神経内科医(※)のハロルド・クローアンズ先生による臨床医学エッセイで、実際に出会った患者のストーリーと、医学的な考察や雑学、ちょっとしたジョークで織り成される。全部で13章から成り、邦題『失語の国のオペラ指揮者』はそのうちの一章「音楽は続く、いつまでも」に出てくる失語症の指揮者からとったものである。
クローアンズ先生の本は初めて読んだが、こんな面白い本が絶版となって世の中に埋もれているのかと、驚くやら嘆かわしいやら……、これは「もったいない」の一言では済まされない。読書家にとってだけでなく、すべての臨床家にとっても大きな損失である。というのも、本書には臨床に携わる者にとって示唆に富む言葉が多かったからだ。
不安というのは思考に奇妙な作用をする。医者はそれを心得ていたほうがいい。患者は医者の言う言葉どおりに聞いていないかもしれない。医者はつい、可能性のある病気を長々と数えあげてしまうが、そのなかには確率がきわめて低く、正しい診断がつけば捨ててしまうべきものが含まれている。これなどは、まさに現代のすべての臨床家が心に留めておかなければいけないことだろう。鑑別診断をたくさん挙げられるのは研修医として知識のある証拠ではあるが、それは指導医に対してや医局の症例検討会で披露すれば良く、いたずらに患者や家族に並べ立てるものではない。
また症例の中には、その背景も含めて推理小説も真っ青というような、「事実は小説よりも奇なり」を現実にしたような、そんなどんでん返しのあるストーリーもある。これなど読んでいて思わず鳥肌が立ってしまったほどで、実際、クローアンズ医師は小説も書いているようだ。
オリヴァー・サックス先生は先日他界したが、実はクローアンズ先生と同世代であり、また友人でもあったようだ。本書にも『オリヴァー・サックスとのランチ』という題のエッセイがあり、サックスファンにとっても興味深いのではなかろうか。
※神経内科は、よく精神神経科と誤解される。かかりつけ内科の主治医から「神経内科を受診してみたほうが良い」とアドバイスされて精神科を受診する患者がけっこう多い。これはまだ良いほうで、病院の受付けで患者から「神経内科にかかったほうが良いと勧められて来た」と言われた事務員が、そのまま精神科にまわすということがある。
クローアンズ先生の言い回しを借りるなら、医療関係者に必要なものは3つ。
教育、教育、そして教育である。
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