2018年8月31日

逆境を生き抜いていく小さくて偉大な科学者たち 『理系の子 高校生科学オリンピックの青春』


インテル国際学生科学フェアに出場する青少年1500人のうち6人を取材したノンフィクション。出だしから充分に面白かったのだが、中盤から後半にかけては胸が熱くなり、ときに涙ぐむようなエピソードもあり、とても良い読書時間になった。

どの学生も、決して恵まれた環境で研究を重ねたわけではない。むしろ外から見れば「不遇」「不幸」とさえ言える状況で、それでも自分の感性に訴えかけるなにかに突き動かされて「科学」を追究していく。その姿に胸をうたれる。科学「オタク」という言葉ではくくれない彼らの「戦い」は、科学フェアで互いに競うこと以上に、周囲の冷ややかな目、無理解、孤独といった逆境との戦いである。

邦題は、大崎善生の『将棋の子』と敢えて似せてあるのかもしれない。内容も、10代の子たちの熾烈な競争という点で同じであり、『将棋の子』を「将棋抜き」で楽しめた人には、本書も「科学抜き」で楽しめるだろう。

2018年8月30日

ちょっと言葉が軽すぎやしないか……? 『葬送の仕事師たち』


葬儀業に携わる人たちへの取材をまとめたノンフィクション。取材対象者たちの想いや言葉は重く、ときに涙ぐまされるほどのものなのに、著者の言葉が軽く、それはときに不快感すら抱くほどである。

特に生理的に受けつけなかったのは、赤ちゃんが火葬されるのを取材した場面。火葬前、著者はモニターを通じて、棺にへばりつき泣き崩れる母親の姿を見ている。そして、赤ちゃんが火葬される。
炎に包まれている。不謹慎かもしれないが、私には「モノ」のように見え、反り返るので、ともすれば「スルメ」のようにも見えた。
不謹慎かもしれない、ではなく、明らかに不謹慎だろう。人が火葬される様子を見て頭に浮かぶ感想は人それぞれだし、それはどうしようもない。しかし、頭で思い浮かべるだけと、こうして言葉にすることとの間には、大きな隔たりがあるはずだ。その隔たりを、狙ってなのか、あるいは無自覚なのか、こうして踏み越えてしまっている。そういう文章は他にも散見された。取材対象者たちの言葉が胸に響くだけに、著者に対しては「どうしてこうも無駄口を叩くのだ……」と言いたくなる。

ストライクギリギリを狙ったデッドボールという一冊で、評価がもっと賛否両論に分かれるべき本だという気がする。だから、敢えて星1つにする。

2018年8月27日

自分や家族が健康なうちに読んでおくほうが良い 『見送ル ある臨床医の告白』


ペンネーム里見清一(本名は國頭英夫)先生による自伝的「小説」。そう、これはあくまでも小説であるが、臨床エッセイでもあり、自伝でもある。事実に虚構を織り込み、虚構に事実を忍ばせる。そのやりかたが非常に巧みで、実在しない大学名や病院名が出てこなければ、すべて真実と勘違いしそうだ。

里見先生自身の小児喘息体験に始まり、若手医師時代、そして中堅・ベテラン時代と、経験を積むにつれてなにかを得て、そして、なにかを失っていく。そんな自身の内面をかなり赤裸々に綴っていて、科は違えども同じ医師として、その正直さには好感が持てる。しかし、読む人によっては眉をひそめそうなところもある。

内容はとても素晴らしいものではあるが、いま現在、自分自身や家族が癌治療を受けている人が読むと、ショックを受けるかもしれないことも書いてある。だから、なるべく自分や家族が健康なうちに読んでおくほうが良い。

2018年8月24日

“セルフケアをすること。境界線を引くこと。仕事と私生活を分けること。これができるかできないかが、(対人援助)専門職かそうでないかの分かれ目です。これは、知識があるか、技術があるか、資格があるか、ということよりもずっと大切なことです。” 共依存をやさしく紐解く 『あなたのためなら死んでもいいわ』


