2017年7月10日

「イラク人のために戦ったことなど一度もない。あいつらのことなど、くそくらえだ」 政治的に大義名分を与えられて他国に乗り込む優秀な兵士は、これくらい独善的な単純バカでなければいけないということか…… 『アメリカン・スナイパー』


良質な反戦書である。その理由は最後に述べる。

海兵隊に向けて手榴弾を投げようとする非戦闘員(?)のイラク人女性を撃つシーンから始まる。

そんな衝撃的な描写に引き込まれたが、読み進めるにつれて、独善的な考えを臆面もなく語ることに苦笑を禁じえなくなった。イラク人の戦闘員を「敵」と表現するのは戦争だから当然としても、「悪者」という単語や「悪者をやっつける」という言い回しが頻出するのには驚いた(原文でどうなっているかは不明だが)。「敵にとっては、自分たちこそが“悪者”かもしれない」なんて考えは微塵もない。無邪気に、純真に、まっすぐに、自分たちの敵は「悪者」だと確信している。「優秀な兵士」とは、これくらい「単純バカ」でないといけないのかもしれない。

こんな文章も出てくる。
イラク人のために戦ったことなど一度もない。あいつらのことなど、くそくらえだ。
一兵士としての率直な気持ちなのだろう。とはいえ、ここまであっけらかんと正直に語られてしまうと、あの戦争は誰が誰のために殺したり殺されたりしたのか、そんなことを考えて目まいがしそうになる。

何十人も人を殺すうちに、頭の中でなにかがおかしくなっていくのだろうか。こういう記述もある。
人を殺すのも、それが職業となればそのやり方に創意工夫を凝らすようになる。
(中略)
「まだ拳銃では殺してなかったか? それじゃあいっぺんやってみるか」
(中略)
それがゲームのようになることもあった。
読んでいて一番イヤな気持ちになったのは、逃げた戦闘員を追いかけ単独で民家に突入した場面だ。そこには一人のイラク人男性がポカンとした表情で突っ立っていた。著者は伏せるように命令するが、男性はどういうわけか命令に従わない。そこで著者は殴り倒して取り押さえるのだが、男性の母親が現れてなにやらわめき散らす。ようやく通訳がやって来て、男性には知的障害があるということが判明する。

著者は謝罪したのだろうか? そういう記載は一切ない。それどころか、続く文章ではジョークや笑い話のようなものが記されている。こんなことが許されるのだろうか? 出版前にチェックした軍関係者や編集者は、これを読んでなにも思わなかったのだろうか?

戦争・殺し合いという極限状態で上記のような事態が起こるのはやむを得ない。その場で謝罪する余裕がないのもしかたがない。しかし、少なくとも、執筆時には安全な場所にいたはずだ。だったら、謝罪の一文くらい書いても良かろう。本の中で著者は「非戦闘員を射殺したことは一度もない」と繰り返すが、その労力の一部でも使って、「自分が傷つけた市民への謝罪」を書くべきだったのではなかろうか。「非戦闘員を殴り倒した」ことは確実にあるわけだから。

イラクに住む言葉の通じないその男性に向けて、本の中で謝罪文を書いてなんの意味があるのだ、と反論されるかもしれない。それならば、本の最初に記している「亡くなった友人に心の底から祈りを捧げる」なんて文章にも意味はないではないか。

さて、本書が良質な反戦書という理由についてだ。本書は読み手を惹きつけるが、最終的には戦争に対して不愉快な気分を抱かせる。そこが素晴らしい。戦争反対を強く訴えかけるような本があったとしても、読む気になれない内容では意味がないのだ。本書のように、少し眉をひそめながらも最後まで読み通してしまうものこそ「良質な反戦書」と言える。映画のほうは「戦争賛美だ」「いや反戦映画だ」と賛否あるようだ。クリント・イーストウッドがどのように映画化したのか、確認してみなければならない。

著者のクリス・カイルは本書執筆の一年後に射殺された。

最後になるが、160人の「悪者」を射殺した無邪気なクリス・カイルが、父母を愛し愛された息子であり、弟を持つ兄であり、夫であり、二児の父であり、退役後には傷痍軍人のための活動を熱心にやっていたということも記しておきたい。

160人を射殺した「スナイパー」は、クリス・カイルという人間の一部でしかないのだ。

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