2012年11月30日

浜崎あゆみは演技性人格障害か?

浜崎あゆみは、つい先ごろ5ヶ月連続でCDをリリースすることを発表して、その第一弾が発売されたばかり。しかし、その直後に衆議院解散が世間を騒がせてしまって、浜崎の話題は一陣の風すら起こせなかった。そこで今度は熱愛スキャンダルを持ってきた。思えば、これまで浜崎は落ち目になるとスキャンダラスなことや難聴、ケガなどをネタにして自らの名前を浮上させ、世間の記憶から消えないように頑張ってきたという印象がある。今回もその延長だろう。だが、それが悪いというわけではない。そういうことは松田聖子も、あるいはハリウッド・セレブもやっていることなのだから。

というようなことを、ラジオでおすぎが言っていた。

へぇそうなのか、と思った程度だった。ただし、難聴についてはわりと記憶にある。というのも、芸能界に疎い俺の目から見ても当時の浜崎は落ち目だったので、難聴ニュースが流れた瞬間に、あぁこれは近いうちに奇跡的カムバックを果たすだろうし、これはその不死鳥エピソードの前ふりみたいなものだなと思ったからで、実際にミラクルが起こったようだ。浜崎の難聴が本当かウソか分からないが、その後も高所から落下してみたりと騒動は絶えない。これらがすべてウソだとしたら、こういう人目の引き方をする人を精神科では演技性人格障害という。浜崎がそうなのかは分からない。身近に似たような人がいたら(普通なかなか嘘に気づかないものだが)、悪いことは言わないので付き合いを断つことを勧める。

坂と自転車と兄ちゃん

「この坂、一回も足つかんで上りきったら、兄ちゃんがおる」

少年はそう信じて自転車をこぐ。
立ちこぎ。
右足に全体重を乗せペダルを押し切った後、次は左足。
左足はきき足ではないから辛い。
しかし、こらえて、右足へつなぐ。

なんか、単パンがきつい気がする。
パンツがしりの間に食い込んで、めっちゃ気持ち悪い。
ももの前のところが痛うなってきた。

あん時の兄ちゃん、痛かったんやろうか。
気ぃを失っとるって父ちゃんが言うとった。
痛うはないはずじゃって、言うとった。
確かに、ずっと眠っとるような顔しとった。

兄ちゃんはいつも、この坂を一息で上りよった。
オイは途中から自転車おりて押さんと上りきれん。
先に上りきった兄ちゃんは、坂の途中からじゃオイには見えん。
坂のてっぺんで地面に座っとるから。
兄ちゃんは座って、ニヤニヤして空を見とる。
そん顔が少しムカつく。

風が少年の肌をなで、かすかに汗がひいていく。
そして、すぐにまた汗が出る。

いつも、ここが踏ん張りどころやった。
今日はいつもより足が動く。
もうちょっとで上れるぞ。

兄ちゃんは何にぶつかったとや。
トラックか。
葬式で母ちゃんはひどう泣きよった。
父ちゃんは夜中に車ん中で泣きよった。
でもオイは泣かんかった。
兄ちゃん死んだって、分かるようで分からん。
もう会えん、もう会えんて、父ちゃんも母ちゃんも、じいちゃんも、
みんなして言うけん、なんかそげん気もするけど、本当はよう分からん。
よう分かっとらん。
だけん、泣く気のせん。
オイもしばらくはボーッとしとったけど、この坂を思い出した。
兄ちゃんが死んでから初めて、来た。

少年の自転車のハンドルが揺れた。
なんとかバランスは保ったが、スピードは遅く、今にも倒れそうだ。
両手に力を込めて、ハンドルを引き上げる。

危なかったぞ。
今んとは危なかったぞ。
せっかくここまで来た。
記録は伸ばしたけど、今日は一気に成功させる。
いつもあきらめとった場所はこえた。
今日はあきらめん。
上りきる。
兄ちゃんが、おる。
こっからじゃ見えん。
座っとるから。
空を見とる。
ニヤニヤして空を見とる。
ムカつくんじゃ。

あと少し。
あと五こぎで行ける。
四。
三。
二。
一。

てっぺん。
初めて上りきったぞ。
オイにもできるぞ、兄ちゃん。
兄ちゃん。
兄ちゃん。
おらん。
何でや。
座っとらん。
周りにも、おらん。
おらん。
何でや。
なんでおらん。
兄ちゃん。
なんでおらん、兄ちゃん。

少年は座った。
兄のまねをして、空を見た。
ニヤニヤしてみたが、うまくできなかった。
口が、への字に歪んだ。
少年の汗と涙は風に吹かれ、蒸発し、汗だけが乾ききった。

2012年11月28日

戦場の都市伝説

戦場の都市伝説 (幻冬舎新書)
どこかで話題の本として紹介されいたので買って読んでみたが、期待ハズレだった。世界中の都市伝説、それも戦争や戦場にまつわるものを集めてあり、それぞれに著者がちょっとした分析や解説を述べるという形式で進んでいく。都市伝説として語られているものが、ただの噂なのは良いとして、それに対する解説で「~という説がある」というのでは、これもまた噂レベルを出ないのではないだろうか、という気持ちになり、なんだか堂々巡りをしているような気分になってくる。オカルトものとしても、都市伝説を分析する本としても中途半端な仕上がりで、ネットで怖い話でも読み漁って自分なりに解釈でも考える方がよっぽど面白くて有意義な時間が過ごせるかもしれない。

2012年11月27日

鏡の偽乙女 ─薄紅雪華紋様─

鏡の偽乙女 ─薄紅雪華紋様─
まずまずの面白さだが、続編などできちんと収拾をつけるつもりなのかどうか……。この作者、もう一つ引っ張っているシリーズ作品があるので、まずそちらをきっちり完成させて欲しいのだが。図書館で借りて良かった、と思う本。買って手元に残すまでもないかな。

2012年11月26日

長い長い殺人

長い長い殺人
読むのが億劫な気がするけれど、いざ手にすると読みはまってしまう、そんな作家が宮部みゆき。彼女の作品にもハズレが何作かあって、特に『ブレイブ・ハート』はひどかった。その記憶があるので、もしこれもハズレだったらどうしようという躊躇いが生まれてしまうのだ。

本書は、まずまずアタリに近いほうだった。
轢き逃げは、じつは惨殺事件だった。被害者は森元隆一。事情聴取を始めた刑事は、森元の妻・法子に不審を持つ。夫を轢いた人物はどうなったのか、一度もきこうとしないのだ。隆一には八千万円の生命保険がかけられていた。しかし、受取人の法子には完璧なアリバイが……。刑事の財布、探偵の財布、死者の財布……。“十の財布”が語る事件の裏に、やがて底知れぬ悪意の影が。
というわけで、財布のモノローグによる小説。 ちょっと変わり種ではある。また最後のオチというか、犯人というか、ちょっとそれはミステリの鉄則からはズレているんじゃないのかなぁと思ったけれど、全体がそこそこよくまとまっていたから良しとしよう。

