2016年5月31日

少年法とはなんだろう、更正とはなんだろう、死刑反対は本当に正しいのだろうか……? 『殺戮者は二度わらう―放たれし業、跳梁跋扈の9事件』


新潮45によるこのシリーズは、怖いもの見たさだけで読むとちょっと後悔するくらい、胸くその悪くなるような事件が扱ってある。

本書を読むと、少年法や更生という言葉に虚しさを感じてしまう。本書では、アベック殺害事件の当時に「少年」だった加害者に突撃取材をしている。取材時には30歳を過ぎている彼の言葉、態度、生き方には呆れかえるしかない。

少年法とはなんだろう、更正とはなんだろう、死刑反対は本当に正しいのだろうか……?

少年法や死刑の話題では、必ずと言って良いほど「更生できた加害者」と「そんな加害者を赦す遺族」が美談として持ち出される。それはすごく理想的な場合で、わざわざ取り上げられるくらいだから稀少なのだろう。むしろ「更生しない加害者」のほうが多いのが現実ではなかろうか。そして、そんな彼らによって殺された人たちや遺族にとって、「更生した加害者と赦す遺族」なんて理想は無意味である。

罰と更生とは別のものだ、という。罰を受けたから更生するというものではないのだ、と。だとするならば、

1.罰を受け、更生した。
2.罰を受け、更生しなかった。
3.罰は受けず、更生した。
4.罰は受けず、更生しなかった。

こういう4つの組み合わせができる。加害者や加害者支援の人たちにとっての理想は「3」で、罰なしでの更生だろう。遺族としては、せめて「1」か。どちらにしろ、更生して欲しい。しかし、このうち「4」で、罰も受けず更生もしないのなら、せめて「2」、罰くらいは受けさせたいというのが遺族感情ではなかろうか。とはいえ、「罰を受けると更生しない」なんて意見もあるから、もうどうすれば良いのか分からなくなる。

こうして考えていると、「更生」とは得体のしれない怪物のように見えてくる。

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