2018年7月31日

イギリスの一流脳外科医が、自らの失敗も含めて赤裸々に語る優れた臨床エッセイ 『脳外科医マーシュの告白』


外科医というものは、患者さんが回復し、わたしたちのことをすっかり忘れたとき、ようやく責務をはたすことができる。手術が成功すれば、どの患者さんも最初は心から感謝する。だが、いつまでも感謝するようであれば、なにか根本的な不調が治っておらず、患者さんが将来またわたしたちのお世話になるかもしれないとおそれているからだ。(中略)患者さんが自宅に戻り、日常生活を取り戻し、二度とわたしたちのことを必要としなくなるときにこそ、外科医は成功を実感する。
脳外科医ヘンリー・マーシュによる臨床エッセイで、自身の失敗についても正直に、赤裸々に告白されている。脳外科医に限らず、他科の医師が読んでも得ることの多い本である。

印象的なエピソードを一つ紹介する。毎朝のミーティングでの一コマで、若手医師が新患のプレゼンをしている。患者は事故で前頭骨を骨折している。頭蓋骨は脳の中に陥没し、脳は出血している。
「この脳画像は重度の脳損傷を負っていることを示している」わたしはそう説明したあと、彼女に尋ねた。
「予後はどうだろう」
「よくありません」と、彼女が答えた。
「よくありませんとは、どの程度、よくないんだろう?」と、私は尋ねた。「50パーセント? 90パーセント?」
「回復する見込みもあります」と、彼女が言った。
「まさか! 前頭葉が両側ともつぶれているんだぞ。事故前の状態に回復する見込みはまったくない」(中略)
「でも、ご家族は治療を望まれるはずです。選ぶのはご家族ですから」と、彼女が言った。
きみがご家族にどう話すかによって、ご家族の判断は変わってくるのだよと、わたしは説明した。
「『手術をおこない、損傷を負った脳の部位を摘出すれば、生き延びることができるでしょう』ときみが言えば、当然、ご家族は手術を希望なさる。だが『手術したとしても、患者さんがまた自立した生活を送れるようになるのはまず無理です。生き延びたとしても、重度の障害を負うことになるでしょう。はたしてご本人は、そうした状態で生き長らえることを望まれるでしょうか?』と言えば、ご家族はまったく違う対応をする。そもそも前者の説明は『四肢麻痺になったあともゆきとどいた介護ができるほど、あなたは患者さんを愛していますか?』という問いかけを暗に含んでいる。だから、そんなふうに尋ねられれば、いやおうなく、ご家族にはほかの選択肢がなくなり、手術を希望することになる。包み隠さず事実を説明し、ご家族とつらい会話をするよりも、手術をするほうが楽だからだ。こうして手術をおこなったあと、患者さんが生き延び、退院していけば、きみは手術が成功したように思うかもしれない。ところが、何年かたってから患者さんと再会したとき、手術が人為災害をもたらしたことを思い知るのだ、わたしはこれまで何度もそういう体験をしてきた」
精神科では、強制的に入院させた患者の興奮が激しい場合などに、保護室という部屋に外から鍵をかけて隔離することがある。そういうとき、家族から、
「面会に来たほうが良いですか?」
と尋ねられる。家族にしてみれば、無理やり入院させたうしろめたさがある。それと同時に、状態の悪い患者を病院に連れてくるまでの期間で疲労困憊もしている。そんな家族に対し、
「ご家族が会いたいと希望されるなら、面会してもかまいませんよ」
そう答えてしまう医師がいる。これは上記のマーシュ医師の言葉と同じで、
「保護室に入れられた患者さんに面会に来るほど、あなたは患者さんを愛していますか?」
という問いかけを暗に含んでいるのだ。そう言われたら、家族は面会に来るしかない。あるいは「面会に来ない」という選択肢を、うしろめたさを抱えながらすることになる。だから、俺は主治医の権限として「面会謝絶」であることを伝える。家族には、胸を張って、堂々と、休んでもらう。

一流の脳外科医であるマーシュ医師と同列に語ってはおこがましいが、家族の精神的な負担を減らすことは、どの科の医師にも共通して求められる配慮だろう。

引用した部分からも分かるように、医療職でない人が読んでも充分に理解できる内容であり、とてもエキサイティングな読書になるはずだ。

2018年7月30日

“矛盾との折り合いのつけ方にこそ、その人の個性が発揮される。” 精神療法や心理治療のヒントがいっぱい! 『生きるとは、自分の物語をつくること』

超有名な心理療法家・河合隼雄と『博士の愛した数式』の著者・小川洋子との2回にわたる対談をまとめたもの。

河合隼雄に対しては反発を抱く人もいるようだが、こういう心理関係の軽い本は、正解集ではなくヒント集くらいの感覚で読むのが良い。そもそも心理の世界で「完全な正解」というのはないのだろうし。

さて、ヒントになるような話を抜粋しながら紹介する。
河合 距離のとり方って、人によって違うんです。例えば自閉的な子供さんだったら、時々あるんですが、話してると急に「2+3=8」とか言うてくるんです。そういう時に「うん、そうやね」言うてしまったら、ものすごい機嫌悪くなるんです。
つまり、それはこっちが真剣に聞いてないということでしょう。「そうや」言うのは、何でもええからそう言うてるわけですからね。だから、パッと「5や」て言うんです。「答えは5よ」て。そこでパッと塀ができて、それでその子は「あ、僕は僕で、こいつはこいつ」と境界ができるんですよ。