2012年11月25日

アリとキリギリス ~ある音楽家の物語~

暑い夏の日。

アリたちは一生懸命エサを探しています。そんなアリたちを見てキリギリスたちは笑いました。
「君達、暑くないのかい?」
アリたちはエサを探しながら、口々にキリギリスに応えました。
「今働かないと、冬が大変だと思うよ」
「暑すぎるせいか今年はエサが少ないんだ」
「君たちは働かないのかい?」
それを聞いたキリギリスたちは、バイオリンを弾く手も休めず言いました。
「僕たちの仕事はこれだもん」
そしてバイオリンの音色をアリたちに聞かせたのでした。音楽にさして興味のないアリたちは、キリギリスたちを無視してエサ探しを続けました。

さて、冬になりました。凍えて今にも倒れそうな一匹のキリギリスがいます。キリギリスはよろよろとアリの家まで行きました。ドアをノックすると、アリが一匹出てきました。
「何だい?」
キリギリスは寒さで歯をカチカチ鳴らして言いました。
「エ、エ、エ、エサを、わ、わ、わ、分けてもらえないかな」
アリは首を横に振りました。
「君は夏の間、仕事もせずに遊んでいたじゃないか。自業自得さ」
キリギリスは寒くてたまりませんでしたが、反論せずにはいられませんでした。
「だって、ア、ア、アリ君。バ、バ、バ、バイオリンが僕の仕事なんだよ」
アリは軽く鼻を鳴らしながら言いました。
「フン、そんなの言い訳にすぎないさ」
「そ、そ、そうかもしれない。だ、だ、だったら、エサはいらないよ。せめて中に入れてもらえないかな。そ、そ、外は寒くて凍え死にそうなんだよ」
アリはキリギリスを冷ややかに見ながらドアを閉めました。キリギリスはもう歩く気力もなく、その場に座りこみました。夏の生活が走馬灯のように思い出されます。夏の間、キリギリスは一生懸命バイオリンを練習していました。それが仕事だと思っていたからです。指にはタコができていましたし、バイオリンを強くはさむために左肩にはこぶのようなものができていました。仕事はバイオリンを弾くことだと思って、ずっと練習してきたのでした。
「ぼ、ぼ、僕は、な、な、な、何か間違っていたのだろうか」
キリギリスは小さく呟きました。その時、アリの家のドアがゆっくりと開きました。キリギリスが見上げると、さっきのアリが立っています。
「ア、ア、アリ君。どうしたん……」
寒さと疲れで、声は最後まで出ませんでした。アリはキリギリスに手を差し出しながら言いました。
「さぁ、立って」
キリギリスはありがたく思いながら手を伸ばしました。アリはキリギリスを立たせると言いました。
「こんなところでいつまでも寝転がられると目障りだから、早めにどこか別の場所に行ってくれないか。死ぬならうちの前ではやめておくれ。縁起が悪い」
そう言ってアリはキリギリスの背中を押しました。よろめき倒れたキリギリスの背中にアリは言いました。
「道楽でやってるもので生きていこうなんて甘いんだよ」

キリギリスを追い払ってから数ヶ月。厳しい冬が終わりました。冬の半ば、アリの家では食料が尽き、ついには共食いということもありました。そうして生き残ったアリの中には、あのキリギリスを追い払ったアリもいました。
「飢えに耐え、共食いまでしてしまった。僕の触角も一本食べられた。足だって四本になった。それでも今生きているということは、これは勝ったということだ」
春の陽を浴びながら、アリはそんなことを考えました。そして去年と同じようにエサを探していると、どこからかバイオリンの音色が聞こえます。アリが音のする方へ行くと、そこではキリギリスがバイオリンを弾いていました。
「やぁ、君はいつかのアリ君じゃないか」
キリギリスがバイオリンを弾く手を止めて言いました。冬のあの日、アリが追いかえしたキリギリスのようです。
「僕がこうなれたのは君のおかげなんだよ」
それを聞いて、アリは首を傾げました。キリギリスは朗らかに笑いながら、
「君に追い返されたあの日、僕は一生懸命やっているつもりだったバイオリンが、実はただの趣味の範囲でしかなかったことを悟ったのさ」
と言いました。アリはこの状況で何を言うべきか分かりませんでした。ただ、触角が一本、足が四本になった自分の姿を、キリギリスに見られたくない思いで一杯でした。
「僕のバイオリンは、去年の夏は誰の心にも届いていなかった。だから君には道楽にしか見えなかった。それに気づいた、いや、君に気づかせてもらったんだよ。僕は寒い冬を飢え凍えながらでも、心に届くようなバイオリンの練習をすることに決めたんだ。死んだって構うもんかって、そう思ってひたすら練習したんだよ。指は裂けて血が出たし、肩のこぶだって大きくなった、首がまわせないほどにね。お腹はすきすぎて夢と現の境で演奏していたようなもんだった。だけど、その音がテントウムシさんたちの耳に入ったんだ。食べ物はないけれど暖かい場所だけならということで、僕を彼らのねぐらに呼んでくれたのさ。そのおかげで、なんとか冬は越せたんだよ」
アリは何も言わず、黙って話を聞きました。もう、どうでも良いような気がして、アリは横になりました。日の光を浴びながら横になったのは、生まれて初めてでした。お日様が出ている間は働くものだと信じていたからです。
「空ってこんなに青くて大きかったのか」
アリは小さく呟きました。キリギリスは何も言わずバイオリンを弾き始めました。バイオリンを聴きながら、アリはオイオイと声を出して泣きました。そして、ゆっくり目を閉じました。
「君が目を覚ますまで、側でバイオリンを弾かせてもらうよ。僕は、バイオリン弾きだから」
キリギリスのバイオリンは一週間もの間、野原に鳴り響きました。それから徐々に弱くなり、とうとう聞こえなくなりました。

2012年11月23日

さかもと未明の騒動から、「公共」とはなにかを考える

子どもの声が騒音か否かは置いておいて、公共とはなにかを考えてみたい。俺が思う「公共」は「みんなのもの」である。この「みんな」には、赤ちゃんから老人まで、場合によっては胎児も含まれる。決して、一部の分別ある(あるいは自分は分別があると思い込んでいる)大人だけのためのものではない。

例えば、こういう場面を想像してみよう。赤ちゃんから大人・老人まで集まり、非常に広くて頑丈で重い板を持ち上げて、ある地点から別の地点まで移動しなくてはいけない。この移動ができるのは一回きりで、そこで移動できなかった人は以後ずっと置き去りにされる。このとき、(俺が思う)普通の感覚の大人なら、赤ちゃんや動けない老人を板の上に乗せて、残った大人や子どもがそれぞれ力を出し合って皆が移動できるように試みる。要するに、「できる人」が「できない人」をカバーしよう、というもので、これが「公共」と相通ずると思う。

