄さ



ホメオパシーとプラセボと悪魔と魔術師 (前編)

ホメオパシーでうつ病を治した、という論文が『精神科治療学』の2015年5月号に載っていた。その中でも、「おい、これはないだろ!」とツッコミを入れたくなった部分を紹介する。

患者は36歳の男性で、意欲低下と集中力低下を訴えている。うつ病の診断で多剤による治療を行なわれていたが良くならない。そこでホメオパシーに期待をかけて、論文筆者のもとへ来院した。

男性はこの時点で休職中なのだが、療養態度がひどい。
ビールが非常に好きで1日1000ml以上、ワイン1本、昼から飲酒している。
おいおい……、休職中だろ……。俺ならこの時点で、うつ病の診断は一旦保留にし、何よりもまずアルコール依存症だと告げて断酒を勧める。仕事を休んで好きな酒を昼から飲むなんて、仮に本当にうつ病だとしてもこんな生活で病気が治って復職できるはずがない。

この男性はホメオパシー薬(Aurum sulphuratum 30Cを1日1錠 ※本文末で補足説明)の治療を開始してから順調に回復していったようだが、これは本当にホメオパシー薬の効果なのだろうか? 論文筆者はホメオパシーについて概ね以下のように書いている。

ホメオパシーでは疾患そのものを治療対象とはせず、診察では病気の人を全体的に理解し、病気の人の全体像を一つのパターンとしてとらえる。

こんなキレイごとはホメオパシーに限ったことではなく、どんな治療学の本にも書いてある。試しにこの文章の「ホメオパシー」を「精神科」に置き換えれば、数多の精神科テキストの巻頭の言葉として何度も目にするようなものである。ただし、実際にこの理想を現場で常に実践する(できる)こととは別の問題であるが。

では何が効いてこの男性が回復したのかというと、それはきっと理想をキレイごとで終わらせず、日々の診察で真摯に実現・実行しようとする先生の人柄であろう。これを精神科では皮肉っぽく「人柄精神療法」とも言うが、ここには多かれ少なかれ敬意も混じる。そしてこうした真面目な先生なのだから、ほぼ間違いなく断酒するなどの生活指導もしているはずだ。

つまりホメオパシー薬が効いたわけではなく、ホメオパシーの理念を丁寧に実行された先生という「人薬」が男性の人生の立て直しを支えたのだ。では、ホメオパシー薬はまったくの無力だったのかというとそうでもない。プラセボとしての効果は充分にあったはずだ。

このあたりが次回の話になる。


※Aurum sulphuratum 30Cを1日1錠。この「30C」についてだが、1Cとは成分の入った溶液を「100倍希釈」したという意味で、「30C」はそれを30回繰り返したということだ。つまり「100の30乗」(10の60乗)に薄めたものということ。「10の60乗」というと、1mlの成分を薄めるのに地球上の海水でも足りない(詳細は各自調査・計算されたし)。ウンコまみれの下水や福島の汚染水ですらここまで薄めればまったく無害である。つまり中身はただの水で、飲み過ぎなければ副作用もない。ちなみに飲み過ぎた場合の副作用も成分とは無関係で水中毒だ。

<関連>
ホメオパシーとプラセボと悪魔と魔術師 (後編)

2019年6月25日

幼女を殺した14歳の少年は、どう裁かれるべきなのか 『人間狩り』


社会的な問題提起、ミステリ、テンポのバランスがとれた良作。少年法関連の小説では薬丸岳が優れて面白いが、本作は少年法だけでなく、現代的制裁である「加害者へのネットリンチ」も加味してストーリーが進められており、とても面白かった。

登場人物のキャラはいずれも「他の本で見たことあるなぁ」という凡庸なものだが、それでこれだけの物語を紡げるのだからすごい。

読みながら、酒鬼薔薇聖斗や『心にナイフをしのばせて』の少年Aを思い出したが、巻末の参考文献に同書が挙げたったので納得した。

2019年6月24日

血液検査をオーダーすることのある医師なら必読! 『ぶらなび 血液疾患診療ナビ あなたが診ても、ここまでわかる!』


血液検査の結果はかなり客観的である。あとはそれを正しく「読む」ことができるかどうかにかかっている。そして、数値を読むためにはセンスや経験以上に、知識と心がけが求められる。