共依存について「やさしく」書かれた本。この「やさしく」は、「優しく」と「易しく」の両方である。

水澤先生には個人的に師事しており(こちらが勝手にそう思っているだけだが)、お人柄に感銘し、患者さんへの説明には刺激を受けている。

広く伝えたい言葉があったので、一部を引用する。
もし自分の生きづらさの理由が、子どものころの経験にあったと発見できたら、それは収穫です。その気づきが新しい人生をかたちづくるための糧になるからです。苦しい時間を生き抜いてきた子どもの自分に、「よくやったね、頑張ったじゃないか」と心の中で言ってあげましょう。もし出来たら、声に出して言ってあげましょう。幸せな人生をつくりあげるために、そうしてあげてください。
自分の外側に存在するもので心を満たすことは、しょせんできないと胸に刻みましょう。心にあいた穴を埋めることができるのは、あなた自身です。 
これらは共依存的な性質をもつにいたった成育歴や、そこからの脱却について語られた部分の抜粋である。

医療者をはじめ対人援助職といわれる職業の人たちには、共依存症的な性質をもつ人が少なからずいるというのは、わりとよく知られた話だろう。そういう人たちは、熱心になりすぎるあまり燃え尽き症候群に陥りやすい。そうならないために、水澤先生はこう語りかける。
セルフケアをすること。境界線を引くこと。仕事と私生活を分けること。これができるかできないかが、(対人援助)専門職かそうでないかの分かれ目です。これは、知識があるか、技術があるか、資格があるか、ということよりもずっと大切なことです。
本書は万人に絶賛オススメというものではないが、対人援助職についている人は一読して損はなかろう。

2018年8月23日

名作なのに、文庫本の裏表紙にあるあらすじと、Amazon商品説明の盛大すぎるネタバレがひどい! 絶対に面白いので、このネタバレは読まず、あらすじも知らないまま読むことをお勧め!! 『ハリー・オーガスト、15回目の人生』


文句なしの名作。この評価は真っ先に書いておきたい。

本書はタイムスリップものの小説で、1919年生まれの「わたし」ことハリー・オーガストの視点で描かれていく。ハリーは死んでも、記憶を残したまま1919年に、同じ状況で生まれ変わる体質を持っていた。

ここでケン・グリムウッドの『リプレイ』を思い出す人も多いだろう。ただ『リプレイ』が死んだら記憶を残して18歳からやり直しという、わりとお得な設定であるのに対して、本書は0歳スタートである。記憶は3歳くらいから思い出し始め、非常に退屈な幼少期を過ごさねばならない。

さらに、同じ体質の人が50万人に1人いるという点も斬新であった。こうした体質の人たちは、生まれ変わりの人生3回目くらいまでは精神的に混乱して幼少期に自殺したり、精神病と診断されて入院させられたりする。そこから徐々に自分の人生を受け容れ、「500歳や800歳ぶんの知識をもった20歳」のような人生を送る。

あまり多くを書くとネタバレになるので控えるが、とんでもなく面白い小説だった。ただし、最大のクレームを出版社に出さねばならない。というのも、文庫本の裏表紙あらすじ、それからAmazonの商品説明に、盛大すぎるネタバレが書いてあるから。ミステリ要素も入った小説で、ここまでひどいネタバレもなかろう。

絶対に面白いので、このネタバレは読まず、あらすじも知らないまま読むことをお勧めする!!

2018年8月21日

俳句の本で、まさか泣くとは思わなかった…… 『100年俳句計画』


バラエティ番組『プレバト!』で夏井いつき先生を知り、そこから俳句のおもしろさを感じるようになった。

もともとは季語に縛られず、字数制限も緩やかな短歌のほうが好きだったが、夏井先生の「言葉を無駄遣いするな!」という指導に感動し、芸能人が作った俳句の「直し」を夏井先生より先に指摘することに愉しみをおぼえた(もちろん、当たるときもハズレるときもある)。

本書は2007年の本で、『プレバト』の開始が2012年だから、いまの俳句ブームよりだいぶ前に書かれたものである。

指導はやはり上手い。たとえば、「チューリップ」を季語にした男子校での作品。
あこがれの君があいつとチューリップ
寒いダジャレに、教室からはクスクス笑いが漏れる。そこで夏井先生。
「きみら、チューっていう音だけで、その気になったりバカにしたりしてるけど、この句の中の『が』という助詞を『と』に変えてごらん」
実際に変えてみると、こうなる。
あこがれの君とあいつとチューリップ
おお、たしかに情景が浮かぶような俳句になっている!