子どもの声で言えば、赤ちゃんは泣くのを我慢することはできない。だから、泣かなくて良いようにまず親が頑張る。それでも、どうしようもないことは多々ある。その時は、周りの大人が頑張る。「我慢する」と考えるから、なんだか被害を受けているように感じるのかもしれない。一緒に生活するために、できる人ができることをしている、ただそれだけ。そんな風に考えられないものだろうか。

それなら子どもを好き放題に遊ばせていいのかというと、それも違う。マナーやエチケットというものを教えていくのも大人の義務だ。上記した板の例えでいうなら、歩けるようになるまでは見守り、歩けるようになったら今度は一緒に板を持って歩くことを教えないといけない。「自分はそんな板なんて持ちたくない」と言う子どもがいたら、厳しく指導しなければいけない。公共とは、つまりそういうものじゃないのかと思う。

話題になっている漫画家・さかもと未明は、この「頑張る」ということをしなかった。かつて自分が子どもだったころに周りが頑張っていたことを忘れたのか、自分も一緒に頑張るということを指導されなかったのか、あるいは指導されたけれど身につかなかったのか。シートベルト着用というルールを破って走り出すなど、泣く赤ちゃん以上に赤ちゃん的な行動だろう。

「公共」は、「みんなのもの」。子どもは子どもなりにできる範囲で支えれば良いが、大人は大人として精一杯支えなければいけないのだ。

以下、公共とはなにかという議論とは少しずれる。mixiで同じ日記を書いたところ、
「相互扶助とマナーとは別の考え方であり、泣く子を連れてまで飛行機に乗らないようにする親の頑張り(自重する気持ち)が必要である。電車は途中下車、新幹線はデッキに出ることが、自動車は休みながら目的地に行くことができる。しかし、飛行機は到着するまで身動きできない。飛行機しか方法がないのなら諦めるのが一番であり、親の都合で赤ちゃんに辛い思いをさせて遠方へ移動したり、周りに迷惑をかけたりするのは違う」
といった意見があったので付記しておく。いささか議論が錯綜してしまうので、この意見に対しては「遠方への移動が親の都合なのかどうか」と「短時間の飛行機より、長時間の電車や新幹線や車の方が赤ちゃんは楽なのかどうか」という部分には触れないようにして、移動する権利、すなわち「交通権」(Wikipediaリンク)というものに軽く言及するにとどめた。この権利を制限、あるいは「自重」という暗黙のプレッシャーで規制することは許されないだろう。もし電車や車だと席を離れたり休憩できたりするから楽だというのであれば、むしろ「赤ちゃんの泣き声に耐えられない人」が、そのような交通機関を利用するように心がければ良いのだ。

<参考>
漫画家さかもと未明氏のクレームで表面化……子どもの声は「騒音」なのか?
さかもと未明さんの乗り物マナー騒動に思う。「乗り物で、赤ちゃんが泣かない国もある」

アリとキリギリス ~Hungry Bugs~

ひどく暑い夏。

アリたちは一生懸命エサを探しています。そんなアリたちを見てキリギリスたちは言いました。
「君たち、暑くないのかい?」
アリたちはエサを探しながら、口々にキリギリスに答えました。
「いま働かないと、冬が大変だよ」
「ただでさえ今年はエサが少ないんだぜ」
「君たちも働いたらどうだい?」
それを聞いたキリギリスたちは、バイオリンを弾く手も休めず言いました。
「僕たちの仕事は、これさ」
そして素晴らしいバイオリンの音色をアリたちに聞かせたのでした。音楽にさして興味のないアリたちは、キリギリスたちを無視してエサ探しを続けました。

さて、冬になりました。凍えて今にも倒れそうな一匹のキリギリスがいます。キリギリスはアリの家まで行きました。ドアをノックすると、アリが一匹出てきました。
「何だい?」
キリギリスは寒さで歯をカチカチ鳴らしながら言いました。
「エ、エ、エ、エサを、わ、わ、わ、分けてもらえないかな」
アリは首を横に振りました。
「あいにく今年の夏はいつもよりエサが少なくてね。こっちも手一杯で君に分けるエサなんてないんだよ」
キリギリスは泣きそうになりながら、さらに頼みました。
「そ、そ、そこをなんとか! お願いします!」
アリはため息をついて首を横に振りました。
「悪いけど自業自得だよね。開けっ放しは家が冷えるから、もう閉めるよ」
アリはそう言ってドアを閉めました。キリギリスはもう歩く気力もなく、その場に座りこみました。夏の華やかな生活が走馬灯のように思い出されます。キリギリスが夏の過ごし方を後悔し、自分の怠けた生き方を深く反省したその時、アリの家のドアがゆっくりと開きました。キリギリスが見上げると、さっきのアリが立っています。
「ア、ア、アリ君。どうしたん……」
寒さと疲れで、声は最後まで出ませんでした。
「ちょっとは反省できたかい?」
アリが言いました。キリギリスは言葉を出す力も無く、ただ小さく頷きました。アリが微笑みました。
「ホラ、つかまれよ」
そう言ってアリはキリギリスの手を取り立たせました。

暖かい家の中。外の世界とは大違いです。迷路のような家の中を歩きながら、アリが言いました。
「僕たち虫同士、助け合わなきゃ。さっき皆に叱られたよ」
アリたちの優しさに、キリギリスは涙をこぼしました。言葉が出なかったのは、寒さのせいじゃありません。
「さ、着いた。先に入りなよ」
アリはドアを指さしました。キリギリスがドアを開けると、そこには何百匹というアリたちがいました。皆、痩せた体で目は血走り、キリギリスを見た途端、一斉に歓声が上がりました。
「ア、ア、アリ君、こ、こ、これは一体……」
振り返ったキリギリスが見たのは、よだれをこらえ切れないアリの姿でした。
「寒さからは救ってあげただろう? 今度は君が、僕たちを飢えから救う番さ」



あら?

また誰かがドアをノックしているようですね。

猛スピードで母は

猛スピードで母は
テレビで長嶋有という作家が紹介されていて、やたら褒め上げられていたので買ってみようかと思ったが、ひとまず図書館で探してみた。すると、この本だけが置いてあった。文學界新人賞受賞作「サイドカーに犬」と芥川賞受賞作「猛スピードで母は」の短編二作で構成されている。

正直な感想。

なんだこれ?

面白さがまったく分からない。でも、amazonレビューは結構評価高い。うーん、こういうのを読んで面白いと感じて高評価をつけられる人というのは、きっと「文学」が肌にあう人なんだろうなぁ。俺は大衆娯楽小説のほうが楽しめるし、やはりこれからも芥川賞作品などには手を出さないようにしようとしみじみ思った。

2012年11月22日

誰にも書ける一冊の本 (テーマ競作小説「死様」)

誰にも書ける一冊の本 (テーマ競作小説「死様」)
荻原浩の俺の中での位置づけは、当たりハズレのある作家。良い本は凄く良いのに、イマイチなものは本当にイマイチ。似たような作家は他にも、伊坂幸太郎や浅田次郎がいる(あくまでも俺にとって)。

そんな荻原作品なので買うのは勇気がいるが、たまたま図書館で見つけたので借りて読んでみた。これはまずまずの良作だが、1300円も出して買うかと問われると……。分量も少ないし、図書館で借りてサラッと読み終えるくらいでちょうど良い本。

競作しているようなので、それらを一冊にまとめた本を出せば良いのに。

2012年11月21日

夜の交差点にて

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横断途中でスナップ。

2012年11月20日

ドトール!!

