2017年7月31日

日航機墜落事故を新聞記者の目線で描いた名作小説 『クライマーズ・ハイ』


日航機墜落事故については、これまで何冊も本を読み、ここでも何回か語ったことがある。事故の日、小学4年生だった俺は、生まれて初めての飛行機に乗った。しかも一人で東京に向かった。叔父の家に着いてしばらくして、テレビで事故の速報が流れた。地元の親戚はみんな慌てたらしく、俺の安否を確かめる電話が何件もかかってきていた。俺を東京に送り出すことにした母は、「なんで子ども一人で飛行機に乗せたんだ!」なんて責められたらしい。子どもだった俺は「乗る飛行機も行き先も違うんだから、大丈夫に決まってるじゃん」なんて思っていたが、娘ができたいまなら当時の大人たちの気持ちが分かる。

さて、本書の著者である横山秀夫は、元新聞記者である。しかも、日航機墜落事故があった当時に、群馬県の地方新聞である上毛新聞の記者であった。名作家が直接に体験したことをもとに書いているので、怒りや哀しみや焦燥感がピリピリと伝わってくるような描写だった。

知人の地方新聞記者と『クライマーズ・ハイ』の話題になったとき、「あんな感じですか?」と尋ねたら、「そうそう、あんなですよ」とのことだった。文章を読んだり書いたりするのは好きだが、とてもあんな修羅場のようなところで生き残っていけるとは思えない……。若いころにうっかり新聞記者なんか目指そうと思わなくて良かった、と、記者への敬意をこめてそう思う。

2017年7月28日

盲信禁忌! 『医者は認知症を「治せる」 かかりつけ医に実践してもらえるコウノメソッド』

同僚先生のところに「コウノメソッドをやってください」と希望してきた人がいたらしい。そのときに初めて存在を知り、ネットでちょっと調べて、「ふーん」でスルーしてきた。とはいえ、中身をまったく知らないで無視するのもどうかと思い、読みやすそうな新書を購入。


提唱者である河野先生の考えの柱となる部分にはほぼ全て同意できる。認知症の症状を「中核症状」と「周辺症状」に分け、さらに「陽性症状」と「陰性症状」とに分類して、薬物療法をそれに合わせて変える。これはことさら特別なことではなく、河野先生でなくても認知症診療を一定数以上やっている医師なら当然のように分かっていることだ。河野先生の考えが特別に斬新で革新的ということはない。

河野先生の素晴らしい点を挙げるなら、
認知症治療はご家族のためにこそある。
「介護者保護主義」
患者さんと介護者とどちらが一方しか救えないときは、迷わず家族を救います。
こうやって自らの診療スタンスを明言しているところだ。治療者がこういう言葉をかけることで介護者は大いに救われるし、こころの余裕を少しだけ取り戻せるだろう。そのささやかな余裕が、介護する際のゆとりにつながり、患者への優しさになる。その優しさが患者を少し安心させ、その安心は周辺症状をわずかながら改善する。そういう好循環は大いにありえる。こう書くと簡単なことのように見えるが、実際に患者と家族という二者を前にして、「介護者を優先します」と言い切るのはなかなかできるものではない。

また「アリセプト一辺倒の処方」や「患者をみないで添付文書どおり増量」に対する批判はまったくもってその通りだと思う。このあたりまでは、読みながら大いに頷けることが多かった。河野先生に親近感さえ抱いたほどである。

ところが、認知症のタイプ別処方になったところで、ちょっと距離をおきたくなった。具体的な処方は無料公開されているPDFのコウノメソッド(PDFに直結しないようグーグル検索結果をリンク)に書いてあると思うので触れないが、ちょっとどうかなぁという部分が散見された。

河野先生の言う「認知症は治せる」は確かに正しい。ただし、これは本書にもあるように、「記憶障害や人格変化といった中核症状が進むのはやむをえないが、幻覚や妄想や暴言・暴力といった周辺症状は改善できる」という意味である。そして、「コウノメソッドで認知症は治せる」もおおむね正しいだろう。しかし、「コウノメソッドでしか認知症は治せない」となると間違いである。コウノメソッドでなくても、認知症医療に真摯に取り組んできた医師であれば、同等の効果をもたらす治療は充分に可能である。患者家族がここを見誤って「コウノメソッドでないと治らない」と思い込むと、治せる機会を逃したり、余計な負担を背負い込んだりすることになるかもしれない。

だから、「盲信禁忌」である。

ついでに、河野先生のクリニックを検索すると評判を見ることができた。こういう口コミを鵜呑みにするわけではないが、人気が出て患者が集まって忙しくなると、診療はどうしてもこうなっちゃうだろうなぁ、とは思う。