このほか、思わず涙ぐむようなエピソードのある俳句がある。エピソードのほうは本書を読んでもらうとして、俳句だけを紹介しておく。
母さんが来てくれた日のさくらんぼ   健(小4)
にいちゃんがたすけてくれるあきの山   真(小1)
俳句好きでも、そうでなくても、この二つの俳句の裏にある事情を知れば、思わず涙するだろう。

2018年8月20日

吸血鬼ファンのかゆいところに手が届かないというか、かゆいところが分かってないだろ…… 『沈黙のエクリプス』


ホラーの古典・ヴァンパイア。彼らの生態を現代科学で説明しつつ、その科学とヴァンパイアとを対決させる。こんな設定がすでに古典的で、他の多くの作品でも用いられており、斬新さはまったくない。あとはストーリーの迫真性やエキサイティングさ、ドラマ性、人間の内面描写などがポイントになるかと思うのだが……、本書は「洋書ラノベ」と割りきって読んでも、イマイチ盛り上がれないものだった。

上巻はわりと良かった。科学的な知識を持つ主人公と仲間だけが真実を知り、それを上層部に警告するのに取り合ってもらえない。このての話の定番ではあるが、現実味があって良い感じ。

ところが、そこから徐々にシラケていく。以下ネタバレ含む。最後の数行でお勧め小説を挙げておくので、ネタバレしたくない人は最後のほうだけチェック。

下巻に入ると、アクションシーンが多めになる。ところが、このアクションがありきたり。手に汗握ることもなく、「あぁ、B級映画で観たことありそうなシーンだなぁ」とアクビしながら読み進める。鏡の破片を素手で握ってヴァンパイアと戦い、相手の首を切断し、終わってみると手には浅い傷がついていたなんてのは、現実味のなさが名作マンガ『彼岸島』レベル。マンガでは許容できても、小説だとハードルは上がる。

それから、これは好みの問題かもしれないが、ヴァンパイアは人間の首に「直接」口をつけて血を吸うからこそ、おぞましく、恐ろしく、どことなく美しくて魅力的なのだ。人の姿をしたものが、人の首に噛みついて血をすする。こんな背徳の姿に惹きつけられる。ところが、本書のヴァンパイアは口から触手が2メートル近くも伸びて吸血する。これはいわば「飛び道具」である。

『戦争における「人殺し」の心理学』によると、人が人を攻撃するときの心理的な抵抗感は、物理的な距離が近くなるのに比例して強まるらしい。つまり、核兵器のボタンを押すよりは、空から爆弾を落とすほうが心理的な抵抗が強く、爆弾よりはライフルが、ライフルよりは拳銃が、拳銃よりは槍が、槍よりはナイフが、というように抵抗感が強まっていくのだ。名画『プライベート・ライアン』を観た人の中には、衝撃的な冒頭の戦闘シーンより、二人の兵士がもみ合ったすえに相手をナイフで刺し殺すシーンが「一番キツい」という感想を述べる人もいる。

だから、ヴァンパイアの口から伸びる飛び道具という設定には、怖さや背徳の点で魅力を半減させるどころか、すべてを台無しにしてしまう負のパワーがあるのだ。

もちろん全部がダメなわけではなく、設定として魅力的な部分もある。その一つが「ヴァンパイアは捕食しながら排泄する」というところ。食事中の排泄。これもやはり「背徳」の一種だろう。さらに「捕食された人の生命が、あっさりと排泄物に変わる」という残酷さに、良くも悪くもゾクゾクしてしまうのは、きっと俺だけじゃないはずだ。

吸血鬼ファンのかゆいところに手が届かないというか、かゆいところが分かってないだろ、というイマイチな小説だった。

小説で吸血鬼やゾンビを愉しみたい人には、以下の4冊がお勧め。
終末世界ものが好きな人や、吸血鬼もののファンにはお勧め! 『アイ・アム・レジェンド』
『屍鬼』
ゾンビファン必読! 『死霊列車』

2018年8月17日

中井久夫になることを目指すのではなく、自分なりの良い医療を模索するためのガイドの一つ 『「伝える」ことと「伝わる」こと』

治療者は、自分にできもしないことを患者に求めないほうが良い。それと同時に、自分にできるからといって患者にも同じことを求めるのは良くない。

本書で特に印象に残った教えである。

医師の中には、勉強も運動もやすやすとトップを獲り、すんなりと医師人生に踏み込んだ人もいるし、何度も挫折を乗り越えて艱難辛苦の末に医師免許を取得した人もいる。実際には、その中間くらいの人が多数だろう。いずれにしろ、患者に対して「自分のできないこと」を強く指導したり、「自分がやれたこと」を気安く勧めたり、そういう罠には陥らないよう気をつけないといけない。