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6年ぶりくらい。

海水浴場にて

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2012年11月19日

『World War Z』がついにやってくる!!

ウォーキング・デッドのエントリで書いたように、俺はゾンビものが好きだ。そして、ついに待望のあの本が映画化される。しかも愛してやまないブラッド・ピット主演。これはもう絶対に映画館が観たい!! のだが、来年の8月公開かぁ……。恐らく医長になるだろうし、仕事が忙しくなると思うので、映画館で観られるかどうかはかなり絶望的。

この圧巻のゾンビ映像を観よ!!

原作とは、ちょっと趣きが違うんだけどね。

2012年11月18日

スロウハイツの神様

スロウハイツの神様(上) 

一つの物語の中で、複数の登場人物の視点を行ったり来たりするような小説が苦手だ。理由の一つは読みにくさ。かなり上手く書かれていないと、いま誰の視点なのか、心情なのかが一瞬分からなくなる。そして、本書はどちらかというと、あまり上手くない。

複数視点を好きになれないもう一つの理由は、「現実との乖離」だ。人間は生きていくうえで、他者の考えや気持ちは、彼らの言葉や表情や動きその他を見て聞いて感じて推し量るしかない。笑顔で「好きだよ」と言われても、その裏の本当の気持ちなど分からない、それが現実だ。しかし、複数視点の物語だと主人公以外の登場人物の気持ちが分かってしまう。そこに馴染めない。

評価が非常に高かったので買ってみたのだが……、内容にもあまり現実味を感じられず、ちょっと残念だった本。

2012年11月17日

自然のたくましさ

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世界屠畜紀行

世界屠畜紀行 THE WORLD’S SLAUGHTERHOUSE TOUR
『飼い喰い――三匹の豚とわたし』で実際に豚を飼ってみて、それを殺して食べた著者。その著者が豚を飼う前に書いている本。文章は、「殺」という文字が嫌だということで、「屠殺」ではなく「屠畜」という言葉で統一されている。

この手の本を買ったキッカケは、『ブタがいた教室』という映画を観たことだ。あの映画そのものはともかくとして、あの映画のもとになった教師の指導方法も考え方も、俺の感性とはまったく合わない。

一般に医療者や教師を含めた「対人援助職」は、「取り返しのつくこと」から手をつけるべきである。食育ということで考えるなら、まずは屠畜の様子を文章や言葉で、それでも伝わらなければ写真や映像で、そして最後に実地見学でと段階を踏むべきである。いきなり豚を飼わせて、名前をつけてペットのように育てて、最後は殺して食べましょうなどという極端な方法は、子どもたちに取り返しのつかない傷を与えかねず、とてもじゃないけれどまともな対人援助方法とは言えない。

本書では、実際に食育をしている小長谷有紀さんという人の指導方法に触れてある。小学2年生を対象としたボランティアで、モンゴルで動物を捌くときの写真を見せる。それも意図的に血がだらだらと垂れているものを。子どもたちはたいてい「わぁ……」となるのだが、そのときに、
「ちょっと待って、みんなの中で今まで肉を食べたことがない人は?」
と聞く。自分たちが生きるということは、他の生き物が血を流しているのだということを教えるのだ。そして、
「これからいただきますと言うときに、そのことを忘れないでね」
と付け加える。こうした教育方法こそ、まず真っ先に取り入れるべきだと思うのだが、なぜか実際に動物を飼育して食べるという極端な方法に魅力を感じた小中学校もいくつかあったようで、類似の「児童実験」が何校かで行なわれている。

本書は、動物を殺して食べるとはどういうことか、というテーマと並行して、屠畜業に携わる人たちへの差別を大きなテーマとして取り扱っている。よく見ると、文庫化前の単行本は「解放出版社」から出ている。俺は部落差別とは無縁で育って、部落差別意識はまったくない。また、肉屋の従弟がいるためか、世間で食肉業者に対する差別感覚があることも本書で知ったくらいに、まったくなにも思ったことがない。

いろいろなことが知れて良い本だと思う。ぜひご一読を。

<参考>
飼い喰い――三匹の豚とわたし
徹底追及 「言葉狩り」と差別
ちびくろサンボよすこやかによみがえれ
カニは横に歩く 自立障害者たちの半世紀
放送禁止歌
差別用語って何だ!?
被差別部落の青春

2012年11月16日

ちょっと音楽をかじっていて、音楽が好きという人なら面白いはず! 『絶対音感』

絶対音感 (新潮文庫)

プロの音楽家になるには、絶対音感が必要である。言い方を変えるなら、プロの音楽家はみんな絶対音感を持っている。

そう誤解していた。絶対音感なんてなくてもプロとして活躍している人もいるらしい。逆に、絶対音感が音楽の邪魔をすることもあるようだ。

絶対音感をもったある人が言うには、絶対音感があると鳴っている音がすぐわかるが、何かをやりながら音楽を聴くということができず、本さえ読めないらしい。また、レコードの回転数が狂っていると、音楽を楽しむどころか気持ち悪くて仕方がない。

1939年の国際会議で、A音を440ヘルツに定めると決定したにもかかわらず、現在、アメリカでは442ヘルツとやや高めで、同じように国ごとに少し違うらしい。そして、徹底した440ヘルツでの絶対音感がある「だけ」の音楽家は、そのズレに合わせることができずに非常に苦労する。絶対音感とは、それだけあってもあまり意味がないのだ。創造性を左右するような魔法の杖でもなければ、音楽家への道を約束するものでもない。ただ、あれば便利、といった程度のものらしい。

上記したように、絶対音感があるせいで本も読めないという人について、ある指揮者は、こんなことを言っている。

「冷蔵庫の音が気になる人というのは本当におかしな人だ。電気の周波数は決まっているから、あれはソの音に決まっている。そんな音はみんな聴こえている。店のBGMも食器の音もあって当たり前で、人間は自分たちの能力でそういう音をシャットアウトしている」

言われてみたら確かにそうで、いままで、絶対音感のある人は、踏切の音も音階で聞こえて気になって仕方がないのだとばかり思っていたが、そういう人はむしろ、シャットアウトする能力に問題があるのかもしれない。