小川 そのほうが安心なんですね、その子にとっては。
(※河合の語りを小川が聴いているところで、小川の質問や合いの手は省略している)
「2+3=8」なんて、そんなこと本当に急に言ってくる子がいるのかな、という疑問はあるものの、この話から得られるヒントは確かにある。実話にしろ創作にしろ、そういうヒントになるエピソードを出せるところが河合隼雄のすごさである。

小川洋子の以下の語りには深く頷かされた。
人は、生きていくうえで難しい現実をどうやって受け入れていくかということに直面した時に、それをありのままの形では到底受け入れがたいので、自分の心の形に合うように、その人なりに現実を物語化して記憶にしていくという作業を、必ずやっていると思うんです。(中略)
臨床心理のお仕事は、自分なりの物語を作れない人を、作れるように手助けすることだというふうに私は思っています。
これに続いて、物語と「患者を了解すること」について。
小川 質問する側が納得したくて、何か言ってしまう。

河合 そう、質問する側が勝手に物語を作ってしまうんです。下手な人ほどそうです。「三日前から学校行ってません」て言うと、「三日か。少しだね。頑張れば行けるね」とか。これから百年休むつもりかもわからないのにね(笑)

小川 「もう少し頑張れば行ける」という、こっちの望む物語を言ってしまうわけですね。

河合 人間というのは物事を了解できると安定するんです。(中略)了解不能のことというのは、人間を不安にするんです。そういう時下手な人ほど、自分が早く了解して安心したいんです。相手を置き去りにして、了解するんです。 
最後に、小川洋子の作家らしい名言を引用しておく。
矛盾との折り合いのつけ方にこそ、その人の個性が発揮される。
分量の少ない本で、あっという間に読み終える。Kindleでは389円。分量と釣り合った良い本。

2018年7月28日

平常業務は60%全力投球!?

若い先生を指導する立場にあったときは、
「日常業務は60パーセントの力でやれ」
と言ってきた。これは、「トラブル発生時のための余力(緩衝材)を用意しておけ」ということであるが、同時に「平時の日常業務くらいは60パーセントの力でこなせるようになろう」という叱咤激励でもある。

「平時の日常業務は60パーセントの力で」って、少なくない!? それって、サボってない!?

そう感じる人もいるだろう。

みんな、自分の仕事を思い出してみよう。丸一日まったくなんのトラブルもないということは、きっとほとんどないだろう。60%を意識していても、小さなトラブル(ある程度の予測がつき、経験も活かせる)への対処でたいてい70%から80%は力を使っているものだ。だから、80%を意識して仕事すると、知らず知らず100%近くを出してしまっていて、すでに余裕はない。この状態で中等度以上のトラブル(予期しない、経験が活かせない)が発生すると、混乱やフリーズに陥る。

60%全力投球。

みなさん、これ覚えておきましょう。

2018年7月27日

ちょっと肩すかしを喰らってしまったドイツ小説 『禁忌』


「わたしたちは自分の罪に耐えられない。他人のことは許せる。敵のことも、裏切った者のことも、嘘をついた者のことも。しかし自分自身となると難しい。どうしても許せないものなんだ。自分を許すことには挫折する」
ドイツの刑事弁護士でもある小説家シーラッハによる長編小説。これより前に発表された短編集2冊がとても素晴らしかったので、今度は長編を読んでみることにしたのだが……、ちょっと肩すかしを喰らった感じ。

なにかが起こりそうで起こらない前半を過ぎ、中盤から後半でグググーッと惹きつけられ、
「さすがシーラッハ!」
と絶賛したものの、最後の最後であらら? 

Amazonレビュー的には☆3つ。

ただ、被疑者取り調べのありかた、その際の拷問が許されるのかどうか、被疑者を弁護することについてといった法的な話になると、やはり「さすがシーラッハ!」という筆力と説得力であった。こういう部分を読めただけでも価値ある読書時間ではあった。

2018年7月26日

精神科医が『大きなカブ』を読み解く(なんちゃって)

「うんとこしょ、どっこいしょ、それでもカブはぬけません」で有名な童話『大きなカブ』は、最後にネズミが加わって抜ける。

おじいさんやおばあさん、孫や犬やネコといった大きな力を合わせてもびくともしなかったのに、ネズミが加わって抜けるのは「ネズミが一番強いから」ではない。

成功・失敗を決めたように見える最後の一押し(または一抜き)が、全体における最大要因というわけではないのだ。

たとえばの話。

「ちょっと怒られたくらいで出社しなくなった」
「あれくらいのことで学校に来なくなるなんて」
「そんなことで離婚を切り出されるとは」

この「ちょっと怒られた」「あれくらいのこと」「そんなこと」が、『大きなカブ』のネズミにあたる。ネズミが手伝っただけでカブが抜けたのと同じで、結果に至るまでの過程にはネズミ以外の大小さまざまな要因が関わっているはずなのだ。

子どもに『大きなカブ』を読ませて、
「だれが一番力持ちでしょう?」
と質問したとする。ネズミと答える子は、きっとごく少数だろう。

最後の一押しが最大要因というわけではない。

『大きなカブ』は、そんなことを伝える物語なのだ。

ホンマでっか!?