人には、その人にしか分からない苦しみがある。

頭では分かっているつもりでも、ふと我が身の過去、あるいは自分の親族・知人で苦労している人と引き比べてしまいそうになる。そういうことは絶対にしてはいけない、という話ではない。ただ、思わずそういう比較をしてしまうことがある、と意識しておくことは大切だ。意識するだけで、立ち居振る舞いというのはだいぶ変わるものである。

2018年8月16日

タイムトラベル小説といえば梶尾真治 『未来のおもいで』


タイムトラベル小説といえば梶尾真治。本作は文庫書下ろしで、文章量はめちゃくちゃ少ない。ラノベといっても良いくらいで、読書慣れした人なら2時間かからず読めるだろう。

ベタな展開、読めるオチ。

息抜き読書という感じでどうぞ。

2018年8月14日

クリスマスも誕生日も私にはなかった。なのに、娘がプレゼントに文句言ったりするのが、とにかく許せない。 『誕生日を知らない女の子  虐待 その後の子どもたち』


彼女はなぜ、娘の臓器写真を平然と直視できたのだろう。
この衝撃的かつ印象的な一文で始まる、被虐待児と彼らを養育する里親に焦点を絞って取材したルポ。

被虐待児は施設から里親へ行くと、少しは幸せになれるのかというと、そう簡単な話ではない。2010年には東京で、3歳7ヶ月の女児が里親による虐待で死亡した。この事件を考えるための緊急集会に集まった里親たちのうち、50代の男性がこんなことを話したそうだ。
「私は里子を預かるまで、子どもは愛情さえあればスクスク育つものだと思っていました。実子はそうやって育ちましたから。三歳の男の子が里子に来てから、妻は一年間の記憶がないと言います。私もまだつらくて話せない。ひょっとしたら殺してしまうかもと思ったこともあります。正直、子どもへの怒りが湧くこともありました」
この集会に参加した著者が、
里親たちが、これほど傷つき苦しんでいるとは思いもしないことだった。里親たちを苦しめるもの、それこそが「虐待の後遺症」なのだ。
こう言うように、虐待を受けた子を里親として養育することには、我々の想像を絶するような苦労がある。いや、それは単に「苦労」という言葉だけでは言い表せないような、それこそ「ひょっとしたら殺してしまうかも」と思ってしまうほどのものなのだ。

ある里子の女児と、里親である女性との会話。
「ねぇ、ママとパパもケンカするの?」
「そりゃあ、するよ」
「えー、じゃあ、包丁とかハサミとか、持ってくるのー!」
「みゆちゃん、それは、ない、ない」
「よかった!」
この後、親子二人で笑い合ったようだが、この女児の実父母はそういうケンカをしていたのだろう。自分たちだけならともかく、子どもの前でそんな修羅場を演じている親がいるということは、決して笑いごとでは済まされない。ケンカは見えないところでやりましょう。

性的・身体的な虐待を受けて育ち、自らも母親になった女性へのインタビューで、彼女はこんなことを言う。
「上の子は女の子だからなのか、育児のたびに否が応でも自分とかぶるんです。育児をするうえで、フラッシュバックを体験するというか……。『あの子歩いたな、よかったな。うれしい』って思った瞬間、『誰が私が歩いたのを喜んだ? 誰が私が歩いたのを見ただろう』って、だんだん上の子に当たっていくんです。こういうのを成長の節目、節目に思うんです。クリスマスも誕生日も私にはなかった。なのに、娘がプレゼントに文句言ったりするのが、とにかく許せない」
彼女は実際に我が子に虐待をしてしまう。そして自ら児童相談所に連絡をして子どもを預かってもらった。彼女はその後、精神科へ入院するが、そこでカウンセラーから、
「子どもを自ら児相に預けたことは、あなたが子どもを守った、立派な行動だった」
という言葉をかけてもらい、自信につながった。

