2016年2月29日

ストレス社会を、生きぬくための息ぬき、息ぬいて生きぬく 『ストレス「善玉」論』


「~のである」が多用された、やや癖のある文体が気にはなるが、中身は充分に面白かった。専門家向けではない一般書だが、精神科医である自分が読んでも参考になることは多かった。

中身をあれこれ書くよりも、目次を抜き書きするほうが参考になると思う。以下はあくまでも全部ではなく、タイトルが面白いものを抜き出している。

  • ストレス「悪」論の時代
  • ストレス下で症状を呈す人のほうが正常なのである
  • 恐怖のトイレ人「類」考
  • 主婦と住居と狂気と
  • 蒸発願望について
  • 「正常な心」についての極私的定義
  • 性格に良し悪しはない
  • 心の安定装置について
  • “好き嫌い”に理由はない
  • 自惚れのすすめ
  • 新「親馬鹿」のすすめ
  • 「思いきりの悪さ」のすすめ
  • 病むことのすすめ
  • 安心のための十ヶ条(そのうちいくつかをピックアップ)
  • 逃げられるだけ逃げよ
  • 浮気せよ
  • 時々、自分にきびしく
  • グチをいえる人を二人つくる
  • いつも悪いほうの結果を予測しておく
  • 自分の生活のくせ、パターン分析をしておく
  • 職場の同僚が潰れたとき、復帰してくるとき

文章量もそう多くないので、軽い感じで読める。著者もストレスを抱えている人が気楽に読めるものを意識して書いているとのこと。息抜き読書にどうぞ。

2016年2月25日

代替医療やカルトではなく、病いと回復に関してバランス良く考察された良書 『笑いと治癒力』


「どの患者も自分の中に自分自身の医者を持っている。患者たちはその真実を知らずにわたしたちのところにやって来る。わたしたちがその各人の中に住んでいる医者を首尾よく働かせることができたら、めでたし、めでたしなんです」
プラシーボは、その各人の中に住んでいる医者なのだ。
これは、あの有名なシュバイツァー博士に著者がインタビューしたものの一部である。

タイトルからは代替医療とかカルト的なものとかを想像してしまうが、その中身は非常にバランスのとれた立場で現代医療を見つめて、長所と短所を描き出している。

著者は自分自身が難病にかかり、それを毎日の「笑い」と「ビタミンC」の点滴で克服した。とはいえ、著者はビタミンCの点滴が万病に効くとは考えていないし、もしかしたらプラセボだったのかもしれないという仮説も捨てない。だが、著者が本書で伝えたいことはそういう些末なことではない。もっと大枠で、人のこころと体について語っている。

本書を医療者が読むなら、自らの医療姿勢を見つめなおす啓蒙書になる。非医療者が読むなら、「自分の体の持ち主として、医療とどう付き合っていくのが良いか」を教えてくれる。いずれにしろ、非常に良書である。

2016年2月24日

ゴミ箱に捨ててあった原稿がベストセラーになり映画化された 『キャリー』


スティーヴン・キングといえば、ホラー小説家として有名で、映画『シャイニング』『ミザリー』『ペット・セメタリー』といったホラー・サスペンス映画の原作者である。また『スタンド・バイ・ミー』『ショーシャンクの空に』『グリーンマイル』といった感動系も手がけている。

『キャリー』はキングのデビュー作である。もともとはゴミ箱に捨ててあった書きかけの原稿を妻が見つけ、最後まで書くようにハッパをかけてできあがったのが本作らしい。デビューしてからのキングは破竹の勢いで売れっ子作家街道をまっしぐら。小説は何作も映画化されたが、できあがったものは超名作から超駄作まで幅広い。

『キャリー』も映画化されているが観たことはない。また、キングの映画は何作か観たが、小説は初体験になる。本書の感想は、面白いとも面白くないとも言えないといったところ。Amazonでの評価は非常に高いが、俺にとってはそこまででもなかった。描写の細かさと、ルポ形式の部分を頻繁に挟むという構成の斬新さが良かった。

2016年2月23日

小さな名言がいっぱい 『希望の仕事術』


『ドラマで泣いて、人生充実するのか、おまえ』の著者による本。こちらも小さな名言がいっぱいであった。以下、あれこれ付け足すことなく、いくつかを引用。

問題解決には距離感と方向感覚が必要。
遊びの時間と仕事の時間しかない人生は、違うと思う。 
あなたから何かを奪おうとする者は、まず、あなたを甘やかす。 
考える上で一番大切なのは、考えを聞いてくれる人がいるということ。 
能率を上げるとは作業を速くすることではない。速く目的に達するということである。 
疑問を質問に転化せよ。 
インターネットで調べるように先輩に質問しても、インターネットで答えてくれるような回答しか返ってこないと思え。 