2018年7月24日

“医療者の究極の目標とは、あれこれ言っても結局のところ、よい死を迎えさせることではなく、今際の際までよい生を送らせることなのだ。” 名著、ときどき珍訳 『死すべき定め 死にゆく人に何ができるか』


前半は老衰と施設での余生、後半は癌を主軸とした終末期医療について。それぞれ患者や家族へのインタビューとエピソードをもとに語られ、「死にゆく人」に対して医療や福祉、家族はなにをできるのかを考察してある。

今日の医療のありかたを例え話として述べている部分が印象的である。全滅を恐れず突撃していく将軍としてカスター将軍、勝ち取れる領土と降伏すべきときを見極められる将軍としてリー将軍を挙げたあと、こう言う。
今日、医療がやっていることはカスター将軍でもリー将軍のやり方のようでもない。今、増えている医療者のやり方は、行進を続けている兵士に「止まりたいと思ったら、そのときは私に教えてくれ」と命じるような将軍と同じである。
このたとえでは、兵士とは患者のことである。医師の判断をまったく示すことなく、「治療をやめたいと思ったら、いつでも言ってください」という丸投げを批判している。

著者のガワンデ先生は、自分が関わった患者だけでなく、自身の父親がガン治療を受ける姿も見ながら、終末期医療というもののありかたを考える。そして、こう語る。
医療者の究極の目標とは、あれこれ言っても結局のところ、よい死を迎えさせることではなく、今際の際までよい生を送らせることなのだ。
自分自身、お世話になった人が二人、ガンで他界している。ともに60歳前後。積極的に治療や生活に関与できるような立場になかったため、自分にできることはほとんどなかった。それは分かっていても、その気になればもう少しなにかできたのではないかという後悔のようなものが胸をかすめるときもある。

「死にゆく人に何ができるか」

この問いは、医療者だけでなく、みんなが考えていかなければいけないものでもある。


さて、本書の内容はとても素晴らしい。さすがガワンデ先生である。ところが、訳にチンプンカンプンなところがある。一部は日本語としてさえおかしい。翻訳者あとがきを読むと、なんと大学で中国史を勉強している息子に下訳をやらせたとある。

おいおいおいおい!!

どうりでひどい訳が散見されるわけだ……。

2018年7月23日

数学が好きで、かつ『シンプソンズ』もある程度知っている人なら楽しめるはず 『数学者たちの楽園 「ザ・シンプソンズ」を作った天才たち』


『フェルマーの最終定理』『暗号解読』『代替医療解剖』『宇宙創成』と、これまで読んだサイモン・シンの本はどれも知的好奇心を刺激され、また満たされもした。

本書もこれまで同様ではあるが、数学的なことに関して言えば『フェルマーの最終定理』『暗号解読』のほうが詳しく書いてある。また、本書では過去の数学者たちの逸話についても触れてあるが、それも上記二冊のほうが断然詳細に述べてある。

となると、本書にしかない価値はなんなのか。

それはTVアニメ『シンプソンズ』の脚本を手掛ける数学マニアたちの生い立ちや考えかた、それから彼らがアニメの中に仕掛けた数学ネタの指摘や解説だろう。ところが、このうち前者についてはあまり詳細には記載されていない。また後者については、そこそこ面白いのだが、シンプソンズをほとんど知らない者にとってはイマイチ入りこめない。

数学が好きで、かつ『シンプソンズ』もある程度知っている人なら楽しめる本だろう。数学が好きなだけなら、本書よりは『フェルマーの最終定理』をお勧めする。

これまでのサイモン・シンの本に比べると、ちょっと物足りなかった。彼の邦訳本はすべて文庫化されているが、本書はおそらく文庫化されないんじゃなかろうか……。

2018年7月20日

患者と医療者の隙間を埋めるための入門書 『不確かな医学』


原題は『The Laws of Medicine』。本文に従って訳すなら「医学の法則」だが、著者はそれを「不確かさ」「不正確さ」「不十分さ」にまつわる法則であると述べる。邦題は、その意を汲んで『不確かな医学」とされたのだろう。

本書に述べられている法則は3つ。

1.鋭い直観は信頼性の低い検査にまさる。
2.正常値からは規則がわかり、異常値からは法則がわかる。
3.どんなに完全な医療検査にも人間のバイアスはついてまわる。

この法則だけを読むと、医学教育を受けていない人は「え?」と思うかもしれない。もしかすると、医療に完璧を求めるような人たちは、本書を読んでもピンとこないかもしれない。医療者なら、ほぼ全員が(残念ながら全員ではない)著者の主張を理解できるだろうし、深く共感できるはずだ。

有名TV番組『TED』の講演をもとに作成された本で、とても読みやすく、分量も少ないので短時間で読み終えてしまい、読み応えとしては少し物足りない。

2018年7月19日

面白かったのに、結局なんだかよく分からん小説 『旅のラゴス』


名作という評判だったので読み始めたところ、面白いのに、なんだかよく分からないままエンディングを迎えてしまって、結局これが名作なのか駄作なのかの評価もくだせないような読後感を抱いている。

