2012年6月28日

マッチ・ポイント

第三セット14対12。
一本落とせば、負ける。
第一セット15対3で取られ、開き直った第二セット。
ひたすら粘り15対13で取り返した。
彼はラケットでふくらはぎを叩き、震える足の感覚を取り戻そうとした。
グリップを強く握る。
シャトルを打つ力は残っている。
相手がサーブの構えに入る。
彼はシャトルに集中しつつ、ネット越しに相手の動きを注視した。
ロングか、ショートか。
来た! 
ロング。
フォア奥に来たシャトルを、彼はストレートのクリアで返そうとしたが、
右足親指に痛みが走り、体がぶれた。
シャトルはまっすぐ飛んだが、距離が伸びない。
相手がシャトル下に入り込んだ。
何が来る? 
彼は全身をバネにして相手のショットを待った。
ほんの一瞬、時間も空気も止まったような緊張感。
クロスカット。
彼は冷静にシャトルに追いつき、フェイントを入れて、ヘアピン。
きれいな軌道。
相手が勢いよく前に出て、バック奥に大きく返してきた。
取る! 
ひたすら足を運び、ストレートのクリアを打った。
相手の動きを追う。
相手もストレートのクリア。
また、バック奥。
右足親指が気になり、シャトル下に入り遅れた。
手打ちのシャトルは、中途半端なクリアになった。
それはつまり、相手にとってのチャンスボール。
来る! 
彼は身構えた。
スマッシュレシーブは得意だ。
レシーブから巧く切り崩して、逆にチャンスを作ってやる。
案の定、スマッシュが来た。
フォア側、ライン一杯。
右手を思い切り伸ばしながら、グリップを端一杯に持ち替える。
届け! 
シャトルがフレームに当たった。
ギリギリ。
汗が落ちた。
シャトルはネットすれすれを越えた。
相手が体勢を崩しながら追いつき、シャトルを上げてきた。
しかし、中途半端だ。
跳びつけ! 
彼は、右足に力を入れた。右足がフロアを蹴る。
しかし、右足に伝わってきたのは、大きく滑る感覚。
汗。
汗で滑った。
左手をフロアにつき、左足を蹴りだす。
追いつける! 
なんとか追いつきバックハンドで打ったシャトルは、緩く、相手正面へ飛んだ。
シャトルが、彼の足下に叩きつけられた。
足の力が抜け、フロアに両膝をついた。
両手をつくと、相手もネットも見えなくなり、フロアがにじんで見えた。
そしてそこに、ぽたり、ぽたりと、しずくが落ちた。
ゆるゆると立ち上がり振り返ると、仲間たちが目に入った。
仲の良い後輩が遠慮がちにタオルを渡してくれた。
タオルで顔を覆った。
ちくしょう、汗が止まんねぇ。
軽い調子で出したはずの声が、かすれて、震えた。

デレク・シヴァーズ  「変? それとも違うだけ?」 TED

こういう感覚は常に持っていたい。

2012年6月27日

バイブを買いに

バイブを買いに
タイトルと表紙が過激だ。しかし、中身は案外繊細で、嫌いじゃないけれど、かといって俺はこういう小説は好きではない。男女のドロドロした部分を女性目線で描いてあって、本の中で「セックス」という言葉をこう何回も目にするのはエロ本以外ではそうないかもしれない。官能小説ほどエロではないけれど、爽やか恋愛小説でもなく……。

電車の中なんかで堂々とは読みづらい本かな。

2012年6月26日

極私的メディア論

極私的メディア論

相変わらず森達也がああでもないこうでもないとウジウジとしたことを語っているが、人や物や事象を多面体としてとらえ、かつ自分が見ているのはあくまでも一視点からであることに自覚的であるべきだという、その姿勢が精神科医にも通じるものがあり、森の本はなんだかんだでもう何冊目かになる。

何が正しくて何が間違っているのか、そういうことを議論するのではなく、「あなたが正しいと思っている考えは否定されるべきものではないが、だからといって、あなたが立っている場所に関して無自覚でいることは良くない。立ち位置によって見え方は違う。そして、そこから見えるものは決して間違いではない。でも自分がどこに立っているかは自覚しておこう」というようなことをしつこいくらいに書いている本である。

2012年6月25日

ヒヨコ3兄弟

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近所の量販店で安かったので買ったのだが、いざ風呂に浮かべてみるとバランスが悪くてまともに浮かびやしない。ちくしょうこのメイドインチャイナめ、というわけで風呂からは撤退して、カメラ撮影用の小道具になった。

へき地保育所を発見

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お巡りさん、不審者です!!w

いや、保育所のフェンス際に植えられたヒマワリを写真撮影している嫁でした。


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保育所のフェンスには、ヒマワリが良く似合う。

2012年6月24日

コウちゃんのあおい空

小学生のとき、会話のテンポが僕たちより少し遅くて、国語の教科書を読むのもつっかえつっかえで、算数の足し算、引き算が苦手で、そのうえ運動も下手な子がいた。彼の名はコウジ、みんなからはコウちゃんと呼ばれていた。勉強も運動もからっきしダメなコウちゃんは、絵だけはとても上手だった。低学年のころはそうでもなかったはずなんだけれど。コウちゃんは、図工のときによく空の絵を描いた。抜けるような空の色は、あお、アオ、青、蒼、碧。僕は、子ども心に凄いなと思っていた。

もともと担任だったヨウコ先生が妊娠してお腹が大きくなったから休むことになり、4年生の二学期から担任になったヒサダ先生は、30歳くらいの男の先生だった。ヒサダ先生は僕たちには優しかったけれど、コウちゃんには厳しかった。国語の教科書は、コウちゃんがどんなにどもってもつっかえても、途中で読めなくて止まっても、ヒサダ先生はむっつりと黙ったまま、絶対に許すことなく最後まで読み上げさせた。算数の時間には、コウちゃんには無理そうな問題でも容赦なく当てる。立ったコウちゃんは指を使って、
「ええと、ええと」
と言いながら、答えを出そうとする。そんなコウちゃんの姿を、教科書で顔を隠しながら笑う子もいた。ヒサダ先生は、コウちゃんが正しい答えを言うまで、しつこくしつこく、何度も言わせた。僕もそんなコウちゃんを見て笑いながら、だけど、そんなことをさせるヒサダ先生が大嫌いだった。

