2017年10月17日

鵜呑みにせず、飲み会ネタくらいに考えておきましょう! 『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』


脳科学者が雑誌に連載したエッセイをまとめたもので、それぞれのエッセイに追記を加筆してある。面白くはあるのだが、全体的には眉をツバで濡らしまくって読んだほうが良いような部分もある。

単行本初版が2006年。10年以上前なのだから情報が古くても仕方ない、というわけでもない。たとえば睡眠について「人の体内時計は25時間周期」という記述があるが、1999年にハーバード大学で厳密に行なわれた研究では24時間11分という結果で、日本での追試でも24時間10分だった(『8時間睡眠のウソ』より)。本書を読む人は「出版される7年前の研究さえスルーされている箇所がある」ということは認識しておくべきだろう。

そういうわけで、決して鵜呑みにせず、合コンでウンチク披露するくらいに留めておくほうが良い。

2017年10月16日

東日本大震災で人知れず活躍した人たちを讃えつつ、民主党を無能集団として徹底的にこき下ろす佐々節全開の本 『佐々淳行の危機の心得 名もなき英雄たちの実話物語』


「危機の心得」と銘打ってはあるものの、実際には「名もなき英雄たちの実話」のほうがメインである。リーダーシップ論や自己啓発系の本だと期待して読むと、ちょっと肩すかしをくうだろう。

実話を集めてはあるものの、ノンフィクションとして読むにはそれぞれの内容はあっさりしすぎていて、ぐっと引き込まれるようなものは少ない(皆無ではない)。

功労者を現場で速やかに昇進させる「フィールド・プロモーション」について知ることができたのは良かった。といっても、自分が誰かを昇進させる立場になることは絶対にないんだけれど。

佐々氏の民主党大嫌い節が全開で、無能集団として徹底的にこき下ろすのが読んでいて痛快ではあった。

2017年10月7日

全体的には治療者向けだが、自分自身、あるいは家族・友人が境界性人格障害という人も読む価値は充分にある! 『境界性人格障害のすべて』から (4)


全体的には治療者向けの本ではあるが、自分自身、あるいは家族・友人がBPDという人が読む価値は充分にある。

ただし、書いてある症状・性格を自分自身に当てはめて考えないように。何を隠そう、俺自身がその罠にはまりかけ、「あぁ、俺ってBPDなのかもしれない」という気持ちになったのだ。

さて、BPDの根底にあるもの、それは「安心感の欠如」である。本来であれば、0歳から5歳くらいの間に養育者から与えられるべき安心感を、身体的・性的な虐待、ネグレクト、離婚などで、充分に与えてもらえないことがある。こういう家族を、機能がうまく作動していないという意味で「機能不全家族」という。その後、小学校に入ってしばらくの間、安心感の欠如は症状として表面には出てこない。この時期を潜伏期、潜在期、あるいは「ギャング・エイジ」とも言う。同世代の同性とグループを作って遊ぶ時期で、わりと安定していることが多い。ところが、思春期に入ると、情動の不安定性が噴出する。幼児期の「安心感の欠如」のツケがまわってくるのだ。

最後に、アメリカのエール大学精神科のリッズ教授が挙げる『健康家族の三大条件』について記載しておく。

  1. 夫婦間同盟 なにがなんでも妻を守ってあげる。
  2. 世代間境界の確立 祖父母に口出しさせない。
  3. 性別役割の明確化 父は男性モデル、母は女性モデルになる。

これには、特に3番に関して異を唱えたくなる人もいるだろう。あくまでも参考程度と割り切り、知っておいて損はしないと思う。

それから2について。子どもの責任は、成長して最終的には子ども自身がとるとしても、それまでの最終責任は親が担う。その最終責任を負うことのない人(祖父母や親せき)に余計な口出しをさせない、というのが「世代間境界の確立」である。

以上、かなり少ない分量の抜粋・要約であったが、この本に関してはこれで終わり。

2017年10月6日

全体的には治療者向けだが、自分自身、あるいは家族・友人が境界性人格障害という人も読む価値は充分にある! 『境界性人格障害のすべて』から (3)


今回は、SET(支持、共感、真実)のどれかが欠けた場合についてである。

支持が充分に伝わっていないと、BPDの人は、
「自分を心配していない」
「自分との関わり合いを避けている」
と言って、こちらを非難する反応を示す。
「私のことなんてどうでも良いのね!!」
と彼らが責める時は、たいてい「支持」がうまく伝わっていない。

共感がうまく伝わらないと、
「あなたには私の気持ちなど分からない」
と、自分の気持ちが理解されていないという感覚を引き起こす。そして、BPDの人たちは、「分かってもらえない」という理由を掲げて、コミュニケーション拒否を正当化する。

最後に、真実がうまく伝わらない場合であるが、さらに危険な状況が生じることになる。支持と共感だけが伝わってしまった場合、BPDの人たちは、相手の容認を自分にとって最も都合の良い形で解釈する。そして、自分にかかわる責任を相手が引き受けてくれると勘違いするか、そうでなければ、自分の考え方、感じ方が全面的に受け容れられ支持されていると誤解してしまう。まっすぐ向き合う姿勢での「真実」が伝わらないと、BPDの人たちは相手にしがみつこうとする態度をいつまでも続けてしまうことになる。

今回はここまで。

2017年10月5日

全体的には治療者向けだが、自分自身、あるいは家族・友人が境界性人格障害という人も読む価値は充分にある! 『境界性人格障害のすべて』から (2)


BPDの人とのコミュニケーションの取り方が「SET」として紹介されている。これはセント・ルイスにある病院で開発された方法で、

支持(Support)
共感(Empathy)
真実(Truth)

の、それぞれの頭文字を取ったものである。

まず、支持について。
これは「相手を気遣っている」という個人的な気持ちを表明することである。例えば、
「あなたがどんな気持ちなのか、私はとても心配しています」
「君が苦しんでいるのを心配している。愛しているから力になりたい」
といった感じである。ここで大切なのは話し手自身の気持ちで、心から力になりたいと思っていることを伝えること。

次に、共感について。
これは、相手の混乱した気持ちを受け止める姿勢を表すことである。決して同情と混同してはいけない。なかなか難しいのだが、本書に従うと、共感の良い表現は、
「どんなにつらいことでしょう」
「君はこれまで苦しんできたんだから、もう耐えきれなくなったんだろう」
「これ以上、先へ進んでいく気力をなくしてしまったんだね」
であり、逆に悪いのは、
「かわいそうに……」
「どんなにつらいか、よく分かります」
といったもの。支持と違い、あくまでも強調されるのは相手の気持ちであり、こちらの感情ではない。共感は非常に分かりにくいが、「相手の憤りや悲しみや混乱した気持ちを言葉にしてあげる」といったところだろうか。決して、こちらの感情を言葉にすることではない。

最後に、真実について。
これは、現実と言っても良い。
「あなたに関わる最終的な責任は、あなた自身にしかとれない」
このことを明確に伝え、
「こちら側に、どれほど力になろうとする気持ちがあっても、最終的な責任は、あなた以外の誰にも肩がわりすることはできない」
ということを表明する。支持がこちら側の気持ちを、共感が相手の気持ちを、それぞれ主観的に述べるのに対して、真実では、今の問題を認識させ、解決に向けて何がなされるべきかを述べることが主体となる。ただし、非難・叱責というかたちになるのは避けなくてはならない。例えば、「だからこういうことになったんだ」や「自分のまいた種なんだから……」といった言いかたは良くない。

今回はここまで。

2017年10月4日

全体的には治療者向けだが、自分自身、あるいは家族・友人が境界性人格障害という人も読む価値は充分にある! 『境界性人格障害のすべて』から (1)


境界性人格障害を、以下、疾患名の略語であるBPDと記す。

BPDに関する詳しい説明は本書を読むか、Wikipediaでも参照してもらうとして、ここでは、この本に書いてあったことで印象深かったことを記す。

BPDの人には、完璧主義者が多いが、逆に積み上げてきたものを一気に手放す傾向もある。それは、BPDの特徴である「理想化とこき下ろし」という態度と根底は同じである。本書の例え話で分かりやすかったのは、
足を痛めた人がそうするように、BPDの人たちは足を引きずって歩くことを学ばなくてはいけません。ベッドに横たわったままの状態では、筋肉が委縮して収斂してしまいますし、逆に運動が激しすぎれば、傷ついた足をいっそう悪化させてしまいます。そのかわりに、足を引きずりながら、体重をかけすぎないように痛めた足をいたわりながら、徐々に力をつけていかなくてはいけません。BPDの治療についてもそれと同じように、力のかけ方を配慮しながら前に向かっていく姿勢が大切です。
という部分。できるところまでは徹底的にやり、それができないのなら、すべて放棄する。その極端な思考を少しずつ変えていくことこそが大切なのだ。このことは別の例え話でもしてある。
自分につける成績に、「優」か、そうでなければ「不可」の、どちらかしか選ばないのです。(中略)配られたカードでプレーするのを嫌がるBPDの人たちは、毎回パスを宣言して掛け金を失いながら、いつかはエースが四枚揃うチャンスを待っています。確実な勝利が保証されなければ、配られた手札でプレーをしようとは考えません。状況が前向きに変わり始めるのは、上手にプレーすれば勝つこともできるのだと気がついて、自分の手札を受け入れられるようになったときなのです。

今回はここまで。

2017年10月3日

オッパイとドパミンと産後うつ

姪っ子に授乳していた妹が、

「オッパイを飲ませていると、なぜか分からないけれど、哀しい気持ちが襲ってきて涙が出てくる」

と言っていて妙に納得した。これから書くことは、大脳生理学的に正しいかどうかは不明だし、また仮説というわけでもなく、ただ俺が「納得した理由」である。

いきなり変な話になるが、統合失調症の治療にはドパミンを遮断する薬を使う。そしてこの薬の副作用に「乳汁漏出」というものがあり、男性でもオッパイが出てくることがある。

さて、お母さんから乳汁が出るためには、プロラクチンというホルモンが増える必要がある。そしてドパミンは、このプロラクチンの分泌を抑えている(正確にはもう少し複雑だが省略)。だから、薬でドパミンが遮断されたら乳汁漏出が起きるわけだ。そして、赤ちゃんにオッパイをあげる授乳期には、このドパミンが減少する。

ドパミンというのはうつ病にも関係していて、喜びとか満足感とか、そういったものを司っていると言われている。もの凄く単純化して言えば、統合失調症ではドパミンが出過ぎていて、うつ病やパーキンソン病では足りなくなっている。シンプルに、ドパミンとオッパイ、ドパミンと喜びの関係を大雑把に眺めてみると、授乳期にうつ病になる「産後うつ」というものが腑に落ちた。

もう少し広げて考えれば、もしかすると進化の過程では、「授乳で快感を得る」というのは不利だったのかもしれない。なるべく早く離乳させるほうが有利な気はする。

ただし、産後に全員がうつ病になるわけではないので、上記が全例で当てはまるわけでないことは言うまでもない。そもそも最初に書いたように仮説ですらない。

以上、まったくの与太話。

2017年10月2日

セカンドオピニオン、特に医師にとってのセカンドオピニオンについて

セカンドオピニオンについて思うところがあったので書いておく。

患者から「他医にセカンドオピニオンをもらいたい」と希望された場合、「はいはい」と安易には応じない。まず現行治療への疑問や不安をしっかり確認する。

診断や治療開始の時点で患者や家族の強い納得が必要という場合は、こちらから「セカンドオピニオンをもらいに行きませんか」と勧める。

「セカンドオピニオンをもらいに行く」という行動は、患者や家族にとって金銭的にも時間的にも精神的にも大なり小なり負担であるということを、「セカンドオピニオンをもらいに行きたい」と言われた医師は認識しておかないといけない。

セカンドオピニオンをもらいに行くことが、本当にその患者や家族のためになると思えば、ためらうことなく送り出す。デメリットのほうが大きそうなら、そう考える根拠も含めて説明し、現行治療や診断についての疑問や不安を解消することに努める。

ぶっちゃけた話、「セカンドオピニオンもらいに行きたい」と言われた時、まったく何も検討せず「どうぞどうぞー」とやるほうが主治医は楽である。

しかし本当は、どうしてセカンドオピニオンを求めたくなったのか、いまの診断や治療への不安や不満は何か、セカンドオピニオンをもらいに行くことのメリットとデメリットなどを語り合うほうが有意義なのだ。ただし、主治医はとても大変。

「診断や治療に自信がないからセカンドオピニオンに行かせたくないんだろう!!」

と考える人もいるが、実際にはその逆。自信があって、
「行っても、きっとここと同じことを言われるだけ。お金と時間のムダになる」
と思っているからこそ、説明して、場合によっては引き止める。自信がない時には、むしろこちらからセカンドオピニオンを勧めるくらいだ。

セカンドオピニオンを求められる医師にしても、
「この人、こんな遠くから来たけど、いまの主治医のもとで治療継続するんだろうから、あまり極端な変更もできないよなぁ」
など考えると思う。変更したからには自分のところで引き受ける覚悟のある医師もいるにはいるけれど、医師に覚悟があることと、患者のアクセシビリティが一致するとは限らない。

たとえば、田舎の病院から都会の病院へセカンドオピニオンをもらいに行き、セカンド医師が
「今後はわたしに任せなさい」
とすべて引き受けて診断や治療を変更して通院開始したとする。しかし、急に悪くなった時に頼れるのは、交通手段や時間の関係から元々の田舎病院ということも多々ある。そして、元主治医が治療の大幅変更とその悪影響を見て仰天する、ということもある。

逆に、自分がセカンドオピニオンを求められた場合、紹介状がしっかりしていて診断・治療にも同意であれば、
「良い先生にみてもらっていると思いますよ。信じて治療を続けましょう」
と答えるだろう。

もらった紹介状がずさん、でも診断・治療には同意という場合、
「今のところは大丈夫そうです。でも、もしまた今度何か疑問や不安なことがあったら、遠慮なくご相談に来てください」
くらいに言うだろう。

セカンドオピニオンを求められて、主治医の診断・治療に同意できない場合の対応がちょっと難しい。紹介状の中身が濃い薄いにもよるが、基本的には「うちに転医するかどうか」と「緊急・急変時にはどこに行くか」を確認して、「うちに転医、急変時もうち」ということなら少しずつ方針変更することになると思う。

最後に。

医師にとって、
「セカンドオピニオンをもらいに行きたい」
と言われた場合に大切なのは、それを「現行の診断や治療に関する不安や不満を聴きとるチャンス」ととらえること。

「診療情報提供書の発行マシーン」になり下がってはいけない。

2017年9月29日

ミスや事故を防ぐことには、最先端の治療と同じ価値がある

アリセプト8mg内服している入院患者について、主治医が「アリセプト中止」と指示を出したところ、アリセプト5mgは外されたが、後発品ドネペジル3mgは続行していた、というミスがあった。

スタッフからは「アリセプトとドネペジル中止」と指示がないと分からないという苦情も出た。

さて、みなさんのご意見はどうだろう?