日本人指揮者、佐渡裕は絶対音感のある指揮者についてこう語る。彼が中学生のとき、狂わないデジタル時計が欲しかった。当時、それは流行っていて3万円くらいした。ところが、今ではコンビニで千円くらいで売ってある。一方、当時も今もロレックスは値段は変わらないどころか上がることもある。時間の誤差はロレックスのほうが大きいかもしれない。家に置いてある古い振り子時計なんかは、もっと時間がずれる。それでも、持ち主は、
「うちの時計は毎日十分も遅れるんだ」
と嬉しそうに言う。指揮者もそれと同じで、正確に音を把握できる人がもてはやされた時代はあったが、いま、本当のカリスマとは、絶対音感なんかとは別の次元に存在しているのではないか。

また別の人が、絶対音感に関してこう言った。
「視力が良くても画家になれるとは限らない」

本の後半は、五嶋みどり・龍の姉弟と、その母父の話がメインで、絶対音感とはほとんど関係のないところに突入していったのが残念。

途中途中で、本格的に音楽をやっていないと分からないような部分もあったが、ちょっと音楽をかじっていて、音楽が好きという人は読んで面白いと思う。

2012年11月15日

アップフェルラント物語

アップフェルラント物語
表紙からも分かるように、少年少女向けに書かれた田中芳樹の冒険小説。大人が読んでもそれなりに面白いが、まぁ、子ども向けだな。

2012年11月14日

盲人用信号機について、再び

以前、盲人用信号機についてのエントリでも書いたように、盲人用信号機は音楽より鳴き交わし式のほうが、視覚障害者にとって進行方向が判断しやすい。

先日、福岡のあるスクランブル交差点でこの鳴き交わし式が採用されていたのだが、「ピヨ」と「カッコウ」が同時に鳴っていた。ただ鳴らせば良いというものではない。せめて、4ヶ所が重ならないよう交互に鳴けば、それぞれの点が線となって進行方向の判断につながるのだが……。なぜ鳴らすのか、そして鳴らした結果、誰がどういうふうにそれを利用するのか、そこまで考えれば同時に「ピヨ」と「カッコウ」を同時に鳴らすなんてバカバカしいシステムにはならないだろう。

こういう視点というのは、なかなか浸透しないものだね。

<関連>
盲人用信号機について

※正式には「音響信号機」という。
音響信号機に関するQ&A - 警察庁(PDF)

四〇〇万企業が哭いている ドキュメント検察が会社を踏み潰した日

四〇〇万企業が哭いている ドキュメント検察が会社を踏み潰した日
旬に合わせて読まないと意味がない本というものがあるとしたら、今読まないと意味を失う本はコレ。恐らく数年後には文庫になるだろうけれど、それまで待っていてはいけない。

検察の不祥事や横暴を許すのか、それとも許さないのか。俺はそんな立場にはない。ただ、彼らのあまりの暴走ぶりは見過ごしてはいけないと思う。

「赤字の会社はすべて潰れるのが当然」

ある検察官はこう言い切るが、赤字国家・日本の国家公務員がこういう発言をするなんて、ブラックジョークとしか思えない。こんな検察官に司法を任せていて良いのだろうか。

いま読むべき、とても大切なことが書かれた本。

<参考>
佐藤真言さんを応援する会

2012年11月12日

デタラメ健康科学---代替療法・製薬産業・メディアのウソ

デタラメ健康科学---代替療法・製薬産業・メディアのウソ
文句なしの名著。

理系文系を問わず、高校生でも読めば分かるし、科学や統計とはどういうものかが理解できる。そして、マスコミが垂れ流す健康情報というものがいったいどういうものかに気づき、騙されにくくなるだろう。医師や医療従事者が読んでも面白いはずだ。この本は、あらゆる人たちに勧めたい素晴らしい本だった。

2012年11月11日

髪を切りました!!

こんな感じに(笑)

前の髪型の写真でアップ待ちのものがたくさんあるから、このブログではしばらくは以前の髪型のサクラです。

サランラップのCMみたい!なんて言わないように(笑)

2012年11月10日

0点の思い出

認知症患者に質問検査をするとき、野菜の名前をたくさん言ってもらう項目がある。それをカタカナで速記するのだが、これがちょっと苦手。そういえば、普段カルテを書くときもカタカナは下手というか筆記のリズムが狂うというか……。

「テストで0点とったことがあるか?」というコラム記事を見てふと思い出した。小学校一年生(?)のときのカタカナテストで0点とったんだった。あれは衝撃だった。先生が笑いながら、

「紙の上に饅頭が乗ってるよ」

と言っていたことまで思い出した。精神科医としては「トラウマ体験」なんて軽々しく使いたくない単語だが、あれはトラウマに類する体験だったと思う。

こんな俺だったのだから、子どもが0点取っても温かく見守ろうと思う。

2012年11月9日

お勧めの加湿器

ダイニチハイブリッド式加湿器

実家の母にも贈り、うちでも使い始めた。これまで使っていた安い加湿器と違って窓で結露しにくいのは、湿度の調整をしているからか? 音は静かだ。このメーカーは知らなかったのだが、加湿器の分野では有名らしく、確かに買って良かったと思える一品。

2012年11月7日

遅刻の作法

時どき、遅刻が常習になっている人がいる。こういう人は、「もう少し寝たい」とか「これ見終わってから」とか「ここまで読んでから」とか、要するに待たせる相手より自分の時間や都合を優先して凄く大切にする人だ。だから、逆に自分が待たされることにはけっこう厳しい。

大いに反省を求めたいところだが、どうしても遅刻がやめられないという人には、遅刻の作法を身につけて欲しい。ポイントは簡単。「待たせるのは仕方がないけれど、なるべく相手の時間が有用なものになるよう配慮する」という、たったこれだけ。

具体的には、まず寝坊して遅れそうなら、起きた時点で「遅れます」と連絡する。9時に待ち合わせていて、目が覚めたら8時半、どんなに急いでも10分は遅れるとしよう。バタバタと準備して家を出て、8時55分頃に相手に電話を入れて「すいません、10分遅れます」なんて連絡をする人がいる。待たされる方としては、約束の5分前に「10分遅刻」と連絡されても、15分しか持ち時間がなくて待ち合わせ場所から動きにくい。でも8時半の時点で遅刻すると教えられていたら、40分も余裕があるので待ち合わせ場所に行くまでに寄り道ができる。

それから、待ち合わせに遅れそうな人は、後ろめたさからか、相手を怒らせないようにするためか、遅刻連絡をする際に遅れる時間を短めに言いがちで、ほとんどの場合、結局それより長く待たせてしまう。本当に悪いと思うなら、待たせる時間を長めに伝えて、相手に待ち合わせ場所以外でゆっくりしてもらう。自分が到着してから相手に連絡して、少しくらいは自分が待てば良い。

以上、もの凄く簡単なことだが、こういう配慮ができる人ならそもそも遅刻なんかしないのかもしれない。

2012年11月6日

落とし穴死亡事故を改めて考える

平成23年8月、男性を脅かそうとして砂浜に落とし穴を作り、そこに落ちて男性とその妻が死亡するという事件があった。当時からこの事故(事件?)については違和感があった。疑問点が3つある。

最初の疑問点。 まず、想像してみよう。2.4メートルといえば、170センチの人が横になって、手を頭側に伸ばしたくらいか。 一辺が2.4メートルの正方形は、かなり大きい。深さは2.5メートル(当時の報道より)、これはかなり深い。 バラエティ番組の落とし穴よりも深いだろう。手を伸ばしても、一人ではまず間違いなく這い上がれない深さだ。

この落とし穴から出た砂の体積は、およそ14立方メートル。砂の比重は2.5、つまり水の2.5倍の重さということだ。1立方メートルの水が、重さ1トンである。14立方メートルの水は14トン、砂だとその2.5倍、35トン。これを男女5人程度で穴掘ったら、一人7トンくらい砂運びしなきゃいけない。そんなきっちりと立方体(長方体)ができないにしても、砂の量は10トンは下らなかっただろう。夏場にイタズラ心だけで、こんな重労働できるのだろうか?

