トリイ・ヘイデンという女性が実際にどのような療育をしているのかは分からないが、「語り」という点については一流である。
随所で語られる彼女の思想は、実際に対人援助という分野で働く人たちには大いに参考になるだろう。たとえばこういう文章(太字下線はブログ主)。
シーラがどうして紙に書くことを恐れるようになったのかはついにわからなかった。後に彼女と再会して話したときに、それが失敗を恐れることと関係があるのではという私の考えが正しいことを彼女が認めたことはあった。だが、ほんとうのところはわからなかった。また知る必要もそれほど感じなかった。というのも、私は人間の行動は、そんな単純な因果関係で説明のつくものばかりではないと思っていたからだ。精神科診療でも、「なんでこういう行動をしたのか」「どうしてこうなったのか」といった問いが、家族から、スタッフから、あるいは本人から、そして時には医師自身のなかからも出てくる。そういうとき、トリイのこの言葉を思い出すようにしたい。
「人間の行動は、そんな単純な因果関係で説明のつくものばかりではない」
本書の主人公シーラから、トリイと恋人のチャドが本当の父母だったら良いのに、と言われたときのトリイの返事が素晴らしい。
「トリイがお母さんで、チャドがあたしのお父さんだったらいいのにって思ってるんだ」こういうことを恥ずかしがらず言い合える友だちはいるだろうか?(俺は何人かいる)
(中略)
「それよりいいんじゃない? 私たち、友達だもの。友達って親よりいいわよ。だって友達だってことは、私たちは、そうしなければならないからじゃなくて、自分たちがそうしたいと思っているから、愛し合っているんですもの。自分たちで友達になろうってことを選んだわけだから」
シーラを愛していながらも虐待してしまう父について、トリイが感じたことにも強く胸を打たれた。
いつの間にか彼を好きになっていた。そして同情の念がこみあげてきた。犠性者はシーラだけではないのだ。彼女の父も彼女と同じだけの気遣いを必要としており、またそうされるだけの資格を持っているのだった。かつて痛みからも苦しみからも決して救われることのなかった小さな少年がいて、それがいま一人の男性になっているのだった。ああ、そういう人に気配りをしてあげるだけの充分な人間がいたら、無条件に愛してあけるだけの人かいたらーーー私は悲しい思いでそう思わずにはいられなかった。「虐待の連鎖」「負の連鎖」という言葉で語られることではあるが、こういう眼差しで親を支援する人たちが増えれば、連鎖を弱めていくことができるはずだと信じている。
最後に、トリイの信念めいた一文が胸に残ったので記しておく。
人が人に与えられるもので思い出ほどすばらしいものはない。
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