精神科で働いているのだから、精神科系の薬については商品名だけでなく一般名も把握しておくべきだ、という意見がある。たしかにその通りだが、そう指摘するだけでは今後のミス防止にはつながりにくい。

5mgは先発品、3mgは後発品となっている当院の在庫状況にも問題がありそうだ。おそらく先発品5mgの院内在庫がなくなってから後発品に切り替わるのだろうが……。それがいつになるのかハッキリしないし、アリセプトだけでなく、他の薬剤でも同様の状況である。

電子カルテによる処方歴はどう表示されるかというと、
Rp1
 アリセプト5mg 1錠
 ドネペジル塩酸塩OD錠3mg(アリセプト) 1錠
※半角カタカナは変換ミスではなく、カルテ仕様そのまま。

カッコ内に半角カタカナとはいえアリセプトと書いてあるのだから、それを見落としたのならスタッフの問題だろう、という意見もある。大いに一理あるが、やはりそれも、再発防止という点では益の少ないものである。「塩酸塩OD錠」という部分は俺でもアレルギー反応を起こしそうで、それ以下の部分がカッコ内も含めて無視されそう、という気もする。

同じ薬でも、用量により先発品と後発品が混ざっていることが多いせいで、こういう事故につながるのだろう。表記を商品名に統一できないのなら、いっそすべて一般名表記にするほうが、こういう事故は防げるはずだ。

「スタッフ勉強しろ」「スタッフちゃんと画面見ろ」

こういうのは事故の再発防止策とは言えない。

スタッフにミスをさせないためには、どういう指示の出しかたが良いのか。そして、良い方法が見つかったら、それをどうやって全体のシステムに取り込むか。こうしたことはリーダーとしての医師の仕事でもあると思う。

たとえばうちの精神科では、注射する部位について「右」「左」ではなく、「みぎ」「ひだり」と書くようにしただけで、左右の取り違え報告がゼロになった。

医療は薬や機器や手技がどんどん新しくなり、過去の方法のままやると事故につながったり、過去の方法そのものが「ミス」であったりする。だから、医療におけるミスや事故を防ぐための学問は地味ながら、どんな時代でも「最先端医療」なのである。

元プロ野球選手・監督の落合博満は、

「点数をとる強打者と、点数をやらない守備の名手は、同じくらい評価されるべきだ。守備で1点をとらせないことは、攻撃で1点とるのと同じ価値がある」

というようなこと書いていた。

同じことが医療ミスや事故の防止にも言える。

ミスや事故を防ぐことには、最先端の治療と同じ価値があるのだ。

2017年9月28日

ある未来を選ぶことは、別の未来を捨てること

少し古い2012年のニュースで「妊婦の血液で、胎児がダウン症かどうかがほぼ確実にわかる新型の出生前診断を、国立成育医療研究センター(東京)など5施設が導入することがわかった」というのがある。これはかなり物議を醸した。

ふと思うのだが、「ダウン症の子なら、わたし生みたくない」と考えて中絶した女性は、その後に健康な子を産んで、その子が成長していく過程で、「こんな言うことをきかない子は欲しくなかった」とか、「こんな成績の悪い子だとは思わなかった」とか、「こんな不良になる子だなんて……要らない」とか、そういうふうにならないのだろうか。いや、さすがにそれは考えすぎだと思う。まず、お腹の中の生命に対してそこまで割り切れる人も、生まれてきた子に対してそこまで冷淡になれる人もいないだろうと……、信じたい。

変な例え話になるが、ゲームの中に、最初にキャラがランダムで決まるようなものがあって、ファミコン時代には好みのキャラが出るまで延々とリセットボタンを押すなんてことがあった。出生前診断のニュースを見ると、そういうゲームを思い出す。

もちろん、生まれた子どもがダウン症だと経済的・精神的に苦しいという場合はある。例えば第1子がダウン症だった場合、次の子までダウン症だと養育する経済的・精神的負担はきっと想像以上のものだろう。だからそういう場合に限ってはこういう検査を許可する……、というのも難しい話で、経済的・精神的負担というものは客観評価できないから、負担が大きいか小さいかは親の主観でしか決めようがない。どんなに金持ちで時間的に余裕があっても、ダウン症児を育てるだけの「親力」がない人はたくさんいるだろうし、逆に貧しくて忙しくてもダウン症児と向き合える「親力」を持っている人もたくさんいるだろう。

ここで誤解して欲しくないのは「親力」に高低や優劣があるという話ではないということ。「親力」とは、数値で表すものではなく、きっと「種類」だ。足の速い人と勉強のできる人を比べることができないのと同じように、ダウン症児を育てきれる人とそうでない人の「親力」は、種類が違うのだと思う。そして、これまたややこしい話なのだが、そういう「親力」というのは実際に親になってみないと分からないものなのだ。

この手の話題では、「デリケートで難しい問題だ」と締めくくるのが無難ではあるが、それだと何も主張していないのに等しいと思っているので、自分は賛成か反対か、そしてどう考えるかを書かなければなるまい。

出生前の検査という手段がある以上、それを受ける自由は保障されるべきであるし、その結果として増えるかもしれない中絶に関しても、現在の法律に則って行なわれる限りは認められるべきだと思う。ただ、検査そのものについては嫌悪感とまではいかないまでも、違和感のようなものがある。やはり、俺はこの検査の存在には漠然とではあるけれど反対だ。そうは言っても検査は既に存在しているし、前述したように各妊婦の事情を考慮して検査を認めたほうが良いような場合もある。それなら、今できることは、その事情をなるべく客観評価できる基準を作っていくことだろう。

ただ、やっぱり最後にこう思う。

自分にどんな「親力」が備わっているか分からない段階から、ダウン症児と「その子の親である自分」という2人の未来を見限るというのは、ちょっと早計ではないのかな。

<追記>重要
友人である小児科医から一言あり、重要だと思ったので付言しておく。この検査は、ダウン症(21トリソミー)以外に13トリソミー(Patau症候群)と18トリソミー(Edwards症候群)も見つけることができる。下記記事の『重い障害を伴う別の2種類の染色体の数の異常も同様にわかる』というのがこの二つの染色体異常のことである。そして、この二つは生まれてすぐに死んでしまうことがほとんどで、妊娠初期にこの二つを見つけることにこそ検査の意義がある。だから、ダウン症についてだけ議論するのはちょっと違うんじゃないか、ということであった。


<関連>
ダウン症児は親を選んで生まれてくる
座敷わらしの正体

妊婦血液で胎児のダウン症診断…国内5施設で
妊婦の血液で、胎児がダウン症かどうかがほぼ確実にわかる新型の出生前診断を、国立成育医療研究センター(東京)など5施設が、9月にも導入することがわかった。

妊婦の腹部に針を刺して羊水を採取する従来の検査に比べ格段に安全で簡単にできる一方、異常が見つかれば人工妊娠中絶にもつながることから、新たな論議を呼びそうだ。

導入を予定しているのは、同センターと昭和大(東京)、慈恵医大(同)、東大、横浜市大。染色体異常の確率が高まる35歳以上の妊婦などが対象で、日本人でのデータ収集などを目的とした臨床研究として行う。保険はきかず、費用は約20万円前後の見通しだ。

検査は、米国の検査会社「シーケノム」社が確立したもので、米国では昨年秋から実施。妊婦の血液にわずかに含まれる胎児のDNAを調べる。23対(46本)ある染色体のうち、21番染色体が通常より1本多いダウン症が99%以上の精度でわかるほか、重い障害を伴う別の2種類の染色体の数の異常も同様にわかる。羊水検査に比べ5週以上早い、妊娠初期(10週前後)に行うことができる。

(2012年8月29日10時04分 読売新聞)

2017年9月27日

精神科患者が薬を飲むときに感じる不安

統合失調症の治療薬に、ジプレキサ・ザイディスというのがある。この薬の食感(?)を試すため、製薬会社から配られたプラセボ薬(薬効成分が入っていない)を飲んでみた。口に入れるとラムネのような味がすると同時にシュッと溶ける。お菓子と言われても信じるほどだ。

これを何個かもらって、病棟スタッフに試してもらうことにした。しかし、看護師らは逃げ腰および腰で、なかなか飲もうとしない。「薬の成分は入っていない」と繰り返し説明しても、
「怖い」
「気持ち悪い」
「○○さん、お先にどうぞ」
と言って手に取ろうとしない。

入院している患者の中には、薬を飲みたがらない人が多い。そういう人たちに、看護師はあの手この手で説得し、薬を飲むように勧める。患者が、
「その薬には毒が入っている」
と拒絶すれば、
「あなたの体に必要なものが入っているんですよ」
というようなことを言って、とにかく内服するよう言葉を尽くす。

プラセボ薬を飲むことでさえ、スタッフは不安や怖さ、気持ち悪さを感じたのだから、まして成分の入っている薬を飲むことになる患者の心中は穏やかなものではなかろう。そんな気持ちに少しでも気づいてもらえたら良いな、と感じた。

2017年9月26日

精神療法とは、まず聴くこと

愚痴は「こぼす」から良いのであって、あふれて「こぼれる」ようではいけない。ストレス発散を「ガス抜き」と言うこともあるが、これも意図して「抜く」うちは良いが、ガス「漏れ」になってしまっては良くない。怒りを爆発「させる」のと怒りで爆発「してしまう」のも、やはり前者のほうがたちが良い。

要するに、こころの中にあるなにかをコントロール範囲内におけているかどうか、ということ。

もちろん、ときにはあふれる想いをぶつけることも必要なことがあり、そのほうが伝わることもある。たとえばラブレターとか。

では、精神科診察室ではどうか。

愚痴はこぼさせ、ガスは抜かせ、怒りは爆発させてあげる。こぼれる前に、漏れる前に、爆発してしまう前に。

「ただ聞いているだけなのに精神療法を請求されるのが納得いかない!」

と怒っている患者をネットでよく見かける。しかし、そんな人たちの身のまわりで、些細な愚痴でも、やり場のない怒りでも、どんな突拍子のない妄想的なことでも、遮らず、ただ黙って耳を傾けてくれる人が、いったいどれくらいいるだろうか。もし、そうやって聴いてくれるような友人が一人でもいるのなら、きっとその人は精神科をあまり必要としないだろう。

精神療法とは、まず聴くことなのだ。

2017年9月25日

『ねころんで読めるてんかん診療』の中里先生の講演を聴いてきたよー!!

東北大学てんかん科教授である中里先生(@nkstnbkz)の講演会を拝聴に行ってきた。

もともと御著書やツイッターで熱烈ファンだったので、会場に入る前から胸はドキドキ。講演会というより「憧れのアイドルのコンサート」という心境であった。

会場に入ったのは開演から数分後。一般講演が始まったばかりだったが、俺の目は中里先生をロックオン。

あの後ろ姿は中里先生に違いない。

最前列からオーラが届いて、胸の高まりが増す。

普段は裸眼で、運転の時だけしかメガネをかけないのに、この講演会にはメガネ持参。中里先生の後ろ姿をうっとり眺めた。

講演会の中身はめちゃくちゃスゴかった。
内容はもちろんだが、プレゼン・スタイルがカッコ良い。まるでTEDを見ているようだ。中里先生はポインターを使わない。そのかわり、両手をダイナミックに動かしてアピール。

スライドはシンプル。でも奥が深い。医療者同士なら、あの中のスライド一枚だけで、飲み会の一つ二つやれるレベルだ。

講演そのものも素晴らしかったのだが、それ以上に質疑応答が神がかっていた。

極端な話、講演は用意していたものを話すので準備もできるが、質疑応答はアドリブになる。それをこうも見事にコントロールするか、というくらい、「聴く」と「語る」のバランスが見事。

講演の最後、中里先生がなんと『ねころんで読めるてんかん診療』(通称ネコテン)について書いた俺のAmazonレビューをキャプチャ画像で紹介! 鼻血を出して卒倒するかと思った。また、
「このレビュー、文章うまいでしょう。この先生もねぇ、ツイッターで良いこと書いているんですよねぇ」
といったご感想も!!

この時点でオシッコちびったかも……。


いや、オシッコはちびっていなかった。それは講演後のトイレでちゃんと確認した。中里先生にご挨拶する前に、トイレは済ませておこうと思ったのだ。

用を足してトイレを出ようとすると……、アーッ、いま中里先生とすれ違った!!

完全に、芸能人の追っかけ状態である。

そしてついに、情報交換会でご挨拶のチャンス。例えるなら、

「憧れのアイドルのコンサートを聴いて感動したあと、なんと楽屋でお話できる機会をもらった感じ」

中里先生の空き時間を待つ間に舞い上がってしまい、MRさんからも、
「先生の緊張が伝わってきます」
と言われるほどだ。

中里先生と仙台から同行したMRさんによると、
「中里先生も、レビューを書いた先生とお会いできるのを楽しみにされていて、何度となくその話をされてましたよ」
とのこと。

オシッコちびらそうとしてんのか、このMRさんは!!

さて、ついにご挨拶。
中里先生にご挨拶した瞬間、
ガシーッ
両手握手!!
あっ……。
オシッコちびったかも……。

そしていろいろお話をさせていただき、最後には持参した『ネコテン』にサインをゲットー!!!


少し冷静になって真面目な話を。

てんかんは、陰陽で言えば「陰」の病気である、現時点では。
「高血圧で薬もらってるんだよー!」
「俺なんて尿酸値が高くてさ(笑)」
と語れるような「陽」の要素はない。

しかし、中里先生の講演、その後のご挨拶を通じて思った。

この先生は、陰を陽にするための先駆者だ!

中里先生の明るさとバイタリティ、情報発信力は、てんかんとてんかん診療に対するイメージを大きく変える。特に「明るさ」は、これまで「陰の病気」として過ごしてきた患者や家族にとっての福音であろう。

ちなみにこの日の講演会。質疑応答で脳外科の若い女医さんが、心因性けいれんとの鑑別にかける期間について質問した。中里先生の著書やツイッターで中里イズムを吸収している俺は、
「鑑別にかけられる期間は、患者の状況による!」
と思った。中里先生の返答も同じだったので、答え合わせとしてホッとした。

憧れの先生ではあったが、実はちょっとイジワルな気持ちもあった。中里先生はツイッターではすごく良いことを書いてらっしゃるし、プレゼンのしかたについてもたびたび語られているけれど、実際はどうなのかなぁ? この目で確かめてみよう、という感じ。

講演を拝聴した結論。

ナマ中里に勝る中里ナシ。

ツイッターで伝わるのは中里先生の魅力や教えの一部に過ぎない、そう強く感じた。

中里先生は、今後どんどんテレビに出なければいけない人だ。
「てんかんあるある」を、明るくおかしく教育的かつ分かりやすく語れる稀有な存在なのだから。


<関連>
「てんかん診療には自信がありません!」と、自信を持って言えるようになる不思議な本 『ねころんで読めるてんかん診療::発作ゼロ・副作用ゼロ・不安ゼロ!』

2017年9月22日

善悪の判断基準を自らの良心ではなくランプに任せてしまうのは、映画の中に限った話ではなく、現実世界に生きる俺たちの中にもあるじゃないか!! 『エクスペリメント』


被験者らを看守役と囚人役に分け、数日のあいだ生活させると、だんだんと看守役は支配的に、囚人役は被支配的な言動となる。そんな実験の話を聞いたことがないだろうか。この映画は、実際にあったその実験を映画化したもので、『es[エス]』というドイツ映画のハリウッド・リメイク版である。

本物の実験は1971年にスタンフォード大学で行なわれたが、被験者らが禁止されていた暴力行為に及んだため危険として中止された。

本作のストーリーは、大方の予想どおりに進んでいく。いろいろとツッコミどころは多かったものの、非常に面白いシーンがあった。

実験前に、看守役にはいくつか指示がなされる。その中には暴力禁止という項目がある。そして、
「指示に反した者がいれば、あの赤いランプが点灯して実験中止になる。その場合、報酬(日給1000ドル)は一切支払われない」
と念を押される。物語が進むにつれて、看守役の一人が特に支配的行動をエスカレートさせていく。囚人役になった主人公の顔を便器に突っ込んだり、皆で小便をかけたりする。明らかな暴力行為だが、赤ランプはまったく点灯しない。ここで看守役の男が自信満々の表情で言う。

「ランプが点灯していないから、ルール違反じゃないんだ。判断基準は、あのランプなんだ!!」

深い。
なんとも深い言葉だ。
看守にこれを言わせるために、監督はこの映画を創ったんじゃないかと思えるくらいだ。

彼らは「模擬刑務所」という特殊な環境だから、こういう心理状態になったのだろうか?

