2014年6月2日

生きる意味のない体にサヨナラを

事故から三年。
寝たきりになったとはいえ、奇跡的に、そして幸運なことに意識はしっかりしている。ただし、手も足も、指一本さえ動かない。首から下の感覚もないが、首から上の感覚は残っている。
目は時どき家族や看護師が開けてくれるが、そのままだと今度は瞼が開きっぱなしになって眼球が乾燥するので、基本的には閉じられている。外から見れば、いわゆる植物状態だ。

こういう体になってみて思うのが、聴覚や嗅覚だけでも残っていて良かったということだ。三年の間に、人の声の聴き分けはもちろんのこと、近づいてくる足音で誰かが分かるほどになった。
とはいえ、基本的に目は閉じているわけだから、正解かどうかは声と匂いで判断するのだが。
家族に限って言えば、声を聞かなくても、匂いと、かすかな身じろぎの音、それから独特の空気で、それが父なのか母なのか、それとも兄や妹なのかが分かるようになった。

例えば、父のいる空気はほとんど動かない。何分かに一度、パラリと本のページのめくれる音がする(きっとまた小難しい本だ!)。そして時どき、父は僕に目を向ける。目を閉じていても、父のまばたきや眼球の動く音で、それが分かるような気がするのだ。
母の空気は柔らかい。母はそっとカーテンと窓を開けてくれる。僕に残された首から上の感覚は、新鮮な空気と陽射しに酔いしれる。それから母は、頻繁に僕の布団のしわを伸ばしたり、首元の布団をなおしたりするのだ(僕は寝返りなんかうたないのに!!)。
もうすぐ三十歳の兄の空気は、だんだんと父に似てきた。ただ、読んでいる本が父と違ってグラビア雑誌なのだが。面白いページにあたると、兄はそれを僕に読み聞かせてくれる。僕はそれを聴きながら、まだ幼稚園児だったころのことを思い出す。小学生の兄は、よく枕もとで絵本を読んでくれた。そして、とても下手だったのだ(そう、今と同じようにね)。
来年の春に大学を卒業する妹の空気は、母に似ることもなく、自分の道をまっしぐらである。まるで小さな竜巻が何十個も飛び交っているかのようだ。母みたいに柔らかくはないが、それはそれで、僕の動かない体にとっては清々しい(香水つけすぎって指摘したいこともあるけれど)。

耳と鼻だけで生きてきた三年の間に、風の香り、雨の音、鳥や虫の声、そういったもので季節の移ろいを感じてきた。そうやって、少しずつ少しずつ、僕はこの音と匂いにあふれた真っ暗な世界を好きになった。
だから僕は、音読の下手な兄と、竜巻の妹に感謝している。二年前、僕の安楽死カードに従おうとした父と母を説得して止めてくれたのが、この二人だったからだ。

「体が動かなくて、意思表示もできないのに、生きている意味なんてない!」
安楽死カードに署名した五年前、僕はまだ二十歳で、いつまでも健康な体のまま、だんだん年老いて死ぬものだと思っていた。
だから、そんな気持ちで、いや、実際にそう口にしたかもしれない、しかも、笑いながら。とにかく僕は、そのカードに僕の名前を書いたのだ。迷いもなく、活き活きと、力強い筆跡で。

もうすぐ、夏が来る。
昼には蝉が鳴き、夜には蛾たちが窓を叩く。
にわか雨が降れば、独特の匂いとともに遠くでカエルの合唱が始まり、雷が鳴れば看護師たちが騒ぎ出す。
夏祭りの音が遠くから響き、時どき、近所からは子どもたちのはしゃぐ声と小さな花火の音、それから蚊取り線香の匂いが漂ってくる。
とても楽しい季節だ。

そんなことを考えていると、カラカラと耳慣れた音が近づいてきた。点滴スタンドだ。それから足音が、一、二、三、四、五、……、六人分。父と母、兄と妹、それから主治医と看護師だ。
「良いですね?」
主治医の声が固い。
しばらくの沈黙。
それから、かすれた父の声が聞こえた。
「はい」
父の、ほとんど動かないはずの空気が揺れた。
震える母の声が続いた。
「お願いします」
柔らかさを失った母の空気が、僕をぎゅっと包み込む。
ぐふぅっ、と歯を食いしばったような兄のため息が聞こえた。父に似てきた兄の空気が、いまは無理やり動きを止めているかのようだ。
妹が鼻をすすった。涙に濡れた瞬きの音が聞こえる。何十個もあった小さな竜巻は、いくつものつむじ風になってしょげている。

兄と妹が安楽死を止めてくれてから二年。
僕のいないところで四人がどんな話し合いをしたのか分からない。
ただ一つだけ分かることは、これから僕が安楽死するということだ。
体が動かないうえに意思表示もできないのなら生きる意味なんてない、と、そう無邪気に信じきっていた五年前の僕が、いまを生きる僕の命を終わらせにやって来たのだ。

生きたい、と思った。
体が動かなくても、生きたい。
意思表示できなくても、生きたい。
生きている意味なんてなくても、生きたい、死にたくない、生きたい、死にたくない。
誰にもわからないだろうけれど、僕なりに生きる意味はあるんだ。

みんな、泣かないで。
泣きながら、僕を殺さないで。
音と匂いが遠ざかる。
僕の開かない瞼が、重くなっていく。

さようなら、僕の大切な人たち。
さようなら、僕の愛した世界。
さようなら、僕の動かない体。

どれもこれも、大好きだったよ。


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『安楽死を認めてほしい。寝たきりになってまで生きている意味はあるのか』

事故で植物人間になって意思表示ができない時のために安楽死カードを用意する。それはきっと一つの合理的な考え方だと思う。多くの人が自らの意思で署名もするだろう。しかし、実際にその状況になった時、自分がどう考えているかまでは分からない。

意識はあるのに体が動かず、意思表示もできないけれど、それでも「生きたい!」と思うことだってあるかもしれない。それなのに、周りがどんどん安楽死の準備を進めていく。元気だったころの自分の意思に従って。安楽死だから痛みも苦しみもないだろう、そう自分を慰めてみても、避けられない死はきっと恐怖だ。

実際に安楽死が認められても、実行の現場はこれほど雑でも安易でもないだろうけれど、テーマはそこじゃないのでお目こぼし。

これが、上記サイトへの、俺なりの答え。


<関連>
「質のわるい生」に代わるべきは、「質のよい生」であって、「美しい死」ではない。 『不動の身体と息する機械 ~筋萎縮性側索硬化症~』

2 件のコメント:

  1. 私も植物人間になったら延命治療はしてほしくないと考えていましたが、実際になってみると彼のように思うかもしれませんね。生への執着というのは、忙しくしている普段の生活の中では感じませんが…今のように立ち止まって考える時間も必要ですね。
    植物状態になっても脳波で会話できたら(そういう機械が発明されたら)、解決の糸口になるのかなぁと思いました。

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    1. >匿名2016年11月28日 0:29さん
      筋肉が委縮していくALSのかたは、最終的にはは目も動かせなくなるので、目で文字盤を追うシステムも使えなくなるので、この状況と似ているのかもしれません。
      脳波で会話は良いですね。でも、100年か200年くらい先かなぁ^_^;

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