5年生になっても担任はヒサダ先生のままで、ヒサダ先生のコウちゃんイジメは5年生の終業式まで続いたが、ヨウコ先生が6年生から戻ることになって、ヒサダ先生は違う学校への転任が決まった。終業式で、各クラス代表が転任する担任の先生に挨拶をすることになった。うちのクラスの代表を決める話し合いで、クラスのリーダーのダイちゃんが、
「先生に一番世話をかけたんだから、コウちゃんにしようぜ」
と言い出した。コウちゃんは顔を真っ赤にして、それでも嫌とは言わなかった。男子は笑いながら、女子は我関せずという素振りで、コウちゃんが挨拶係に決まった。お別れ会で一人立たされて、「ええと、ええと」と、どもる姿は、きっと誰もが思い浮かべていたはずだ。

終業式の日。いよいよヒサダ先生が壇上に立った。まずは、僕たちからの贈る言葉だ。放送委員から名前を呼ばれたコウちゃんが立った。コウちゃんは、顔を真っ赤にして、だけど、ヒサダ先生をまっすぐに見ながら口を開いた。
「ヒサダ先生」
思いのほか大きな声だったので、それまで下を向いていた人たちまでコウちゃんを見た。コウちゃんは、そのままいつもより断然大きな声で続けた。
「ぼくを、普通の子と、いっしょに勉強、さ、させてくれて」
そこで、コウちゃんはひときわ声を振り絞って、
「ありがとうございました」
そう言った。コウちゃんの、つっかえながら、どもりながらの贈る言葉は続いた。水彩絵の具の色の選び方を、一生懸命に教えてくれたこと。国語でも算数でも、言葉や答えにつまったコウちゃんに、決して他の先生みたいに、「はい、もう良いですよ。次の人」そう言わずに、ただ黙って待ってくれていたこと。放課後、コウちゃんにつきっきりで算数を教えてくれたこと。僕たちが知らなかったヒサダ先生の優しさ、僕たちが見たことのないコウちゃんの姿。ヒサダ先生はコウちゃんから目をそらさず、ぶるぶる震えていた。コウちゃんの贈る言葉が終わり、ヒサダ先生のサヨナラの挨拶の番となった。体育館に響いたのは、ヒサダ先生のくいしばったような嗚咽だけだった。



小人

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花の名前を覚えきれない。

道ばたの花

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仏の座、というんだったかな。

2012年6月23日

田舎の風

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蛙の鳴き声を聞きながら夜道を急いだ。タクシーのテールランプが遠ざかる。暗さに目が慣れたころ、ホタルが一匹、目の前を横切った。蛙もホタルも、ずいぶんと久しぶりな気がする。
かぁちゃん、もうちょっとだけ待っとってくれ。
ずっと住んできた家で逝きたいという母の気持ちを、育ててもらった家で看とりたいという弟夫婦が支えてくれた。見よう見まねの看病は、する方もされる方も決して楽ではなかっただろう。そして、そんな日々は、もうすぐ終わる。
「かえる、なぜ鳴くの、かえるは田んぼに、かわいいたくさんの子があるからよ」
子どものころに母の作った替え歌を口ずさむと、目の前がにじんだ。家の灯りが見え始めると、蛙が一斉に鳴き声を強めた。振り返っても、さっきのホタルはもう見えなくなっていた。涼しくて哀しい、田舎の風が吹く。

セラピストの技法


面白かったし、ためになった。こういう心理療法ができたら良いなぁと思いながら読んだ。ただし、本書にも書かれているが「生兵法はケガのもと」。付け焼刃であれこれやろうとすることがないよう気をつけたい。ケガをするのは患者だから。

2012年6月22日

カタツムリの季節

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写真を撮る間ひたすら、♪でーんでんむしむし、と歌っていた俺。

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ついでに、アジサイの写真を。

ドラゴンフライ アースシーの五つの物語―ゲド戦記〈5〉

ドラゴンフライ アースシーの五つの物語―ゲド戦記〈5〉
蛇足、という言葉があるが、まさにそれ。途中で何度も読むのが苦痛になった。でも最後の一冊だったから頑張った。ゲド戦記は全体を通してみたら、★3つ。

2012年6月21日

あいつ、医学部に受かってたんだぁ、という話

旧ブログ(エキサイト)を運営していた研修医時代、夏休みを利用して東京に行った。そこで、ブログ内で「東京でオフ会しませんか」と呼びかけたことがある。結果は惨憺たるもので、20代の男性が参加したいという連絡をくれただけだった。彼は名前をアキラといって、『外科医への道』だったか、そんな名前のブログを運営している浪人生で、再受験で医師となった俺とのオフ会に興味があるようだった。

ちょっと色気がないなぁとガッカリしつつ、中止するのもためらわれて、俺とアキラは確か新橋で落ち合った。アキラが外科医志望ということだったので、せっかくだからと手土産に、研修医室に放置してあった手術に使う本物の針と糸、それから外科研修の時にコピーした手術手順の教科書(イラストが凄く分かりやすい)を持って行った。

新橋のさびれた小さな居酒屋で、二人して酒を飲んだ。どんな話をして、どれくらい支払ったのかは覚えていない。さすがにおごったのは確かなはずだ。しっかり勉強しろよ、くらいは言ったと思う。お互いに連絡先を交換したような気もする。わりと話の合う奴で、いつか同じ立場で再会しよう、とそんなことも言ったような言わなかったような……。

さて、アキラはその年の医学受験に失敗した、ようだ。というのも結果報告がブログに書かれなかったので、こちらはそう判断せざるを得なかったのだ。それまでブログには様々な応援コメントがあったのだが、アキラが結果報告しないことで批難がいくつか書き込まれた。中には心ない言葉もあり、直接に知っている俺としてはちょっと心苦しかった。その反面、せめてご馳走してやった俺に対してくらいは、やっぱり報告は欲しいよなぁとも思った。