いや、そうじゃない。

今まさに俺たちが生活している日常にだって、似たようなことがあるじゃないか。バレなきゃ良い、いや、バレても罰されないこともある。「暗黙の了解」で、ここまでは違反してもオッケーというのが実際にある。たとえばスピード違反。50キロ制限を60キロで走っていても普通は捕まらない。では、65キロは? 70キロは? どの時点で赤ランプが光るのか。

「判断基準は、あのランプなんだ!!」

自らの良心ではなく赤ランプに善悪の判断基準を任せてしまった彼の弱さ、愚かさは、多かれ少なかれ、現実世界に生きる自分たちの中にもあるのだ。

2017年9月21日

味も素っ気もないタイトルに惑わされるなかれ! ダイナミックに描かれる特殊班捜査に引き込まれる名著!! 『警視庁捜査一課特殊班』


タイトルがシンプルすぎて、あまり人目をひかない。面白いのかどうか不安だったが、読み始めると一気に引き込まれて、ページを繰る手が止まらなかった。

特殊班では、身代金目的の誘拐や企業恐喝などを対象に捜査する。殺人事件と異なるのは、殺人が基本的には「過去のこと」を調べていくのに対して、誘拐や恐喝は「現時点で動いている」事件への対応を求められるというところ。特に身代金目的の誘拐では、特殊班が対応を一つ間違えると、金は盗られ、犯人は逃げ、被害者が死亡するという最悪の事態になりかねない。それだけに、緊張感が尋常ではない。読んでいるほうもドキドキ、ピリピリしてしまうほどである。

多くの事件捜査を詳細かつダイナミックに描いてあり、とんでもない名著に出会えたことに感謝。ただし、のっけから子どもの身代金目的誘拐で、かつ被害者死亡という結末だったので暗澹たる気持ちにもなった。来年度から長女が小学生になるだけに、とても他人事とは思えなかった。

素晴らしい本なので、タイトルをもう少し人目を引くものに変えればいいのに……。なんだかもったいない。

2017年9月20日

『亡国のイージス』からすれば、見劣りしてしまう…… 『川の深さは』


マル暴の刑事を辞め、やる気のない警備員となった主人公を狂言廻しにしたスパイもので、本書の後に発表された大作かつ名作『亡国のイージス』(以下、イージス)へと緩やかにつながっている。ただ、『イージス』という弟があまりに優れているせいで、兄である本書が見劣りしてしまう。

『イージス』に比べれば、分量がおそらく半分にも満たないからか、全体に説明くさくなってしまい、情景描写は不十分で、人物もあまり深めきれないまま終わっている。登場人物は、「あれ? これって名前や役職こそ違うけれど、イージスに出てくるアノ人とアノ人だよね」というくらいステレオタイプ。本書を下敷きにして、より完成度の高い『イージス』を創り上げた、といったところか。

『イージス』レベルのものを期待して読むとガッカリするだろう。

2017年9月19日

魅力的な設定、豪快なストーリーだが、ちょっとパワー不足 『悪夢の六号室』


木下半太の「悪夢シリーズ」は、どれも設定が魅力的でストーリーも豪快である。ドンデン返しも面白いものが多い。

本書ではタイトルにある「六号室」と、となりの「五号室」が舞台になる。エレベーター、観覧車、ステーキハウスなど、舞台をかなり狭く限定するのも「悪夢シリーズ」の特徴で、これは著者が演劇に携わっていることも影響しているのかもしれない。この限られた設定・舞台の中で、登場人物たちが活き活きと動き回るところに「悪夢シリーズ」の魅力がある。

ただ、今回はちょっとパワー不足だった。キャラもドンデン返しもイマイチで、一部に描写の破綻もあったので、良くてせいぜい星3つというところ。

2017年9月15日

アルコール依存症の治療だけでなく、酒と依存症の歴史についても簡潔に学べる! 『アルコール問答』


架空の患者夫婦と、精神科医なだいなだのやり取りという形式で書かれている。アルコール依存症(本書では主に「アルコール中毒」という言葉が用いられている)についての著者の考えだけでなく、酒や依存症の歴史についても考察してあった。分量の少ない新書なので、そう深く突っ込んであるわけではない。簡潔にサラッと学べるのは短所もはらむが大いなる長所である。

次年度からアルコール依存症との関わりが増えそうなので、アルコール関連の本を探すうちに本書を見つけた。なだいなだの本は、まだ経済学部生で、医師になるなんてこれっぽっちも思っていなかった時期に何冊か読んだ。あまりピンとこないというか、パッとしない印象だった。あれから22年がたって、精神科医の大先輩であり、日本のアルコール依存症治療における先駆者として、著書から学ぶことが多いのに驚いた。

本との出会いは、人との出会いと同じく、タイミングや縁というものが大きく関係するのだろう。

2017年9月14日

交通事故の偽装を見破れ! 『現場痕』


交通事故と損害保険をテーマにしたミステリ短編小説集である。主人公は元刑事で、損害保険の代理店・志摩平蔵。愛妻を交通事故で喪ったことがきっかけで刑事を辞め、損保代理店として働いている。元刑事としての観察力や執念で、偽装された事故を追究し、無念の被害者を救い、卑劣な偽装犯を炙り出す。

著者がもともと生損保代理店を経営していたこともあって、損保にまつわることが分かりやすく書いてある。六つの短編はどれもそれなりに面白いのだが、ミステリの伏線や謎解き部分がシンプルすぎたり、冗長だったり説明的すぎたりという欠点はある。また別々の時期に発表された短編をまとめたものなので、主人公をはじめとした主要人物に奥行きが感じられず、その点ではちょっと残念だった。とはいえ、魅力的になりそうなキャラが多いので、いずれ長編小説にしてもらいたいと思うような素敵な一冊だった。

2017年9月13日

医師免許がなくてもなれる「こころ医者」とは? 『こころ医者講座』


アルコール依存症を専門とする精神科医なだいなだによる、「こころ医者」になるための心得を語った本。精神科医になるには医師免許が必要だが、こころ医者には免許が必要ない。大切なのは、「こころ構え」「こころがけ」といった「こころのありかた」である。

人との付き合いかた、接しかたに通底するようなことが書いてあるので、対人援助の仕事についているかどうかや、相手に精神疾患があるかどうかに関係なく、誰が読んでも得ることの多い本である。

身近にアルコール問題や精神疾患を抱えている人がいたり、自らが対人援助職についていたりという人なら、なおさら「こころ」にしみて、良い「こころ医者」になれるかもしれない。

2017年9月12日

野球の実況、テレビとラジオの違い

野球実況のやりかたは、テレビとラジオで大きく違う。ある番組で徳光和夫が説明していて、非常に納得する内容だった。

ラジオではリスナー側に映像がないので、それを言葉で補ってやらなければいけない。
「カウント、ノーボール、ツーストライク、追い込んでいます。桑田、一塁ランナーを警戒して、第3球投げました! 打った! ショート正面! あっと、エラー! 拾ったボールを……、あ、もう投げません。ランナー1塁2塁となりました。打った清原ガッツポーズ!」
といった具合に、目の前の光景を逐一言葉にする。

この番組で、素人にテレビ実況をやらせてみたところ、上記のようなものになってしまった。「言われなくても見れば分かる」ことも、一つ一つ実況されると、観ているこちらはくどく感じてしまう。徳光は言う。

「テレビでは、わざわざ言葉で伝えなくても、観ている人は映像で充分に分かる。だから、なるべく無駄な言葉は省いて、それ以外の情報を届けるように心がけている」

これはなにも実況に限った話ではなく、「話し言葉」と「書き言葉」の関係でも同じことが言える。また、実は精神科の診療場面でも、いや診察以外のもっと多くの日常の場面でも同様のことがあるのではなかろうか。つまりどういうことかというと……、いや、敢えて書かないでおこう。

わざわざ言わなくても良いことは、言わないに限るのだから。


ところで、徳光はアナウンサーを目指していた当時、電車に乗ると車窓からの眺めをすべて小声で実況していたそうだ。
「電車が発車いたしました。ホームを出ますとまず右手に見えますのが……」
といった調子で、ひたすら「間を空けない練習」をしていたらしい。

2017年9月11日

子育てに悩んでいる親・先生へ 『いじめと不登校』 後編


不登校について。
学校に行っているから別に偉いともいえないし、逆に悪いともいえない。学校へ行かない子というのは親を変えようとするだけのパワーを持っているんです。私らはいつもそう思うから、それを尊重しようと思うのです。
なるほど、言われてみたら確かにそうかもしれない。逆に考えると、親を変えるパワーがなく、心の中で死ぬほど苦しみながらも顔では笑って、元気そうに学校へ通っている子がいるのだろう。

不登校の子どもたちを抱える学校への助言。
ともかく悪者をつくろうとしないことです。
登校拒否の子は悪くないといったら、今度は教師が悪いとか、親が悪いとかいいますが、そんな悪者はひとつもつくる必要はない。大事なのは、子どもの姿をもっと見ようとすることです。(中略)それはやはり一人一人が見えていないといけない。
数学を教えていても、数学の知識を教えるということだけをやっていたらだめです。教室の外で接したり、話したりしていると、やはり一人一人違うんです。数学ができる子、できない子という軸以外の見方をぼくはしているわけで、そういうふうな反応がこちらから出たりすると、向こうも、この先生は自分を見てくれているんだと分かるんです。たとえば数学ができなくてポーッとしている人でも、「このあいだ、お前、よう走っていたな」とか言うと、それだけでも変わってくる。
簡単そうで、単純そうで、でも実際にやるとなると日々の業務に忙殺されそうで……。

不登校相談に来ていた子どもが、筆者らと遊ぶ中でだんだんと元気になってきて、筆者はもう少し来て欲しいなと思っているのに、母親は、「もうよくなりましたから今度でやめます」と言う。
そして、最後の日に、治療者の人が「もう今日で終わりやねぇ。元気で明るくサヨナラしようね」と言うと、子どもが首を横に振るんです。それで、あ、この子はまだ来たがっていると思ってうれしくなって「どうするの?」と聞いたら、「小さい声でサヨナラしよう」と言うんです。別れるときに、なんで元気で明るい声を出さなければいけないのか。
大人の常識というのは知らんまにそうなっているんです。
大人の常識。自分にもきっと、知らない間にそういう「常識」がしみ込んでいるのだろう。時どきは、こういう本を読んで、頭を雑巾みたいに絞って、余計な常識を出さないといけないのかもしれない。

対談の中からいくつか引用。
如月 キレないと本音が出せませんものね。
河合 でもね、ずーっとためててキレて出したものは本音じゃないんです。
怒りを表現してるのではなくて、怒りにやられているわけだから。子どもは犠牲者になってる。
「あの子、嫌いや」とか「腹たつ」というのを、「そんな、悪いこと言っちゃいけません」と小さいときから妙にコントロールしすぎています。それが、思春期になって親のコントロールをはずれたとたんに、なんでも「むかつく」と言い出すわけです。小さい時からムカつく練習をしてない。しかも、子どもが「むかつく」と言っても、お父さんが「やかましい」と怒るようなこともないから、「親父が本気で怒ったらたまらんわ」という経験もしてない。親は「そんなふうに怒ったら、心に傷をつける」と無用な遠慮をする。
「心に傷をつけんと、誰が成長するか」と僕は言いたいんですけど。
心の教育といって、すぐ教えることを考えないでほしいんです。とりわけ心の教育というのは、育てるとか育つとかの「育」のほうが大事なんで、「教」は関係ないんです。教えることは心つぶしになってしまうんです。
最後に、治療者として、いや、人として親として、こうなれたら良いなと思えた一節を引用して終わる。
夜道を一人で歩いてたら、お化けがいっぱい見えますけど、非常に強い人が端におってくれたら、ススキはススキに見える。その人があれはススキですよ、お月さんですよ、と言わなくても、ちゃんと見えてくる。それと一緒で、わかっている者が端についているというのは重要なことなんです。
いじめによる自殺がまた世間を騒がせている。そんな今だからこそ、というわけでなく、常に心に留めておきたい、お勧めの一冊。こんな良い本が600円もしないのだから、買わない手はない。

<関連>
子育て・教育に悩んでいる親・先生へ 『いじめと不登校』 前編

子育て・教育に悩んでいる親・先生へ 『いじめと不登校』 前編


引きこもりや不登校の相談を受けることがある。相談に来た家族に、なにか良いお土産でも持って帰ってもらえたら、と思って読んでみたら、非常に良い本だった。引用が多くて長いため、二回に分ける。
日本人の特徴的な考え方として、努力したものは誰でも偉くなると思っているんですよ。そんなばかなことはないんですね、ほんとうは(笑) 中学校に入って成績が悪いと、お前はだめだ、競争で負けてると言われる。子どもが怒るのは当たり前ですよ。そのときに、「お前は勉強しなくても、そのうちなんか面白いこと見つけるのやろな」と言ってあげられる大人がいないんですね。
ある意味でいうとアメリカとかヨーロッパのほうが日本よりは競争は激しいところがあります。が、価値観が多様化してるから、そんなに簡単に自分はもうだめだなんて、子どもが思わないわけです。勉強しなくても面白い世界がいっぱいあるってことを知ってるんですね。
一方、日本の親は「うちの子は何番」しかない。先生もそういう言い方をする。その前提には、どんな人間でも努力したら一番になれる。成績の悪いやつは努力していないという共通の認識があるんです。
これに関連して、「うちの子は何番か」にしか目が行かない、そんな親たちのエピソードが紹介してあった。

ある先生が子どもたちを島に連れていって、
「これは勉強じゃないから、普段と違う友だちの姿が見えるはず。みんな、自分のクラスの子にどんな良いところがあるか、よく見てください」
そうして、帰った後に子どもたちに○○君にはどんな良いところがあったかを書かせた。先生は、それをまとめなおして皆に返した。そうすると、そこには自分の良いことばっかり書いてある。子どもたちはものすごく喜んで家へ持って帰ったのだが、親からはぜんぜん反応がなかった、というもの。

