2016年1月28日

映画と原作はまったく別物で、原作のほうが断然良い 『黄泉がえり』


草薙剛が主演をつとめた同名映画の原作である。映画のほうはラストがトンデモなくグダグダだったせいで、「終わりダメなら全てダメ」の典型的な映画だった。7年前にDVDで観たが、時間を大いに損したという感覚が強かった。そういうわけで、まさか原作を読むことがあろうとは思いもしなかった。

どうして原作を読む気になったのかというと、それは原作者が梶尾真治だと知ったからである。梶尾真治と言えば「エマノン」シリーズで、これは俺自身がハマって読んでいる。だから、もしかしたら『黄泉がえり』は原作と映画が全然違うのではないか、原作のほうはもっと面白いのではないか、そういう気持ちがむくむくとわき起こった。

そして読んでみた感想は、やはり別物、似て非なるものであった。だから、映画のほうを楽しめた人は、逆に原作を読んでもつまらないと感じるのかもしれない。面白かったのは文庫本の解説だ。コラムニストの香山二三郎が、 映画について、
ファンタジー一色に変更されており、原作とは違った黄泉がえり
と書いている。きっとこの人は原作のファンなのだろう。そして映画のほうは、明らかな批難こそしないものの、あまり面白いとは感じなかったんだろうなぁ。

2016年1月27日

動物学者が、動物学者としての目で人間を観察 『裸のサル―動物学的人間像』


「裸のサル」とは言うまでもなくヒトのことである。ヒトは、動物として、どうして今のような生態、生活、文化を持つようになったのか。動物学者のデズモンド・モリスが、動物学者としての目で人間を観察し考察した本。

書かれたのが40年くらい前だからか、内容すべてが新鮮ということはなく、むしろ「ふーん、確かにそういう話は聞いたことがあるな」というものだった。これは裏を返せば、そんな昔に考察されたものが、現代において常識・雑学・トリビアのようなものとして生き残っているということだ。凄い。

そして新鮮でこそないものの、中身は充分以上に知的好奇心が満たされて面白いものだった。絶版のようなので中古で読むしかないのが残念。

2016年1月19日

製薬会社の人たちの行動観察をする時の参考にもなって面白い 『クチコミはこうしてつくられる―おもしろさが伝染するバズ・マーケティング』


クチコミに関してあれこれ分析し、さらに活用方法まで書いてある。マーケティングや商品開発、流通に関わるビジネスをしている人にとっては役に立つ話が多いのではなかろうか。

製薬会社のMRさんらを対象とした勉強会での講師依頼を受けている。といっても、実際のところはあちら側の営業活動の一環だろう。こういうのは丸め込まれないようにと意識はしていても、ついつい巻き込まれてしまうものだとは思うが、逆にこちらの希望や意図を伝える機会にもなりそうな気がする。

時々こういうビジネス関係の本を読むのは、精神科の診療や病棟運営の役に立つし、製薬会社の人たちの行動観察をする時の参考にもなって面白い。

2016年1月14日

暗いし長いのでお勧めはしないが、良い本だったとは思う 『1984年』


SF小説ではあるが、時代設定は1984年なので現代からすると30年以上前。ただし発表が1948年なので、著者のジョージ・オーウェルは36年後の未来を描いたということになる。

精神科や心理学関連の本を読んでいると、よくこの『1984年』が紹介されている。それくらいインパクトがあって、かつ示唆に富む小説であることは確かなのだが、全体を通じてとにかく暗いので、その点は覚悟が必要である。

本書に出てくる「ニュースピーク」という新言語とその考え方が面白い。

「“素晴らしい”とか“素敵”とか、そういう言葉は要らない。“良い”で代用できるものは全てシンプルに“良い”を用いる。程度を表したければ、“倍良”“超良”“倍超良”とすれば良い。“悪い”という単語は不要で、“不良”を用いて、それにまた“倍”とか“超”とかをつければ表現できる」(新訳版。旧訳ではどうなっているか知らない)

こうして言葉をどんどん削っていく仕事をする公的部署があるのだが、ふと現代の日本語のあり方に思いをはせると、これに似たようなことが着々と進んでいるように見える。

例えばテレビでもネットでも「~すぎる」という言葉が氾濫している。「キレイすぎる」「美味しすぎる」「楽しすぎる」など、表現の仕方としてはニュースピークの“倍超良”と同族である。

こんなことを考えるヒントになるから、本書は古典として今でも人気があるのだろう。暗いし長いのでお勧めはしない。100点満点の65点。かろうじて読み切れる良書といったところ。