次の疑問点。 自分が、そんな広くて深い落とし穴に落ちたところを想像してみよう。上から砂が降ってくるだろうか……? 多少は崩れた砂が落ちてくるかもしれない。しかし、砂に埋もれて窒息するほどの量だろうか? なにも知らない人が、うっかり2.5メートルの高さから落ちたら、たぶん、側壁か地面で頭を打つ。目立った外傷はないということだが、気絶するくらいはするかもしれない。そこに砂がかぶさってくれば、窒息死するかもしれない。それにしても、砂に埋もれるところまでは想像できない。

最後の疑問点。そんな重労働で作った落とし穴、仕掛け人たちは、ターゲットが落ちる姿を見物したいと思わなかったのだろうか。なぜ、妻は一人で夫を呼び出して、二人して穴に落ちたのだろう。おそらく、夫だけを落とす予定が、驚いた夫に掴まれて一緒に落ちたのだろう。あとは先に書いたように、二人とも頭を打って気絶して……、だとしても、イタズラで掘った落とし穴なのに、どうして結果を見届ける目撃者がいないのだ? アリバイ、という言葉が頭にちらつく。

上記三つの疑問点から浮かび上がること。

断言しよう。
これは、ただのイタズラではない。

では、なにか。

かなり本格的なイタズラだ……、って、おいおい、違う違う。

改めて断言しよう。
これは、ただのイタズラではない。
それは……、あとは読んだ人が考えながら続報を待つべし。


以上は、当時の日記をほぼそのまま引用したのだが、結局、捜査の結果は不起訴となっている。後半二つの疑問点については状況がいまいち分からないのでともかくとして、砂の量について警察・検察は男女5人の人力でそこまで掘れると判断したということだろう。

この男性の両親が妻の両親と友人らを相手に民事訴訟を起こしたそうだ。俺としては、事件の真相はただのイタズラじゃないんじゃないかという疑問が拭えないだけに、今回の訴訟でもう少し詳しい状況が明らかになることを期待する。

<追記>
mixiにほぼ同じ内容の日記を載せたところ、被害者・友人らの知人と思しき人からコメントがあり、絶対に事故だったのだと断言された。重機は用いられていないそうだ。それだと、この量の砂をよくもまぁ人力で……、と呆れるばかりだ。信じるかどうかはあなた次第。
金沢市の夫婦(いずれも当時23歳)が昨年8月、石川県の海岸で落とし穴に落ちて死亡した事故で、夫の両親が、穴を掘った夫の友人6人と妻の両親の計8人に対し、計約9100万円の損害賠償を求める訴訟を金沢地裁に起こした。
提訴は10月17日付。訴状などによると、友人と妻は誕生日を控えた夫を驚かせようとして砂浜に深さ約2・3メートルの落とし穴を掘った。妻が夜、夫を連れ出したが、目印を見失って2人とも穴に落下し、窒息死した。
夫の両親は「5時間もかけて掘った大きな穴に転落すれば、人が死亡する可能性があることは十分に予想できた」と訴えている。また、妻が亡くなったため、妻の両親も訴えたという。
この事故で妻と友人6人は重過失致死などの疑いで金沢地検に書類送検されたが、地検は今年1月、妻を容疑者死亡で不起訴、友人も不起訴(起訴猶予)とした。
(2012年11月6日16時18分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20121106-OYT1T00668.htm

オカマの友人ヒラキの思い出

15年以上前の話。

九州大学の学生だった頃、友人に本物のオカマちゃんがいた。香川の出身だった。ずいぶん昔のことだ。名前は出しても良いだろう。ヒラキ。下の名前はさすがに隠す。

朝、学校で出会うと、
「おはよ~う」
と俺に近寄ってきて、凄く当然のようにスッと俺の手を握るヒラキ。そして、その手は握って離さない。そのまま、手をつないで歩く。いてもたってもいられない俺。
「おい」
「なに?」
「離せ」
「なんで?」
顔はハンサムでも不細工でもない彼。中性的でもない。色白で、切れ長の目。坊ちゃん刈りで、切りそろえた前髪。口元は、常に微笑。そんな彼が、真顔で「なんで?」と聞いてくる。俺は、戸惑いながら答える。
「……、理由なんかねぇよ!! 離せ!!」
「えぇやん」
ヒラキは、すごくサラッと言ってしまう。思わず、
「あ、そうやね」
と言いそうになる……、んなわきゃない。
「とにかく離せ、ボケこら」
手を振りほどくと、凄く寂しそうな、傷ついた顔をするヒラキ。なぜだか、心がキュンと痛む俺。いやいや、だまされないぞ。俺は、ノーマルだからな。

ホモにもオカマにも偏見はないけれど、自分自身が愛されるのは迷惑だし、嫌だ。理屈じゃない。本能なんだ。
俺、男。
お前、男。
どちらも、男。
男と男は、セックスしちゃダメなんだ。ヒラキ、それくらいは分かるだろ? そうだよな、そこは分かってもらえ……、いやいや、チューもダメなんだって!!

そんなヒラキは、誰にでもホモっているわけではなく、俺と、俺の友人のホリウチにだけモーションをかけてきていた。未だに、ヒラキがなぜ俺たち二人をターゲットにしていたのかが分からない。ホリウチは俺と同じ身長で、体重は110kgという巨漢。俺の恋愛対象は女性だし、百歩譲ってもホモ体験に興味はない。ヒラキに対しても素っ気なかったと思う。

そんなヒラキだったけれど、とにかくもの凄く頭が良かった。頭脳明晰で、咥えて、じゃなく、加えて非常に真面目だった。授業もほぼ完全に出席していた。九州大学経済学部では上位十人に入っていたと思う。俺とホリウチは試験の前になると、ヒラキからノートを借りた。ヒラキは、俺とホリウチのことが好きだから、快くノートを貸してくれた。

ところが、である。超優秀であるヒラキの書く文字は、字を知らない子どもの落書きに近い。それはもう字が下手というレベルではなく、古文書の域にまで達していた。読みにくい、のではない。読めない、というのとも違う。まず、俺の脳みそが、それらを文字として認識できないのだ。アラビア語の方が、まだ文字として認識しやすいくらいだった。結局、ヒラキのノートはコピーせずに返した。