「日本の父性を復権せよ」という論調に対して。
父性を復権すれば問題が解決するという論調もありますが、これには疑問が残ります。社会の仕組みとしてあっただけで、もともと日本には復権すべき父性なんてなかったんですから。明治の父親は威厳があった、戦前のお父さんは立派だったというけれど、あれは父性として偉かったんじゃない。父親を偉く思わせるような仕組みが世の中にあったというだけでね。むしろ個人としての父親は、日本国全体に奉仕する存在だった。
だから復権じゃなくて父性は創造すべきだと僕は言っているんです。
学校の先生にも読んでもらいたい部分が多い。
活きる力が育っていくための「土壌」として親や教師が存在する。このことを具体的に言うと、「安心して好きなことができる」環境ということになるだろう。「あの先生が居てくれる」、というだけで、子どもたちが心をはずませて好きなことができる。そのなかで、子どもたちの生きる力は、まちがいなく育ってくる。
ある高校の先生のエピソードが面白かった。作文が嫌いな子が多いので、その先生は生徒らに、
「ほんとうに嫌いみたいだから、どんなに作文が嫌いかを互いに話したらどうだろうか」
と提案し、さらに、
「授業中だから、声に出さずに筆談で。ただし、方言まる出しで良い」
と付けくわえた。生徒らは一対一になり、作文に関する恨み・つらみについて語り合った。
しばらく経った頃、先生が「あんたら、えらい書いているけど、読んでもええか」って聞くと「かまへん」というんで、みんなの前で読むんです。みんな面白いから大喜びする。そこで先生が「これ、ちょっと面白いから、一般の高校生にも分かるようにしようと思ったらどうしたらええんやろうか」といって、みんなで作文直していくんです。最後にはちゃんとした作文ができあがる。つまり「作文は嫌いだ」という作文になっている。
その一年後には、みんな原稿用紙に二十枚とか、それぐらいの作文を書くようになったそうです。
ある中学校での話。
女の子の髪の毛の長さが決まっていたところがあるのです。それを撤廃したんです。しばらく経って、ある先生に「自由にして、何か変わりましたか」と伺いましたら「子どもの顔を見るようになりました」と。それまでは、髪の毛ばかり見ていたというんです。
ここまで極端なことはないにしても、似たようなことは多いのかもしれない。

後編へつづく

<関連>
子どもらしい詩が胸をうつ 『一年一組せんせいあのね』

2017年9月8日

日本中の「アル中」たちが読むべきだ! 『今夜、すべてのバーで』


アルコールは怖い。

仕事がら、アルコールで身体や精神の健康を損ね、仕事を失い、家庭を壊した人を何人もみてきたし、中には離婚後に自らの命を断ってしまった人もいた。酒をほんの一口飲むだけで吐き気がするほどボロボロの体になって、それでも酒をやめられない人。医者から、不眠やうつ状態に酒が悪影響を与えていると指導されても飲んでしまう人。子どもたちから嫌われ、妻から愛想を尽かされ、親きょうだいが離れていっても、なお酒を求める人……。

俺自身、酒の味が好きだし、酔った状態を気持ちいいと感じるし、飲み始めると度が過ぎることが多いので、アルコール依存症と自己診断を下している。「まだ」問題が表面化していないだけで、「いつの日か」問題になるのではなかろうか。いや、もしかすると妻に言わせれば、「現時点で」充分に問題ありなのかもしれない。それでも酒はやめられない。だから、依存症なのだ。

本書は自身が重度のアルコール依存症でもあった中島らもによる小説。巻末には参考資料や引用文献が記載されており、著者が自ら抱える「アルコール依存症」についてかなり勉強したことが分かる。ストーリーはシンプルだが、日本語がきれいで読みやすく、アルコール依存症の怖さがよく分かり、かつコミカルな部分や青春小説のような趣きもある。こういう本は稀有である。

余談ではあるが、読んだのが古本で1994年の第1刷で、見る限りで誤字や誤植は一つもなく、おかしな日本語も見当たらなかったことに感銘を受けた。著者、編集者、校閲、組版といった本作りに携わる人たちの意気込みさえも伝わってくるような一冊だった。

日本中の「アル中」たちにぜひ読んで欲しい!!

2017年9月7日

「当たる」占い師が流行るわけではない

どこそこの占い師が当たる、という噂はよく耳にする。飲み会でも、特に女性がそんな話をする。そして、俺は毎回、酔っ払いながらも以下の説明をする。

人が誰かに勧める占い師は、当然ながら当たった占い師だけだ。当たらなかった占い師の話など、ほとんどされない。されても、聞いた方はそれをわざわざ覚えようとはしない。占い師のところに行くときには、多くの人が「当たると教えてもらった」占い師のところへ行く。

占い師に言われたことが、ズバリ当たる人もいれば、ハズれる人もいる。そして当たった人は広めまわり、ハズれた人はこんなものかと思うだけ。こうして、「当たる」という話題はどんどん広まり、「ハズれた」という話はすぐ消える。流行る占い師の所へは多くの人が訪れるから、必然的に当たる人の絶対数が増える。つまり、一度「当たる」という評判さえ作ってしまえば、その占い師は「当たる占い師」として食べていけるのだ。

そういう感じの説明をした後に、

「だから、占い師の言うことなんて信じるな」

そんなことを言う。そうすると、相手は少し感心したような顔をしてこう言う。


「ねぇねぇ、先生ってA型でしょ?」

……。


そうそう。


血液型占いというのはね……。


そしてまた、俺の長説法が始まる。

<関連>
血液型占いなんて信じない、でも……
断言しよう、血液型占いは当たるのだ。

2017年9月4日

読書人生、損するところだった! 『亡国のイージス』


こんなスゴい小説を見逃していたか……。危うく、読書人生で大いに損するところだった。

ストーリーをまったく知らずに読んだのも幸せだった。だから、ここでも内容についてはほとんど触れないでおきたい。タイトルに「イージス」とあるとおり、海上自衛隊のイージス艦が関わってくるというくらいは書いても良いだろう。

どういうジャンルの本か、ということさえネタバレになりそうで書きたくない……。

いやはや、面白すぎる小説というのは、お勧めレビューが書きにくいものだ。



以下、多少のネタバレはOKという人に。

ストーリーは、スパイ小説と軍事・戦争小説、人間ドラマをうまく混ぜ合わせたようなものだった。戦艦やミサイルや銃器の名前が頻出するので、詳しくない人には場面が想像しにくいかもしれない。ただ、俺もあまり詳しくはないが充分以上に楽しめたので、きっと大丈夫。物語の中心はあくまでも「人」だから。SF小説が空想科学を土台にして「人間を描く」ように、本書も舞台はスパイや軍事・戦争ではあるが、描かれるのはそこに生きる人間たちだ。それもとても巧みに、そして熱く。

超絶お勧め。

2017年9月1日

あなた、依存症ですよ。 『人はなぜ酒を飲むのか 精神科医の酒飲み診断』


薬物依存症の一つとして考えられている「アルコール依存症」の診断基準は、ICD-10、DSM-5の「薬物依存症」に詳しく書いてある。

ただ、俺の外来ではもっとシンプルに、以下のどれかに当てはまるようなら「依存症ですよ」と注意を促すことにしている。

1.飲み始める時間を守れない。
  その日に予定があるから、それが終わるまでは飲まない、ということが守れない。

2.飲み終わる時間を守れない。
  明日、大事な用があるので23時に切り上げる、と決めていても、ついつい午前様……、となってしまう。

3.飲む量を守れない。
  深酒しないようにと心に決めているのに、飲み始めるとどうしても深酒してしまう。

これ以外にも、採血異常があることを分かっていてもやめられない、不眠を悪化させると言われてもやめられない、精神科の薬との飲み合わせが悪いと指導されてもやめられない、といったことがあれば、「依存症ですよ」と伝えている。

「わたしは依存症になりかけですかねぇ?」と自嘲気味に、しかし本心では大丈夫と思っている様子で笑って話す人は多い。そういう人に真顔で「依存症ですよ。なりかけなんかじゃありません」と伝えると驚かれるし、中には本気で否定してくる人もいるが、それでもやめられないのだから依存症だろう。

そういえば、過去に読んだ本では「家族や同僚が困っているのに、やめられなければ依存症」というものもあった。

こうして書きながら、あぁ俺も依存症なのだな、と思う。幸い、家族がひどく困っていることはなさそうだし、仕事があるのに朝から飲むなんてことはしないし、いまのところ身体的にも精神的にも支障はないけれど、終わる時間や量に問題が……。

本書は多くの症例が紹介してある。アルコールによる身体への害もさることながら、家庭、社会生活、人間関係、「人としての尊厳」などを壊すアルコールの怖さを痛いくらいに感じた。

節酒! 

そう、俺は節酒します!! 

たぶん……。


ちなみに、著者の中村医師は下戸とのこと。

2017年8月31日

頭の中での思考は、言葉に出す50倍から80倍の速さで流れる

コーチングの本を読んでいたら、
「頭の中での思考は、言葉に出す50倍から80倍の速さで流れる」
と書いてあった。だから、言葉で表現しない考えは、そのあまりの速さに、本人が「考えている」ということさえ意識できないままに、頭の中を一瞬にして過ぎ去っていく。コーチングでは、クライアントに質問することで、流れ去る考えを言葉にさせて、本人がきちんと意識できるようにする。そして、これだけで色々な問題が解決に向かう。

こんな話がある。

テニスのコーチが、友人に代理コーチを依頼した。この友人、実はテニス初心者で、スキーのプロコーチだった。さて、その代理コーチのテニスレッスンはうまくいったのだろうか。ふたを開けてみると、実に評判が良かった。では、代理コーチはどのような指導をしたのかというと、実はほとんど指導していなかった(しようと思ってもできない)。ただ初診者として、プレイヤーに素直にたくさんの質問をしたのである。たとえば、「ミスショットするボールって、打つ前にどんなふうに回転しているのか教えてくれないかい?」と聞かれた生徒は、普段は意識せずにボールを打っていたが、質問に応えるためにボールをよく見るようになってミスが減った。コーチングが上手い人というのは、適切なアドバイスをたくさんする人ではなく、適切な質問で相手から考えを引き出すのが上手な人のことという一例である。

ところで精神科を考えてみると、多くの人が、
「精神科にかかれば適切なアドバイスがもらえる」
と思っているようだ。だが、上記したように、アドバイスするよりも質問して引き出すほうが非常に効果的なことが多い(そのかわり難しくもある)。ありきたりな助言や説教など、言われたほうの頭にはほとんど残らないものだ。「説教がそんなに効果的なら自分に説教しろよ」と、これは学生時代に愛読したコーチングの本に書いてあったセリフである。アドバイスするよりは、質問する。こうすることで、患者の頭の中を高速で通り過ぎてしまっている「考えや感情のもと」を意識の網に引っ掛けて、問題解決に近づける。逆に、いくら質問しても、こちらに答えだけを求めて「先生はどう思いますか?」といった質問を繰り返すような人はなかなか改善しないのではなかろうか。

学生時代に感銘を受けたコーチングの本を紹介しておく。この文章を書きながら、改めて読みなおそうかなと思った。名著である。


2017年8月30日

可能性は無限大、でも個々人の能力には限界がある

世の中には、
「可能性は無限大だ!!」
と能天気に主張したり他人を応援したりする人がいる。可能性が無限大だということは認めるが、可能性を実現させるための「能力」は無限ではない。人によって大きく違う。努力では埋められない部分というのは確実にある。

生来の能力の限界を無視しがちな人は、
「努力が足りない」「根性がない」「甘えだ」
といったことを平気で口にする。その根底には、
「自分ができることは、他人もできる」
という勘違いがある。この勘違いもしかすると、その人の謙虚さ、つまり、
「こんな自分だってやればできたんだから、他の人ができないはずがない」
といった気持ちに起因するのかもしれない。しかし、努力不足、根性なし、甘えるなと言われたほうはたまらない。ストレスを感じて落ち込むか、逆に荒れ狂うか、いずれにしても良いことはない。

あなたがイチローやマツイ、あるいはナカタやカズのようになれないのは、決してあなたの努力が足りないわけでも根性がないわけでもない。それと同じで、あなたが甘えだと責めているその人も、あなたのようには上手くできないだけだ。こんなに単純なことでも、自分や家族にあてはめて理解し、その人、その子に応じた環境を用意したりペースを合わせたりするのは、なかなかに難しい。

2017年8月29日

違法薬物の使用歴やアルコール摂取量を尋ねるときには「あっさり聞く」ほうが良い

覚せい剤や麻薬の使用歴を聞き出すときのコツは、それらがいかにも「当然で」「普通のことで」「こちらは聞いても驚かない」という雰囲気で尋ねることだ。

「東京に何年か住んでいたんなら、麻薬なんかの誘いも多かったでしょ?」
こちらが、非常に軽く、あっさりと、さも当然かのように聞くと、相手も、
「そうですねぇ、結構ありました」
と答えることが多い。
「覚せい剤? マリファナ? 脱法ドラッグ?」
告白された後も、これまでの態度を変えずに聴き続ける。

アルコールの問題を抱えている人への問診も似たような方法を使う。アルコール依存症では、その人なりに罪悪感を持っていることが多い。だから、飲酒量に関しての質問には、毎日5合飲んでいても「3合くらいです」と、実際の量より少なめに申告する。これに対して、質問するときに敢えて大げさな数字を出すと、事実に近い量を答えやすい。
「お酒は一日にどれくらい飲みますか……、たとえば焼酎一升とかですか?」
あくまでも「それくらい普通は飲みますよね」という雰囲気で聞くと、
「いやいや、そんなには飲みませんよ(笑) 5合くらいです」
という答えが返ってくる。

医師は「診察室」に慣れているが、患者からしたら特殊な空間である。さらには白衣を着て威圧感さえ感じる人と向かい合い、しかも自らが罪悪感を抱いていることについて尋ねられる。これは、厳しい教師や警察官の前にいるのと同じくらい居心地が悪い、と考えておくほうが良い。

この居心地悪さを緩和するために「あっさり聞く」。日ごろから心がけている方法である。

2017年8月28日

見たことがないものを「ニセモノ」と決めつけるのは、見たことがないものを「ホンモノ」と盲信するのと同質ではないか?  『職業欄はエスパー』

精神科の人格障害という診断のなかに、統合失調症“型”と統合失調症“質”というのがある。医学生時代には、どちらがどちらか覚えにくかった。型のほうはカタカナで「スキゾタイパル」「シゾタイパル」、質のほうは「スキゾイド」「シゾイド」という。それぞれの詳しい説明はWikipediaにゆずる。
統合失調症型パーソナリティ障害
統合失調症質パーソナリティ障害

ここでは、とくに「型」、シゾタイパルの人の話をする。彼らは、子どものころからオカルト系を好きなことが多い。それが高じて、世間から「特別に変な人」と思われ避けられるようになり、そのせいで対人交流がうまくいかず本人が悩むとなれば、これは障害といえるだろう。そこまでいかなくても、子どものころから幽霊や超能力、占い、宇宙人など、いわゆる超常現象、オカルトが大好きという人たちがいる。対人交流にも問題なく、場の空気を読んで、自分の趣味を出したり隠したりできる。

たとえば、俺。

子どものころから、オカルトが大好きだった。幽霊、守護霊、妖怪、占い、宇宙人、超能力、つのだじろう、あなたの知らない世界、新倉イワオ(もう亡くなっている、合掌)。今でも好きだが、子どものころほどのエネルギーはない。時どきテレビで見て、ホンマかいな、とツッコミを入れながらも半分、いやそれ以上には信じている。