本書は、
疾患頻度を意識して、フツーの開業医が毎日のように遭遇している、ありふれた血液疾患や血液学的プロブレムの、まっとうな扱い方を指南する
ことをコンセプトにしてある。したがって、「試験によく出るが、実際の疾患頻度はかなり低い」病気ではなく、プライマリで出会う確率の高い病気をメインに扱ってある。

例えば、検査で赤血球が増加している場合。喫煙者の赤血球増加症の98%は喫煙そのものが原因であり、真性赤血球増加症の頻度は1%以下である」という知識を重視し、まずは「smokers’ polycythemia」の可能性から考えるべきだ、と指南する。

また各項目に『Clinical Bottom Line 最低限これだけは』というのがあり、例えば貧血では、
貧血患者を診たら、まずMCVと網赤血球を「読む」
と強調してある。また、それぞれの病気については「患者さんのマネジメント」「こんなとき専門医へ」「患者さんへの説明ポイント」といった項目もあり参考になる。

身体的な病気がなくて精神科だけに通っている患者にとって、精神科医はプライマリケア医の役目も少し担わなければならない。血液検査は薬物血中濃度や副作用チェックのために定期的に行なっているので、こういう本で分かりやすく勉強できたのは幸いだった。

ちなみに、血液検査を読むときの「心がけ」は何かというと、常に「過去の結果」もチェックする習慣を保つことである。本書にもたびたび「過去の結果と比べよ」と出てくる。

2019年6月21日

断酒に関する自己評価の甘さについて

「酒をやめて、もう1年くらいです」

カルテを確認すると、3ヶ月入院し、退院して7ヶ月。つまり、確かに10ヶ月は酒を飲んでいないが、それは決して「1年くらい」ではない。
また、10ヶ月のうち3ヶ月は入院なので、社会生活での断酒は7ヶ月。

このように、断酒の自己評価は甘くなりがちである。

これは架空の一例であるが、このような自己評価をしている人は非常に多い。
「やめて、もう半年になる」と言っても、精神科での入院期間を除けば3ヶ月。その前に内科で入院治療を受けた期間も引けば2ヶ月ちょっとにしかならないということもある。

こういう自己評価をする人には、
「退院してからをカウントしましょうか」
そんなふうに伝えるが、
「飲んでいない期間」=「やめた期間」
と考えている人には、そう簡単にはしみこまない。

「飲んでいない期間」「やめている期間」「回復してからの期間」はそれぞれ別ものである。入院という環境のもとでなく、自らの意思で断酒しているのが「やめている期間」であり、酒を必要としない生きかたを再発見したときからが「回復してからの期間」と言えよう。

これを、どのタイミングで、どんな雰囲気で、どういう言い回しにして伝えるか。そういうことに創意工夫をこらすのが、精神科医という仕事の醍醐味である。

2019年6月17日

あなたも俺も、誰もがなりえる「加害者家族」 『家族という呪い 加害者と暮らし続けるということ』


加害者家族についてのルポではあるが、冒頭に紹介されている強姦事件での加害者の思考の壊れっぷりが際立っていて、むしろそちらが印象に残ってしまった。
強姦犯の告白
「裁判で、香奈さんが言ったんです。事件は一生忘れることができないって。この瞬間、確信しました。香奈さんは僕のものになったって」
刑務所の面会室。大沢良太(三十代)は、アクリル板の向こうで目を輝かせながら、事件当時のことを語った。
頭をガツンと殴られたような、天地がひっくり返るような、発想の転換というか、思考の反転というか、かなりぶっ飛んだセリフに吐き気を催す。