2016年2月22日

加藤文太郎という山男の哀しさや切なさがじわじわと胸にくる 『孤高の人』


最初から最後まで、哀しさと切なさがつきまとった。これは司馬遼太郎の『胡蝶の夢』を読んだ時に感じたこころの動きと似ている。主人公である加藤文太郎の対人関係における不器用さと、そこに感じる読み手のもどかしさが、ひたすらこれでもかと続くのだ。

加藤が山で死ぬということは、上巻の冒頭で出てくるので分かっている。そんな加藤の10代からを丁寧に描写し、ようやく手に入れた幸せを加藤が味わう様子を活き活きと語っている。そして、その幸せを、加藤の不器用な生き方のせいで失ってしまう。

それらすべてが、哀しく、切ない。

もうすぐ冬が終わる。山岳小説は冬に読むのに限る。この冬最後の読書にどうぞ。

2016年2月19日

『ネット禍』 ネットの精霊について

『山月記』(人間が虎になる話。国語の教科書にも載ることが多い)で有名な中島敦の作品に『文字禍』という短編がある。少し長くなるが、だいたいこんな話である。

舞台はアッシリヤという国。毎夜、図書館の闇の中でひそひそと怪しい声がする。そこで国王はエリバという博士に命じて、文字の精霊について調べさせる。エリバ博士は街に出て、最近になって文字を覚えた人々をつかまえては、
「文字を知る以前に比べて、何か変ったところはないか」
と尋ねまわった。その結果、文字を覚えてから急にシラミをとるのが下手になったとか、空のワシが見えにくくなったとか、そういう訴えが圧倒的に多かった。要するに目が悪くなったということである。

また博士は、文字が人間の頭脳を犯し精神を麻痺させているということにも気づく。例えば、文字を覚える以前に比べて、職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、猟師は獅子を射損うことが多くなったというのだ。博士は「文字というのは影のようなものではないのか」と考えた。獅子という字を覚えた猟師は、本物の獅子の代りに獅子の影を狙い、女という字を覚えた男は、本物の女の代りに女の影を抱くようになる。以前は、喜びも知恵も直接に人に入ってきたが、人々が文字を覚えてからは、文字というヴェールをかぶった「喜びの影」と「知恵の影」しか知らない。
人々は物憶えが悪くなった。これも文字の精のいたずらである。人々は、もはや、書きとめておかなければ、何一つ憶えることが出来ない。着物を着るようになって、人間の皮膚が弱く醜くなった。乗物が発明されて、人間の脚が弱く醜くなった。文字が普及して、人々の頭は、もはや、働かなくなったのである。
博士は国王に、
「武の国アッシリヤは、今や文字の精霊のために蝕まれてしまった。しかも、これに気づいている者はほとんどいない。いますぐに文字への盲目的崇拝を改めなければ、後に痛い思いをするだろう」
と報告した。これを文字の精霊が許すはずがなく、数日後に起きた大地震の時に、博士は文字の書かれた大量の粘土板の下敷きになって圧死してしまった。

中島敦は現代のネット文化を予言していたのではないかと、そういう気がしてくる。ネットから情報を得すぎることで、「現実の女性の嫌なところをたくさん知って、バーチャルな女性を求めるようになり」「結婚生活の理想と現実は全く違うということを知って、結婚を避けるようになり」「子育ての大変さと支援の少なさを知って、子どもを欲しがらなくなり」「薬の害を知って、薬を極端に忌み嫌うようになり」……などなど。そして、『文字禍』の結末のように、ネットの精霊は、時に人を死に追いやる……。

ネットを捨てる必要はないが、毎日のネットが当たり前の我々現代人は「ネットの精霊」のようなものがいること、そしてその精霊は、自分自身も含めたネットに参加する者たちで創り上げているということを、意識しておいて良いのかもしれない。

2016年2月17日

井上ひさしの「人をみる目」の温かさが伝わってくる 『東慶寺 花だより』


離婚を望むものの夫が許してくれない。そんな女たちが逃げてきて、寺の中に入るか、あるいはその手前で夫につかまったとしても身につけているものを境内に投げ込めば、駆け込みが成立する。そんな縁切り寺「東慶寺」に駆け込んできた女たちと、その夫や家族との人間物語。それを寺の隣に立つ宿に居候する「半人前の医者」兼「半人前の作家」の若者視点で描いてある。