そう、俺は信じる側に入る。特に超能力に関しては。

信じない人に問いたい。
なぜ、信じないのか。

俺には、信じる理由がある。「超能力がある」と言われる人に会ったことがある。その人は、俺の祖母の名前「つる子」を言い当てた。しかも、「本当は“つる”だけど、なぜか子がついてますね」と。確かに祖母は結婚したあとに、舅(俺の曾祖父)から「つるだと呼びにくいから子をつけろ」と命じられ、通称「つる子」になったのだった。驚いた話はまだある。俺が渡した500円硬貨を片手であっさりと曲げられた。別の日に連れて行った友人はまったく信じておらず、パッと見では分からない傷を500円硬貨につけて用意していた。その硬貨も、やはりあっさりと曲がり、友人は信じるようになった。

トリックがある。そうかもしれない。だが、どんなトリックなのか、誰も教えてくれない。ただ単に、見たことがないことについて、「トリックがある」と信じているだけだ。そういうのを「妄信」というのだろう。新興宗教や似非科学を盲目的に信じることと、ベクトルが真逆というだけで、本質は大して変わらないのではないか。


胡散臭い3人の超能力者を、ドキュメンタリ作家の森達也が追ったノンフィクション。あえて書くが、相当に胡散臭い。精神科の診察室なら「統合失調症」と診断されてもおかしくない言動だってある。それなのに、なんとも言えない説得力がある。もし、彼らが対人交流に障害があれば、シゾタイパルと診断されるかもしれない。だが、むしろ彼らは自分たちの独自性を商品化し、大金を儲けていた時期もあるし、今でもそれなりの立ち位置をもち、一定の人間関係を築いている。決して、障害、ではない。

森達也は、『A3』(ブログ内レビュー)で俺に衝撃を与えた映像作家。今回も引きこまれて読んだ。読んでいて、森の自問自答、悶々とする姿が目に浮かぶ。森は純粋なのだ。だからだと思うが、彼はどっちつかずだ。超能力を目の前で見ても「信じる」とは言えない。だけど、見てもいないのに「信じない」という人たちにはムキになって反論してしまう。

この本は、超能力を信じる人にも、信じない人にも読んでもらいたい。

2017年8月25日

患者の話をよく聞きなさい。診断の手がかりはそこにある。 『こちら脳神経救急病棟』


神経内科にまつわる臨床ノンフィクション。著者のアラン・ロッパーは神経内科医で、マイケル・J・フォックスのパーキンソン病治療の主治医でもあった。

神経内科の臨床エッセイは、ハロルド・クローアンズ、オリヴァー・サックスの二人が素晴らしい本を書いている。中でもクローアンズ先生の本は最高に面白いが、あまり有名ではない。サックス先生のほうは文庫化されてロングセラーになっているものもある。きっと『レナードの朝』が映画化された影響が大きいのだろう。

神経内科というと取っつきにくいと思われるかもしれないが、医療専門書ではなく、あくまでも一般人向けのノンフィクションなので、そう心配はいらないはずだ。

パーキンソン病、ギラン・バレー症候群、ALS、解離性障害、詐病、脳梗塞や脳出血、認知症など、出てくる疾患はさまざまだ。そして、ポッパー先生のスタンスは「患者の話をよく聞きなさい。診断の手がかりはそこにある」。

値段は若干高いが、それに見合った内容と分量である。これが文庫化されたら絶対に「買い」なのだが……、そこまで本書が生き延びられるかどうか。絶版となって埋もれている医療系名著をよく見つけるので、本書がそうならないか心配。

2017年8月24日

悪趣味B級スプラッター・ホラー! 『ジグソーマン』


有名書評ブログでスゴ本として紹介されていたので、詳しい内容を確認しないまま購入して読書スタート。そして……、

なんじこりゃ!!

Amazonレビューは酷評、と言っても、現時点(平成29年8月24日)では2人しか書いていないが、俺としては星4つ。内訳としては、ストーリー3点、翻訳1点の合わせ技。海外ものでは翻訳もすごく大切だ。

主人公はマイケル・フォックス、35歳。本文はすべて彼の一人称で語られる。そして、ちょっとした小ボケやノリツッコミが面白い。でも内容は紛うことなきスプラッター・ホラー。しかもB級。翻訳が巧みで、全体の雰囲気にすごく合っていた。

映画『ホステル』や『ムカデ人間』を、被害者視点の一人称でノベライズした感じである。クライマックスでは、それなりのカタルシスも味わうことができはしたが……。残酷描写が苦手な人は読まないほうが良いだろう。

2017年8月23日

子どもたちを殴らないで! 蹴らないで! 殺さないで!! 『殺さないで 児童虐待という犯罪』


紹介されている虐待事例の一つ一つが胸を締めつけてくる。思わず我が子の笑顔や寝顔が頭に浮かぶ。目頭が熱くなる。こんな死に方をしてしまう子どもを、そして子どもを虐待してしまう大人を、少しでも減らしたいと思う。まずは現状を広く知ってもらうべきだ。そういう草の根的な運動が、今の俺にできる精一杯。 

紹介されていた最初の事例は6歳の男の子ター君。真冬に、風呂上がりのター君は裸のまま駐車場で雪の上に寝かされ、足から胸まで雪をかけられた。実母と内縁の夫はカメラを手に、雪の下で震えるター君の後ろでVサインをつくった。二日後、ター君は死んだ。父母の裁判での様子も描かれているが、彼らのあまりの感受性の低さに愕然とする。

この他、たくさんの事例が紹介されている。
腹立ちの収まらない哲也は、簀巻き状態の大ちゃん(5歳)の腹の上に立ち、そのまま2回飛び跳ねた。「ギャーッ」大ちゃんは大きな叫び声を出した。死因は急性硬膜下血腫だった。
直樹が右手で腹や顔を何度も殴った。楓ちゃん(生後4ヶ月)は殴られた勢いで絨毯を横滑りした。香織はミルクを飲まない楓ちゃんの顔や頭を6回殴った。腹も3回殴った。
これは、それぞれの事例を、かなり省略して引用している。実際の中身は、ここに書かれたものの数倍の激しさである。虐待が表に出にくいことの一因として、本書ではこう述べてある。
虐待事件では死んだ子の怒りや恨みを代弁して損害賠償請求訴訟などを起こす人がいない。なぜなら、代弁すべき立場の親が加害者であるからだ。
大阪の家庭センターの企画情報室長・清水氏の体験談も切ない。
二十数年前、母親が病気のため施設で暮らしていた男の子を清水さんは忘れられないという。小学校へ入る時、母親から「引き取りたい」と言われた。乳児期にいったん親と離れた子どもは虐待されるリスクが高いという調査結果がいくつかある。清水さんは心配したが、母親の勢いに押し切られた。
児童相談所が行なった夏のハイキングに男児は元気な姿で参加した。食堂ではオムライスを嬉しそうに食べた。それを見て、清水さんは少しホッとした。だが、その数日後、男児は救急車で病院に担ぎ込まれ、そのまま息を引き取った。
後になって、男児が虐待された理由を知り、清水さんは衝撃を受けたという。
ハイキングでの出来事を母親に尋ねられた男児がオムライスを食べたことを話すと、母親は怒りだした。
「ハイキングでオムライスなんか食べるわけがない。この嘘つき!」
母親から殴られ、男児はタンスに叩きつけられたというのだ。(中略)
「こんなに予算をつけてきたのに、なぜ虐待は減らないんだとよく言われる。だが、やればやるほど埋もれている被害が浮かび上がるんです」
最後に、ぜひともみんなに知っておいて欲しいことを書く。精神的に大変な時期に、親が子どもを乳児院などに預けるのは、決しておかしいことでも悪いことでも恥ずべきことでもない。虐待しそうな自分が怖くなって、乳児院に子どもを預ける人がいる。彼らは凄く勇気があると思う。ある乳児院の院長の言葉を引用する。
少しでも親に可愛がられた経験があれば、一時別れて休息することで親子関係を作りなおすことが必ずできる。
イギリスでは「親権」という言葉を廃止し、「親責任」という言葉に変更したそうだ。確かに「親責任」というほうが、親という存在の意義をしっかり表しているように思える。

2017年8月22日

問診票から見えること

国立病院での精神科研修医だったころ、若い指導医が新患の問診票を見て一言。
「うーん、シゾかもしれない」
シゾとは、統合失調症のこと。驚いた俺が問診票を覗き込むと、そこには雑な字で、

ねむれない

とだけ書いてあった。句読点すらない。実際に診察してみると、その患者は診察室で暴れ出さんばかりの初発の統合失調症だった。

「国立病院の精神科にまで来て、問診票に“ねむれない”としか書かないなんてことはあんまり考えられない。という理屈を無理やりつけられないこともないけれど、こういうのは精神科医の直観みたいなもんさ」
指導医はそう言いながら、どこか得意気であった。

この経験があるので、問診票はけっこうじっくり眺める。もっとも分かりやすいのが、書いた人の学力レベル。漢字を使わない、あるいは簡単な漢字の書き間違い、ひらがなでも日本語の間違い(「一応」を「いちよう」と書くなど)、そういったものは真っ先に目につく。患者本人でなく、付添いの人が書くこともある。問診票から感じとれる学力レベルはすごく単純な情報にすぎず、これが診断の助けになることはあまりない。ただ、相手の理解力を推測しておくことは、病状や今後の治療方針、ケアの仕方などを説明するときの参考にはなる。

<参考>
呟ききれないこと 問診票は患者さんを表すのか?

2017年8月21日

笑って読み進めるうちに、まさかの胸熱クライマックス! 『バッタを倒しにアフリカへ』


表紙もタイトルも、それに著者名も、「え? なにかの冗談?」というものだが、中身は科学者(バッタを専門とする昆虫学者)によるフィールド・ワークの奮闘記である。内容はいたって真面目なのに、軽妙な語り口で描かれるので、吹き出したり感心したりしながらスイスイ読み進んだ。

そして、ラストはまさかの胸が熱くなるクライマックス。俺はバッタになんて興味がない、アフリカ生活にも関心はない、それなのに感動で思わず鳥肌が立ってしまった。「ウルド」というモーリタニアでは由緒あるミドルネームを贈られるのも頷ける。こんな本ズルい!!

バッタの写真もあるので、極度の虫嫌いには勧められないが、バッタを見るくらいは平気という人なら、かなり面白いので強く推薦。

2017年8月19日

依存症の深い闇の話 ~ある小児科医がモンストをやめるまで~

昨夜いっしょに飲んだ後輩小児科医が、モンスト依存症から立ち直った話をしてくれた。それがあまりに感動的だったので文章化して発表することを勧めた。
他の依存症からの脱却に通じる話だったのだ。

ここでは彼の話を簡単にまとめて記しておきたい。

大学近辺でモンストやっている人の中ではちょっとした有名人というか、尊敬を集めるほどの存在になっていた彼。知り合った人にハンドル名を教えると「あのXXさん!」と言われるほどだった。

どれくらいハマっていたのかというと……。

何回もフラれながらもようやく口説き落とした彼女とのデートでも、ふとモンストが気になって、トイレに行くふりをしてモンストしてしまう。授業中も、実習中も、何をしていても、ポケットのスマホが、というよりモンストが気になる。国試直前でも、勉強時間と同じくらいの時間をモンストに割いていた。

こんなことでは研修医になったときにミスを犯すと思い、モンストをやめる一大決心をした。

スマホを壊しても意味がない。単に登録を削除しても、また再開してやり込むかもしれない。もっと厳しい方法でないとダメだ。そこで彼は、手塩にかけて育ててきた250体のキャラを一つ一つ削除した。

泣きながら。

「大切に育てたペットを、自らの手で屠殺するような気持ちでした……」

今でも、ふとやりたくなることはあるらしい。

「仕組みが、ハマるようによくできてるんですよ。コミュニティサイトみたいなところがあって、やめようと思っても、そこに行ってみんなと交流するとまたやりたくなるんです」

断酒会の集団療法効果を真逆に利用した仕組みということか。

「スマホゲームはパチンコよりタチ悪いですよ。24時間利用できるし、いつでも課金できますから」

それに、パチンコはせめて外出するが、スマホゲームは外出さえ不要だ。

「俺はもともと凝り性、ハマるタイプなので、かなり気をつけています。ゴルフも手を出していません。やったら絶対ハマるのが分かってますから」

では、今は何に打ち込んでいるの?

「仕事です。患者さんが良くなると嬉しいし、子どもが心配で連れてくる親御さんたちを安心させたいから。2時帰宅もザラです。だから、妻には怒られます」

今度はworkaholicになってしまった彼。

依存の闇は深い。


でも、活き活きと一生懸命に働く彼の姿を見ると、我が子をみせるならこの人だな、と思う。

2017年8月18日

プライマリな呼吸器内科医の診断アプローチを学びつつ、良質な医療ノンフィクションとしても楽しめるオススメ本 『私は咳をこう診てきた』


スゴい本だ。

非専門、というより、内科に詳しくない精神科医が読んでもよく分かる。

難解になりがちな深い専門領域に踏み込まず、治療についても薬剤名を記すことなく、ひたすら「診」ることに絞り込み、ケースレポートという形式で、診察から診断までの思考の流れやアプローチが語られる。「咳」を「診」ることに特化しているので、ほぼすべての症例において同じ手順、同じ思考の流れが繰り返される。にもかかわらず読んでいて飽きないのは、それぞれの患者の生活・社会背景がしっかりと描写されているからだ。また、これによって、本書が良質の医療ノンフィクションにもなっている。

咳診療における具体的な治療については記載がない。専門書のように細かい鑑別診断が網羅されているわけでもない。これは決して辞書のように用いる本ではない。本書の価値は、非専門家が通読でき、勉強になり、啓発されるところにある。

精神科の外来患者には、「見知らぬ他者との関わりを強く拒絶する人たち」が少なくない。そういう人たちが「頭が痛い」「めまいがする」「咳が出る」「皮膚にできものが」というとき、内科や皮膚科の受診を勧めても「いや、いいです……」「めんどう……」と拒否されることが多い。精神科も内科も皮膚科も同じ建物の中にある総合病院でさえこうだ。精神科クリニックや精神科病院なら、なおさらこの傾向が強いだろう。そうして放置され、後日になって「あのとき、ちゃんとチェックしておけば良かった」という結果にはしたくない。

そういうわけで、精神科医「なのに」ではなく、むしろ精神科医「だから」こそ、定期的にこういう本を読むようにしている。

値段も手ごろで、非専門家には超絶オススメな本。

2017年8月17日

躁うつ病でもあった北杜夫が描く奇人・変人な精神科医たち 『どくとるマンボウ医局記』


「どくとるマンボウ」という言葉はずいぶん以前から見聞きしたことはあったが、それがどういう本なのかは知らなかった。まして作者が精神科医とは……、しかも躁うつ病を発症した精神科医とは想像だにしていなかった。

読んで知ったのだが、北杜夫の父は斎藤茂吉らしい。そして著者は、父である斎藤茂吉のことを「異常性格」と評していた。そういえば、夏目漱石も精神科的な問題を抱えていたらしいし、中島らもは躁うつ病とアルコール依存症があったし、海外の文豪にもてんかんや精神疾患のある人がいた。