子どもを2ヶ月預かってもらい、自らも精神科に入院して、心機一転で虐待を断つことができた、となれば良いのだが、そう簡単な話でもない。実はその女児には発達障害があり、その育てにくさに対するイライラから、どうしても蹴ったり叩いたり、「ベランダから飛び降りろ」「生まないほうが良かった」といった言葉の暴力が続いてしまう。根の深さ、解決の難しさに暗澹とした気持ちになるが、少なくとも彼女自身が受けた虐待や養育環境からすれば「いくらかマシ」であり、そこに希望の光が見える、というより見出すしかない。

著者のこんな言葉が印象的である。
一般に「親の、子への愛は無償だ」と言われるが、虐待を見ていく限り、それは逆だとしか思えない。子の、親への愛こそが無償なのだ。
切なさに涙がこみあげてきたり、憤りを感じたり、時にふっと笑顔になれたりしながら読んだ。そして、精神科医として、虐待ケースの発見とサポートにますます気をつけて取り組もうと思わされた。


<関連>
今までに読んだ虐待関連書籍で、最もキツかったのがこれ。
殺さないで―児童虐待という犯罪



発達障害ということで関連して、最近読んだこれも参考になった。

2018年8月10日

ベトコンを殺すわけじゃない! 死んだヤツがベトコンなんだ!! 『動くものはすべて殺せ アメリカ兵はベトナムで何をしたか』


少し前に読んだ『プラトーン・リーダー』が、実際にベトナムで戦った士官による直接的で内省的な本で非常に好感がもてた。その流れで、中堅ジャーナリストによる間接的で内省的な本書を読むことにした。

アメリカ軍兵士による数々の残虐行為が列記され、読んでいて胸糞が悪くなった。当時の米軍兵士(もしかすると現在も一部は?)は、ベトナム人を劣等民族と考え、「人間以下の存在」として、「ほぼ全員が軽侮の念」をもっていたという。その一例として、挙げられているのがこういう記録だ。
パイロットは、自転車に乗ったふたりの女性を見つけて急降下し、ヘリコプターの着陸脚をぶつけて彼女たちを死亡させた。捜査がおこなわれることになり、操縦士は一時的に任務を外されて、リヴィングストンが医師としての立場からその男と面談をした。操縦士は、女性たちを殺してしまったことについては、まったく良心の呵責を感じておらず、捜査期間中の給料がもらえないことだけを悔いていたという。
生きているベトナム人を人間以下の存在と考えているのだから、その死体に敬意を払わないのも当然である。「米兵のなかにはベトナム人の頭部を保管したり売ったり」する者も、耳を切り落としてネックレスにする者も、頭の皮、ペニス、鼻、乳首、歯、指をコレクションする者もいた。