俺の感覚を裏付けるように、Amazonレビューでも評価がかなりバラついている。賛否両論という本はけっこう見かけるが、本書のレビューのように星5つから星1つまでが一定割合いるものは珍しい。

とにかく、なんだかよく分からないまま面白かった。

2018年7月17日

「安楽死」について考えるための最初の一冊 『安楽死を遂げるまで』


スペインで、安楽死を認めない家族の反対を押し切り、第三者を介して安楽死を遂げたケースがある。ラモン・サンペドロは25歳のときに頚椎損傷から四肢麻痺になった。ラモンはずっと死ぬことを望み、その希望を社会的に公言してきた。そして55歳のとき、第三者であるラモナという女性の手を借りて安楽死(実際には「安楽」ではなく悶え苦しんだようだが)を遂げた。サンペドロの兄ホセとその妻は、それから20年近くが経った現在も、ラモナのことを恨み、許していない。どんな状態であっても「生かすことが愛」と信じ主張する老夫婦。そんなホセに著者が尋ねる。
あなたがもし、寝たきりで、死にたいのに死ねないのであれば、どうしますか?
一瞬、沈黙が流れる。ホセが数秒後に口を開く。
「俺は安楽死を選ぶ」
その意味が、一瞬、私には分からなかった。安楽死は良いというのか。ラモナは犯罪者扱いしたホセが、安楽死を選ぶというのか。ホセが、また怒声を上げて叫んだ。
「俺はいいんだよ。だけど、ダメなんだ。家族だけはダメなんだよ!」
矛盾を自ら告白している。しかし、私の心にはまっすぐに刺さってきた。頑固な兄として、時には、中傷を浴びてきたホセという男の、いかにも人間臭い言葉だった。
なんて自分勝手で、だけど正直で、そしてなんと共感できる言葉だろう。実際、自分も同じような立場になれば、同じように考え、同じことを言うのかもしれない。

日本での安楽死について、生命倫理学を専門とする鳥取大学医学部の准教授・安藤泰至の言葉も考えさせられる。
「安楽死は『死は自分の私的な事柄なのだから自分で決めるべきだ』(死の自己決定権)という思想に支えられていますが、日本では自らの生き方すら自分で決められていません」(中略)「死ぬ時だけ自己決定が大切というのは、話が逆ではないでしょうか」
著者は安楽死への賛成・反対の両方への取材バランスを意識し、患者自身や医師、家族へのインタビューも試みている。安楽死の現場にも立ち会っている。あれこれ悩みながら取材を進めていく姿勢に共感し、好感を抱く。

安楽死、あるいは尊厳死についてなにか本を読んでみようと思うなら、まずは読みやすくてバランスのとれた本書を勧める。そこからもっと深く学びたければ、巻末の参考図書を読んでみると良いだろう。

2018年7月13日

「あなた=病気」ではありません。

わたしは「うつ病です」「躁うつ病です」「アルコール依存症です」「統合失調症です」。

違います。

「あなた=病気」ではありません。

あなたは、うつ病、躁うつ病、アルコール依存症、統合失調症を「抱えている」のです。

このことに気づいたり再確認したりすることで、本人も家族も治療者もグッと気持ちが楽になり、それはきっと回復への近道にもなる。

コンビニの仕事は簡単!? ライン工場は!?

患者さんや家族から、簡単な仕事の代表のように「コンビニ店員でもやって生活」みたいな言葉が出るたび、いやいや実はめちゃくちゃ大変な仕事ですよ力説している。

たいていみんな「バーコードをピッピッとやって袋詰めする仕事」くらいにしか思っておらず、入荷時検品、品出し、公共料金、配送、調理、清掃、クレーム処理、その他のことをまったく知らない。

幅広い業務と臨機応変さを求められるコンビニ店員という職業には敬意を抱いている。これはまぁ、自分もコンビニで長くバイトしたという身内びいきも入っているのだが。

なにはともあれ、精神科に来る患者さんたちにコンビニ勤務は絶対に勧められない。

ライン工場で働いたこともあるが、単調さに嫌気がさして一日で辞めた。簡単と言われる仕事も、向き不向きはかなりある。そういえば同じ工場に、九大の文学部大学院に通うTさんという先輩がいて、彼は、
「手だけ動かしておけば、頭の中は自由に使える最高のバイトや」
と言っていた。

それから5年後、医学部に入ったあとに教養の授業で再会。Tさんは言語学の講師になっていて、俺は偶然にTさんの授業をとったのだった。ライン工場で働きながら自由に使った頭で博士論文を書かれたのかもしれない。授業の中身はサッパリ分からなかった。

ライン工場では一日しか働いていないので、あまりたいそうなことは言えないが、他者とのコミュニケーションが最小限で済み、臨機応変さをあまり求められず、コツコツまじめにやれば評価される、という点で、何人かには勧めている。

自分が未来で精神科医になるのだということを知っていれば、もっといろいろな職業にトライしていたかもしれないと思う、と同時に、俺は怠け者だから、精神科医になることが分かっていたらノンビリ生きてしまったかもしれないとも思う。