こういう文豪や偉人たちの病気の話は国語や歴史では習わないけれど、追加情報としてもっと積極的に教えても良いのではなかろうか。そのとき子どもたちに伝えたいメッセージは、

「病気の有無にかかわらず、人は自ら成したことで評価される」

ということだ。歴史的人物の病気の話になると、ヘレン・ケラーや野口英世のように、
「こういう病気があったのに、それを乗り越えたスゴい人」
となりがちだし、その逆に、
「こういう病気があったからこそ、こんな素晴らしい仕事ができた」
ということにもなりかねない。

そうではなくて、彼らは「彼らが成したこと」で評価されている、ということを伝えたい。
「だったら、最初から病気の話なんて持ち出す必要はないだろう」
そんな意見もあるかもしれない。それも一理あるが、子どもたちには、
「あなた自身や家族で病気の人がいるかもしれないけれど、それでその人の価値が損なわれることも、逆に価値が高まることもなく、ただ行ないが評価されるのです。そして、あなたが誰かのことを判断するときも、持病の有無で評価を上下させないように」
ということを、偉人たちの病気の話を通じて学んで欲しい。

本書は、北杜夫が慶應大学病院の神経科(精神科)医局に在籍していた期間に出会った医師や患者にまつわるエッセイである。特に患者よりも精神科医のほうに奇人・変人が多くて、これは日常臨床(?)の感覚とも合致している。変人が多いと言われる医師の中でも、精神科というところは(以下自粛)。

2017年8月16日

子育て中の人は涙腺ゆるむ! 『水やりはいつも深夜だけど』


短編集で、最後の1編は女子高生が主人公だが、残り4編はいずれも子育てしている女性と男性が主人公である。その4編の内容をさわりだけ紹介。

『ちらめくポーチュラカ』
5歳の男の子を育てる30歳女性が主人公。夫の仕事は順調で裕福で、食事やオヤツやコーディネイトの写真を定期的にブログにアップし、一定の人気も得ている。充実した育児ライフを送っているように見える彼女だが、実は中学時代の女友だちからのイジメ体験を引きずっており、ママ友たちとの関係を上手く築けないでいる……。

『サボテンの咆哮』
主人公は、息子を幼稚園に通わせる「俺」。「共働きだから当然でしょ」という妻の言い分で、日曜日は子どもの世話から夕飯の仕度までを引き受ける。ただし、
確かにうちは共働きだ。妻はこのマンションから歩いて五分くらいのところにある実家の工務店の経理を手伝っている。共働きとはいっても、フルタイムで働いているわけじゃない。章博が幼稚園から帰ってくる時間には、仕事を終え、そのまま自宅に戻る。それほど忙しいわけでもないだろう。その言葉を何度のみこんだことだろう。
こころの中に、そんなシコリを抱えている。

『ゲンノショウコ』
主人公の女性には精神障害の妹がいて、我が子の成長を他の子と比べてしまい、ハラハラドキドキしている。そんな彼女のママ友のなかに、上の子が障害を抱えている人がいることを知り……。

『砂のないテラリウム』
子育てに追われる妻のこころが自分に向いていないことに、言い知れない寂しさを感じている男性が主人公。そんな彼に若い女性からのアプローチがあり、揺さぶられる彼の感情を描いている。

5編すべて「すごいハッピーエンド」ではないが、将来への希望が薄紙を通して透けて見えるような感じで、とても好感のもてる短編集だった。

子育て中の人は涙腺ゆるむよ。

2017年8月12日

大ざっぱな宗教観で、ゆるりと生きつつ、大切なことは守っていきたい

宗教を「熱心に」やる人には違和感をおぼえることが多い。

たとえば、キリスト教を「熱心に」信仰している人の中には、ミサやクリスマスその他の宗教行事にはやたらこだわったり、聖書の勉強会に真面目に通ったりするのに、そもそもの「人を愛し許す」という部分がスポンと抜けている人が目につく。やたら戒律にこだわって、こころが伴わない、みたいな。

きっとほかの多くの宗教で、原理主義や、それに近いようなことをやっている人はこういう感じだ。

不倫報道の渦中にある女性芸能人はモルモン教徒で、タバコは吸わない、コーヒーを飲まないという厳しい戒律があるようだが、家族を大切にし家族を裏切らない、という、ほとんどすべての宗教で重視されていることが抜けているようだ。

ある「熱心なキリスト教信者」は、夫とけんかして、頬を叩かれたので叩き返したらしい。そしていわく、
「聖書には、右の頬を叩かれたら、左の頬を叩きなさい、と書いてあるから」
彼女の間違いはともかくとして、「聖書に書かれているから叩き返す」というのは思考停止状態だし、そもそも「人を叩く」というのが教義からズレるような……。

宗教行事には大ざっぱで、日ごろの信心なんて大したことないのに、お盆に集まりわいわい騒いで、特に初盆なんかでは故人を偲んでたまに涙ぐんだりして、やっぱりご先祖さまは大切だよなーくらいの、ゆるい宗教観でやっている人たちが好きで、自分もそんな感じである。

面白い寓話を紹介しておこう。

高名な坊さんが弟子たちと旅していると、橋のない川のそばで立ち往生する女性に出会った。
「水かさが増していて、渡れないのです……」
坊さんは躊躇うことなくサッと女性を抱えて川を渡ったが、それを見ていた弟子たちは納得いかない。モヤモヤしながら旅を続け、何時間も経ってついに皆で指摘した。
「師よ、女人に触れるとは……」
すると坊さんはキョトンとした顔で、こう言った。
「なんじゃ、お前たちの頭は未だに女を抱えておったのか」

信仰心の篤い人と、宗教に熱心な人の違いは、こういうところかもしれない。


坊さんの寓話は、本書のあとがきに書いてあったように記憶している。

2017年8月10日

統合失調症患者が主人公で、しかも描写が巧みという、非常に珍しい小説 『増大派に告ぐ』


主人公はおそらく統合失調症である。実在する患者の内面世界を正確に分かることはとうてい不可能だが、著者の描写は特に前半部において非常に巧みで、患者にはこのように聞こえ感じられるのかもしれないと思えた。中盤から後半にかけては、その描写力が若干息切れしたようだが、全体としては、「著者の身内に統合失調症の人がいるのかもしれない」というくらい真に迫っていた。

物語は、この統合失調症の31歳男性と、酒乱DVの父のもとで生活する14歳の少年を、交互に描いて展開する。男性の狂気と正常。少年の正常と狂気。それらの間を行きつ戻りつ、ときに混じり合って境目が分からなくなりながら、終盤に向けてチンタラと疾走感ゼロで進んでいく。

この疾走感のなさは、文章における比喩の多さが原因である。とはいえ、決して陳腐な表現の羅列というわけではないので、飽き飽きしたりイライラしたりすることはなかった。ただ、それはあくまでも俺の感覚なので、やはりこの比喩の氾濫を好きになれるかどうか、受け容れられるかどうかが、本書の評価の分かれ目になるだろう。

物語のラスト、弱者と弱者が交わった結果として、その着地点は、決してバラ色ではない。精神障害者は一方的にイジメられる存在ではなく、ときには誰かを傷つける。DV被害者もただ殴られるだけでなく、どこかで誰かに牙をむく。

本書を読みながら、THE BLUE HEARTSの『TRAIN-TRAIN』にある、こんな歌詞を思い出した。
弱い者たちが夕暮れ さらに弱い者をたたく
ところで、本作は日本ファンタジーノベル大賞の受賞作ではあるが、実はファンタジー要素はどこにもない。ファンタジーのように感じられる文章表現であっても、それは実在する病気のシビアな症状である。統合失調症の患者や症状について詳しそうな著者が、幻覚妄想を描写した小説を敢えて「ファンタジーノベル」として応募したのだとしたら、そこにこそ著者の主張が込められているのかもしれない。そして、それを審査員が正しくくみとって評価したうえでの受賞であれば、とても素晴らしいことだと思う。

2017年8月9日

教えそのものより、マフィアのエピソードに目がいってしまう…… 『最強マフィアの仕事術』


アメリカ5大マフィアの一つ、コロンボファミリーの幹部だったマイケル・フランゼーゼによるビジネス系の自己啓発書。元マフィアの教えだから、どれだけ過激なことが書いてあるのかと期待して読んだが、中身はいたって堅気、まっとうなものだった。それもそのはず、著者はとうにマフィアからは足を洗っているのだから。そのかわりマフィアから命を狙われもしたようだが。

誠実さ、勤勉さ、それから法を守ることを、他書より強く推奨しているが、あとはその他の本とそう大差ない。ただ、彼が経験した裏社会でのエピソードが面白くて、ついつい最後まで読んでしまった。自己啓発としてより「そっち系」の楽しみのほうが大きかったくらいだ。

2017年8月8日

死神の千葉、大活躍!! 『死神の浮力』


前作『死神の精度』は緩やかにつながる短編集だったが、今回は前作ファンにとっては嬉しい長編。死神の調査期間である7日間を、一日ごとに死神の千葉、主人公の山野辺寮の視点で描かれている。

山野辺夫妻は一人娘を殺害されている、という胸の痛い設定。死神の千葉は、そんな辛い境遇にある山野辺が「可」なのか「見送り」なのかを調査しにやって来ている。7日間の調査の結果、「可」なら翌日に死亡する。「見送り」なら一定期間の寿命が保証される。

本書のテーマの一つは「サイコパス」。娘を殺した犯人がサイコパスなのだが、どこかでこのキャラクターは見たことがあると思ったら、宮部みゆきの『模倣犯』だった。あの犯人も強烈なサイコパスだったが、本書の犯人である本城も負けず劣らずの冷淡さだ。

ネタバレになるから、これ以上はもう書けない。とにかく面白かったのでお勧めだ。

※平成29年8月7日時点で、文庫よりkindleのほうが倍近い値段という異常な価格設定となっている。リンクは画像の関係上kindleに貼ってあるが、安く読みたい人は文庫を。

2017年8月7日

ボケることは哀しく、苦しく、ときに滑稽。若年性アルツハイマーの男性を描いた小説 『明日の記憶』


泣いた。

本書の主人公は若年性アルツハイマー型認知症である。著者の文章が巧みで、徐々に記憶を失っていく感じがよく表現されている。

たとえば、小説の中で主人公がつける備忘録。最初は漢字が多くて誤字もなかったのに、日が経つにつれて漢字が減り、少しずつ誤字が増えていく。特に、文中に誤字を初めて(だと思う)登場させたときの方法が上手い。まず、備忘録で「案外」と書くべきところを「安外」と間違えてしまう。このままだと変だなと思いつつもスルーする読者がいるかもしれない。そこで、その次のページの地の文で「案外」が使われている。読んでいる読者は、まず「安外」を見て違和感をおぼえ、読み進んで「案外」と書いてあるので、「安外」は主人公の誤字だと確信できる。

この備忘録がどんどんと退化していく感じは、『アルジャーノンに花束を』を彷彿とさせる。有名な小説だが、一応おおまかな内容を書いておく。主人公は精神遅滞のチャーリーで、アルジャーノンはネズミの名前だ。アルジャーノンは実験的な脳の手術を受けて、非常に頭の良いネズミになる。この手術を人間で試した第一号がチャーリーだ。チャーリーはみるみる知能が上がる。ところが、ある日を境にしてネズミのアルジャーノンがどんどん退行していき、最後は死んでしまう。それを見て、チャーリーは自らの運命を悟る。これらが「チャーリーの日記」という形式で描かれる。原書で読んだのだが、最初は俺でも分かるような文法や綴りの間違いが多く、精神遅滞の人の英文という感じだった。辞書なしでもスラスラ読めたのに、知能が上がるにつれ内容がだんだんと高度になり、とうとう辞書なしでは読めなくなった。そして、最後はまたどんどん幼い感じの日記に戻っていく。この表現方法には衝撃を受けた。

そういうわけで、『明日の記憶』で用いられた「衰える備忘録」という手法は、特別に目新しいものではなかったが、小説の中でうまく挿入・利用されていた。

ストーリーに関しては多くを書くまい。ラストシーンより、途中のある場面で胸がぐっときた。

認知症小説(?)の隠れた名作には、清水義範の『靄の中の終章』という小説がある。『国語入試問題必勝法』という本におさめられた短編小説だ。また、『吾妹子哀し』も認知症の妻をかかえた夫を主人公にした素晴らしい小説である。



2017年8月4日

下の子ほど「器用」で「順調」で「要領が良い」!? 「もどかしさ」とこころの余裕

三女ミィが、いつの間にか自力で座れるようになっていた。どうやら、長女より次女が、次女より三女が器用なようだ。なるほど、よく言われるように、「下の子は要領が良い」のかもしれない。

いや、はたして本当にそうなのか?

もし仮に、子どもの能力がほとんど同じだとしても、子どもをみる親の環境は、一人目、二人目、三人目のときで大きく変わる。一人目のときには、体力・気力・時間といった「子育て資源」のすべてを一点集中できる。まめまめしく観察し、些細な不調におろおろし、小さな成長に大喜びする。そして、成長停滞期になるとじりじりとした「もどかしさ」をおぼえる。

こうしたことは、二人目、三人目になると分散していく。一人目のときに比べれば、どうしても観察の頻度や密度は下がってしまう。成長停滞期に「もどかしさ」を感じることもない。もっと正確に言うと、「もどかしさ」に目を向ける余裕がない。「もどかしさ」がないぶん、「できた!」と「できた!」の間が短く感じられ、そのぶん器用に見える。

一人目よりも二人目、二人目よりも三人目が「器用」で「順調」で「要領が良い」のは、実はそういうことではないのか?

そこで、ふと思う。

医師と患者の場合はどうだろう?

研修医が終わり、受け持ち患者が増えるにつれて、自分の診断力や治療が少しずつ上達していくのは確かなはずだ。ただ、子育てで一人目より二人目、二人目より三人目が「順調」に感じられたように、受け持ち患者が増えることで「治療停滞期のもどかしさ」を感じる余裕がなくなるということはないだろうか。そしてその結果、「順調」という錯覚を起こしていることがあるかもしれない。

「もどかしさ」を感じられる余裕。

こんな視点があると、いろいろな場面での「もどかしさ」にも親しみを感じられるようになる、かも?

2017年8月3日

両親の面倒を最期までみますか? 自分や家族の介護や死に想いをはせるノンフィクション 『満足死 寝たきりゼロの思想』


両親の面倒を最期までみますか?