2017年7月27日

将棋ブームだから読んだってわけじゃないからね! 『運を育てる』『勉強の仕方』


『運を育てる』というタイトルには怪しげなセミナー臭を感じるが、プロ棋士である米長邦雄・元名人による勝負運に関する考察・エッセイである。

もう一冊の『勉強の仕方』は、中高生向けのうさん臭い自己啓発本のようなタイトルだが、一冊まるまる米長邦雄と羽生善治との対談である。

こういう別の分野で活躍しているプロの本を読むのは、精神科医としても、父親としても、得られるものがある。

どちらも将棋のことを知らなくても読めるし、肩の力を抜いた読書時間になった。

2017年7月26日

この自己啓発本を原作にしたハリウッド映画が創れるんじゃないかというレベル 『アメリカ海軍に学ぶ「最強チーム」のつくり方』


アメリカ海軍一のダメ軍艦「ベンフォルド」に艦長として配属されたアブラショフは、任期2年の間にベンフォルドを「海軍でもっとも優秀な軍艦」にしてしまったという。

彼の用いた手法がリーダーシップ論として語られるのだが、骨子としては特別に目新しいことが盛りだくさんというわけではない。それなのにグイグイ読んでしまったのは、それぞれのエピソードが面白かったから。まるでハリウッド映画(それもダメチームが優勝するまでを描く典型的なストーリー)を観ているようで気持ちよかった。

好むと好まざるとに関わらず「リーダー」という立場にならざるをえない人たちには、値段は手ごろで分量が適度で中身も面白い本書を強くオススメ。

<こちらもオススメ>
リーダーの立場にある人は必読!! 『リーダーを目指す人の心得』

2017年7月25日

日本における西洋医学の礎を築いた偉人・松本良順を描く小説 『暁の旅人』


松本良順、と言われてもピンとこない人のほうが多いだろうが、日本における西洋医学の礎を作った偉人で、日本初の軍医でもある。誰でも聞いたことはあるはずの「新選組」の隊士を治療したと聞けば、思わず「へぇ」と思うかもしれない。それ以外にも、滋養のために牛乳を普及させたり、健康増進のための海水浴を定着させたりと、公衆衛生においても業績を残している。

司馬遼太郎の『胡蝶の夢』を読んで以来、松本良順、それから司馬凌海に対しては畏敬の念を抱いていた。吉村昭も松本良順についての小説を書いているということを知り、早速入手して読んでみた。

『胡蝶の夢』に比べると分量は大幅に少なく、駆け足な展開。それでも松本良順の人となりが分かる良い本だった。

2017年7月24日

為末大さんの「不健康に暮らす人が一定数いてもいいが、その人の保険料は健康な人も負担している」を弁護しつつ、一つ指摘しておきたい

為末大さんが炎上している。きっかけはツイッターでのこの発言だ。
為末さんのこの発言を敢えて弁護するが、彼はあくまでも「自己責任かつ極端な不健康生活」を対象にツイートをしたのだろうと思う。

ただ、そこで彼に振り返って欲しいのは、いわゆる「アスリート」のストイックなトレーニング生活は、決して健康生活ではなく、むしろ「自己責任かつ極端な不健康生活」になりうるということ。

たから、為末さんは、
「不健康な人の保険料は健康な人も負担している」
これをアスリート仲間にこそビシッと言って、こう付け加えるべきなのだ。
「あなたたちがストイックで不健康なトレーニングに打ち込めるのは、保険料を負担している多くの健康な人たちのおかげなのですよ」

為末さんに反対する人は多かった。そして、『言うに事欠いて「一定数いてもいいが」ですか』という意見に対して彼は、
と答えていた。だが、これはブーメランのように、
「国民の全員がアスリート生活したらもたない」
と返ってくるのではないか。男性が全員力士、女性は全員マラソンランナーの国は、確実に滅びるはずだ。

それから、「不健康な人が一定割合以上になるともたない」というのを突き詰めると、

「一日の睡眠は何時間から何時間まで、食事は身長あたり何キロカロリー、運動時間は何十分、等々、国の発展のため、あるいは国の衰亡を防ぐため、生活を細かく決められ監視される社会」

が見えてくる。まるでオーウェルの小説『1984』のようだ。

おそらく、極端に破滅的な不健康生活(アスリートを除く)をする人は、一定割合以上にはならない。それは、極端にストイックなトレーニング生活を送るアスリートが一定割合以上にはならないのと同じだ。正規分布ではないにしても、「極端」なものが、限られた割合以上にはなることはないだろう。

この話題に関連して「喫煙者からは保険料を多くとるべきだ」という意見についても考えてみる。この意見にはいくぶん賛成でもあるが、「不健康なことを自己責任でやっているから」という理由なら、「月のランニング距離がXキロメートル以上の人」など過度のトレーニングをやっている人からも保険料を多くとるべきだという理屈にならないだろうか……。

個人的には、「不健康生活が医療費を圧迫しているぞ、このままだともたないぞ」と警鐘を鳴らすよりは、「コンビニ受診が医療を圧迫しているぞ、このままだともたないぞ」と指摘するほうが事実に近いのではないかと思う。


<参考>
為末大氏「不健康に暮らす人が一定数いてもいいが、その人の保険料は健康な人も負担している」が炎上の件

2017年7月21日

学生、研修医、看護師からベテラン精神科医まで、幅広い層で得ることが見つかるはず! 『統合失調症のみかた、治療のすすめかた』


ツイッターでの情報発信も精力的にされている松﨑先生による「統合失調症の赤本」である。統合失調症の「みかた」と「治療のすすめかた」の二部構成となっており、まさにタイトルのとおりだ。