当時、南ベトナムの人口は1900万人いたが、入念な調査によって、民間人の死亡者は200万人くらいいたのではないかと考えられている。では、彼らがどのように死んでいったのか、いや、殺されていったのかを見ていこう。
ある軍曹は、ひとりの少年を射殺したあと、武器を持っていなかったその子の兄の頭に至近距離から銃弾を撃ち込んだことを明かした。
「武器を持たない身元不明の男性二名――推定年齢二、三歳と七、八歳――をとらえ……とくに理由もなく殺害した」
「フロイドが子供のひとりを撃ったと思います。片方の脚がちぎれて――肉だけでぶら下がっていました」
彼らが赤ちゃんを抱いた女性を殺したあと、即座に子供に銃を向けたと証言した。「その赤ん坊を蜂の巣にしたんです」
B中隊の隊員たちは、武器を持たない少年に出会った。(中略)「すると中尉が、こいつを殺したい者、撃ち殺したい者はいるかと尋ねたのです」(中略)「少年の腹を蹴り、衛生兵がその子を岩陰につれていきました。銃声が続けざまに聞こえて、やがてオートマチックピストルの弾倉が完全に空になったのがわかりました」その子供は“戦闘により殺害”された敵に数えられた。
ある女性の片方の耳を切り落とし、その目の前で彼女の赤ちゃんを地面にたたきつけ、踏みつぶしたこと。
「その小さな子は(三メートルほど離れた)近くにいました。彼はそれを四十五口径で撃ったんですが、外しました。おれたちは笑いました。そいつは一メートルほど前に出て撃ちましたが、また外した。おれたちはまた笑いました。すると今度はすぐそばまで行って頭の上から弾をぶち込んだんです」
民間人は「戦闘に巻き込まれて死亡する」のではなく、明らかに民間人と分かっていながら殺されるのである。それをアメリカ軍の兵士たちは、「ベトコンを殺すわけじゃない。死んだヤツがベトコンなんだ」というような言葉で表現した。
わたしは、少年たちが米軍のトラックに轢かれたこと、そしてこの種のゲームが流行っているらしいことを知った。つまり、兵士たちが町なかで車を走らせ、誰が子供を撥ねることができるか、賭けをしていたというのだ。この遊戯は、“グーク・ホッケー”という不快きわまる名前で呼ばれていた。 ※グークとは米兵によるベトナム人の蔑称。
性的暴行も無数に行なわれた。その一例。
第一騎兵師団の兵士たちは、恥知らずにも、ファン・チ・マオという名の若いベトナム人女性を、性奴隷にする目的で誘拐した。(中略)この任務に先立ち、彼の所属していた巡視隊の指揮官がはっきりとこう言ったそうだ。「われわれは、はめはめ、つまり性行為をするためにこの女を捕らえ、五日後に殺害する」その軍曹は自分の言葉通りにした。女性は誘拐されて、巡視隊のメンバーのうち四名に代わる代わる強姦され、翌日に殺された。
他にもある。
銃で撃たれて怪我をしていたベトナム人女性を発見した。彼女は重傷を負っていて、水をくださいと言った。ところが水は与えられず、その女性は服を引き裂かれた。それから、両方の乳房を刃物で刺され、両脚を大きく広げられて、ある掘削用具――具体的には小型のシャベル――の柄を膣に突っ込まれたという。
多くの女性が強姦され、ソドミーを強いられ、手足を切断され、ナイフや銃剣でヴァギナを切り裂かれた。ある女性はライフルの銃身を膣に差し込まれ、銃弾を撃ち込まれて死亡した。
拷問も無数に行なわれたが、拷問者の考えがよく分かる記述がある。
男たちは、おまえらが無罪なら有罪になるまで殴ってやる、有罪なら悔い改めるまでぶちのめすと言いました。
驚くべきは、こうしたことが決して一部の部隊、限られた兵士による蛮行というわけではなく、どこの部隊でも多くの兵士が手を染めていたということ。ここに引用したものはごく一部であり、あまりにも多かったために、読んでいるうちにこちらの脳がマヒしそうなほどであった。

にわかには信じられないような話ばかりだが、本書は優れた調査報道に贈られるライデナワー賞を受賞したとのこと。派手なハリウッド映画ではなかなか描かれない黒い歴史が克明に記録された、後世に残すべき名著だろう。

ちなみに、映画で米軍による蛮行を描いたものは皆無ではなく、マイケル・J・フォックス主演の『カジュアリティーズ』が記憶に残っている。原作は『戦争の犠牲者たち―ベトナム192高地虐殺事件』

2018年8月9日

非常に実践的な教科書 『統合失調症とその関連病態:ベッドサイド・プラクティス』


精神科の教科書は通読できるものが多い。というより、通読しなければ意味をなさないものが多数ある。本を開いて必要に応じた場所だけを読む、というやり方があまり通用しない。

本書は各章が各病態に対応しているので、必要な時に必要な章を読む“準”通読でも活用できるが、特に若手の精神科医は時間があるうちに通読しておいて損はないだろう。公私における時間的な余裕がどれくらいかによって違うが、本書だけに没頭できる環境なら一日で読み終えるだろう。

第一部は概説であり、これは精神科の病歴のとり方、診断や治療の考え方が述べてある。さすが中安信夫先生といった感じで、読みやすくて分かりやすい。

第二部は統合失調症に関して、「初期統合失調症」「急性期」「慢性期」に分けて、診断、留意点、治療技法、うまくいかなかった症例など具体的に記載してある。特に初期統合失調症には力が入れてある。

第三部は統合失調症の関連病態である広汎性発達障害、思春期妄想症、急性精神病、初老期・老年期の精神病(もの盗られ妄想や嫉妬妄想など)、第四部は抗精神病薬の副作用や妊娠・出産・授乳との兼ね合いなどについてである。

非常に実践的な本で、何度も通読する必要はない。若手のうちに一度目を通しておいて、あとは時に応じて読み直す程度で良いだろう。

2018年8月7日

自分や自分の家族、友人らの最期が独居死でないように願うばかりである 『遺品整理屋は見た!』


例えば一人暮らしをしている人が、夏場に自宅で突然死してしまい、2週間後に臭い(それは死臭であるが)の苦情で発見された場合、部屋はとんでもないことになっているそうだ。布団、床は体液で汚れ、すべての家具類に死臭がしみこんでいる。そうした「遺品」を整理する会社の社長が書いた本である。