あれからもう3年以上が過ぎた今、ホットメールにフェイスブックから「参加しませんか?」というメールが来ていた。それを送ってきた人の名前に見覚えがあって、「あれ、これはもしかしたら」と携帯電話をチェックしたが入っていなかった。元から入れていなかったのか、どこかで削除したのかは分からない。

悶々としていてもつまらないと思っていたところ、ツイッターでも似たような名前を発見した。どうやら医学生をしているようだ。内容からは一年生か二年生だ。プロフィールにサッカー好きだと書いてある。そういえば、あのアキラもサッカーが好きと言っていたような……。フォローしてみた。すると返信が来て、「ER兄さんご無沙汰しています。ドキドキしています」というようなことが書いてあった。俺のことをこの呼び名で、しかも「兄さん」つける奴なんて一人しか思いつかない。「新橋で飲んだアキラか?」と聞くと、「針と糸をもらったアキラです」という返事。

これは嬉しい再会だった。夢をあきらめて、きっと普通のサラリーマンになっているんだろうと、そんな風に思っていたのだが、まさか頑張り続けて医学生になっていたとは。合格していたんなら、ブログにでもちょっと報告くれても良かったんじゃないのかと恨み節の一つも言いたくなるが、こうやってブログのネタにしても構わないということだったので良しとしよう。

いま、医学部に入るために一生懸命に勉強をしている人たちへ。人生はどこかで踏ん切りをつけて諦めないといけないという時は確かにある。けれど、諦めなければ道が拓くということだってある。このアキラのように。浪人も、再受験も、その他のいろいろな回り道も、医師になってしまえば大切な財産。いや、志し半ばで断念して医師にならなかったとしても、努力したという事実は決して負の遺産にはならない。健闘を祈ります。

そして、アキラは、数年後に医師国家試験に合格したら、今度は俺にご馳走し返す番だと思う。


以上、この文章を、夢かなえたアキラに捧ぐ。

家族ドライブで見つけた夕日

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田んぼには、まだ水が張られただけだった。

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2012年6月20日

素人に毛を生やす

医学生が教科書で学ぶことは、臨床の場に出てみると無意味なことが多い。医師国家試験を通ったと言っても、所詮は一般人に毛が生えた程度に過ぎない。しかし、その一本の毛があるかないかで大きく違うのも事実。

これは、後輩小児科医が尊敬する教授の言葉である。つい最近、高校時代の恩師で今は友人付き合いをしている先生と、後輩小児科医との三人で話をする機会があった。精神科関連の話題に話が及んだ時に、先生が何度となく「素人判断でしかないけれど」と前置きしてから話し始めるので、
「精神科医だって、判断とか感覚とかについて言うなら素人にちょっと毛の生えた程度ですよ。そりゃもちろん精神科に関する知識は他の人より多いし、患者さんをみる時の考え方も身についてはいるけれど」
というようなことを俺が言った。それに対して先生が言う。
「どんな仕事でも、門外漢は“毛の生えた程度”の差を埋められないものだ」
これを受けて後輩が返す。
「俺はまだ産毛しか生えてませんが」
さらに、また先生が答える。
「その産毛の差が凄いのだ」
そこで後輩が思いだしたのが冒頭の教授の言である。

実に印象深い会話だったので、記録しておく。

2012年6月19日

花の写真

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写真を加工するときには、これまではコントラスト強め、明瞭度も上げて、なんとなくトイカメラのような仕上がりにするのを好んできた。しかし、最近こういう具合に、コントラストは少しあげるけれど、明瞭度はちょっと下げるという感じの写真も結構良いんじゃないのという気になっている。写真は撮るのも面白いけれど、加工をやり始めるとどんどん惹きこまれていく。

皆さん、カメラをもって歩きましょう。

2012年6月18日

ベスト・オブ・ケルティック・ミュージック

ベスト・オブ・ケルティック・ミュージック
買ってアタリだったCD。バグパイプのCDを探していて行き当たったもので、バグパイプの音色はほとんど入っていないんだけれど、北欧的というかケルティックというか、そういうのが好きな人にはオススメ。無印なんかで流れていたらすごくハマる感じ。

amazonで全曲を一部試聴できるので、ちょっと聴いてみて欲しい。

2012年6月17日

デレク・シヴァーズ  「社会運動はどうやって起こすか」 TED

非常に秀逸で、感動すらしたプレゼン。


笑いものにされる勇気がある人がリーダーとなる。ただし、重要な役割を担うのは、リーダーに共鳴して行動を共にする最初のフォロワーで、その人は実は影のリーダーである。フォロワーの数が臨界点を超えると、その輪は自然に大きく広がっていく。

ラモスの熱さがウザかったあの日

平成23年3月19日に旧ブログに書いた記事で、あれから1年以上たって読み返して面白かったので掲載。

ラモスが自身のブログでとんでもないことを言っている。買い占め批判についてや、関東からの一時避難に関しては、このブログでは取り上げないつもりだったのだが、あまりにもラモスの暴論がひどいので、我慢の限界を通り越してしまった。

ラモスのオフィシャルブログの記事 『もう一度冷静になれよ!』

これがまた、
「ラモス、良いこと言った!!」
「俺が言いたかったことだ!!」
みたいに手放しで称賛されていることが空恐ろしい。

以下、買い占めと一時避難に対する批判について書く。

買い占めがやたらと批判されている。責める側にも理由はいろいろあるみたいだが、「被災地に送る物資が足りなくなる」という意見はどうなんだろう? 買い占められているのは小売店の店頭に並んでいる商品だろうし、それが売り切れたところで救援物資が減るなんてことあるのかな……。

それにもし仮に、買い占めのせいで物資不足になっているのだとしたら、たかだか一部の市民の買い占めくらいで足りなくなるような状況は、本当に、「物資は十分に足りているから冷静に」と言えるレベルの備蓄状態なんだろうか……。必要なものがあって買い物に行って商品棚がガラガラだったら、いくら「大丈夫」と言われていても、焦らない方がどうかしている。まして家事を仕切っている主婦の立場なら尚更だろう。

