外国で飛行機が堕ちましたニュースキャスターは嬉しそうに実際に「嬉しそうに」言っているキャスターなんて見たことないが……。それは置いといて、これ、多くの人の解釈が、「キャスターの人間味のなさ、それを受け入れている日本人の薄情さを嘆いている」という感じで、外国での事故がニュースになると、必ず何人かはSNSでこの歌を取り上げる。
「乗客に日本人はいませんでした」
「いませんでした」「いませんでした」
僕は何を思えばいいんだろう
僕はなんて言えばいいんだろう
こんな夜は 逢いたくて 逢いたくて 逢いたくて
君に逢いたくて 君に逢いたくて
また明日を待ってる
確かに、この歌の主人公はニュースキャスターの言動に違和感を感じているようだ。「もっと人類全体を見ようよ」みたいな。「日本人が乗っていなけりゃ、それで良いのかよ!!」みたいな。「そんな日本人で良いのかよ!!」みたいな。熱い男って感じがする。だけど、その後、彼はどうなるか。
「君に逢いたく」なるのだ。
決して、そういう報道姿勢に対して抗議電話するなんて行動はとらない。ただひたすら、「逢いたくて」の連呼。作詞者の正確な意図は分からないが、俺にはこの歌、
「頭でっかちな社会批判をするくせに、結局のところ、実際の行動は自分の些細なことで精一杯じゃん」
という風に聞こえる。そして、そういう精一杯さって、俺も含めて多くの人がそうなんじゃないかな。かつて、大学の哲学の教授が、
「人に刺さったナイフよりも、自分に刺さった針のほうが痛い。そんなの当たり前だ」
と言っていたことを思い出す。だから、この『JAM』という歌は単純に、
「キャスターを批判し、社会を風刺し、日本人のメンタリティの低さを嘆いている」
というわけではない気がする。実はもっと奥深いんじゃないだろうか。
そこで思い出すのが、井上陽水の『傘がない』だ。
歌詞を全部引用する。
都会では自殺する若者が増えている構図としては『JAM』と同じだ。自殺する若者が多いとか、わが国の将来の問題とか、考えなきゃいけないことが多い。だけど今の問題は「濡れながら君に会いに行かなくちゃいけないこと」なのだ。ここでもまた、主人公は「行かなくちゃ」を連呼。「逢いたくて」の連呼と相通ずるものを感じる。
今朝来た新聞の片隅に書いていた
だけども問題は今日の雨 傘がない
行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ
君の街に行かなくちゃ 雨にぬれ
つめたい雨が今日は心に浸みる
君の事以外は考えられなくなる
それはいい事だろ?
テレビでは我が国の将来の問題を
誰かが深刻な顔をしてしゃべってる
だけども問題は今日の雨 傘がない
行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ
君の家(うち)に行かなくちゃ 雨にぬれ
つめたい雨が僕の目の中に降る
君の事以外は何も見えなくなる
それはいい事だろ?
行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ
君の街に行かなくちゃ 雨にぬれ
行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ
君の家(うち)に行かなくちゃ 雨の中を
行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ
雨に濡れて行かなくちゃ 傘がない
同じような歌で、Mr.childrenの「Loveはじめました」という歌がある。
歌詞を一部引用。
殺人現場にやじうま達が暇つぶしで群がる自分以外の人間の愚かさに「まずはお前らが死刑になりゃいいんだ」と不快感をおぼえながら、だけどまずは「中田のインタビュー」を優先させてしまう。『JAM』『傘がない』の主人公たちと、同じ感じがしないだろうか。そして、それは自分も一緒なんだという、そんな気がしないだろうか。俺はする。
中高生達が携帯片手にカメラに向かってピースサインを送る
犯人はともかく まずはお前らが死刑になりゃいいんだ
でも このあとニュースで中田のインタビューがあるから
それ見てから考えるとしようか
ある人が、日記でこんなことを書いていた。
「乗客に日本人がいなかった」という報道に噛みつく人たちは、その報道で安心する人たちの安心感さえも許せないのだろうか?
「他の国の人たちだって被害にあっているのに」
「日本人が無事なら、それで良いのか!?」
「日本人以外のことも考えろ!!」
彼らは、遠く離れた他国の住人たちへの想いはこんなにも強いのに、身近に住む日本人が安心することに対する想いが弱いのは、なぜだろう?
ニュースは視聴者に有益な情報を与えるためのツールです。
返信削除世界に目を向けるのも必要ですが、自分の恋人が、親が、息子が近隣で生活していたとしたら、視聴者である家族は、その安否が一番知りたいことで、一番のニーズなはずです。
あの手のニュースで、世界に目を~的な意見を真顔で言える人たちは、結局他人事としか感じれていないと思います。だから俺は何も言いません。