疑問なのは、ヒラキが九州大学に合格したことだ。いかに頭が良くても、二次試験の解答用紙があの文字では、採点する人の気が萎えて放棄しても良さそうなのに。あの文字で合格したということは、本当に天才的なのだと思う。

あれからもう15年以上が経った。俺もそれなりに色々と経験してきて少しは大人になって、思い返してみるとあんなに俺のことを好きでいてくれたんだし、ヒラキとキスくらいしてあげても良かったのかな~。

なんて、思うわけがないよね。

オシムの言葉 フィールドの向こうに人生が見える

オシムの言葉 フィールドの向こうに人生が見える (集英社文庫)

祖国ユーゴスラビアの解体、ボスニア内戦などに巻き込まれた壮絶な体験を持つからか、オシムの放った言葉は奥が深かった。あるとき、日本の記者から、そういった洞察力などは戦争体験から学んだのかと聞かれたオシムは、こう答えた。
「(影響は)受けていないと言った方がいい。そういうものから学べたとするのなら、それが必要なものになってしまう。そういう戦争が……」
なろうと思えば大学の数学教授にも医師にもなれたオシムは、攻めの人生を選んでサッカー選手の道を進んだ。サッカー好きなら読むと面白いだろうし、そうでなくてもリーダー論として読める良い一冊。

『オシムの伝言』公式ブログ

2012年11月5日

ユキちゃんと、ユウキと、オナベと、キスと

まさかのまさか、だった。彼女は、僕にこう言ったのだ。 
「ごめん、男、好きじゃないんだ。そういうの、オナベって言うらしい」
お互いに二十歳。僕は、オカマもオナベも知識としては知っていたけれど、自分の身の回りの男は女を、女は男を好きになるものだと信じて疑っていなかった。それから、恋はひたすら願えば叶うものだ、なんて、そこまで能天気じゃないけれど、強い想いは少しは報われるはずだ、報われても良いだろう、報われて欲しいです神様仏様、なんてことを思うくらいにはバカだった。彼女はそんな僕なんかより断然クールで、それが女の子だからなのか、それともオナベという立ち位置によるものなのか、それは分からない。とにかく、彼女は、クールだった。

彼女の名前は、ユキコ。大学に入ってからずっと、僕は彼女をユキちゃんと呼んでいた。身長は、低めのヒールをはけば男子と並ぶほど高い。ショートカットで、色白で、長いまつげと切れ長の目。女の子にしてはちょっと低めの声。いつも白いシャツにジーンズをはいていた。大学に入ってから同じ学部で知り合って、ユキちゃんとはかなり仲良かったと思う。二人で飲みに行って酔いつぶれて、お互いの部屋に寝泊まりしたり、授業を一緒にサボってカラオケやゲーセンに行ったり、これはもう、僕から「付き合って」と言いさえすれば交際開始なんだと、そう思っていたからこそ告白したのだ。それが、まさかまさかの、こんなフラれ方。

そしてユキちゃんは、その日から、ユウキになった。 心の中でのイメージとしては「ユーキ」。ユキちゃんを、もっと馴れ馴れしく呼んでいるような、そんなニュアンスで。別にそう呼んでと頼まれたわけではないけれど、僕の気持ちの整理をつける目的が半分、いや、七割で、ユキちゃんになんとなく気をつかったのが三割。オナベにちゃん付けが正しいのか分からなかったし、君付けは変だと思ったから。ユウキと呼び出してから、僕たちはさらに仲良くなった、ような気がする。遊びに行く回数も増えたし、お互いに軽口を叩きあう頻度も増えた。正直なところ、僕には、微かな恋心が残っていた。ユウキはというと……、きっと気が楽になったのかな。そんな関係で、僕たちは学生生活を送った。

ユウキから、好きな人ができたと言われたのは、二年生の後期、十一月を過ぎていた。僕はユウキに連れられて、相手の学部の授業に忍び込んだ。授業が始まる直前、ユウキが顔を少しだけ赤くして、前の方の席を指さした。

一番前の席。

そこに座っていたのは。

違う学部の。


女の子。


当たり前だけど。いや、当たり前なんかじゃない。当たり前なはずはないんだけれど、うん、納得した。そして。 ショックだった。これまた、当たり前だけど。それから、相手が女の子でホッとしたのも偽らざる気持ち。男心、意外に複雑。そんな心境だったけれど、そこはもう、男と男の友情、くらいの勢いで、
「良かったじゃん、可愛いじゃん」
そう言うしかなかった。実際のところ、小さくて女の子ぽいだけで、顔はそれほど可愛くもなかったけれど。

その日から、だと思う。ユウキとは何となく疎遠になった。僕は淡い恋心をユウキに抱いていたけれど、ユウキは小さな女の子が好き。その事実を突き付けられたから、なのかもしれない。ユウキがオナベだっていうことを、実感したからかもしれない。よく、わからない。そうこうするうちに、僕にも彼女ができた。彼女の名はサキちゃん。ユウキと違って小さくて、ユウキと違って目がパッチリしていて、ユウキと違っていつもスカートをはいていて、ユウキと違って声も高くて、ユウキと違ってものすごく女の子ぽくて、ユウキと違って、ユウキと違って、ユウキと違って……。僕は本気でサキちゃんを好きになったし、サキちゃんからも好かれていた、と思う。だけど、恋愛って、一寸先は闇。
「好きだけど、キョリをおきたいの」
ありきたりのそんな言葉を真に受けて、そのあけたキョリに別の男が入ってくるなんて思いもしなかった。僕のサキちゃんは、一夜にして、誰かのサキちゃんになってしまった。女心は、やっぱり複雑だ。

僕は傷心でしばらく大学を休んだ。一人暮らしの部屋でボーっとして過ごして、ゆっくり、ゆっくりと、僕は立ち直った。元気になると、誰かと話したくなったけれど、かといって男友だちと話すのは、なんとなく嫌だった。からかわれるのはごめんだし、同情されるのは最悪だ。失恋をネタにされたら、そいつをぶん殴るかもしれない。だから僕は、久しぶりに話す相手をユウキに決めて、ユウキの携帯に電話をかけた。
「もしもし」
久しぶりのユウキの声。
「久しぶりに、飲みますか」
軽さを装ってそう言うと、ユウキは、
「オッケ。今家だから。いろいろ買ってきて」
と、これまた軽そうに答えた。久しぶりに会ったユウキは、前より少し髪が伸びていて、大して整えたりしていないんだけれど、それがまた似合っていた。僕たちは、缶ビールで乾杯をした。 アルミ缶のクニャンとした音が鳴った。それから、買ってきたお菓子やおつまみを食べて、チューハイを飲んで、日本酒も少し飲んだところで、僕はもう、良い感じで酔っぱらっていた。他愛もない話をしている時、何気ないふりをして、
「彼女がいたんだけどさ、結局、ふられたよ~」
そう言った。何気ない風にしたはずが、ため息と声をブレンドしたような口調になった。ユウキは、しばらくだまって、ふぅと長いため息をついた。ユウキも、かなり酔っているのかもしれない。