病気や治療の説明に際して「こういう声かけをしてみては?」「こんな言葉選びはどうかしら?」と具体的に記載されていて非常に実践的である。いずれも患者にとって「侵襲性のない」ものであり、また医師と患者が「普遍的に共有できる感覚」を巧みに言語化してある。しかも、どれをとっても「優」しくて「易」しい。

こういう具体的かつ普遍的な「やさしい言葉」を、日本の精神科医・患者にもたらした第一人者は中井久夫先生だろう。ここで松﨑先生と中井先生を引き比べると、全国の中井久夫ファンや松﨑先生ご自身から叱責を受けそうだが、敢えて一点だけ強調して述べておきたい。

中井先生が示された言葉は普遍的で、現在の精神科医療でもまったく色あせない。とはいえ、精神科の治療は少しずつ進化しており、中井先生がほとんど言及されていない治療法、治療薬もある。「持効性注射剤」がその代表で、これは2週間あるいは1ヶ月に1回の注射で済む治療法だ。これを患者に勧めるにあたって、「薬は1年に365回、注射は1年に12回」「薬を続けることは月1回の注射に任せ、あなたには人生そのものを頑張ってもらいたい」といった、松﨑先生の言葉が参考になる。これらは、中井先生の「薬の飲み心地はどう?」「頭の中が忙しくない?」といった言葉と同じく「次世代に語り継がれていく言い回し」になるのではなかろうか。

褒めてばかりだと良いレビューとは言えないだろうから、最後に敢えて難点を3つ挙げておく。

1.値段が高い。学生でも得るところの多い本であり、また学生や研修医のうちにこそ読んで欲しい内容が含まれているだけに、税込4104円は少々ハードルが高い。俺のこれまでの読書歴で、価値ある内容をふんだんに含んでいるのに、おそらく値段のせいで売れずに埋もれてしまった絶版本を何冊も見てきた。本書がそうならないことを祈る。

2.誤字・脱字チェックが甘い。これは編集者・出版社サイドの責任だ。松﨑先生と個人的にやり取りして、本書完成までの苦労話の一端を教えていただいた。具体的な内容は書かないが、版を重ねることがあるなら、誤字・脱字を徹底的に見直して欲しい。

3.付録DVDがない。松﨑先生は英国・米国の世界大会で優勝した経歴を持つマジシャンでもある。筑波大学の授業では手品を披露されることもあるようだが、その妙技を付録DVDで全国の読者にも届けるべきであろう(笑)

2017年7月20日

沢木耕太郎の執念深さに思わず唸る 『キャパの十字架』


ロバート・キャパといえば有名な戦争写真家である、と思っていたが、妻に聞いたら知らないという。それなら、この写真くらいは見たことがあるだろうと「崩れ落ちる兵士」の写真を提示してみたが、やはり初めてのようだ。おお、世代の差か……、性別の違いか……。

崩れ落ちる兵士(写真)

この写真は1936年、スペイン戦争において撃たれた瞬間の兵士の姿を捉えている、という。ずいぶん前に初めて見たときには、「え!? 本当かなぁ!?」と思った。でも表情も姿勢もやたらリアルだし……。昔から同じ疑問を持った人は多かったようで、沢木耕太郎もその一人だった。

そこで沢木は、この写真を含めたキャパの写真をかなり時間かけて眺めては検証し、スペインには3回も足を運び、誰が、どういう状況で撮ったものなのかを明らかにしようと奮闘する。ネチネチネチネチと、微に入り細をうがって徹底的に考え、調べ上げ、得られた情報をもとにして、さらなる考察を重ねていく。その執念深い姿勢には、畏敬の念すら抱いてしまった。

キャパを盲信せず、しかし否定もしない。沢木耕太郎の絶妙なバランス感覚、さすが一流のノンフィクション作家である。

2017年7月19日

心理的な「壁」の話

・なんにでも壁はある
人が何か行動を起こす時には、ほぼ全てに心理的な壁があると考えて良い。食事や風呂に対してさえ心理的な壁はある。ただ、その壁は低すぎるし、乗り越えることが常習化しているので、食事や風呂への心理的な壁を意識することはほとんどない。時々、シャワーを浴びるのが面倒に感じることがあるが、これも腰を上げるまでが大変で、風呂場まで行ってしまえば意外と体は軽快に動く。この「腰を上げたとき」が、心理的な壁を乗り越えた瞬間である。

・越えるごとに壁は低くなる
心理的な壁を一度乗り越えると、次に同様の場面になったとき、壁の高さが以前より低く感じられる。人間にとって、もっとも高い壁は「人を殺すこと」だろう。故意に人の命を奪った者と接すると、彼らがどんなに反省をしていると言われても、怖い。この恐怖感は、彼らの中の「殺人に対する壁」が低いことを無意識に感じているからだろう。この「心理的な壁」の考え方は、身のまわりの色々な場面に当てはめて考えることができる。たとえば不倫、家庭内暴力、万引きを何度もくり返す人たちは、最初の壁を乗り越えてしまったせいで壁が低くなり、次はもっと越えやすくなり、そうして越え続けるうちに壁を壁とも感じなくなってしまったのだ。