2018年7月12日

医療において「患者の没個性化」は必要なときがあるが、それがあらゆる場面に及び始めると危ない……

医療では、患者一人一人が異なる個性をもった個人であることを忘れてはならないが、それぞれを没個性化しなければやれないような治療も多々ある。

手術はその最たるもので、滅菌ドレープをかけて術野以外を見えなくするのは、もちろん清潔のためではあるが、同時に没個性化の手段の一つでもあるだろう。もしも技術が大いに進歩し、滅菌ドレープなしでも清潔が保たれるようになったとしても、おそらくほぼすべての外科医が「手術台に乗せた裸の人を切る」ことには抵抗を感じ、ドレープを用いて術野のみが見えるようにするはずだ。

この没個性化は患者だけに当てはまることではない。

引き続き手術を例にすると、もし私服で手術ができるようになっても、多くの外科医は「血液が付着するから」という理由以外でも、私服での手術に抵抗を感じるだろう。ガウンや白衣やスクラブは、医療者を没個性化する手段でもあるのだ。

余談ではあるが、精神科医には私服で仕事をする人たちも多い(自分も一時期だけ試してみた)。これは「『個性ある私』があなたに向き合う」という強烈なメッセージになりえるので、状況によってはマイナスになることもあるだろう。

さて、医療者は必要に迫られてとはいえ「患者を没個性化している」ことについて、ときどき考えるべきなのかもしれない。没個性化して挑む治療を意識すればこそ、それ以外の場面で個々人を尊重する意識も芽生えるというものだろう。
ただ漫然と「医療は個々人を尊重」とお題目を唱えていてはダメなのだ。

医療者による患者の没個性化が最悪のかたちで出たのが、大口病院事件の斜め上から飛び出した「寝たきり高齢者の実情を知ろう」問題だろう。敢えてきれいごとフレーズで言うなら、

「寝たきり高齢者」という人はいない。そこに寝ているのは「銀行員であった志村さん」であり「戦争寡婦で子ども3人を育てあげた加藤さん」であり「天涯孤独で生き抜いた高木さん」なのだ。

ところが、患者の没個性化があらゆる場面で無意識になってしまうと、このように個々人の名前がはぎとられてしまい、「寝たきり高齢者」「天井を見つめるだけ」「胃ろう」「医療費」「年金」などの単語を用いて一括りに語られることになるのではなかろうか。

大口病院事件で、安楽とは真逆の方法で尊厳を奪われながら殺された人たちについて、それぞれの人生が多少なりとも語られ、それらを知ったとき、それでも「この機会に寝たきり高齢者の実情を知ろう」なんて言えるのだろうか。

もし言えるとしたら、医療者としては避けられない「患者の没個性化」という病いが、末期状態にあるのではなかろうか。

2018年7月11日

親近感を得るための話法

人は何かしら共通点のある人に親近感を抱く。趣味、出身地、母校、職歴や職業、性別や年齢などはもちろんのこと、名前が似ているということすら親近感の材料になる。
そこで、初診から数回目までは共通点探しを意識し、見つけたことを会話の中にさりげなく散りばめる。これは良好な関係構築に役立つ。

診察時のこの会話法は、患者さんから親近感を抱いてもらうのにはもちろん有用だが、やってみると分かるように、実は「自分が患者さんに親近感を抱く」ことに大きく貢献している。

初診では、診察前に予診票を見ながらあれこれ考えつつ、患者さんとの共通点、親近感を抱いてもらう会話のキッカケになるようなものを探しておく。

些細な共通点が、大きな親近感のキッカケになることがあるので、援助者はいろいろなことを体験したり知識として持っていたりすると役に立つ。

余談ではあるが、こういう会話法を知っていると、営業マンといわれる人たちが意識的にか無意識か、共通点をあれこれ話すことに気づく。
「わたしも~」
「うちの子も~」
「実はわたしの母も~」
互いに親近感を抱くことが大きなメリットになる関係なら良いが、そうでない場合は、親近感話法には要注意。

2018年7月10日

タイトルのインパクトに負けない内容で、本好きでなくても楽しめるはず! 『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』


内向的で、本とサブカルに支えられた中学・高校時代を送った著者。夫との別居をキッカケに、出会い系サイト「X」で出会った人に「合いそうな本を勧める」という少し変わった活動を始める。そうやって知り合った人たちと語ったり遊んだりするうち、著者は「働きかた」も含めた「自分の生きかた」のようなものを発見していく。

と、こう書くとなんだか陳腐に見えてしまうが、実際にはグイグイ引きこまれて、プッと吹き出したり、「うーん」と唸ったり、自分だったらどうするだろうかと考えさせられたり、非常にエキサイティングな読書体験だった。

サブカル好きだった著者はヴィレッジヴァンガードに憧れて入社するが、その後に発展していくヴィレヴァンの「広く浅く、人気キャラグッズも売る」みたいな展開に違和感を抱く。そして結局は退社してしまう。そのときの気持ちを綴った文章を読みながら、
「俺が好きだった怪しげな店ヴィレヴァンが、いつの間にか子ども向けのおもちゃ屋になったように感じたのは、間違いではなかったのか!」
著者と本を通じて握手したような気がして嬉しくなった。

平成30年5月時点で、著者はHMV&BOOKS HIBIYA COTTAGEの店長をされているとのこと。また、ツイッターもされている(@hanadananako)。

2018年7月9日

【大口病院事件】 同業者はあの容疑者の気持ちが分かるのか!?