整理、とはいうものの、実際のところは合同供養をして処分することが多いそうだ。気分的なものもあるだろうが、本書の内容から察するに遺品にしみついたニオイは相当に厳しいものがあるようだ。

著者の「独居死をなくすのは無理。それよりは、独居で亡くなっても、1-2日くらいで誰かが気づいてくれるような人間関係を作ろう」という主張にはすごく共感。家族、友人、知人、地域のコミュニティ。そういったつながりこそが「早期発見」につながる。

とはいえ、性格・気質的にそういうつながりを持てる人ばかりではない。精神科で俺がみている人たちにも、独居死しそうな人はたくさんいるし、実際に死後数日してから発見された人たちもこの数年間で何人かいる。

せめて自分や自分の家族、友人らの最期がそういうものでないように願うばかりである。

2018年8月6日

ちょっと、いや、だいぶ物足りない 『見てしまう人びと 幻覚の脳科学』


サックス先生による「幻視」についての本。サックス先生の本はこれまでもたくさん読んできたが、その中でも本書はハズレのほうに入る。ちなみに、一番のヒットは『音楽嗜好症』『火星の人類学者』で、映画化もされた有名な『レナードの朝』は俺にとってイマイチであった。

『音楽嗜好症』も『火星の人類学者』も、サックス先生と患者のやり取りや、サックス先生の考察がふんだんに記されているのに対し、『レナードの朝』はケースの羅列に近い印象を受けた。ストーリー性、知的好奇心への刺激を求める人は『音楽嗜好症』『火星の人類学者』がお勧めである。

本書はどうだったかというと、他書や論文や手紙からの引用が多すぎた。サックス先生と患者との直接の触れ合いや、先生自身の考察があまりなく、とても物足りなく感じた。

2018年8月4日

沈黙を「耐える」ものから「共有する」ものへ変えてみよう

作業療法の実習生(女性)との会話。

「……」
「……」
「……」
「……」

「いま、沈黙に耐えた?」
「耐えました」
「よく耐えた。俺も耐えた(笑)」
「(笑)」
「これが、仲が深まれば沈黙の『共有』になるんだよ」
「なるほど」
「患者さんとの沈黙も、最初は耐える。そして、共有を目指す」
「はい」
「沈黙を共有できると、無理に話す必要もなくなる」
「わたし、なにか話さなきゃって思っちゃいます」
「分かる。俺もそうだから(笑)」
「(笑)」
「そのときに無理に話そうとせず、ただ同じものを見る、同じ音を聞く。呼吸を合わせる。同じ仕草をしてみる。そんなことをするうち、ふっと共有してつながる瞬間を感じることがあるよ」

ちなみに、冒頭の沈黙は、このことを伝えるために敢えてつくった沈黙である。ただし、意図的につくった沈黙とはいえ、俺が「耐えた」のは事実。それくらい、人は誰かとの間に沈黙ができるのを避けたがるということだろう。そして、実習生が沈黙に耐えてくれたので、話がスムーズだった。

2018年8月3日

精神疾患をもったリーダーたちを通して、精神疾患へのスティグマを見つめ、そして問い直す 『一流の狂気 心の病がリーダーを強くする』


※左が邦訳版、右が原書。
危機の時代の最良のリーダーは、精神的に病気であるか、精神的に異常であるかのどちらかである。危機の時代の最悪のリーダーは、精神的に健康である。
歴史上のリーダーのうち、精神的な病気あるいは精神異常のあった人たちと、対照的に精神的に健康であった人たちについて、精神医学と歴史学を駆使して考察した本である。

精神的に病気であることがリーダーとしてプラスになる場合があること、精神的に健康なことが危機の際にはマイナスになりかねないことを、多くの資料をもとに検証してある。少し強引さを感じる部分もあったが、精神科医の診療においても勉強になり、また一般の人が読んでも分かりやすく、そしてエキサイティングな読書になるだろう。