・壁を高くする方法はないのか
低くなった壁を、元の高さに戻す方法はないのか。いや、ある。
「とにかく衝動を一度だけグッと堪える」
これに尽きる。この「堪えること」が難しいから、心理的な壁を越え続けてしまうわけで、そういう意味では、この方法自体が矛盾しているのだが、それでも一度グッと堪えることが大切だ。アルコール依存症を例にすると、飲みたい衝動をグッとこらえる。そうして一日を乗り切れば、翌日は「昨日一日がんばった」という事実が、壁を少しだけ高める。こうして少しずつ積み重ねていって、心理的な壁を高くしていく。
「これだけ頑張ったんだから、ここで挫折したらもったいない」

最初のシャワーの例えに戻ると、寒い冬にこたつの中でゴロゴロしていて、思いきってシャワーのために腰を上げ、冷たい廊下を風呂場で歩いて行って、ようやく服まで脱いだのに、そこでコタツへ引き返す人はほとんどいないのだ。

2017年7月18日

「本当の自分」症候群の人たちへ。見ろ、嗅げ、そして息をしろ。そこに自分があるじゃないか!

「本当の自分」なんてものはない。あるのは「今そこにいる自分」だけである。

そういう目で、以下の記事を読んでみて欲しい。
若者に広がる「キャラ疲れ」とは?~『キャラクター精神分析』

「『私、キャラ変えしたいんです。このままじゃ、自分が馬鹿になりそう』。山陰地方のある中学校に設けられた相談室。夏の初め、臨床心理士の岩宮恵子さんのもとを制服姿の女子生徒が訪れた」

これは昨年11月20日付の朝日新聞朝刊に掲載された「キャラ 演じ疲れた」という記事の抜粋です。この女子生徒は友だちからツッコまれるのを防ぐために"天然キャラの不思議ちゃん"を演じていたそうなのですが、あまりに「本当の自分」とかけ離れたキャラ設定だったため、それに疲れてしまったというのです。

他にも同記事では、"いじられキャラ"を演じてクラスの居場所を確保したり、"毒舌キャラ"と呼ばれていた女子が、実は「まわりに毒舌を期待されて疲れる」と悩んでいるエピソードが紹介されています。しかし、こうした若者たちの多くは他人のキャラに関しては饒舌に説明できるのですが、いざ自分自身のこととなると「よくわからない」と答えるだけだったそうです。

この「わからない」の意味について、精神科医の斎藤環さんは「みんなからどういうキャラとして認知されているかはわかるが、それが自分の性格と言われてもピンとこない」ということだと指摘します。つまり、"いじられキャラ""おたくキャラ""天然キャラ""毒舌キャラ"など、他人から認知されているこうした「キャラ設定」と、自分が「本当は」こうだと思っている人格との間に「ズレ」が生じているというのです。

しかし、どうして彼ら・彼女らはこのような「ズレ」を受け入れてしまうのか。斎藤さんは「キャラを演じているにすぎないという自覚が、かえってキャラの背後にある『本当の自分』の存在を信じさせ、また保護さえしてくれる」からだと言います。要するに、若者たちにとって「キャラ」とは、自分を偽るものではなく、あくまで守るものとして機能しているのです。そして、あまりにそのギャップが大き過ぎると、「本当の自分」がわからなくなってしまい、演じ続けることに疲れてしまうというわけです。

しかし、彼ら・彼女らは「キャラ」を演じてまで守ろうとする肝心の「本当の自分」について、「よくわからない」としか答えられません。何とも皮肉な話ですが、今の若者たちは自分自身を守ろうとすればするほどそこから遠ざかり、ますます「本当の自分」を見失ってしまうのです。
この記事にあるように、たとえば「いじられキャラを演じている自分」がいるとする。それは「本当の自分」ではないのだろうか。いいや、そうではない。そういうキャラを演じることで、何らかの利益を得ようとしている自分がいて、その希望が叶おうが叶うまいが、その行為に疲れようが疲れまいが、そういうことをしている自分が、まぎれもない「自分自身」なのだ。

どういうわけか、「本当の自分」という言葉や、それに類するものは人気がある。○○占いというものが毎年流行るが、中身を見るとあれは占いではなく、分析もどきだ。誕生日、名前、血液型から、「あなたは○○な人です」と書いてあるだけだ。そして、その中で自分が考えている「こうありたい」と一致する部分を見つけて、「当たっている」と感激したり、「本当の自分はこれなんだ」と自己満足にひたったりする。

「自分探し」もそうだ。そんなもの、探すまでもない。鏡を見る必要さえない。息をしてみれば、そこで空気を感じているのが自分である。

心理テストがもてはやされるのも似たようなもので、自分で自分の深層心理を探ってみたり、友人に試してみたり、そこまでして「本当の自分」(と本人が思っているもの)を知りたいものなのか。あえて「本当の自分」という言葉を使うとしたら、キャラ作りをしているのも「本当の自分」だし、それに疲れているのも「本当の自分」。

あなたはあなた自身でしかありえないなのだから、「本当の自分」を見失うなんてことは、絶対にないんだよ。

見ろ、嗅げ、そして息をしろ。そこに自分があるじゃないか!