この加害者・良太が、結婚を思い立った経緯もすごい。
それでも、会社で香奈を見かける度に憧れは強くなるばかりで、良太は密かに情報を集めようとしていた。あるとき、香奈に関するとんでもない噂を耳にした。香奈が部長と不倫をしているというのだ。
良大は、会社の飲み会で、なんとか香奈の隣に座る機会を作り、事実を確かめようとした。
「部長って、俺たちにとつては近づきがたい存在だけど、伊藤さんはよく話してるよね?」
「もしかして、私たちのこと疑ってます? 噂されてるって聞きましたけど、間違いですよ」
良太は胸をなで下ろした。
私は、社内恋愛はしたくないんです。部長は結婚しているし、絶対そういう関係にならないからこそ仕事の話をしやすいんです」
良太はこのときふと、自分も結婚してみようかと思った。香奈以外の女性に興味はなかったが、香奈からいつまでも彼女すらできない男だと思われたくなかった。
他者をいったいなんだと思っているのだ、この男は……。そして、妻となった女性は、被害者に近づくための存在として利用されてしまう。
良大は半年後、同僚の尚美と結婚した。同期の中では最も早い結婚だった。
「尚実にとって、僕は悪い条件ではないと思ったんです。彼女はこれといったキャリアもないし、早めに寿退社した方が彼女にとってもいいと思いました」
良太は結婚後、新居を、香奈の自宅がある最寄り駅の隣に決めていた。良大は、自宅が近所だという理由で香奈に近つく機会を増やせると思ったのだ。しかも妻の尚美は香奈の先輩だ。いくらガードが堅い香奈でも、先輩の夫である自分を疑うことはないだろうと考えた。あわよくば、自宅に入れてもらえるチャンスがあるかもしれないと想像するだけで、興奮を覚えた。
こんな加害者・良太だが、取材に対しては泣き崩れたようだ。ただし、まったくもって共感できないような理由であり、反省なんて微塵も感じられない。
「後悔はしてません。ああするしかなかった……」
良大はそう言って、泣き崩れた。それが良太の本心だった。
「もちろん、強引なことはしたくなかった。いや、もし、香奈さんと一緒に働けるなら、それでよかった。急に会えなくなるなんて、どうしても耐えられなかった。僕のこと、どうしても忘れてほしくなかった……」
良太はそう言いながら泣きじゃくっていた。裁判では、「反省している。一生かけて償う」など、ただ通り一遍の謝罪ばかり繰り返していたが、本当に被害者に伝えたかったことは何だったのか。
「香奈さんを、愛していたということです。これまでも、きっとこれからも……」
事件後、良太は拘置所で謝罪文として何通もの手紙を被害者の香奈宛てに書いていたが、その内容はすべて謝罪というより愛の告白であり、弁護人から不適切だと言われ被害者に送られることはなかった。

この強烈なケース以外にも、思わずため息が漏れるようなものがいくつも紹介されていた。

「加害者と暮らし続けるということ」という副題がついてはいるが、離婚したケースも多く、ちょっとタイトルと中身がズレたかなという印象。でも、面白かった。

2019年6月14日

虐待からの生還、援助、負の連鎖 『シーラという子 虐待されたある少女の物語』


トリイ・ヘイデンという女性が実際にどのような療育をしているのかは分からないが、「語り」という点については一流である。

随所で語られる彼女の思想は、実際に対人援助という分野で働く人たちには大いに参考になるだろう。たとえばこういう文章(太字下線はブログ主)。
シーラがどうして紙に書くことを恐れるようになったのかはついにわからなかった。後に彼女と再会して話したときに、それが失敗を恐れることと関係があるのではという私の考えが正しいことを彼女が認めたことはあった。だが、ほんとうのところはわからなかった。また知る必要もそれほど感じなかった。というのも、私は人間の行動は、そんな単純な因果関係で説明のつくものばかりではないと思っていたからだ。
精神科診療でも、「なんでこういう行動をしたのか」「どうしてこうなったのか」といった問いが、家族から、スタッフから、あるいは本人から、そして時には医師自身のなかからも出てくる。そういうとき、トリイのこの言葉を思い出すようにしたい。
「人間の行動は、そんな単純な因果関係で説明のつくものばかりではない」

本書の主人公シーラから、トリイと恋人のチャドが本当の父母だったら良いのに、と言われたときのトリイの返事が素晴らしい。
「トリイがお母さんで、チャドがあたしのお父さんだったらいいのにって思ってるんだ」
(中略)
「それよりいいんじゃない? 私たち、友達だもの。友達って親よりいいわよ。だって友達だってことは、私たちは、そうしなければならないからじゃなくて、自分たちがそうしたいと思っているから、愛し合っているんですもの。自分たちで友達になろうってことを選んだわけだから」
こういうことを恥ずかしがらず言い合える友だちはいるだろうか?(俺は何人かいる)