買い占めは批判したところで止まらない。もし本当に物資が十分にあるのなら、 「足りている」ということを示して安心させることが必要なはず。店頭が品薄なのに「足りている」だけ連呼しても安心はできない。


ラモスが東京から避難している人を責めているけれど、おいラモス大丈夫か? 俺は遠く西の地に住み、関東の地理もよく分かっていないのだが、東京だってかなり揺れたらしい。妹夫婦が東京に住んでいて、買ったばかりのマンションにヒビが入っていたらしい。妊婦である妹は、地震当時は埼玉の友人宅にいて、裸足で外へ避難した。原発だけじゃなく、地震だって心配なのが当然の人情だろう。

そういう人情話を抜きにしても、もし近々、関東で再び大地震が起こって、本当に避難が必要な事態になったとしたらどうだろう。早期避難している人たちの分、混雑や混乱が緩和されるわけで、それは決してマイナスなことではないはず。この時期に東京を離れることが、どうしてそこまで責められなければならないのか。地震や原発が不安だという人が田舎に一時避難して、誰かに迷惑をかけるのか? 買い占めは確かに近隣住民にとっては迷惑だろうけれど。「冷静になれよ」なんて、その意見自体が感情的だ。

だいたい、言っていることがおかしい。
「逃げたくても逃げられない人がいるのだから、自分たちも逃げるな」
なんてのは、根性論を通り越して暴論でしかない。被災して避難所生活していて、他の人たちより先に疎開できた人たちが、この言葉を知ったら、ちょっと不愉快になるんじゃないのかな。少なくとも、俺なら言われたくない。

それからもう一点、これだけは言ってはいけないということを、ラモスがブログに書いている。
「その時がきたら 俺は静かに自分の家にいたいし逃げて自分だけ助かろうなんて絶対おもわない(中略)自分の事だけ考えるのは いいかげんやめようぜ」 
彼は津波の被害映像を見なかったのだろうか。必死に逃げながら「みんな、逃げて!!」と叫ぶしかできない消防団員の姿があった。高台に避難して、流される人たちをただ見ることしかできなかった人たちの映像があった。この震災が落ち着いてから、被災者がラモスのこの言葉を知ったら、どう思うだろう。助かった人たちは、目の前で流されていく人たちを助けられなかったことに、一抹の罪悪感を持つようになるかもしれない(もともと生存者の罪悪感、サバイバーズ・ギルティという感覚がある)。ラモスの言いたいことは分からないでもない。しかし、言い方が悪い、言葉足らずだ。このラモスの記事を読んで傷つく人が、必ずいる。

2012年6月16日

肺がん発見遅れで女性死亡、慰謝料5千万円

このニュース記事だけから判断すると、産婦人科医の落ち度は言い訳のしようがない。しかし、整形外科医はどうだろうか……。
香川県は14日、県立中央病院(高松市)の医師2人が、エックス線写真などの確認を怠り、肺がんの発見が遅れて50歳代の女性患者が死亡したとして、遺族に慰謝料など5000万円を支払う、と発表した。 

県によると、同病院は2008年2月に女性の腕の骨折手術を前に、胸部をエックス線撮影したが、整形外科医は画像を確認せずに治療。同年8月には、以前治療した子宮頸けいがんの経過観察でコンピューター断層撮影法(CT)の検査をしたものの、産婦人科医は検査報告書を見ずに放置していた。

女性は09年6月に肺がんと診断され、10年10月に死亡。遺族の問い合わせを受け、病院は、CT検査の報告書に「肺に異常陰影あり」との記載があり、エックス線写真にも左肺に直径2センチのがんが写っていたことを明らかにした。

エックス線撮影直後に治療を始めていれば5年生存率は30~40%上がっていたとみられ、松本祐蔵院長は「重大な医療事故で、女性と遺族に申し訳ない」と話した。

(2012年6月14日19時06分 読売新聞)
ほとんどの手術で、術前に胸部レントゲンを撮る。でもそれは肺の病気を見つけるためではなく、大雑把な肺の様子、気道の偏位がないかを調べるためだ。手術に耐えうる呼吸器かどうかを確認する目的での撮影だから、そのレントゲンで肺がんを見つけろというのはちょっと酷だろう。

それに対して、産婦人科医はCTを撮って、報告書にもしっかりと異常陰影ありと書かれているのに、それを見ていなかったというのだから話にならない。自分の守備範囲である子宮や卵巣だけは実際に画像を見てチェックしたのだろう。そう信じたいところではある。でなければ、患者に余計な被曝をさせ、検査料を払わせ、無駄な医療費を使っただけじゃないか……。

ハンス・ロスリング 「増え続ける世界人口」 TED

プレゼンテーションのやり方が秀逸。そして勉強にもなる。


時どきTEDを観て、気に入ったものを紹介することにする。

真の信用を得るために必要なこと

『信用は得難く、失い易い』
あまりにもありきたりで陳腐な言い回しだが、本当にそうなのか? そうじゃないこともある、そんな話を今日は書く。俺が医学部2年生の時の話だ。

俺はバドミントン部に所属していて、同級生は7人いた。それまでパッとしなかったバドミントン部をもっと盛り上げていこう、そんな気概のある仲間たちで、そんな彼らを俺は好ましく思っていた。

2年生になると後輩ができた。残念ながら、入部した3人のうち1人は早々に退部し、残り2人もなかなか上達しなかった。そんな後輩を見ながら、同級生らは口々に、
「俺が鍛える」
「使い物になるようにしてやる」
「しごいてやる」
とそんなことを言っていた。

夏の大会は名古屋であり、そこから俺は後輩の一人と西の果てまで青春18切符で帰った。1泊2日かかったが、道中まったく退屈しなかった。その後輩との会話は話し心地、聞き心地というものが良かった。