2017年7月14日

ある事件の精神鑑定

ある事件の精神鑑定をやることになったときの話。録音された脅迫電話のテープを聞いて欲しいということで、検察から捜査官(?)が携帯用のカセットプレイヤーを持って来た。

再生すると、

「むぉぅしむぉうし、くぉちぃらぁわぁ……」

と、酔っぱらったような、ラリっているような、とても変な声。なるほど、これは不気味な脅迫電話だ。と思ったら、捜査官は「あれ?」という感じで、何度もプレイヤーを確認している。いろいろ試した挙句、

「あぁ……あぁ、あぁ、あぁ……はいはい」

一人で納得して、捜査官、苦笑。そして席を立ち、

「すいません、電池買ってきます」

電池切れかよ!

2017年7月13日

転院するときの紹介状は「おまじない」

患者が遠方へ転居するときに紹介状を作成する場合、最後のほうに「クラシック音楽を愛好されています」「植物好きで穏やかなかたです」「太郎というビーグルを飼って可愛がっておれれます」などの情報も書いておく。たとえ短くても、なるべくそういうことを加えるようにしている。

これは「転院先でもよくみてもらえますように」という祈りを込めた「おまじない」である。

紹介状にこういう一文があるだけで、受け取った医師はその人の日ごろの生活や前医との関係、前の病院の診察室での雰囲気を感じることができる。そして、ちょっとだけ「初診患者への親しみ」みたいなものが芽生える、かもしれない。少なくとも自分なら、そうなると思う。まだそんな紹介状をもらったことはないが……。

このおまじないは、「薬は飲んでいますか?」「眠れていますか」「ごはん食べていますか?」という話だけをしていてもできず、普段の診察で「病気以外の話」をどれだけしてこれたかが問われる。

2017年7月12日

伝えること、伝えるために努力すること

先日、カルテに、
「上記の内容を、あれこれ言葉をかえながら時間をかけて説明したが、理解力乏しく伝わらない」
と書きかけて、末尾を「伝えきれなかった」に訂正した。

相手の理解力の問題で伝わらないのではなく、こちらの伝達力のせいでうまく伝えきれない。

そう考える癖をつけないと、この先ずっと「伝わらない」ままだろう。

日常生活では、5歳の長女と3歳の次女に同じことを伝えるのにも、それぞれに合わせて言葉や口調を変えている。同じ家で生活し、たった2歳しか違わない娘二人に対しても説明のしかたは変わるのだから、異なる生活基盤、幅広い年齢を相手にした診療で、伝わるように工夫を重ね努力するのは当然のことだ。

2017年7月11日

あなたの何げない一言が人を変える

俺は小さいころからよく笑う子どもだったそうだ。もともとの顔が笑顔に近いのだろう。母からは、からかい半分に「仏さん顔」と言われ続けていたし、笑顔でいるのは良いことだとずっと思っていたのだが、小学校のある日を境にして自分の笑顔に対する感覚が変わってしまった。

経緯は忘れたが、5年生のときに担任の女教師から、
「ニコニコとニヤニヤは違うのよ」
ピシャリとそう言われたのだ。11歳の俺には衝撃的だった。そのときの俺は、笑っているつもりなど決してなかったからだ。むしろ真顔だった。多感な年ごろにとって、「ニヤニヤ」というのはイヤらしくて不快な響きがある。だから「俺の顔ってニヤニヤしているのか……」と落ち込んだのだ。

それ以来、どうも笑顔、というか真顔に自信が持てなくなった。どんなに真剣は顔をしていても、「ニヤニヤしていると思われているんじゃないだろうか」という不安がつきまとった。こうして俺は、真顔になろうとするときには、恐る恐る丁寧に真剣に気合を入れて、ちょっと睨むくらいの心構えで真顔をつくるようになってしまった。

そんな俺に次の転機が訪れたのは20歳のときだ。飲み会の席で、
「小学校の時、こんなこと言われたんだよねぇ、ニヤニヤしてるかなぁやっぱり」
と言ったところ、ある人から、
「怒った顔してるより全然いいじゃん」
と返されたのだ。「ニヤニヤなんかしてないよ」と否定するのではなく、「ニヤニヤしていても怒った顔より全然いい」というポジティブな意見は、俺にとっては大いなる救いであった。それからは、「ニヤニヤしていても良いんだ!」という強い思いをもって生きている。そのせいか、よく人に道を尋ねられる。旅行先でも聞かれる。病院の中でも呼び止められる。大いに得しているとは言えないが、少なくとも損はしていないと思っている。