この問いに「ハイ」と答えたのは、イギリス人が50%、ドイツ人が62%だったのに対して、日本人は75%と高かった。ところが、実際に親が寝こんだときに最期まで面倒をみたかどうかを調査すると、イギリス人が40%、ドイツ人が50%だったのに対して、日本人はわずか20%だったそうだ。

本書はノンフィクション作家の奥野修司が、高知県佐賀町で「満足死」という取り組みをしていた疋田医師に密着取材したものである。疋田医師は50歳で佐賀町に移り住み、90歳で引退するまでの40年間、へき地医療に従事する中で、患者本人が満足して他界する「満足死」というものを追求した。

似て非なるものに「尊厳死」があるが、尊厳死より「患者本人の主観」を重視したのが「満足死」である。

疋田医師は歯に衣着せずこう言う。
「だいたい嫁をはじめとして、家族がお世話してくれるのは一ヶ月です。バカ息子でも一ヶ月はしてくれます。一ヶ月すぎると、早う死んでほしいとは言わんけど、粗末に扱われると思ったほうがよろしい。これが二ヶ月、三ヶ月になると、現実問題として、お世話する側に困る人が出てくる」
また、疋田医師は「人間は三度死ぬ」という話で、健康でいることの大切さを説く。三度の死は、まず「他人に貢献できなくなる社会死」、次に自分の生活を維持できなくなる「生活死」、最後に心臓が止まる「生物死」。そして、「生活死」と「生物死」の間をいかに短くするために健康を保って、衰えたと思ったらポックリを目指そうというわけだ。「生活死」と「生物死」の間がおおおそ1ヶ月くらいだと、「ポックリ逝った」という印象になるようだ。

自分や家族は、介護や死とどう向き合うのだろうか。どういう介護をして、あるいはされて、どこでどうやって死ぬのだろうか。はたして自分は「満足死」できるだろうか。家族を「満足死」させられるだろうか。いろいろなことを考えさせられる本だった。

2017年8月2日

なんでも「さん」付け 『バカ丁寧化する日本語 敬語コミュニケーションの行方』

以前、テレビを見ていたら、ある政治家が、

「小沢グループさん」

と言っていて、ゲンナリというかウンザリというか、気持ちの悪さにその政治家の名前を憶えることさえ忘れて、ただただオエーッと思っていた。

なんだ、この「さん」付けブーム。

そういえば、政治家って「自民党さん」「民主党さん」とも言うよなぁ……。彼らはそれが変だとは思わないのかね。もしかして「さん」を付けるほうが礼にかなっているとか丁寧だとか思っているんじゃないだろうな。

製薬会社の人たちは、互いの会社名を「さん付け」で呼び合う。これは日本企業の昔からの慣習だし、そこまで違和感もないのだが、ある薬剤説明会で、

「ドネペジルさん」

と言っていたのには驚いた。ドネペジルというのは、認知症の薬『アリセプト』の一般名である。これはもうどう考えても行きすぎだ。例えるなら、東芝がプラズマテレビのレグザを売り込んでいて、一方でシャープが液晶テレビのアクオスを推している時に、「プラズマテレビさん」「液晶テレビさん」と言い合っているくらいに変である。せいぜい、お互いに「東芝さん」「シャープさん」と言い合うか、せめて「レグザさん」「アクオスさん」くらいが限度だ。いや、それでもかなり変か。

俺は少し前からネット上では「患者」に「さん」を付けないことにした。最初は簡便性を重視したのだが、面白いことに、「さん」を付けないほうが患者個人から離れることができ、客観的とまではいかないまでも、少し距離を置いた振り返りができるようになった。まして「様」なんて現実でも絶対につけない。

だいたい、俺みたいな精神科医から「様」付けで呼ばれた患者は、見放されたと思って落ち込むよ、きっと。


2017年8月1日

依存症治療は難しい 『依存症』

酒は好きだ。しかし、酒がないとやっていけないほど、日々に倦んでいるわけでもない。むしろ、酒を飲まない日の方が読書や映画など、自分の時間を楽しめる。子どもたちと一緒に生活するいま、以前ほどには飲んでもいられない。
アルコール依存症者の妻たちもおそらく何百回とこう詰問したはずだ。
「どうしてそんなに酒が飲みたいの」と。
眠れないから、仕事の付き合いだから、食欲増進のため、思ったことが言えるから、寂しいから、頭にくることが多すぎるから……さらには「女房の顔がブスだから」というものまである。
実はこんな質問は愚問なのだ。
彼らはもう理由なく飲んでいるのであって、このような理由は単に周囲を納得させる後づけに他ならない。

思えば、酒量が増えたのは医学生時代であった。それまでも酒は飲んでいたが、医学生になって友人や後輩たちと飲むことで、「飲み過ぎる楽しさ」というものを覚えてしまった気がする。
アルコールと出会うまでの人生がどのようなものであったかによって、飲酒の快感は変わってくる。
しらふの時でもまあまあ楽しい人間関係が持て、そこそこ自惚れも強い人がアルコールを飲んで得る快感と、しらふの時は自分にまったく自信がなく人と会う時も緊張が強い人がアルコールを飲んで得る快感とはどちらが強いだろうか? 
変化の落差の大きいほうが強いだろうことは容易に想像できる。
日本は、アルコールに関しては非常に寛容な国である。世界一と言っても良いくらいのようだ。
そのかわり薬物に対する取り締まりは厳しい。世界でただ一つの国にしか見られないアルコールの自動販売機(これが日本にしかないという現実を知らない人が如何に多いか)はそのようなアルコール容認文化の象徴である。つまり嗜癖の対象をアルコールという薬物に一点集中させることで、他の薬物の乱用を相対的に防いできたといえないだろうか。
俺も、酒の自販機が日本にしかないとは知らなかった。でも確かに、これまで行ったどの国にも酒の自販機はなかった。というより、自販機自体がそんなに多くなかったが……。

本書に、著者がカウンセリングで用いている依存症チェックが紹介されている。

1.ある人Aが習慣的に○○を行なう。
2.それによってある人Bが困る。
3.それを知りつつ、ある人Aはその行為○○がやめられない。

○○に入るものは何でも良い。身近で思い当たる人はいないだろうか。

ちなみに、著者が所長を勤める原宿カウンセリングセンターは、30分のカウンセリングで6000円。高いと思う人もいるかもしれないが、弁護士相談料だって同じくらいである。こころの悩みは、そんな安くお手軽に解決できるものではないのだ。

2017年7月31日

日航機墜落事故を新聞記者の目線で描いた名作小説 『クライマーズ・ハイ』


日航機墜落事故については、これまで何冊も本を読み、ここでも何回か語ったことがある。事故の日、小学4年生だった俺は、生まれて初めての飛行機に乗った。しかも一人で東京に向かった。叔父の家に着いてしばらくして、テレビで事故の速報が流れた。地元の親戚はみんな慌てたらしく、俺の安否を確かめる電話が何件もかかってきていた。俺を東京に送り出すことにした母は、「なんで子ども一人で飛行機に乗せたんだ!」なんて責められたらしい。子どもだった俺は「乗る飛行機も行き先も違うんだから、大丈夫に決まってるじゃん」なんて思っていたが、娘ができたいまなら当時の大人たちの気持ちが分かる。

さて、本書の著者である横山秀夫は、元新聞記者である。しかも、日航機墜落事故があった当時に、群馬県の地方新聞である上毛新聞の記者であった。名作家が直接に体験したことをもとに書いているので、怒りや哀しみや焦燥感がピリピリと伝わってくるような描写だった。

知人の地方新聞記者と『クライマーズ・ハイ』の話題になったとき、「あんな感じですか?」と尋ねたら、「そうそう、あんなですよ」とのことだった。文章を読んだり書いたりするのは好きだが、とてもあんな修羅場のようなところで生き残っていけるとは思えない……。若いころにうっかり新聞記者なんか目指そうと思わなくて良かった、と、記者への敬意をこめてそう思う。

2017年7月28日

盲信禁忌! 『医者は認知症を「治せる」 かかりつけ医に実践してもらえるコウノメソッド』

同僚先生のところに「コウノメソッドをやってください」と希望してきた人がいたらしい。そのときに初めて存在を知り、ネットでちょっと調べて、「ふーん」でスルーしてきた。とはいえ、中身をまったく知らないで無視するのもどうかと思い、読みやすそうな新書を購入。


提唱者である河野先生の考えの柱となる部分にはほぼ全て同意できる。認知症の症状を「中核症状」と「周辺症状」に分け、さらに「陽性症状」と「陰性症状」とに分類して、薬物療法をそれに合わせて変える。これはことさら特別なことではなく、河野先生でなくても認知症診療を一定数以上やっている医師なら当然のように分かっていることだ。河野先生の考えが特別に斬新で革新的ということはない。

河野先生の素晴らしい点を挙げるなら、
認知症治療はご家族のためにこそある。
「介護者保護主義」
患者さんと介護者とどちらが一方しか救えないときは、迷わず家族を救います。
こうやって自らの診療スタンスを明言しているところだ。治療者がこういう言葉をかけることで介護者は大いに救われるし、こころの余裕を少しだけ取り戻せるだろう。そのささやかな余裕が、介護する際のゆとりにつながり、患者への優しさになる。その優しさが患者を少し安心させ、その安心は周辺症状をわずかながら改善する。そういう好循環は大いにありえる。こう書くと簡単なことのように見えるが、実際に患者と家族という二者を前にして、「介護者を優先します」と言い切るのはなかなかできるものではない。

また「アリセプト一辺倒の処方」や「患者をみないで添付文書どおり増量」に対する批判はまったくもってその通りだと思う。このあたりまでは、読みながら大いに頷けることが多かった。河野先生に親近感さえ抱いたほどである。

ところが、認知症のタイプ別処方になったところで、ちょっと距離をおきたくなった。具体的な処方は無料公開されているPDFのコウノメソッド(PDFに直結しないようグーグル検索結果をリンク)に書いてあると思うので触れないが、ちょっとどうかなぁという部分が散見された。

河野先生の言う「認知症は治せる」は確かに正しい。ただし、これは本書にもあるように、「記憶障害や人格変化といった中核症状が進むのはやむをえないが、幻覚や妄想や暴言・暴力といった周辺症状は改善できる」という意味である。そして、「コウノメソッドで認知症は治せる」もおおむね正しいだろう。しかし、「コウノメソッドでしか認知症は治せない」となると間違いである。コウノメソッドでなくても、認知症医療に真摯に取り組んできた医師であれば、同等の効果をもたらす治療は充分に可能である。患者家族がここを見誤って「コウノメソッドでないと治らない」と思い込むと、治せる機会を逃したり、余計な負担を背負い込んだりすることになるかもしれない。

だから、「盲信禁忌」である。

ついでに、河野先生のクリニックを検索すると評判を見ることができた。こういう口コミを鵜呑みにするわけではないが、人気が出て患者が集まって忙しくなると、診療はどうしてもこうなっちゃうだろうなぁ、とは思う。

2017年7月27日

将棋ブームだから読んだってわけじゃないからね! 『運を育てる』『勉強の仕方』


『運を育てる』というタイトルには怪しげなセミナー臭を感じるが、プロ棋士である米長邦雄・元名人による勝負運に関する考察・エッセイである。

もう一冊の『勉強の仕方』は、中高生向けのうさん臭い自己啓発本のようなタイトルだが、一冊まるまる米長邦雄と羽生善治との対談である。

こういう別の分野で活躍しているプロの本を読むのは、精神科医としても、父親としても、得られるものがある。

どちらも将棋のことを知らなくても読めるし、肩の力を抜いた読書時間になった。

2017年7月26日

この自己啓発本を原作にしたハリウッド映画が創れるんじゃないかというレベル 『アメリカ海軍に学ぶ「最強チーム」のつくり方』


アメリカ海軍一のダメ軍艦「ベンフォルド」に艦長として配属されたアブラショフは、任期2年の間にベンフォルドを「海軍でもっとも優秀な軍艦」にしてしまったという。

彼の用いた手法がリーダーシップ論として語られるのだが、骨子としては特別に目新しいことが盛りだくさんというわけではない。それなのにグイグイ読んでしまったのは、それぞれのエピソードが面白かったから。まるでハリウッド映画(それもダメチームが優勝するまでを描く典型的なストーリー)を観ているようで気持ちよかった。

好むと好まざるとに関わらず「リーダー」という立場にならざるをえない人たちには、値段は手ごろで分量が適度で中身も面白い本書を強くオススメ。

<こちらもオススメ>
リーダーの立場にある人は必読!! 『リーダーを目指す人の心得』

2017年7月25日

日本における西洋医学の礎を築いた偉人・松本良順を描く小説 『暁の旅人』


松本良順、と言われてもピンとこない人のほうが多いだろうが、日本における西洋医学の礎を作った偉人で、日本初の軍医でもある。誰でも聞いたことはあるはずの「新選組」の隊士を治療したと聞けば、思わず「へぇ」と思うかもしれない。それ以外にも、滋養のために牛乳を普及させたり、健康増進のための海水浴を定着させたりと、公衆衛生においても業績を残している。

司馬遼太郎の『胡蝶の夢』を読んで以来、松本良順、それから司馬凌海に対しては畏敬の念を抱いていた。吉村昭も松本良順についての小説を書いているということを知り、早速入手して読んでみた。

『胡蝶の夢』に比べると分量は大幅に少なく、駆け足な展開。それでも松本良順の人となりが分かる良い本だった。

2017年7月24日

為末大さんの「不健康に暮らす人が一定数いてもいいが、その人の保険料は健康な人も負担している」を弁護しつつ、一つ指摘しておきたい

為末大さんが炎上している。きっかけはツイッターでのこの発言だ。
為末さんのこの発言を敢えて弁護するが、彼はあくまでも「自己責任かつ極端な不健康生活」を対象にツイートをしたのだろうと思う。

ただ、そこで彼に振り返って欲しいのは、いわゆる「アスリート」のストイックなトレーニング生活は、決して健康生活ではなく、むしろ「自己責任かつ極端な不健康生活」になりうるということ。

たから、為末さんは、
「不健康な人の保険料は健康な人も負担している」
これをアスリート仲間にこそビシッと言って、こう付け加えるべきなのだ。
「あなたたちがストイックで不健康なトレーニングに打ち込めるのは、保険料を負担している多くの健康な人たちのおかげなのですよ」

為末さんに反対する人は多かった。そして、『言うに事欠いて「一定数いてもいいが」ですか』という意見に対して彼は、
と答えていた。だが、これはブーメランのように、
「国民の全員がアスリート生活したらもたない」
と返ってくるのではないか。男性が全員力士、女性は全員マラソンランナーの国は、確実に滅びるはずだ。

それから、「不健康な人が一定割合以上になるともたない」というのを突き詰めると、

「一日の睡眠は何時間から何時間まで、食事は身長あたり何キロカロリー、運動時間は何十分、等々、国の発展のため、あるいは国の衰亡を防ぐため、生活を細かく決められ監視される社会」

が見えてくる。まるでオーウェルの小説『1984』のようだ。

おそらく、極端に破滅的な不健康生活(アスリートを除く)をする人は、一定割合以上にはならない。それは、極端にストイックなトレーニング生活を送るアスリートが一定割合以上にはならないのと同じだ。正規分布ではないにしても、「極端」なものが、限られた割合以上にはなることはないだろう。

この話題に関連して「喫煙者からは保険料を多くとるべきだ」という意見についても考えてみる。この意見にはいくぶん賛成でもあるが、「不健康なことを自己責任でやっているから」という理由なら、「月のランニング距離がXキロメートル以上の人」など過度のトレーニングをやっている人からも保険料を多くとるべきだという理屈にならないだろうか……。

個人的には、「不健康生活が医療費を圧迫しているぞ、このままだともたないぞ」と警鐘を鳴らすよりは、「コンビニ受診が医療を圧迫しているぞ、このままだともたないぞ」と指摘するほうが事実に近いのではないかと思う。