さて、その彼は同級生の期待に反して伸び悩んだ。そんなある日、俺と同級生らが学食で話し込んでいた時、同級生の一人が、彼について、
「俺はアイツを見限った。運動ができないのは仕方がないとしても、アイツは頑張ると言うくせに口ばっかりじゃないか」
と言ったのを聞いて、俺はキレた。別に親しい後輩だから反論したわけではなく、後輩を非難する同級生の矛盾に満ちた中身が気に入らなかったのだ。俺は言った。

「お前さ、数ヶ月前になんて言った? 俺が鍛えるとか、使い物にするとか、しごくとか、そんなこと言ってたよな? で、なに? 見限る? 口ばっかり? あのさ、数ヶ月前にあんだけ鍛えるとか可愛がるとか言ってたのに、たった数ヶ月でもう見限るとか。口ばっかりって、お前のことじゃねぇの?」
彼は黙った。周りも言葉を発さない。しばしの沈黙の後、誰かがぽつりと言った。
「いちはの前で、後輩の悪口を言うのはやめようぜ、キレるから」
そうじゃない。でも、まぁ、それでもいいや。なぜなら俺は、キレるから。

価値観というのは人それぞれで、多くのことに正解も不正解もない。しかし、できることならば、過去の自分と今の自分の整合性はつけておきたい。数ヶ月前の発言には責任を持ちたい。その場限定で綺麗に輝く言葉なんてバカバカしい。

さて、その後輩はどうしているかというと、小児科医として生きている。俺からしたら非常に頭の下がる働きっぷりだ。どこに出しても恥ずかしくない後輩で、うちの娘を安心して診せられる小児科医の一人だ。逆に、その後輩から俺が精神科医として信頼されているかどうかはともかく、人として信用されていることには自信がある。

そこで話を戻そう。
『信用は得難く、失い易い』
本当にそうなのだろうか。実はそうじゃないのかもしれない。真の信用というものは、得るのはそう難しいことじゃない。上記したように、信念というか、曲げない部分というか、そういうものがあれば、そこに共鳴した人はついてくる。そして、そうして得た仲間はそうそう簡単には離れない。

2012年6月15日

Bagworm

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庭の梅の木でミノムシを発見。もう10年、いや20年以上、ミノムシなんて目にする機会がなかった。子どものころはただ虫の作った殻みたいにしか見えなかったものが、こうして大人になって改めてよく観察すると、可愛らしくてちょっとオシャレなオモチャみたいに感じられるから不思議だ。

2012年6月14日

アースシーの風―ゲド戦記〈6〉

アースシーの風―ゲド戦記〈6〉

実際に読んでいるのは単行本のため、岩波少年文庫とは5巻と6巻が入れ替わる。

それはさておいて、本作は前4作と比べて面白さが増していた。これまでの作品の面白さを俺の感性で並べると、『本作>3>4>2>1』となる。ゲドが主人公である1巻は俺の好みに一番合わなかった。

この物語を読みながら、俺は小野不由美の『十二国記』を思い出す。世界観というか、世界設定というか、そういう細かい部分をしっかり練っているところが素晴らしい。ただし、説明的になるとどうしても退屈にもなってしまうのだが、特に『十二国記』はそのあたりが巧かった。

ゲド戦記は、読むならやはり1巻から、ということはなく、俺なら3巻からをお勧めする。「3→2→1→4→本作」というのが読みやすいんじゃないのかなと、そういうふうに思う。特にゲドの活躍を期待している人たちにとっては、この流れが一番良さそうだ。

ケルティック・ハープ

やすらぎの音楽 ケルティック・ハープ
バグ・パイプという楽器のCDを一枚くらい持っておこうと思い、アマゾン探索をしているうちに発見した一枚。肝心のバグ・パイプのCDは買わずじまいとなってしまったが、このCDはヒット!! まぁamazonの試聴の時点でこれは買って損はしないなと分かってはいたが。

こういう癒し系の音楽が好きな人にはオススメ!!

2012年6月13日

エンブレム

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大切に乗ってはいるけれど、イタズラや当て逃げを何度も受けてキズキズである。

2012年6月12日

彼女に椅子を買って帰るのはツッコミどころか

B'z“いつかのメリー・クリスマス”の「僕は走り 閉店まぎわ 君の欲しがった椅子を買った 荷物抱え 電車のなか ひとりで幸せだった」の部分には、壮絶なツッコミが。
彼女に椅子を買って帰るなんて、実に素敵だと思う。プレゼントそのものより、「こんな大きくて運びにくいものを電車に乗って持ち帰ってきてくれた」というところが痺れるじゃないか。

ただプレゼントするだけなら事前に買って宅配すれば良いわけだが、それだとサプライズにならない。驚かせて喜ばせたいという気持ち、分からないかなぁ……。彼女の反応を想像して、いわゆる「ニヤニヤが止まらない」状態だから、「荷物抱え電車の中、一人で幸せだった」わけで、この時の彼はもうニヤついてしょうがないと思う。そんなんだから、2番では、「誇らしげにプレゼント見せる」し、彼女も「心から喜ぶ」し、それほどまでに想い合っているから、「部屋を染めるロウソクの灯を見ながら、離れることはないと言った後で、急に僕は何故だか分からず泣いた」なんてクサイ世界も「ありだな」なんて感じるんじゃないだろうか。



2012年6月11日

ドーナッツ!!

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アメリカの映画やドラマでは、誰かが職場でドーナツを配る姿をよく見かける。アメリカ人ってそんなにドーナツの差し入れが好きなのだろうか? 疑問で仕方ない。

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クリスピー・クリームというドーナツ屋で、『セックス&ザ・シティ』というドラマで有名になったらしいのだが、俺はそのドラマを観ていないので感動は薄い。妻は大喜びしていた。

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ミスタードーナツのポンデリングのほうが断然おいしかった。こんなことを書くと、俺の舌が貧相だと思われそうなのだが、世間の評価はどうなのだろう?