小学校の教師も、大学時代の友人も、どちらも何げなく言ったことだろうが、それが俺の人生のありかたを大きく変えたことは、きっと二人とも知らないはずだ。これは俺自身が誰かに言葉をかけるときにも同じことが言える。願わくば、相手を良いほうに変える言葉を多く発していきたいものである。

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2017年7月10日

「イラク人のために戦ったことなど一度もない。あいつらのことなど、くそくらえだ」 政治的に大義名分を与えられて他国に乗り込む優秀な兵士は、これくらい独善的な単純バカでなければいけないということか…… 『アメリカン・スナイパー』


良質な反戦書である。その理由は最後に述べる。

海兵隊に向けて手榴弾を投げようとする非戦闘員(?)のイラク人女性を撃つシーンから始まる。

そんな衝撃的な描写に引き込まれたが、読み進めるにつれて、独善的な考えを臆面もなく語ることに苦笑を禁じえなくなった。イラク人の戦闘員を「敵」と表現するのは戦争だから当然としても、「悪者」という単語や「悪者をやっつける」という言い回しが頻出するのには驚いた(原文でどうなっているかは不明だが)。「敵にとっては、自分たちこそが“悪者”かもしれない」なんて考えは微塵もない。無邪気に、純真に、まっすぐに、自分たちの敵は「悪者」だと確信している。「優秀な兵士」とは、これくらい「単純バカ」でないといけないのかもしれない。

こんな文章も出てくる。
イラク人のために戦ったことなど一度もない。あいつらのことなど、くそくらえだ。
一兵士としての率直な気持ちなのだろう。とはいえ、ここまであっけらかんと正直に語られてしまうと、あの戦争は誰が誰のために殺したり殺されたりしたのか、そんなことを考えて目まいがしそうになる。

何十人も人を殺すうちに、頭の中でなにかがおかしくなっていくのだろうか。こういう記述もある。
人を殺すのも、それが職業となればそのやり方に創意工夫を凝らすようになる。
(中略)
「まだ拳銃では殺してなかったか? それじゃあいっぺんやってみるか」
(中略)
それがゲームのようになることもあった。
読んでいて一番イヤな気持ちになったのは、逃げた戦闘員を追いかけ単独で民家に突入した場面だ。そこには一人のイラク人男性がポカンとした表情で突っ立っていた。著者は伏せるように命令するが、男性はどういうわけか命令に従わない。そこで著者は殴り倒して取り押さえるのだが、男性の母親が現れてなにやらわめき散らす。ようやく通訳がやって来て、男性には知的障害があるということが判明する。

著者は謝罪したのだろうか? そういう記載は一切ない。それどころか、続く文章ではジョークや笑い話のようなものが記されている。こんなことが許されるのだろうか? 出版前にチェックした軍関係者や編集者は、これを読んでなにも思わなかったのだろうか?

戦争・殺し合いという極限状態で上記のような事態が起こるのはやむを得ない。その場で謝罪する余裕がないのもしかたがない。しかし、少なくとも、執筆時には安全な場所にいたはずだ。だったら、謝罪の一文くらい書いても良かろう。本の中で著者は「非戦闘員を射殺したことは一度もない」と繰り返すが、その労力の一部でも使って、「自分が傷つけた市民への謝罪」を書くべきだったのではなかろうか。「非戦闘員を殴り倒した」ことは確実にあるわけだから。

イラクに住む言葉の通じないその男性に向けて、本の中で謝罪文を書いてなんの意味があるのだ、と反論されるかもしれない。それならば、本の最初に記している「亡くなった友人に心の底から祈りを捧げる」なんて文章にも意味はないではないか。

さて、本書が良質な反戦書という理由についてだ。本書は読み手を惹きつけるが、最終的には戦争に対して不愉快な気分を抱かせる。そこが素晴らしい。戦争反対を強く訴えかけるような本があったとしても、読む気になれない内容では意味がないのだ。本書のように、少し眉をひそめながらも最後まで読み通してしまうものこそ「良質な反戦書」と言える。映画のほうは「戦争賛美だ」「いや反戦映画だ」と賛否あるようだ。クリント・イーストウッドがどのように映画化したのか、確認してみなければならない。

著者のクリス・カイルは本書執筆の一年後に射殺された。

最後になるが、160人の「悪者」を射殺した無邪気なクリス・カイルが、父母を愛し愛された息子であり、弟を持つ兄であり、夫であり、二児の父であり、退役後には傷痍軍人のための活動を熱心にやっていたということも記しておきたい。

160人を射殺した「スナイパー」は、クリス・カイルという人間の一部でしかないのだ。

2017年7月7日

正常と異常の境目にある「夕暮れ症候群」

時間を報せる地区放送が7時、12時、17時45分に流れる。我が家の飼い犬である太郎は、このうち夕方の放送にだけ反応して遠吠えする。日中は平気でも、夜が近づくにつれ不安になって、仲間と声をかけあいたい気持ちが高まるのかもしれない。