2016年1月12日

この気持ち良さを知らずに過ごすなんてもったいない! 『ウォッチメイカー』


妻のネックレスのチェーンがグチャグチャにもつれることがある。俺はそれを解くのが好きだ。最初はどうにもならないほどのもつれ具合なのに、ある時点でスッとほどけ始めて、そこから先はとんとん拍子。きれいな一筋の輪に戻った時には何とも言えない爽快感がある。

ジェフリー・ディーバーのミステリを読むと、それと似た快感を味わうことができる。飛び散らかった人物や物ごとが、あるページで収束して「なるほど、そうか」と合点がいく。ディーバーの小説では、それが1回ではなく2回、3回と繰り返される。そして時には、合点がいったはずのことが、すべて見事にひっくり返されてしまう。

この気持ち良さを知らずに過ごすなんてもったいない! ぜひともディーバーの世界に浸ってみて欲しい。

ちなみに翻訳は第1作目から同一人物で、回を重ねるごとに翻訳力が上達している。翻訳家はプロである。プロでも上達する。というより、上達しない者がプロを名乗ってはいけない。本作の翻訳は、これまでのシリーズで最高だった。

2016年1月10日

医療とインチキ

医療では、医師が何をしたと考えるかではなく、患者が何をしてもらったと感じるかが大切になる(非同意入院などの例外はある)。
両者の感覚がズレて、特に医師の自己評価のほうが高い場合、その治療を受ける患者はつらい。

「医師が何をしたと考えているか」と「患者が何をしてもらったと感じているか」の間にできる溝や隙間に、さまざまなインチキがはびこる。

インチキを責める医師は、時々立ち止まって、溝や隙間を埋めることにも意識を向けなければいけない。ゴキブリ対策と似たようなものである。そして、ゴキブリのようなものだから、根絶は無理でもあるのだ(笑)

2016年1月8日

決して大げさではなく俺の診療にパラダイムシフトを起こした! 『気分障害ハンドブック』


タイトルが「ハンドブック」なのでマニュアル本をイメージしてしまうが、実際には薬物療法および精神療法に関する啓蒙書である。医師としての心構えを諭すようなところもある。とはいえ、薬物療法に関しては非常に具体的に書いてあるのでマニュアルとしても活用できる。

繰り返すが、マニュアル本ではなく啓蒙書なので、ガミー先生の感情が率直に語られているところもある。たとえば、
リチウムとバルプロ酸を1日2、3回に分けて処方する医師が大多数であるが、嘆かわしいことである。
といった具合だ。

心得として響いたのは、
病には、治療可能なもの、治療不可能なもの、自然に治るものがある。治療不可能なものと自然に治るものは治療してはならず、治療可能なものは治療すべきである。3つを鑑別することこそが、熟練の医術である。
最適な気分安定薬が決まってから主治医がなすべきは、患者のそばにただ居続けることである。
短時間であっても頻回な診察で培われた治療同盟は、それ自体が気分安定薬である。
それから、ところどころに出てくるガミー先生のスパイシーな表現が良い。たとえば、
抗うつ薬+抗精神病薬=「劣化版気分安定薬」
劣化版て(笑)
監訳者の松崎先生とメールでやり取りさせて頂いた際に、松崎先生が「ガミー節(ぶし)が効いている」と仰っていた。まさにそんな感じであるが、個人的には「劣化版」という日本語を採用した翻訳者のセンスも素晴らしいと思う。
うつ状態を呈した12歳の患者の診断が、10年間で双極性障害へと変わる可能性は50%である。発症年齢を踏まえるだけで、コインを投げて診断名を決めたとしても半分の確率で診断が当たることになる。
こういうジョーク(?)も好きだ。

それから、これはガミー先生自身の言葉ではないが、Frederick Goodwinの発言を紹介してある。
「リチウムを使えないか、あるいは使いたくない医者は、双極性障害の治療から足を洗え」
思わず吹き出してしまったが、それは自分自身が「今は」リチウムを使えるからである。駆け出しの頃は、血中濃度の治療域と中毒域が近いからという理由でリチウムにあまり良いイメージがなかった。その後、自殺予防などの効果など知るにつけてだんだんとリチウムへの抵抗がなくなり、上述したように「今は」使えるようになっている。危うく足を洗わされるところであった。そして、その直後の文章には声を出して笑ってしまった。
中毒、身体合併症、血液検査の必要性を不安に思う精神科医には、自らが医師であることを思い出してもらう必要がある。
こういう皮肉っぽい表現も、本書から伝わるガミー先生の臨床哲学が前提にあるので素敵に感じられる。精神科医は、精神科医である前に、まず医師であるべきなのだ。