あの容疑者に対して同業者から「気持ちは分かる」「分からなくもない」という意見が出ていることに驚く。

本当に分かるのか?
分からなくもないのか?

俺は違うだろうと思う。

まったく別の感情を同じのものと勘違いして、「分かる」「分からなくもない」と感じているのではないか。

「自分のシフトでは亡くならないで欲しい」と「自分の次のシフトで是非とも死んで欲しい」とはまったく別物である。ところが、これを同じものと勘違いして人がいるのではなかろうか。

前者は医療者として理解できるが、後者は人としてまったく理解できない。そして、報道によると容疑者の動機は後者のようである。

これを混同したまま「分かる」「分からなくもない」と発信すると、発信者が誤解を受けて損するし、医療・介護業界も変な目で見られることになる。

改めて強調する。

「自分のシフトでは亡くならないで欲しい」と「自分の次のシフトで是非とも死んで欲しい」とはまったく別物である。

そしてもし、「自分の次のシフトで是非とも死んで欲しい」という気持ちも分かる気がするのなら、いますぐにでも職を替えたほうが良い。

それは患者さんのためであり、あなた自身のためでもある。

全盲者の生活や苦労に思いをはせつつ、読書を楽しめることに改めて感謝する 『ブラインド探偵(アイ)』


事故で全盲となってしまった35歳の男性が主人公。

視覚障害者の生活や苦労が物語に自然と織り込まれていて、グランドソフトボールサピエ図書館など新しい知識も得ることができた。著者自身が視覚障害者で、サピエ図書館を利用して本を読み、いや、聴き漁り、自らも小説を書いてみようと思いたったとのこと。視力を失うことで聴力が発達するという話と同様、著者は全盲になることで小説家としての素質が刺激されたということか。

タイトルに「探偵」とあるが、本格ミステリではなく、とてもシンプルなストーリーで、肩の力を抜いて読めるライト・ミステリ。テンポが良くて、日本語が丁寧なので、放り出すことなく読了。

<関連>
盲人用信号機について

2018年7月6日

「他山の石」として、あれこれ考えさせられる 『精神科病院で人生を終えるということ』


酷評します。

83歳、意思表示のできない寝たきり女性。この人に胃ろうを造ったというエピソードがある。家族に説明し、家族が希望したので、というのが理由かもしれないが、胃ろうを選択肢として提示して説明する時点で誤りではないかと思う。

「家族にすべての選択肢を提示するのが医師の義務であり、それをしないのは説明義務違反だ」という信念や、「家族の選択する権利を尊重しなければならない」という信念をもつ人もいるだろう。あるいは「のちの訴訟トラブルを予防するためにも、こういう説明と提示はしておく必要があるのです」というのなら、それも一つの信念だろう。そういう信念のもとでの行動であれば、受け容れられる。ところが、そんな俺の気持ちを逆なでするように、こんな記述が出てくる。
一応弁明しておきますが、僕が無理やり勧めたり、強く誘導したわけではありませんよ。
なんだそりゃ……。そんな弁明を、誰に対してしているんだよ。
「胃ろうを選んだのは僕ではありません、家族です」
こんな弁明を書く必要があるのだろうか?

こういう弁明をしながら胃ろうを提示することも、医師の説明義務であり、「家族の選択する権利を尊重」するためには必要なことなのだろうか?

俺はこの記述を読んで、「患者さんにとって良かれと思って選択肢を提示している」わけではなく、「まったく良いなんて思っていないことを選択肢として提示している」ように感じてしまった。ここで提示された家族が「しない」と選択したら、家族は「自分たちが見殺しにした、命を縮めた」という罪悪感を抱かないだろうか。

著者は俺より一学年上の精神科医(ほぼ同世代と言って良いだろう)である。本書を読みながら、研修医を終えて1年目、精神科病院で勤務していたときのことを思い出した。

ある日、中年の入院患者さんが心肺停止に陥った。当時50歳くらいの主治医が家族に連絡すると、到着まで心肺蘇生をして欲しいと希望された。到着見込みは40分後……。延々と心臓マッサージするも反応はまったくなし。ようやく家族が到着しても、主治医が蘇生中止を指示しないので、それから15分くらい胸を押し続けた。その間、家族はずっとその場にいた。

そして、ついに主治医が家族のそばまで行って耳打ちした。
「かれこれ50分以上、心臓マッサージをしていますが、反応がありません……」
そう説明するところまでは良かったが、次の一言に呆れた。
「どう……します?」
家族は涙でぐしょぐしょになった顔で、蘇生の継続を希望された。

主治医は数分おきに家族に確認した。
「どう……します?」

蘇生処置を続けるか中止するか。それを主治医から「どうします?」と聞かれて「やめます」と答えられる家族なんているのかよ!!