ふと、患者さんたちの「夕暮れ症候群」に想いを馳せる。

「夕暮れ症候群」とは、特に認知症の人に多い現象で、夕方になるとソワソワして落ち着かなくなり、ちょっとしたことで声を荒げたり、自宅にいるのに「家に帰る」と言い出したりすることだ。こうした「夕暮れ症候群」は、症状だけを見ると異常である。こういう「通常はないはずのものがある」異常というのは目につきやすい。

しかし、本質的には動物にもある「暗闇を恐れる本能」だろうし、暗闇を恐れることは自然なことである。「夕暮れ症候群」は、その人の心身で「時間感覚」がある程度保たれていて、つまり時間感覚に関しては正常であるということを示しているのかもしれない。

ちょっと与太話にはなるが、学生や会社員などで日中は一人でいても平気なのに、夜が近づくにつれて人恋しくなって、つい、
「飲みに行こう」
なんて声をかけてしまう人というのは、認知症になったら「夕暮れ症候群」で周囲の手を焼くタイプなのかも……。

2017年7月6日

大雑把な福祉の網目からこぼれた人たちの犯生記録 『累犯障害者』

2006年1月7日、JR下関駅が放火によって全焼した。逮捕された福田容疑者は、「刑務所に戻りたかったから、火をつけた」と語った。彼は知能指数66、軽度の精神遅滞であった。
「ところで、どうして火をつけてしまったんでしょうか」
「うーん、店の前に置いてあった紙に、ライターで火をつけて、段ボール箱の中に入れただけ。そしたら、いっぱい燃え出した。駅が燃えると思わんかったから、驚いて逃げた」
手振りを交えて、一生懸命に説明しようとしてくれているが、これでは、答えになっていない。「どうして」というような抽象的な質問は避けるべきだったかもしれない。
「刑務所に戻りたかったんだったら、火をつけるんじゃなく、喰い逃げとか泥棒とか、ほかにもあるでしょう」
そう私が訊ねると、福田被告は、急に背筋を伸ばし、顔の前で右手を左右に振りながら答える。
「だめだめ、喰い逃げとか泥棒とか、そんな悪いことできん」
本気でそう言っているようだ。やはり、常識の尺度が違うのか。さらに質問してみる。
「じゃー、放火は悪いことじゃないんですか」
「悪いこと」
即座に、答えが返ってきた。当然、悪いという認識はあるようだ。
「でも、火をつけると、刑務所に戻れるけん」

精神遅滞、精神障害を抱える人の中には、何度も犯罪をくり返す人がいる。そういう人たちを、「累犯障害者」という。仕事柄、精神遅滞の人と接する機会は多い。さらに、俺がやった精神鑑定における知能検査で精神遅滞が明らかになった人もいる。

彼らの中に「刑務所の中が安住の地」と感じる人がいる一方で、自分たちが刑務所にいることすら分かっていない人たちもいる。
「おいお前、ちゃんとみんなの言うこときかないと、そのうち、刑務所にぶち込まれるぞ」
そう言われた障害者が、真剣な表情で答える。
「俺、刑務所なんて絶対に嫌だ。この施設に置いといてくれ」
悲しいかな、これは刑務所内における受刑者同士の会話である。
また、いま自分がどこにいて何をしているのか分かっていないだけでなく、言葉によるコミュニケーションすら理解できない人もいるようだ。こういう人たちから、どう取り調べをして、どんな裁判をした結果が懲役刑だったのだろうか。

筆者の山本譲司氏も実際に懲役刑を受けている。彼は佐賀県出身で、早稲田大学教育学部を卒業。その後、菅直人の公設秘書、都議会議員2期を経て、1996年に衆議院議員となった。2000年9月、政策秘書給与の流用事件を起こし、翌年2月に実刑判決を受けた。

2004年に起きた宇都宮の誤認逮捕事件。誤認逮捕された精神遅滞の元被告とのインタビュー。
「私も拘置所に入っていたことがあるんですよ。暑い時期だったんで、体中から汗が噴き出てました。でもいまの時期は、本当に寒いでしょうね。あそこの中は寒かったですか」
そう訊ねると、俯いたまま答える。
「うん、寒かった」
さらに、もう一度質問してみた。
「でも、建て替えで新しくなっているところもあるようですし、あそこにいたんだったら、そんなに寒くなかったかもしれませんね」
「うん、寒くなかった」
今度は、反対の答えが返ってきた。だが結局は「オウム返し」なのだ。これでは、取調べのなかで、いくらでも供述を誘導されてしまいそうだ。
こういう人に、どういった取調べが行なわれていたのか、確かに疑問だ。俺自身も何度となく警察から事情聴取を受けたことがある。患者が起こした事件や事故に関して、患者がどういう病気でどんな薬を飲んでいたかなど聴かれる。そのあと警察が供述調書を作成し、その中身を確認してから、印鑑を押す。書いてある内容は、たしかに俺が言ったことではあるのだが、どうも微妙なニュアンスが伝わりきれていないのだ。

また、精神鑑定で被害者や目撃者の証言を読むことがあるが、
「こんな事件を起こした容疑者を厳しく罰して欲しい」
と書かれた供述調書を見ると、本当にそんなこと言ったのかな、と疑わしく思う。
「目撃して怖かったでしょ?」
「はい」
「そうだよね。厳しく罰して欲しいかな?」
「はい」
こんな感じで警察が誘導しているのではないだろうかと勘ぐってしまう。