ガミー節ジョークはまだある。
人工物でなく天然由来だから、という理由で、ハーブ療法のような自然治療を受けたがる患者には、リチウムは岩石に含まれるミネラルであり、元素表に載っている天然の物質だ、と伝えるようにしている。
こう書いたあとの、次の一文。
リチウムよりナチュラルな薬物はそうない。
ガミー先生、どんな顔してこの文章を書いたのだろう。ニヤニヤしていたのかな?(笑) そんな想像すらさせる精神科の専門書はそうない。

またガミー先生は確固たる信念の持ち主であることが読んでいてひしひしと伝わってくるのだが、
判断材料が少ないので私が間違っている可能性もあり
といった謙虚さも持ち合わせており、医師としてだけでなく人としても尊敬できる人物だと思う。
ガバペンチンに関しては、熱狂的になったり落胆したりと、処方する精神科医のほうが躁とうつの波に翻弄されたかのようであった。
こういう言い回しも思わずニヤリとさせられて、読み進めるほどにガミー先生のことが好きになる。


全体を通じて非常に素晴らしく、読むと外来への意欲が高まる本だったが、注意点も一つ。

「金ヅチしか道具を持っていない人には、すべての問題が釘のように見えるものだ」とは、心理学者エイブラハム・マズローの言葉である。また「クリスマスにハンマーをプレゼントされた子どもは、何でもかんでも叩いてみたくなる」といった格言(?)もある。

この本がハンマーになってしまわないように気をつけたい。



これまで、
「診断名より治療が大事。治療内容そのものより、患者がいかに自分の人生と生活を取り戻すかが大切」
という考え方で診療していた。この考え自体は今でも大きく変わらないのだが、本書を読んで、そこに改めて加わったのが、
「一周まわって、やっぱり診断も大事」
ということ。この追加は些細に見えるかもしれないが、俺にとっては大きい。そしてこのパラダイムシフトによって、実臨床で得るところも多くなった。一例を具体的に言うなら、今まで以上に貪欲に勉強する気持ちが高まったのだ。

診断を再考するという目で年季の古い患者をみなおしてみると、どうやらこれは誤診(というより正確には時間経過が症状を明瞭にした)みたいだぞという人たちがチラホラいる。こういう時、
「あなたの診断と治療は間違っていた」
と明言するのは最悪である。また、明言せずとも、いきなり薬を変えるのも良くない。というのも、患者にとって診断名と治療薬の変遷、各時代での主治医との出会いとやり取りは、それ自体が「彼らの人生の一部」であるからだ。引き継いだ患者の「正しい診断と治療」を発見したからといって、患者の歩んできた歴史を軽視するのは医師の傲慢である。臨床医は「一人の人間」に対してもっと謙虚であらねばならない。病気そのものと向き合うのではなく、病気を抱えた人と向き合ったり寄り添ったりするのが良い医師だろうと、今の自分はそう考えている。

2016年1月5日

タイトルからすると軽い読み物という雰囲気だが、実際には記憶の専門科によるわりと硬派な本 『なぜ、「あれ」が思い出せなくなるのか―記憶と脳の7つの謎』


記憶には7つの難点がある。本書の章タイトルがそれらを簡潔に説明している。

1. もの忘れ なぜ、ずっと覚えていられないのか
2. 不注意 忘れっぽい人の研究
3. 妨害 あの人の名前が思い出せない
4. 混乱 デジャ=ヴュから無意識の盗作まで
5. 暗示されやすさ 偽の記憶の誕生
6. 書き換え 都合がいい記憶、都合が悪い記憶
7. つきまとう記憶 嫌な出来事が忘れられない

記憶におけるこれらの難点は、確かに我々を戸惑わせたりイラつかせたり落胆させたりする。ではこの難点は脳の記憶システムの不具合なのかというと実はそうではなく、長い進化の歴史の中で培われてきた適応の一種なのだと著者は言う。「忘れるからこそ」情報の取捨選択や要約ができ、また「忘れられないからこそ」二度と危険な場所には近づかないといった行動をとるというわけだ。

タイトルからすると軽い読み物という雰囲気だが、実際には記憶の専門科によるわりと硬派な本である。それもそのはず、本書の著者は1991年からハーバード大学心理学部教授、1995年からは同学部の学部長を務めたような人物である。

原題は『The Seven Sins of Memory』で、直訳すれば「記憶における七つの大罪」といったところ。訳者あとがきに「専門知識のない人にも充分に楽しめるように」訳したとあるが、無理したせいか、逆に読みにくくなってしまっているのが残念。