「キスしようか」
そう言ったユウキの目は、切れ長というより、細かった。色白の頬が、赤かった。声は多分、いつにもまして低かった。そんなユウキを見つめる僕も、酔っていた。心臓は大太鼓を打っていたけれど、なぜか気持ちは冷静だった。ドクンドクンと心臓が動くたびに、アルコールが脳に運び込まれて、脳細胞の一つ一つがにぶくなっていく。そうして、脳全体にアルコールが行きわたったように感じても、頭の芯、もしかしたら、それは心の真ん中なのかもしれないけれど、その部分だけはキンキンに冷えて、ギラギラと冴えていた。ユウキはぎゅっと目を閉じて、僕はまぶたを開けたまま、くちびるが重なった。僕は、ユウキの肩を抱いた。ユウキは、両手を床につけたまま。僕はユウキの背中に手をまわして、強く抱きしめた。ユウキの体が硬くなったのが分かった。僕は、自分のくちびるを開いた。ユウキのくちびるは、瞳と同じで、かたく閉じたままだった。ゆっくりと、ユウキの右手が僕の胸に当てられて、それからユウキは、僕を押しやった。ユウキと目が合った瞬間、ユウキが何か言った。 
「ゴ……」しか聞こえなかったけれど、ユウキが言いたかった言葉は分かる。なぜなら僕も、そのあとに「ゴ……」としか声が出なかったから。僕は下を向いて、目の端でユウキを見ていた。ユウキも、うつむいていた。数分、もしかしたら数十秒かもしれない。ちょっとした沈黙の後、ユウキが顔を上げるのが分かった。それに合わせて、僕もユウキを見た。また、目が合った。

何か言わなきゃ。
そう思った僕が口を開きかけた時、
「オェッ」
ユウキはそう言って、顔をしかめ、それから少しはにかんだ。僕は、ユウキのその顔を見て、立ち上がった。そして、洗面所まで行って、わざと大きな音でうがいした。遠くの方で、ユウキの、
「ひどーっ」
と叫ぶ声、それから笑い声が聞こえてきた。しばらくお互いに笑いあった。洗面所から戻った僕に、ユウキがポツンと言った。
「同性とキスするのって、やっぱり抵抗あるし、キモチわるい、ね」
僕には何となく、ユウキはユウキで、辛いことがあったのかもしれないと思った。僕は、心も体も、完全に男。ユウキは、本当は女の子のユキちゃんで、だけどオナベで、だから、オナベのユウキ。ユキちゃんと付き合いたかった僕は、ユウキとキスをした。

そして、恋心は、消えた。


ユキちゃん、さようなら。


だけど。


友情は、残った。


ユウキ、今後とも、よろしく。

2012年11月4日

「自殺」 → 「自死」 を考える

島根県で「自殺防止計画」を「自死防止計画」に改める方針としたそうで、そのことについてネット上でちょっとした議論となっているようである。

まず俺の根本的な考えから述べておく。言葉というのは国民の共有財産で、言い換えや使用禁止を決定する場合には慎重な議論が必要である。言葉と似たようなものとして「名前」がある。これは個人の所有物のように見えるが、やはり皆で共有するもので、個々人が好き勝手に名前を変更できるようだと社会は混乱する。本人が「嫌いな名前だから」という理由で名前を変えることは基本的には許されていない(『運子』など例外はある)。言葉も同様で、「遺族が救われるんだから良いじゃないか」という理由だけでは、言い換えにはあまり賛成できない。

それならば絶対的に反対かというとそうでもない。精神科医は自死遺族と接することも多いので、彼らの哀しみの深さや苦悩は、分かる、とまでは言わないにしても、もらい泣きしそうなくらいには伝わってくる。ここで敢えて「自死遺族」と書いたのは、遺族を表す場合には「自殺遺族」より「自死遺族」のほうが語感が良いし、呼び方としても適切に思えるからだ。決して、自殺を自死と言い換えるほうに与してのことではない。

自分自身も友人を一人「自殺」で喪っている。これを自死と言い換えたほうが良いとは思えない。自殺とは、自分を殺すことである。これは誰がどう訂正しようとしても変えられない事実である。「心の病気に殺されたのだ」というレトリックはあるかもしれないが、ならば「病死」と言うかというとやはり違う。自殺はやはり、自殺なのだ。ただし遺された人たちを呼ぶ場合には、呼び名に「殺」が付いているのはやはり不快だろうから「自死」遺族と言い換える。しかし、「自殺防止」を「自死防止」に変更することには非常に抵抗がある。

まだ自分の中でこれといった結論ができあがっているわけではないけれど、「自殺」は行為そのもの、「自死」はその結果、というのが一番しっくりくるのではないだろうかと思っている。だから、自殺という行為を減らすための計画は「自殺防止計画」、自殺の結果として遺された家族は「自死遺族」と使い分けるので良いんじゃないだろうか。

自殺を自死へ言い換えることが正式になった場合には、未遂の場合には「自死未遂」という言い方になるのだろうが、これも妙な言い方である。それから、「自殺」という言葉が消滅すると、同時に対義語である「他殺」も失われるだろう。また「レトリックでなく本当に病気に殺されるのだから病死で良い」という意見もあるが、その場合には統計その他での混乱を避けるために現在の「病死」を他の語に言い換える必要が出てくる。このようなことがあるので、言葉を言い換える時には、共有財産を扱っているという慎重さを持つことが大切なのだ。

<関連>
閲覧注意!! 樹海の自殺防止パトロール
『「生徒の暴言で教諭自殺」を公務災害と認定』というニュースについて

<参考>
「自殺」→「自死」へ ネット上では反発の声も
「自殺」は使わず「自死」に変更 島根県が「公式文書」の用語で新方針

2012年11月3日

生ける屍の死

生ける屍の死 (創元推理文庫)
ミステリはあまり読まないのだが、以前に佐平次さんのブログで紹介されていて(哄笑するかorシニカルに笑いたいか? 山口雅也「生ける屍の死」)興味深かったので買っていた。しかし厚いのでちょっと後まわしにしていた。今回、思い切って読み始めたところ、最初はなんだか死や葬式に関するウンチクの多い本だなぁ、と退屈していたのだが、途中からはジョークに笑いながら事件の謎に頭を悩ませ、非常に楽しい読書体験をすることができた。

死者が甦って、体を徐々に腐らせながらも人を襲うでもなく、考え喋り動き回る世界で、殺人をおかす意味はあるのか、犯人を捜すことに価値はあるのか。奇妙な世界で起きる殺人事件と、その周りで起こるドタバタ群像劇。

こういう本、好きである。

2012年11月2日

ダンボーとアヒルの組体操

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ピッ!!

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ピッ!!

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ピッ!!

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ピッ!!

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ピーッ!!