2012年6月10日

店を走り回る子どもを叱らない親って……

学生時代、仲間数人と近くにあるナントカの丘という広い公園に行った。頑丈な木のテーブルが並べられていて、そのうちの一つを囲んで俺たちは座った。近くには5、6歳くらいの子どもらを連れた30代と思われる女性二人がいて会話に夢中だった。

子どもらは退屈してか、靴のままテーブルに乗り上がり、あっちのテーブルこっちのテーブルとジャンプして遊び始めた。この時点で俺はピキピキと来ていたけれど、さすがに他人の子を注意するのも気がひけてしばらく黙っていた。ところが、いよいよ子どもらは調子づいてきて、ついには俺らが囲んでいるテーブルの上にまで飛び乗ってきた。もはや我慢の限界。俺はその子どもらを睨みつけ、

「おい」

と言いかけたところで、女性の一人が大きな声を出した。

「こらっ!!」

女性の叱るタイミングは遅いけれど、それでもきちんと注意する姿勢は評価したい。

と思ったら……、

「危ないよ! ケガするよ!!」

注意のポイント、そこじゃねぇぇぇぇぇぇぇっし!!


叱られた子どもたちはバツの悪そうな顔をして母親たちのところへ行った。

以上。

……。

そう、母親らは、一言も俺たちに謝らなかったのだ。あの親ありて、この子らあり、だな。皆さんがこの母親だったら、こんな時、どういう対応をするだろうか。

2012年6月9日

帰還―ゲド戦記〈4〉

帰還―ゲド戦記〈4〉

前3作で完結したかに思われたゲド戦記だったが、その18年後に発表されたのが本作。おいおい時間空けすぎだろ、『ハンターxハンター』の富樫でさえそんなに休まないぞ。と、それはさておいて、はやり18年という歳月は長かったのか、これまでのゲド戦記とはちょっと毛色の違う物語となっていて、男尊女卑とか女性の地位向上とか、そういう部分がテーマになっている。

また、現代社会でバリバリ仕事をしている男性が定年で引退した時、そこに何が残るのか、何を求めるのか、何を見出せるのか、そういった部分も考えさせるような内容となっていて、これまでの4巻通して『ゲド戦記』が普通の「剣と竜の世界」での冒険物語とは違うと感じる。そもそも4巻では冒険など一切しないのだから驚きだ。

手放しで、面白い! という勧め方はできない本ではある。

2012年6月8日

校庭でのボール遊び禁止

小学校の校庭で、5年生の少年の蹴ったサッカーボールが校庭を転がり出して、そこを原付で通りかかった高齢男性がボールを避けようとして転倒して骨折、それから認知症になって約1年半後に肺炎で死亡した。そこで遺族は、このボールを蹴った少年と両親を訴え5000万円の損害賠償を求めた。その裁判の控訴審が終わり、裁判所は少年側に1180円の賠償を命じた。

訴訟のきっかけから結果まで、すべてに違和感のある事例だ。ネット上での意見の大半は、こんな裁判おかしいというものだが、一部には哀しい必殺技「自分の立場に置きかえてみろ」を繰り出している人もいる。すなわち、「自分の家族が、同じような事故にあっても許せるのか」という意見である。このブログでも何度か書いているように、自分が同じ立場になって同じことを言えるわけがない。しかし、それはみんな同じはずで、この事故に関してだと、「同じこと言えるのか!?」と言っている人は、少年の家族の立場でも同じことが言えるのかを聞いてみたい。「同じこと言えるのか!?」という糾弾は、使う者にも跳ねかえる哀しい武器なのだ。

ところで、これは記事を読めば分かるように、ボールが高齢男性に当たったわけではなく、ボールを避けようとした男性が転倒した事故だ。校庭に沿った公道を自動車などで走る場合、子どもが飛び出してくるかもしれないと注意する義務、これは当然運転者にある。この裁判の判決(一部男性の責任も認めてはいるが……)が妥当だとするなら、もしボールではなく子どもが飛び出して起きた事故であったとしても、やはり子ども側に賠償責任が発生するということにならないだろうか。法律には詳しくないので、「ぜんぜん違う!」という人がいれば教えて欲しいところ。

それにしても、1000万円は大きい。何千万円の横領とか、何億円の不正融資とか、そういうニュースに見慣れていると大した金額に感じないかもしれないけれど、いざ自分に、それも自分には責任がないと思えるようなことで「1000万円払え」なんて命令が下されたら……、家の中がかなり暗くなる。話が少しそれるが、『何でも鑑定団』で皿の自己評価が1000万円、「じゃかじゃん!」で5万円だった時の失笑する感覚、と言えば分かるだろうか。よくよく考えたら5万円の皿なんて凄いじゃん、我が家の宝じゃん、そんなお皿では怖くて料理食べられないよ、みたいな。

俺は最愛の祖父を今年1月に亡くしたが、祖父がまだ70代のころに、「もう車を運転させないようにしよう」という家族会議があった。自損事故ならいくらでも構わないが、もし人様に迷惑をかけたら大変だからだ。この高齢男性の家族と同じ立場になったとしたら、原付を運転させてしまった自分たちを責める。とはいえ、この男性に運転させていた遺族を批難したいわけではない。ただ、いくらなんでも訴訟は行きすぎだろうと、その点は大いに批難したい。また、裁判官の判断も狂気じみている。

ボール遊びしている校庭なんていくらでもあるし、たまにボールが外に飛び出すことなんてしょっちゅうだろう。こんな判例がまかり通るようでは、当たり屋ならぬ「転び屋」が出てきてもおかしくないぞ。

ちなみに、この亡くなった男性、87歳だったのだとか。転倒骨折も認知症も肺炎も、すべてを少年のせいにするのって、どうなの?
校庭からボール蹴った元少年側に2審も賠償命令
愛媛県今治市で2004年、オートバイに乗った80歳代の男性が、小学校から飛び出たサッカーボールを避けようとして転倒し、この時のけがが原因で死亡したとして、大阪府内の遺族らが、ボールを蹴った当時小学5年だった元少年(20)の両親に計約5000万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決が7日、大阪高裁であった。
岩田好二裁判長は、1審・大阪地裁判決に続いて元少年の過失を認定し、両親に計約1180万円の賠償を命じた。