俺は腹の中で怒り狂いながら心マしていたが、何度目かの「どうします?」にとうとう我慢できず、
「先生、もう……」
と声をかけて首を横に振った。そして、そこでようやく中止が指示された。

こんなやりかたは間違っていると強く思った。蘇生処置を続けるかどうかは、家族ではなく医師が決めるべきだ。そうでないと、家族は「自分たちが諦めたから死んだ」と自責することにならないか。

あのときの思い出が甦り、やり場のない鬱憤がこのレビューの原動力になっている。


胃ろうや終末期医療について考えるとき、テーマははっきりと二つに分けられる。
一つは「いま考え話し合える『わたし』や『あなた』が、将来どうしたいか」。そしてもう一つは、「いま認知症などで意思表示ができず、今後も回復の見込みがない寝たきりの人への胃ろうなど、選択肢を提示すべきかも含めて、どう考えるか」だ。

ところが、この二つはゆるやかに話題がすり替わっていくことが多く、「認知症の人への胃ろうをどうすべきか」といったテーマで話していたはずなのに、最終的に「わたしたちは元気なうちに話し合っておかなければいけない」なんて結論で締められることがよくある。

いま目の前にいる患者さんの治療をどうするかと、将来わたしやあなたがどうありたいかとは、本来は分けて考えるべきなのだ。「将来わたしはこうありたい」から「この患者さんにもそうしてあげる」というのなら同時に語るのも良いだろうが、その考えは決して正しいわけではない。ともすれば「同意なき安楽死」という独善に走る恐れもある。

もちろん、わたしやあなたの「終末期医療をどうしたいか」を考えておくのは非常に大切だ。ただ、これまで意思表示をしてこず、いま意思表示ができない認知症状態にある人への終末期医療をどうしたら良いか、家族にどう提案すべきか、あるいは提案しないのかは、まったくの別問題なのだ。

胃ろうに限らず、家族への、
「○○すれば、あと数ヶ月は命が延びる」
という選択肢の提示は、その選択肢を選ばなかった人に、
「『あと数ヶ月』を奪い縮めた」
という強烈な罪悪感を植えつけないか、そんな危惧がある。

「医師はすべての選択肢を提示すべき」という考えや姿勢は否定しない。そう考える医師でも、おそらくそれぞれの知識や経験や人生観に基づき、選択肢の「重みづけ」をして提示しているはずだ。そういう重みづけなしで、すべてを等しく紹介し「お好きなものをどうぞ」という「丸投げ」をする医師もいるかもしれないが、同僚としても患者や家族としても近づきたくない。

ところで、「選択肢として胃ろうを提示しない」ことへの批判のうち極端なものに「神さまでもない医師が、その人の命を決める権利があるのか」というのがある。この言いかただと、提示されて選択を迫られる家族は「神さまの役目」を負わされることにならないのだろうか。家族には「神さまの役目を担う権利」があるのだろうか。これはまぁ、あくまでも「神さま云々」という「極端な批判」についての反論である。

そういう極端なものは別として、「医師が選択肢を提示しない」なんておかしい、という批判はたくさんある。

そのとおりかもしれない。

しかし、たとえば重度の認知症で寝たきりの人であっても、胃ろうは必ず家族に提示するという医師が、人工心肺や透析や、その他あらゆる「やれば命が延びる」ものを提示しているのかどうか(※人工心肺や透析などについて専門的な知識はないので、あくまでも「延命治療」の例え話と考えてください)。

胃ろうは提示するが、人工心肺までは提示しない、という場合、それは「医師が選択肢を提示しない」にはあたらないのだろうか。

家族の希望と納得が一番大切、という人もいる。では、意思表示できないほどの認知症で寝たきりの高齢者について、家族が、
「現代医学で可能な限り徹底的に、一秒でも長く延命する治療をして欲しい」
と希望した場合はどうだろう。胃ろうはもちろん、その他の治療(?)も、費用や機材のことを無視して、徹底的にやるべきなのだろうか。家族の希望にそって、何時間でも心肺蘇生をすべきなのだろうか。

「家族が希望しているのだからやるべきだ」
そう疑問なく考えて、徹底的にやってしまうのが一番楽かもしれない。しかし、おそらくたいていの医療者は疑問を抱いて葛藤する。
「コレもやるべきなのか?」「ココまで必要なのか?」

そしてここで、胃ろうの問題に立ち返る。

この空想の中で問題となるコレやココという治療(?)と、胃ろうとを分けるものは、いったい何だろう?

費用なのか、侵襲性なのか、手間暇なのか、「一般的かそうでないか」という曖昧な基準なのか。

ぐるぐると分からなくなってくる。

ホスピスや在宅医療やターミナルケアを専門にしているわけではない。だから、そういう分野を専門にされている先生に比べれば、経験数が圧倒的に少ない。その限られた経験のなかで、寝たきり認知症の人の家族に対して、「選択肢としての胃ろうを提示」したことはない。

もちろん、胃ろうについて、まったく話題に出さないかというとそういうわけではなく、
「胃ろうという方法もあるにはあるが、まったく勧めない」
という触れかたをする。

誤解されたくないので書いておくが、「胃ろうはすべて悪い、反対」という思想信条はまったくない。本人や家族を説得してでも胃ろうを造らせるほうが良いときだってあるだろうと思う。