2004年の『矯正統計年報』によると、新受刑者総数32090人。そのうち22%にあたる7172人が知能指数69以下の精神遅滞で、測定不能の1687人を加えると、3割弱の受刑者が精神遅滞として認定されるレベルである。付言するなら、これは精神遅滞者が犯罪を起こしやすいということを示すものではない。公的福祉がきちんと機能していないことが原因の一つとして大きいだろう。
人類における知的障害者の出生率は全体の2-3%といわれている。内閣府発行の障害者白書によると、平成18年時点で精神遅滞者は45万9千人。
日本の総人口の0.36%に過ぎない。
欧米各国では、それぞれの国の知的障害者の数は、国民全体の2-2.5%と報告されているのだ。
要するに、45万9千人というのは、障害者手帳所持者の数なのである。
現在、なんとか福祉行政とつながっている人たちの数に過ぎない。
本来なら、知的障害者は日本全国に240万人から360万人いてもおかしくないはずである。
結局、知的障害者のなかでも、その8割以上を占めるといわれる軽度の知的障害者には、福祉の支援がほとんど行き届いていない。現状では、軽度知的障害者が手帳を所持していても、あまりプラスはなく、単なるレッテル貼りに終わってしまうからだ。
さすが早稲田の教育学部卒業の筆者だけあって文章は読みやすく、国会議員をしていたからか、事例の紹介や問題提起の仕方が巧みだった。筆者の今後の活躍に期待したい。

2017年7月5日

薬を減らすのがスローペースな理由

長年処方されていて、しかも患者が律儀に飲んでいる薬に関しては、引き継いだ時にどんなに無意味に思えても、絶対に突然中止してはいけない。

患者の体は、その薬を「常に在るもの」として動いているので、突然の中止は体にとっての「急性欠乏」として思わぬ症状を引き起こす。

たとえば、「過感受性精神病」というのがある。長期に精神病を治す薬を飲んでいる人が、急に薬を減量・中止すると、精神病が再発・増悪するというものだ。

せっかく善意から多剤大量を改善しようとしているのに、その方針が過激すぎると、結局は精神病症状の悪化を招いて、
「前医の処方は正しかった」
となりかねない。

減量は良いこと、だが慎重に。

いま、多剤大量になっている入院患者の薬の減量を試みている。これが亀のペースなのは、こういう理由からである。

それから治療薬は、前医との(良くも悪くも)「絆」となっている可能性にも思いを馳せなくてはならない。少なくとも精神科医なら、その配慮を忘れてはならない。

その人の治療歴は、その人の人生の一部である。これを尊重していれば、
「いらない薬だからやめます」
そんな軽い態度で処方内容をコロリと変えるなんてことはしないはずだ。

2017年7月4日

躁うつ病とアルコール依存症だった中島らもの「共病記」 『心が雨漏りする日には』


「心の雨漏り」
さすが、コピーライターでもあっただけに、中島らもは秀逸な言葉を作るものだと感心した。

本書は躁うつ病とアルコール依存症だった中島らもによる闘病記ならぬ「共病記」。教科書に出てくるような、躁うつ病とアルコール依存症の典型的な経過である。躁うつ病に関しては、まず父親も躁うつ病という家族歴がある。それから初診時の診断は「うつ病」で、抗うつ薬を内服して3日で回復という過剰改善(処方されたのがリタリンだったというのも理由かもしれないが)。それから、躁うつ病とアルコール依存症は親和性・併存率が高く、著者もしっかり当てはまっている。こういう経過を面白く読めるので、精神科の初学者には勉強にもなるだろう。

また、反面教師としての精神科医も出てくる。初診時、うつ病と診断した後に「ゲーテもうつ病だった」なんて愚にもつかないことを言い、著者に言われるままにリタリンを処方。最後のほうに出てくる処方内容は混沌としている。そのせいで著者が悩まされた副作用体験も、やはり勉強になるはずだ。

何回も「勉強になる」なんて書くと硬い本だと思われるかもしれないが、誰が読んでも楽しめる内容だし、躁うつ病やアルコール依存症の人や家族が読んだら、「うん、これ分かる!」ということもあるんじゃなかろうか。面白かったですよ。

2017年7月3日

ナチス・オリンピックを舞台にしたスポーツ・ノンフィクション 『オリンピア ナチスの森で』


1936年8月、ナチス政権下のベルリンで開催された第11回オリンピックを舞台に、日本人アスリートたちの勝利や敗北、歓喜や苦悩を描いたスポーツ・ノンフィクション。選手たちが主役ではあるが、挿話的に、オリンピック報道に携わったマスコミ関係者たちに関しても1章を割いてあり、こちらも面白かった。

古い時代の人たちばかりで、選手は誰ひとり知らなかった。知っている名前と言えば、ヒトラーやゲッベルスといったナチスの人間ばかり。それでもグイグイと読ませる筆致はさすが沢木耕太郎。