岩田裁判長は「校庭からボールが飛び出すのは珍しくなく、注意しながら走行すべきだった」と男性の過失を新たに認定し、賠償額を約320万円減額した。

判決によると、04年2月、元少年が校庭で蹴ったボールが道路にまで転がり出て、男性がオートバイごと転倒。足の骨折などで入院し、その後、生活状況の変化で体調が悪化し、翌年7月、肺炎で死亡した。
(2012年6月8日07時44分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120607-OYT1T00932.htm

さいはての島へ―ゲド戦記〈3〉

さいはての島へ―ゲド戦記〈3〉
1巻から3巻まで読んでみて、本書がメインな気がする。ゲド戦記の愛読家からは叱られるかもしれないが、1巻と2巻はどうしても外伝という感じがしてしまう。やたら骨格のしっかりした外伝ではあるけれど。

1巻はゲドの内面の成長の描写が多くてセリフが少なめでちょっと退屈するところもあったが、2巻ではややセリフが多くなり、本作ではセリフが増えて、それでいて主人公アレンの内面の成長も感じられた。

ゲドが主人公なのは1巻だけで、2巻と3巻はそれぞれ主人公が違う。邦題は『ゲド戦記』だが、どうやら原題は違い、おそらく物語の舞台である『Earthsea』が原題のようだ。3巻から読んでも充分に楽しめるし、むしろそのほうが取っつきやすいような気もする。

2012年6月7日

こわれた腕環―ゲド戦記〈2〉

こわれた腕環―ゲド戦記〈2〉
前半部分は、あれあれ?という感じだったのだが、中盤から面白さを増した。1巻では少年ゲドの、2巻では少女テナーの成長を描いている。このあたりをうまくレビューしている人がamazonレビューにいたので、興味がある人はそちらで読んでもらえたらと思う。

ゲド戦記についての知識が皆無なので、未だにこの先どうなるのか予想がつかない。とりあえず読み進めるのみ。

2012年6月4日

安部英医師「薬害エイズ」事件の真実

安部英医師「薬害エイズ」事件の真実
薬害エイズ事件の最大の黒幕である安部英を一方的に擁護する本、だと思っていたが、実際は全然ちがっていた。

つくづく胸くそが悪くなる。何に対してか、それは自分に対してだ。この事件が話題になっていた頃、俺はまだ20歳前後の経済学部生で、マスコミの言うことを鵜呑みにして、「安部という医者はとんでもない悪党だな」と思い込んだまま、そして彼の裁判の結果がどうなったかを知らないまま、本書を手にするに至った。読んでみて、マスコミに洗脳され続けていた自分を情けなく思う。そして、悔悟の念がやまない。

安部先生、本当に申し訳なく思います。

今でこそ、マスコミは信用できないと気づいてテレビや雑誌を批判的に見られるようにはなってきたが、それでも小沢裁判のときもそうだったように、まだマスコミに毒されている部分がある。いやはや、マスコミ、そして検察とはなんとも恐ろしい組織である。マスコミは民間だから仕方がないとしても、検察はこの事件でも証拠隠しをやっている。検察による証拠の捏造、隠ぺいなどが最近明るみになっているが、検察がここまで腐敗しているのは非常に怖い。

安部英医師を悪党だと今でも信じきっている人たちには、本書をぜひとも読んで欲しい。そして、薬害エイズ事件を知らない世代の人たちにも、マスコミや検察の怖さを知る良書として強く勧めたい。

ちなみに、本書で菅直人が出てくる。
輝いていた菅、昔も今も変わらない官僚‏ 『お役所の精神分析』
リンク先の本で菅直人を見直したのだが、どうやらそれは間違いだったようだ。

太郎

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2012年6月3日

影との戦い―ゲド戦記〈1〉

影との戦い―ゲド戦記〈1〉
重い腰をあげて、ようやく読み始めたゲド戦記シリーズ。1巻を読み終えての感想は、そこそこ面白いといった程度。同じ児童向けでは『ダレン・シャン』が断然面白かった。しかし、子どもに読ませるには含蓄があって良い本だと思った。

2012年6月2日

ダンボー・ブラザーズ、マッチョを目指す

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「これからのダンボーは、強くなくっちゃいけねぇ」
「ウッス!」


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「次、アニキの番っす!」
「え?」


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「うん、まぁ……」
「え、あ、ちょっと」

リボルテック ダンボー・ミニ Amazon.co.jpボックスバージョン

2012年6月1日

ひきこもりに悩む親だけでなく、治療家や学校の先生にもお勧め! 『社会的ひきこもり 終わらない思春期』

ひきこもりというのは奥が深い。相談を受けることも稀ならずあるが、どれも一筋縄ではいかない。明らかに統合失調症やうつ病などが関与していると思われるケースは、実は対応しやすい。先輩たちが築き上げた治療方法というレールがあるので、そこへ乗せるまでの苦労だけだ。しかし、原因が一見しただけでは分かりにくいひきこもりは、まずレールそのものを用意しないといけない。大学で学ぶ精神医学、あるいは最初に赴任した精神科救急病院では、そういうひきこもりケースに用意するべきレールなど教わらないし、もちろんレールへの乗せ方も習わない。見よう見まねといったって、見るべき先輩がいないのだ。そこで、本書のような本が非常に役に立つ。


