2012年11月4日

「自殺」 → 「自死」 を考える

島根県で「自殺防止計画」を「自死防止計画」に改める方針としたそうで、そのことについてネット上でちょっとした議論となっているようである。

まず俺の根本的な考えから述べておく。言葉というのは国民の共有財産で、言い換えや使用禁止を決定する場合には慎重な議論が必要である。言葉と似たようなものとして「名前」がある。これは個人の所有物のように見えるが、やはり皆で共有するもので、個々人が好き勝手に名前を変更できるようだと社会は混乱する。本人が「嫌いな名前だから」という理由で名前を変えることは基本的には許されていない(『運子』など例外はある)。言葉も同様で、「遺族が救われるんだから良いじゃないか」という理由だけでは、言い換えにはあまり賛成できない。

それならば絶対的に反対かというとそうでもない。精神科医は自死遺族と接することも多いので、彼らの哀しみの深さや苦悩は、分かる、とまでは言わないにしても、もらい泣きしそうなくらいには伝わってくる。ここで敢えて「自死遺族」と書いたのは、遺族を表す場合には「自殺遺族」より「自死遺族」のほうが語感が良いし、呼び方としても適切に思えるからだ。決して、自殺を自死と言い換えるほうに与してのことではない。

自分自身も友人を一人「自殺」で喪っている。これを自死と言い換えたほうが良いとは思えない。自殺とは、自分を殺すことである。これは誰がどう訂正しようとしても変えられない事実である。「心の病気に殺されたのだ」というレトリックはあるかもしれないが、ならば「病死」と言うかというとやはり違う。自殺はやはり、自殺なのだ。ただし遺された人たちを呼ぶ場合には、呼び名に「殺」が付いているのはやはり不快だろうから「自死」遺族と言い換える。しかし、「自殺防止」を「自死防止」に変更することには非常に抵抗がある。

まだ自分の中でこれといった結論ができあがっているわけではないけれど、「自殺」は行為そのもの、「自死」はその結果、というのが一番しっくりくるのではないだろうかと思っている。だから、自殺という行為を減らすための計画は「自殺防止計画」、自殺の結果として遺された家族は「自死遺族」と使い分けるので良いんじゃないだろうか。

自殺を自死へ言い換えることが正式になった場合には、未遂の場合には「自死未遂」という言い方になるのだろうが、これも妙な言い方である。それから、「自殺」という言葉が消滅すると、同時に対義語である「他殺」も失われるだろう。また「レトリックでなく本当に病気に殺されるのだから病死で良い」という意見もあるが、その場合には統計その他での混乱を避けるために現在の「病死」を他の語に言い換える必要が出てくる。このようなことがあるので、言葉を言い換える時には、共有財産を扱っているという慎重さを持つことが大切なのだ。

<関連>
閲覧注意!! 樹海の自殺防止パトロール
『「生徒の暴言で教諭自殺」を公務災害と認定』というニュースについて

<参考>
「自殺」→「自死」へ ネット上では反発の声も
「自殺」は使わず「自死」に変更 島根県が「公式文書」の用語で新方針

2 件のコメント:

  1. apoptosis と suicide の違いではないでしょうか?

    前のブログでご紹介いただいた『救急精神病棟』(講談社文庫、2010年)pp. 341-344 の女性についても、「スューサイドの危険は?」(上掲書 p. 344)であって、アポトーシスではないから「スューサイド」と精神科医が仰ったのだと私個人は感じました。アポトーシスだと、組織のなかで組織全体を健康に活かすために特定の構成メンバーが特定の時期に必然的に死を選ぶ、組織維持のための合理的な活動という意味になってしまいますから。横暴で独裁的に運営された組織が邪魔に感じる構成メンバーを死に追いつめるとき「アポトーシス」と言いたがるのは理解できます。だからこそ、医療従事者は「アポトーシス」と言ってはならず、あくまでも「スューサイド」と言い、ジュネーブ宣言の精神に忠実である必要があると考えます。

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    1. >あ*さん
      意図的に生を止める行為を、やはり病死のようなカテゴリには入れにくいですね。アポトーシスというのは、生物が生物たりえるために細胞に組み込まれた自死システムですが、やはりそれはスーサイドとはまったく別物です。

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