<参考>
為末大氏「不健康に暮らす人が一定数いてもいいが、その人の保険料は健康な人も負担している」が炎上の件

2017年7月21日

学生、研修医、看護師からベテラン精神科医まで、幅広い層で得ることが見つかるはず! 『統合失調症のみかた、治療のすすめかた』


ツイッターでの情報発信も精力的にされている松﨑先生による「統合失調症の赤本」である。統合失調症の「みかた」と「治療のすすめかた」の二部構成となっており、まさにタイトルのとおりだ。

病気や治療の説明に際して「こういう声かけをしてみては?」「こんな言葉選びはどうかしら?」と具体的に記載されていて非常に実践的である。いずれも患者にとって「侵襲性のない」ものであり、また医師と患者が「普遍的に共有できる感覚」を巧みに言語化してある。しかも、どれをとっても「優」しくて「易」しい。

こういう具体的かつ普遍的な「やさしい言葉」を、日本の精神科医・患者にもたらした第一人者は中井久夫先生だろう。ここで松﨑先生と中井先生を引き比べると、全国の中井久夫ファンや松﨑先生ご自身から叱責を受けそうだが、敢えて一点だけ強調して述べておきたい。

中井先生が示された言葉は普遍的で、現在の精神科医療でもまったく色あせない。とはいえ、精神科の治療は少しずつ進化しており、中井先生がほとんど言及されていない治療法、治療薬もある。「持効性注射剤」がその代表で、これは2週間あるいは1ヶ月に1回の注射で済む治療法だ。これを患者に勧めるにあたって、「薬は1年に365回、注射は1年に12回」「薬を続けることは月1回の注射に任せ、あなたには人生そのものを頑張ってもらいたい」といった、松﨑先生の言葉が参考になる。これらは、中井先生の「薬の飲み心地はどう?」「頭の中が忙しくない?」といった言葉と同じく「次世代に語り継がれていく言い回し」になるのではなかろうか。

褒めてばかりだと良いレビューとは言えないだろうから、最後に敢えて難点を3つ挙げておく。

1.値段が高い。学生でも得るところの多い本であり、また学生や研修医のうちにこそ読んで欲しい内容が含まれているだけに、税込4104円は少々ハードルが高い。俺のこれまでの読書歴で、価値ある内容をふんだんに含んでいるのに、おそらく値段のせいで売れずに埋もれてしまった絶版本を何冊も見てきた。本書がそうならないことを祈る。

2.誤字・脱字チェックが甘い。これは編集者・出版社サイドの責任だ。松﨑先生と個人的にやり取りして、本書完成までの苦労話の一端を教えていただいた。具体的な内容は書かないが、版を重ねることがあるなら、誤字・脱字を徹底的に見直して欲しい。

3.付録DVDがない。松﨑先生は英国・米国の世界大会で優勝した経歴を持つマジシャンでもある。筑波大学の授業では手品を披露されることもあるようだが、その妙技を付録DVDで全国の読者にも届けるべきであろう(笑)

2017年7月20日

沢木耕太郎の執念深さに思わず唸る 『キャパの十字架』


ロバート・キャパといえば有名な戦争写真家である、と思っていたが、妻に聞いたら知らないという。それなら、この写真くらいは見たことがあるだろうと「崩れ落ちる兵士」の写真を提示してみたが、やはり初めてのようだ。おお、世代の差か……、性別の違いか……。

崩れ落ちる兵士(写真)

この写真は1936年、スペイン戦争において撃たれた瞬間の兵士の姿を捉えている、という。ずいぶん前に初めて見たときには、「え!? 本当かなぁ!?」と思った。でも表情も姿勢もやたらリアルだし……。昔から同じ疑問を持った人は多かったようで、沢木耕太郎もその一人だった。

そこで沢木は、この写真を含めたキャパの写真をかなり時間かけて眺めては検証し、スペインには3回も足を運び、誰が、どういう状況で撮ったものなのかを明らかにしようと奮闘する。ネチネチネチネチと、微に入り細をうがって徹底的に考え、調べ上げ、得られた情報をもとにして、さらなる考察を重ねていく。その執念深い姿勢には、畏敬の念すら抱いてしまった。

キャパを盲信せず、しかし否定もしない。沢木耕太郎の絶妙なバランス感覚、さすが一流のノンフィクション作家である。

2017年7月19日

心理的な「壁」の話

・なんにでも壁はある
人が何か行動を起こす時には、ほぼ全てに心理的な壁があると考えて良い。食事や風呂に対してさえ心理的な壁はある。ただ、その壁は低すぎるし、乗り越えることが常習化しているので、食事や風呂への心理的な壁を意識することはほとんどない。時々、シャワーを浴びるのが面倒に感じることがあるが、これも腰を上げるまでが大変で、風呂場まで行ってしまえば意外と体は軽快に動く。この「腰を上げたとき」が、心理的な壁を乗り越えた瞬間である。

・越えるごとに壁は低くなる
心理的な壁を一度乗り越えると、次に同様の場面になったとき、壁の高さが以前より低く感じられる。人間にとって、もっとも高い壁は「人を殺すこと」だろう。故意に人の命を奪った者と接すると、彼らがどんなに反省をしていると言われても、怖い。この恐怖感は、彼らの中の「殺人に対する壁」が低いことを無意識に感じているからだろう。この「心理的な壁」の考え方は、身のまわりの色々な場面に当てはめて考えることができる。たとえば不倫、家庭内暴力、万引きを何度もくり返す人たちは、最初の壁を乗り越えてしまったせいで壁が低くなり、次はもっと越えやすくなり、そうして越え続けるうちに壁を壁とも感じなくなってしまったのだ。

・壁を高くする方法はないのか
低くなった壁を、元の高さに戻す方法はないのか。いや、ある。
「とにかく衝動を一度だけグッと堪える」
これに尽きる。この「堪えること」が難しいから、心理的な壁を越え続けてしまうわけで、そういう意味では、この方法自体が矛盾しているのだが、それでも一度グッと堪えることが大切だ。アルコール依存症を例にすると、飲みたい衝動をグッとこらえる。そうして一日を乗り切れば、翌日は「昨日一日がんばった」という事実が、壁を少しだけ高める。こうして少しずつ積み重ねていって、心理的な壁を高くしていく。
「これだけ頑張ったんだから、ここで挫折したらもったいない」

最初のシャワーの例えに戻ると、寒い冬にこたつの中でゴロゴロしていて、思いきってシャワーのために腰を上げ、冷たい廊下を風呂場で歩いて行って、ようやく服まで脱いだのに、そこでコタツへ引き返す人はほとんどいないのだ。

2017年7月18日

「本当の自分」症候群の人たちへ。見ろ、嗅げ、そして息をしろ。そこに自分があるじゃないか!

「本当の自分」なんてものはない。あるのは「今そこにいる自分」だけである。

そういう目で、以下の記事を読んでみて欲しい。
若者に広がる「キャラ疲れ」とは?~『キャラクター精神分析』

「『私、キャラ変えしたいんです。このままじゃ、自分が馬鹿になりそう』。山陰地方のある中学校に設けられた相談室。夏の初め、臨床心理士の岩宮恵子さんのもとを制服姿の女子生徒が訪れた」

これは昨年11月20日付の朝日新聞朝刊に掲載された「キャラ 演じ疲れた」という記事の抜粋です。この女子生徒は友だちからツッコまれるのを防ぐために"天然キャラの不思議ちゃん"を演じていたそうなのですが、あまりに「本当の自分」とかけ離れたキャラ設定だったため、それに疲れてしまったというのです。

他にも同記事では、"いじられキャラ"を演じてクラスの居場所を確保したり、"毒舌キャラ"と呼ばれていた女子が、実は「まわりに毒舌を期待されて疲れる」と悩んでいるエピソードが紹介されています。しかし、こうした若者たちの多くは他人のキャラに関しては饒舌に説明できるのですが、いざ自分自身のこととなると「よくわからない」と答えるだけだったそうです。

この「わからない」の意味について、精神科医の斎藤環さんは「みんなからどういうキャラとして認知されているかはわかるが、それが自分の性格と言われてもピンとこない」ということだと指摘します。つまり、"いじられキャラ""おたくキャラ""天然キャラ""毒舌キャラ"など、他人から認知されているこうした「キャラ設定」と、自分が「本当は」こうだと思っている人格との間に「ズレ」が生じているというのです。

しかし、どうして彼ら・彼女らはこのような「ズレ」を受け入れてしまうのか。斎藤さんは「キャラを演じているにすぎないという自覚が、かえってキャラの背後にある『本当の自分』の存在を信じさせ、また保護さえしてくれる」からだと言います。要するに、若者たちにとって「キャラ」とは、自分を偽るものではなく、あくまで守るものとして機能しているのです。そして、あまりにそのギャップが大き過ぎると、「本当の自分」がわからなくなってしまい、演じ続けることに疲れてしまうというわけです。

しかし、彼ら・彼女らは「キャラ」を演じてまで守ろうとする肝心の「本当の自分」について、「よくわからない」としか答えられません。何とも皮肉な話ですが、今の若者たちは自分自身を守ろうとすればするほどそこから遠ざかり、ますます「本当の自分」を見失ってしまうのです。
この記事にあるように、たとえば「いじられキャラを演じている自分」がいるとする。それは「本当の自分」ではないのだろうか。いいや、そうではない。そういうキャラを演じることで、何らかの利益を得ようとしている自分がいて、その希望が叶おうが叶うまいが、その行為に疲れようが疲れまいが、そういうことをしている自分が、まぎれもない「自分自身」なのだ。

どういうわけか、「本当の自分」という言葉や、それに類するものは人気がある。○○占いというものが毎年流行るが、中身を見るとあれは占いではなく、分析もどきだ。誕生日、名前、血液型から、「あなたは○○な人です」と書いてあるだけだ。そして、その中で自分が考えている「こうありたい」と一致する部分を見つけて、「当たっている」と感激したり、「本当の自分はこれなんだ」と自己満足にひたったりする。

「自分探し」もそうだ。そんなもの、探すまでもない。鏡を見る必要さえない。息をしてみれば、そこで空気を感じているのが自分である。

心理テストがもてはやされるのも似たようなもので、自分で自分の深層心理を探ってみたり、友人に試してみたり、そこまでして「本当の自分」(と本人が思っているもの)を知りたいものなのか。あえて「本当の自分」という言葉を使うとしたら、キャラ作りをしているのも「本当の自分」だし、それに疲れているのも「本当の自分」。

あなたはあなた自身でしかありえないなのだから、「本当の自分」を見失うなんてことは、絶対にないんだよ。

見ろ、嗅げ、そして息をしろ。そこに自分があるじゃないか!

2017年7月14日

ある事件の精神鑑定

ある事件の精神鑑定をやることになったときの話。録音された脅迫電話のテープを聞いて欲しいということで、検察から捜査官(?)が携帯用のカセットプレイヤーを持って来た。

再生すると、

「むぉぅしむぉうし、くぉちぃらぁわぁ……」

と、酔っぱらったような、ラリっているような、とても変な声。なるほど、これは不気味な脅迫電話だ。と思ったら、捜査官は「あれ?」という感じで、何度もプレイヤーを確認している。いろいろ試した挙句、

「あぁ……あぁ、あぁ、あぁ……はいはい」

一人で納得して、捜査官、苦笑。そして席を立ち、

「すいません、電池買ってきます」

電池切れかよ!

2017年7月13日

転院するときの紹介状は「おまじない」

患者が遠方へ転居するときに紹介状を作成する場合、最後のほうに「クラシック音楽を愛好されています」「植物好きで穏やかなかたです」「太郎というビーグルを飼って可愛がっておれれます」などの情報も書いておく。たとえ短くても、なるべくそういうことを加えるようにしている。

これは「転院先でもよくみてもらえますように」という祈りを込めた「おまじない」である。

紹介状にこういう一文があるだけで、受け取った医師はその人の日ごろの生活や前医との関係、前の病院の診察室での雰囲気を感じることができる。そして、ちょっとだけ「初診患者への親しみ」みたいなものが芽生える、かもしれない。少なくとも自分なら、そうなると思う。まだそんな紹介状をもらったことはないが……。

このおまじないは、「薬は飲んでいますか?」「眠れていますか」「ごはん食べていますか?」という話だけをしていてもできず、普段の診察で「病気以外の話」をどれだけしてこれたかが問われる。

2017年7月12日

伝えること、伝えるために努力すること

先日、カルテに、
「上記の内容を、あれこれ言葉をかえながら時間をかけて説明したが、理解力乏しく伝わらない」
と書きかけて、末尾を「伝えきれなかった」に訂正した。

相手の理解力の問題で伝わらないのではなく、こちらの伝達力のせいでうまく伝えきれない。

そう考える癖をつけないと、この先ずっと「伝わらない」ままだろう。

日常生活では、5歳の長女と3歳の次女に同じことを伝えるのにも、それぞれに合わせて言葉や口調を変えている。同じ家で生活し、たった2歳しか違わない娘二人に対しても説明のしかたは変わるのだから、異なる生活基盤、幅広い年齢を相手にした診療で、伝わるように工夫を重ね努力するのは当然のことだ。

2017年7月11日

あなたの何げない一言が人を変える

俺は小さいころからよく笑う子どもだったそうだ。もともとの顔が笑顔に近いのだろう。母からは、からかい半分に「仏さん顔」と言われ続けていたし、笑顔でいるのは良いことだとずっと思っていたのだが、小学校のある日を境にして自分の笑顔に対する感覚が変わってしまった。

経緯は忘れたが、5年生のときに担任の女教師から、
「ニコニコとニヤニヤは違うのよ」
ピシャリとそう言われたのだ。11歳の俺には衝撃的だった。そのときの俺は、笑っているつもりなど決してなかったからだ。むしろ真顔だった。多感な年ごろにとって、「ニヤニヤ」というのはイヤらしくて不快な響きがある。だから「俺の顔ってニヤニヤしているのか……」と落ち込んだのだ。

それ以来、どうも笑顔、というか真顔に自信が持てなくなった。どんなに真剣は顔をしていても、「ニヤニヤしていると思われているんじゃないだろうか」という不安がつきまとった。こうして俺は、真顔になろうとするときには、恐る恐る丁寧に真剣に気合を入れて、ちょっと睨むくらいの心構えで真顔をつくるようになってしまった。

そんな俺に次の転機が訪れたのは20歳のときだ。飲み会の席で、
「小学校の時、こんなこと言われたんだよねぇ、ニヤニヤしてるかなぁやっぱり」
と言ったところ、ある人から、
「怒った顔してるより全然いいじゃん」
と返されたのだ。「ニヤニヤなんかしてないよ」と否定するのではなく、「ニヤニヤしていても怒った顔より全然いい」というポジティブな意見は、俺にとっては大いなる救いであった。それからは、「ニヤニヤしていても良いんだ!」という強い思いをもって生きている。そのせいか、よく人に道を尋ねられる。旅行先でも聞かれる。病院の中でも呼び止められる。大いに得しているとは言えないが、少なくとも損はしていないと思っている。

小学校の教師も、大学時代の友人も、どちらも何げなく言ったことだろうが、それが俺の人生のありかたを大きく変えたことは、きっと二人とも知らないはずだ。これは俺自身が誰かに言葉をかけるときにも同じことが言える。願わくば、相手を良いほうに変える言葉を多く発していきたいものである。

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