これは研修医時代に精神科を志すと決めてから読んだ本。以下、印象的な部分を抜粋する。
引きこもりが心因性か統合失調症によるものかの見分け方。主治医が手紙を書いて、それを親から本人に手渡してもらう。手に取って読むようなら心因性、まったく興味を示さないなら統合失調症を疑う。
引きこもりに対して、「一方的な受容」は、一方的なお説教と同じくらい有害である。
我が子が引きこもりはじめたら、まずその理由を尋ねてみる。そして、少なくとも一度はじっくりと説得を試みて欲しい。そのような試みによって、本人がどんなことを悩んでいたのか明らかにされることもある。
引きこもりに対し周囲の人だけでも何らかの治療的対応へ向けて動き出す目安は、引きこもり開始から6ヶ月。それより短期間だと家族や周囲の過剰対応になりがち、一年くらいだと対応が遅れてしまう。
引きこもりに特効薬はない。一般的に、適切な対応がなされた場合で、立ち直りに短くても半年、平均して2-3年の時間が必要。「周囲がどれだけ待つことができるか」が、その後の経過を大きく左右する。
引きこもりにおいて、本人がある日突然、理由もなく活動的になったり意欲的になったりしても、「やっと目を覚ましてくれた」と手放し歓迎は危険。急激な変化は、しばしば精神疾患の始まりを意味していることがある。
手をかけずに、目をかけよ。
人は自分を愛する以上に、他人を愛することができない。いやできる、と主張する人は自覚のないナルシストである。家族に対する愛も同じ。
引きこもりでは、家庭こそが本人の唯一の居場所であり、そこで安心してくつろげることが治療の大前提。そのためには「怠け」と考えないこと。本人が感じている引け目、挫折感、劣等感は周囲の想像を絶するものである。
家族は「親の心子知らず」のように感じていても、本人はむしろ普通以上に家族と同じ価値観を共有している。親の説教や正論が通用しないのはこのためで、身にしみて判っていることをさらに諭されるのは誰だって不愉快。
引きこもりでは、家族は返事を強要せず、挨拶、声かけ、本人が応じるなら話題をふくらます。他愛ない世間話、趣味についてなどが良い。仕事や学校、同年代の友人や結婚話は本人の劣等感を刺激するので避けた方が無難。
会話が増えてくると、過去についての理不尽な非難が向けられることがあり、冷静でいられる親は少ない。しかし、とくかく言いたことは遮らず最後まで言わせる。本人がどのような思いで苦しんできたかを丁寧に聞くことに意味がある。
「いつも同じことをくどくど聞かされるので参ってしまう」とこぼす家族も少なくないが、そのような家族は、しばしば本人に言いたいことを充分に言わせていない。
「何が正しいか」ではなく本人が「どう感じてきたか」を充分に理解する。誤った記憶であっても、「記憶の供養」をする気持ちで付き合う。本当のコミュニケーションに入る前の儀式のようなものである。
注意すべきは「耳を傾けること」と「言いなりになること」はまったく違うということ。本人が腹立ちのあまり謝罪や賠償を要求してくることがあるが、こういう要求には原則として応じるべきではない。底なしの受容は本人に「呑みこまれる恐怖」を与えかねない。
受容には「底」や「枠組み」が必要で、それが破られる時には毅然として拒む態度が必要。親は「受容の姿勢」と同時に「受容の枠組み」を判りやすく本人に示すべきである。
一度はじめた働きかけは必ず続けることが重要。はじめは皆熱心だが、だんだん行われなくなることも少なくない。これは何もしないよりまだ悪い。本人にしてみれば改めて「お前を見捨てる」と宣言されるに等しい。
両親が全面的に関わることが治療上不可欠。両親以外の家族、親戚の関与は不要、あるいは有害。父の無関心も問題で、気まぐれに叱ったり激励したりで責務を果たしたつもりなことが多い。そのような関わりは治療の足を引っ張るだけ。
父は「母の教育方針が間違いだった」と主張し、母は「父の無関心が原因だ」と譲らない。これは最も避けるべき「犯人探し」の論理。とにかく、両親が夫婦として仲良くなること、そのことの治療的効果は絶大。
引きこもり治療という長期戦、消耗戦をやり遂げるには、両親それぞれが自分の世界をしっかり確保する必要がある。24時間、本人と向きあって過ごすようなやり方はまったく好ましくない。パートや趣味、社交などの時間を確保すべし。
母親が外に出かけることを非常に嫌がる事例もあるが、振り切ってでも出かけることで、本人の中に「母親という個人」があらためて認識される。自分とは異なる個人としての母親を認め、その事実を受け容れることは極めて重要。
会話が不自然になる、緊張して上手く話せないという親がいる。長年ひきこもって話さなかった子どもに対して、不自然にならないほうがどうかしている。不自然でも構わない。親が自分と話したがって努力していることが伝われば良い。
将来、仕事、結婚の話を持ち出すのは残酷。過去の楽しかったころの思い出話すら本人は忌避する。同年代のタレントの話題も少しずつ本人を傷つける。時事的、社会的な話題が無難で、そういう話題に興味ある引きこもり青年は多い。
小遣いは「充分に与える」「金額は必ず一定」「額については本人と相談して決定」。「欲しい時に欲しいだけ」は浪費か、逆に欲望減退につながり危険。消費活動も社会参加の一つの形、かつ本人が社会と接するための唯一の砦。
スキンシップの禁止。甘えの需要は言葉のレベルに留め、身体接触を伴う甘えの要求は、原則として退けなければならない。引きこもりの家庭内暴力を受け入れるのは間違い。
暴力の底にあるのは悲しみ。暴力をふるって自らも傷つき、自分を許せなくなり、そんな自分を育てたのは両親なのだと自責と他責の悪循環に陥る。
(筆者の)基本的立場は暴力の拒否。これは暴力との対決ではない。暴力を抑え込むための暴力も拒否するということ。
暴力の程度によっては警察への通報も考えるべき。これは「警察が何とかしてくれる」からではない。「家族は場合によっては警察を呼ぶほどの覚悟ができている」ということが理解されれば良い。
パソコンへの没頭で引きこもりが悪化するという心配も聞かれるが、対人関係が充実することはあっても、引きこもりが悪化することはほとんどない。傍目には逃避に見えても、社会との接点を回復するための窓口として役立っている。
本人に対して家庭の資産や借金などの経済状況を詳細に説明すること。「親はいつまでも生きてはいないよ」「うちはもう余分なお金はぜんぜんないよ」といった曖昧な脅し文句はただ有害なだけ。

いささか引用だらけになってしまったが、これだけ引用しても足りないくらい含蓄に富んだ本。ひきこもりに悩む両親だけでなく、治療家、それから学校の先生などにもお勧めな一冊。