シーラを愛していながらも虐待してしまう父について、トリイが感じたことにも強く胸を打たれた。
いつの間にか彼を好きになっていた。そして同情の念がこみあげてきた。犠性者はシーラだけではないのだ。彼女の父も彼女と同じだけの気遣いを必要としており、またそうされるだけの資格を持っているのだった。かつて痛みからも苦しみからも決して救われることのなかった小さな少年がいて、それがいま一人の男性になっているのだった。ああ、そういう人に気配りをしてあげるだけの充分な人間がいたら、無条件に愛してあけるだけの人かいたらーーー私は悲しい思いでそう思わずにはいられなかった。
「虐待の連鎖」「負の連鎖」という言葉で語られることではあるが、こういう眼差しで親を支援する人たちが増えれば、連鎖を弱めていくことができるはずだと信じている。

最後に、トリイの信念めいた一文が胸に残ったので記しておく。
人が人に与えられるもので思い出ほどすばらしいものはない。

2019年6月13日

これからアルコールより深刻な問題になりそうな「ゲーム依存」

アルコール依存よりゲーム依存のほうが、これから深刻になるだろう。
アルコール自体は「ハマる」ことを目的に作られたものではないが、ゲームは「ハメる」ことを目的に改良を重ねられているから。ネットが普及する前は、発売後にプログラムの修正ができないので「クソゲー」があったが、いまは顧客動向をみながらハマるよう修正できる。

ゲーム依存はこれまで未知だった病気で、HIVが発見されたときと同じような偏見(「AIDSは同性愛者の病気」みたいな)にも晒されるだろう。日々ハマるように開発・改良を重ねられているのだから、だれもが罹りえる病気であるにもかかわらず。

特に子どもがゲームにハマるのは当然のことである。なぜなら大人のプロ集団によって「ハマるように作られ、ハマるように改良され続けている」ものだから。
だからといって「ゲーム依存は子どもの病気、あるいは精神的に子どもな人がなる病気」というのは、まさに偏見。大人もハマる。実際、60代の同僚内科先生もハマったらしい。

ネットゲームは、やったら、やらせたら、まず間違いなくハマる、と思っておくほうが良い。アルコール以上に「適度」が難しく、それなのに何歳からでも始められる。こんな怖いことはない。

これは俺の予想だが、ネットゲームでも「ABテスト」をやっているのではなかろうか。ある一つの要素だけを変えたA群とB群の更新プログラムを配信し、どっちがよりハマるか、課金するかを調べ、改良していく。ネット広告ではすでに当然のように行われている手法で、安価かつ効果的なようだ。同じゲームをやっていても、隣の人とはある要素だけ少し違っているかもしれない。


ゲーム依存について勉強するために読んだ本。まだ歴史の浅いスマホゲーム依存についての本なので、ちょっと物足りなさは感じた。

2019年6月11日

ピクサーを陰で支えた人による思い出 『PIXAR 世界一のアニメーション企業の今まで語られなかったお金の話』


ピクサー初の長編映画『トイ・ストーリー』が公開される少し前に、同社の最高財務責任者として就任した著者の立場から語られるピクサーの歴史。

スティーブ・ジョブズ、ジョン・ラセター、エド・キャットムルたちとともにピクサーを一流有名スタジオへと押し上げていく過程で生じる金銭トラブルを中心に描かれており、アニメの話はあまり出ないが、お金の話もジョブズらとの逸話もとても興味深く面白かった。

ジョブズはピクサーにもっと冷淡だと思っていたが、彼なりに愛情があったんだろうなぁ、なんて思いながら読んだ。

CG映画についての記述が面白かったので、少し長めだが引用しておく。これからCG映画を観るとき、こういう視点があると興味深さが増すだろう。
課題のひとつが、 文字どおり観客が目にするものすべて、 細かな点まで作り込まなければならない点だ。空について考えなくても実写の映画は作れる。 屋外で撮影すれば、そのときの空が映るからだ。背景のビルや樹木も、あるがままでいい。樹木には葉もついているだろう。その葉っぱを揺らす風も吹いていたりするだろう。だから、実写なら、背景に映り込む木の葉っぱについてあれこれ考える必要はない。だがアニメーションの世界には、空も樹木も葉も、もちろん、葉っぱを揺らすそよ風もない。なにも描かれていないコンピューターのスクリーンがあるだけだ。そこになにかを描きたいなら、こういうものをこう描けとコンピューターに命令しなければならない。
さらに難しい課題もある。現実世界で光や影はあって当然の存在だ。だから、「あそこに影があるのはなぜだ?」とか「壁のこっちには光が当たっていてあっちに当たっていないのはなぜだ?」と考えたりしない。ところが、ポートレートや写真で光の当たり方や影のでき方に少しでもおかしなところがあれば、すぐにわかる。違和感を覚えるのだ。だが、コンピューターアニメーションの世界には光も影もない。すべて作り込まなければならない。
ごくありふれたもの、たとえば肌はもっと大変だ。実写では、せいぜい化粧に多少気を遣うくらいで、特に問題となるポイントではない。肌は肌なのだから。これを描くとなると話はまるで違ってくる。色合い、体毛、しみ、しわ、風合いなどが微妙に違うし、そこに光が当たるとどうなるかも表現がとても難しい。だれも気にしないニュアンスだが、そこを無視するとものすごい違和感が生まれる。そういうデイテールのない肌は「色のついたゴム」 にしか見えないとエドは表現する。