一ヶ所、思わずプッと吹き出したところがあるので引用。
薬を飲むことによって、精神疾患をもつ指導者から危機的状況における偉大な指導力が奪われてしまわないか、と心配される人がいるかもしれない。だがそんな心配はいらない。率直にいって、私たちが使っている薬は、そこまでは効かないのである。
言っちゃうか! 『気分障害ハンドブック』で見せたガミー節、健在(笑)
もちろん、この後のガミー先生の言葉が大切。
薬を飲んでいる人のほとんどが、気分の浮き沈みのエピソードやさまざまな症状をもち続けている。薬はそれらの症状の頻度と重症度を減らすだけのことである。ただし、もし薬を服用していなかったら生じたかもしれない、自殺や、精神病症状の出現を薬は予防しているのである。
購入を検討する人には、目次を記しておくので参考にして欲しい。


イントロダクション 正気というものの逆説(反転の法則)

[第1部 クリエイティヴィティ]
第1章 あいつらに俺たちのことを怖がらせるんだ──シャーマン
第2章 怒涛のように働き、宣伝することだ──ターナー

[第2部 リアリズム]
第3章 表が出ればそれは私が掴んだ勝利、裏が出ればそれはたまたま
第4章 荒れ野を逃れて──チャーチル
第5章 両方とも同じ聖書を読んでるんだ──リンカン

[第3部 エンパシー]
第6章 壁に飾られたミラー・ニューロン
第7章 偉大なる魂(マハトマ)たちの苦難──ガンディー
第8章 アメリカの魂への癒し(サイカイアトリー)──キング

[第4部 レジリエンス]
第9章 さらに強く
第10章 一級の気性──ローズヴェルト
第11章 宮廷(キャメロット)のなかの病──ケネディ

[第5部 治療]
第12章 薬が彼を成功させた──ケネディ再登場
第13章 ヒトラーの凶暴な発作

[第6部 メンタル・ヘルス]
第14章 平凡人(ホモクリット)のリーダーたち──ブッシュ、ブレア、ニクソンら
第15章 スティグマと政治


余談ではあるが、原書とは表紙が異なっている。この表紙の変更については、出版社の判断が適切だったと思う。原書の表紙のケネディは分かるけれど、あとはちょっと……。いっぽう、邦訳版の4人なら分かる気がする(ケネディ、ガンジー、ヒトラー、チャーチル?)。

これは手放さずに蔵書する。

2018年8月2日

深いため息とともに読了する名著 『終りに見た街』


なんという凄い本だろう。
読了して、深いため息が漏れた。

いわゆるタイムスリップもので、第二次大戦中に子どもだった主人公が、1980年には少し歳の離れた妻と二人の子を持つ中年になっている。そんな彼が昭和19年にタイムスリップするのだが、本書の珍しいのは、スリップするのが彼だけでなく家族も一緒にというところ。さらには幼少時の親友と、その息子である高校生もタイムスリップする。

物語は、物のない時代を生きぬいた主人公とその親友が、飽食に慣れた妻や子どもたちを導いていく形で進む。妻も子どもも、慣れない粗食や物資不足、娯楽のなさにストレスを溜め、そのせいでときに爆発してしまう。それでも季節は過ぎていき、少しずつ、少しずつ、彼らの中では変化が起こっていく。

これ以上はネタバレになるので書きたくない。さすが優れた脚本家で、話の運びが上手く、それぞれの人物の描きかたも巧みで、シンプルな文章なのに状況も感情もよく伝わってくる。それだけにラストの衝撃が大きく、こんな名著を知らずに過ごしてきたことに驚いた。

2018年8月1日

診察室のイスをひだりに回す理由

当院診察室では、患者は机のひだり側のイスに座る。みぎ側には職員用通路があり、診察が終わると、そこにいる看護師にカルテを渡す。

このとき、イスをみぎに回転させるほうが早いし楽だが、敢えてひだり回転にしている。

というのも、患者の反対方向にイスを回すのは、微量ながらも拒絶のサインになりかねないからだ。

イスをみぎに回すか、ひだりに回すかなんてことは、気にしない人にとってはどうでも良いような、非常に些細な仕草である。しかし、この積み重ねによる効果・影響は、少なくとも精神科医療では軽視できない。

※「みぎ」「ひだり」は、左右取り違えを防止するため、個人的に院内で採用している表記方法。注射部位の指示を漢字で「右」「左」と書くのをやめてひらがな表記にして以来、左右の取り違えミスの報告はゼロになった。