さて、最後に「倫理」とはなにかについても頭を抱えてみる。

本書に、身寄りがおらず、意思表示もできない高齢患者さんの終末期治療について、病院内の倫理委員会で話し合いをして、「胃ろうは造らない」と決定した話が出てくる。もしもこの人に家族がいて、選択肢として胃ろうを提示して、希望があって胃ろうを造ったとする。これだと、命の分かれ目は家族の有無ということにならないか。それはそれで仕方のないことなのだろうか。

まったく同じ状態の人でも、家族がいれば胃ろうを造るかもしれず、家族のいない人は倫理委員会で造らないと決まる。その乖離はやむをえないこと、なのだろうか。院内の「倫理」委員会で胃ろうを「造らない」と決定するような状態の患者さんに、家族がいたら胃ろうを提案し、家族が希望すれば胃ろうを造る。ではこの「倫理委員会」の「倫理」とは、いったいなんなのだろうか。


こういうことをあれこれ考えさせる本ではあったが、あくまでも「他山の石」としてである。


ただし、本そのものは「精神科病院での看取り」という、これまで光の当たらなかったところを取りあげていて、一定の価値はあると思う。著者の臨床姿勢、特にレビュー冒頭に引用した弁明に強い反発を抱くので、それが影響して星は2つにしている。


それから、出版社には文句を書いておきたい。ネットで連載したものをまとめて、ちょっと加筆修正して書籍版3780円はとんでもなく高い。新書で1000円くらいの本である。

2018年7月5日

内省的な小隊長のベトナム戦争 『プラトーン・リーダー 歩兵小隊のベトナム戦争』


ベトナム戦争で小隊長を務めた筆者による戦闘記録。まるで映画を観ているかのような描写力と、映画では表現されない殺伐とした現実と、怒り悩み内省する筆者の内面とが、絶妙に配合された名著だった。

一節を紹介しよう。
四人のベトコンが死んで横たわっている。敵の死体をながめることは不気味な衝撃だ。(中略)敵兵の死体が転がる光景を見たこの瞬間、私には強烈な歓喜が走ったのだ。
この奇妙な感情は、安堵から生まれたものでもある。(中略)
敵の誰かが倒れて、こと切れて横たわっているとしよう。パックリと傷口の開いたその死体は、彼の勇敢な戦いなど無意味だったと言わんばかりだ。それを見る者は、道徳だの何だのではなく、安堵で自分を励ますのだ。“ああ、よかった。死んだのはこいつで、俺じゃないんだ”(中略)
安堵の感情は一回一回の場面を生き長らえたという喜びの気持ちに変化していき、自分が生き残るための代償は敵の死とイコールだと思いこむ。殺すか、殺されるかの毎日のうちに、ついには敵の死の光景を見ると、条件反射的に喜びを感じるようになるのだ。自分が生きているのだという証を確認するために、相手を殺すことに夢中になるのだ。
『「戦争」の心理学』で紹介されていた本。独善的で内省の感じられない『アメリカン・スナイパー』に比べると、分量は少ないながらも深く濃密な記述に引きこまれてしまった。

最大の難点は誤字が多すぎること。「私」とすべきところが「秋」になっていたり、「鈍重」が「純重」になっていたり、かなり絶望的な誤字のオンパレード。そのあまりの多さに星1つ減点だが、それでも星4つ。中身は非常に素晴らしい一冊。

2018年7月3日

「戦争」についてだけでなく、一般の人にも役立つ知識が多く、子育てにも夫婦関係にも応用できる考えかたが散りばめられていて、ぜひとも読んでみて欲しい一冊 『「戦争」の心理学 人間における戦闘のメカニズム』 


前著『戦争における「人殺し」の心理学』がとても面白かったので、続編ともいえる本書を読んでみた。やはり非常に良い本で、兵士や警察官に限らず、精神科医の仕事にも活かせる内容であった。

精神科病棟は戦場ではないけれど、スタッフが患者から暴行を受けることは珍しくない。そういうとき、チームリーダーとしてどう対応すべきなのか、そして、その後にチームとしてどういうことをするべきなのか。

アメリカの兵士や警察官は「危機的事件後報告会」というミーティングを行なうそうだ。ここに関係者が集まって事件について語り合うことで、互いに欠けている記憶を補い合う。事件現場ではみんな興奮しており、それぞれで見えているもの、覚えているものが違っている。そして、各自がみな「自分のせいだ」と思いこんでいることが多い。記憶を補い合うことで、「みんなの責任だ」「いや、誰のせいでもなかったのではないか」と互いに確認し、傷ついた仲間どうしで支え合う。本書ではこれを、「苦しみの共有は、苦しみの割り算だ」と表現している。

また、誰かが殺されたり被災したりしたのを目撃した人は、

「あれが自分ではなくて良かった……」

とホッとする。これは真っ先に起こる正常な感情であり、その後、その「ホッとした」ことに自己嫌悪や罪悪感を抱く。だから、「ホッとするのが当たり前」だと伝えるだけで、目撃者の精神的な苦痛は大いに緩和される。

これ以外でも、一般の人に役に立つ知識が多く、子育てにも夫婦関係にも応用できる考えかたが散りばめられていた。『戦争における「人殺し」の心理学』とあわせて、ぜひとも読んでみて欲しい一冊。