2019年6月6日

スタッフへの暴力が発生した場合の対応マニュアル

このマニュアルは、「マニュアル通りにやれば良いもの」ではなく、「マニュアル以外のことに気持ちやこころをまわす余裕をつくるためのもの」である。過不足あるかとは思うが、そういう職場、立場で働く人の参考になると幸いである。

『職員への暴力が発生した場合の対応マニュアル』
  1. スタッフが暴力を受けたと報告があったら、医師はなにをおいてもすぐに駆けつける。
  2. 事態が鎮静化していたら、受傷者と個人面談。その際、聞き取りは場所を移す。決して慌ててその場で行なわない。
  3. 面談は、受傷者を診察室に呼び出すのではなく、医師が迎えに行く。
  4. 受傷時の状況を聴く前に、まず必ず診察。ケガの有無、重症度の確認、必要があれば検査オーダー。身体診察が終わるまでは、「受傷したスタッフ」ではなく「受傷者」であると強く意識する。
  5. 「大丈夫ですか」の一言が受傷者を慰撫する。
  6. 受傷者は多くの場合「自分が悪い」と考えがちである。このため、「いかなる場合も暴力は許されず、暴力を受けたことは決してあなたの落ち度ではない」ということを繰り返し伝える。
  7. 以下を説明し、受傷者を帰宅させる。診察・検査費用は労災、個人負担なし。年休ではなく病休となる。諸手続きは後日で構わない。(これは職場によっては、そうもいかないかもしれない)
  8. 受傷者“以外”のスタッフへのディエスカレーション(昂ぶった気分や感情へのケア)を行なう。これは案外に忘れがち。暴力事故があった場合、受傷者以外のスタッフも動揺・狂騒状態にある。直近の休憩時間や帰宅前に、スタッフとまとまった時間を共有する。
  9. 受傷者“以外”のスタッフへのディエスカレーションでは、「怖い」「許せない」など感情が吐露されることが多い。これらはすべて、評価・裁定せず、傾聴に努める。「薬が足りないのでは?」「隔離が必要では?」といった疑問や意見に対しては、その場で議論しない。
  10. もっとも忘れがちなのが、チームリーダーである自分自身のディエスカレーション。方法は各自で模索。

繰り返しになるが、マニュアルは「マニュアル通りにやれば良いもの」ではなく、「マニュアル以外のことに気持ちやこころをまわす余裕をつくるためのもの」である。

マニュアルがあるからこそ、臨機応変が可能になるのだ。

2019年6月4日

「見る野球」より「読む野球」 『敗れても 敗れても 東大野球部「百年」の奮戦』


プロ野球も甲子園も興味がもてず、もちろん観戦もしない。ところが、野球選手を追いかけたノンフィクションは面白いのでよく読む。

本書は東大野球部に焦点を当てたノンフィクションである。読んでいて胸が熱くなる。東大戦術とでも言おうか、とても興味深い話もあった。たとえば「とにかく遠くに飛ばすバッティング」。東大がランナーを得点圏内に進めると、ピッチャーは厳しく攻めてくる。結果として残塁で終わってしまう。だから得点圏内にいないランナーがホームインできるよう、とにかく「かっ飛ばす」という作戦。非常にナルホドと思う。そういえば『弱くても勝てます 開成高校野球部のセオリー』にも似たような話があった。弱者の戦法は、医師や患者が病気と向き合ったり戦ったりするときの参考にもなる。

「見る野球」より「読む野球」。
これが、本好きな自分の野球との関わりかた。