連作短編集で、それぞれが短く読みやすい。爆笑するほどの滑稽さも、号泣するほどの悲哀もない。思わずクスリと笑ったり、時にじんわり目頭が熱くなったり、その程度であるが、だからこそ「ああ、そうそう。これが世の中、人の仲だよな」と思わされる。

井上ひさしの「人をみる目」の温かさを感じる一冊。

2016年2月16日

ミステリとしての仕掛け、人物描写、社会問題の三つのバランスがうまくとれている 『天使のナイフ』


この作家は、ミステリとしての仕掛け、人物描写、社会問題の三つのバランスがうまくとれている。伏線回収と種明かし、人の織り成す喜怒哀楽、深刻なテーマへの問題提起とを、同時に味わえる贅沢な読書時間になる。

本書は特にテーマとして「贖罪」「更生」「少年法」を軸にしている。つい先日、少年Aが手記を出版したりホームページを作って有料メルマガを開始しようとしたり、少し前には女子高生コンクリート殺人事件の首謀者が恐喝相手に「俺はあの事件の首謀者だ」と言って脅しをかけるなど、触法少年を守るために声高に主張される「更生」というのは一体どんなものなのだろうと考えさせられることが多い。

主人公は28歳の男性で、4歳の娘がいる。妻は3年半前に中学生の男子3人組に殺された。事件から3年半後、娘と二人で一生懸命に生活している中で、3人組のうちの一人が殺害される。しかも、事件現場が自分の職場の近くであったため、警察からは疑いの目を向けられてしまう……。こうして物語はスタートし、退屈させられることなく一気にラストまで引っ張られた。

2016年2月15日

「こんな戦争、誰が始めた」と怒鳴って逝く人がいたことを忘れてはいけない 『十七歳の硫黄島‏』

「死んでね……。意味があるんでしょうかねえ。どうでしょうねえ。だけど、無意味にしたんじゃ、かわいそうですよね。それはできないでしょう。“おめえ、死んで、意味なかったなあ……”っていうのでは、酷いですよね。家族に対してもね。そして、どんな意味があったかというと……これは難しいんじゃないですか?
まぁ、(死んだ戦友たちに対しては)俺はこういう生き方しかできなかったんだ。勘弁してくれって言うだけです。これで許してくれ、これで精一杯なんだ、と」

これは著者の秋草鶴次氏がNHKスペシャルに登場した際、インタビューで答えたものである。オンエアはされなかったが、さらに秋草氏はこう続けたそうだ。
「どんな意味があったか、それは難しい。でもあの戦争からこちら六十年、この国は戦争をしないですんだのだから、おめえの死は無意味じゃねえ、と言ってやりたい」
本書は硫黄島での戦いに参加した秋草氏による体験記である。著者の筆力が巧みで、小説のようにページがすいすい進む。しかし、そこに描かれているのは戦場であり、多くはないが直接的でグロテスクな描写もあり、決して明るくなれるようなものではない。

冒頭で紹介したのは石田陽子氏による「おわりに」からの引用である。その後に、秋草氏の「謝辞」があるが、ここで語られる内容も心に訴えかけることが大きいので紹介する。
重傷を負った後、自決、あるいは他決で死んでいくものは「おっかさん」と絶叫した。負傷や病で苦しみ抜いて死んだ者からは「バカヤロー!」という叫びをよく聞いた。「こんな戦争、誰が始めた」と怒鳴る者もいた。
「こんな戦争」を再び繰り返さないために、思想や立場の違いに関係なく、多くの日本人に読んで欲しい。

2016年2月9日

多くの日本人に読んで欲しい、涙を誘われる一冊 『心のおくりびと 東日本大震災 復元納棺師 ~思い出が動きだす日~』


東日本大震災の直後から、復元師としてボランティア活動を行なった女性の話。

それぞれのエピソードに涙が誘われる。

2011年4月の終わりに、俺も南三陸町へ医療支援として派遣された。当時は医師としても、精神科医としても未熟な部分が多々あって、チーム・メンバーにも迷惑をかけたり不快な思いをさせたり、避難所に集まった人たちや自宅に残る被災者への支援や配慮も足りなかった。今ならもう少し違うこと、もっと役に立つことができると思う。とはいえ、こんな災害はもう起きて欲しくない。

文章量は少なく、あっという間に読み終えるので、決して負担にはならないはずだ。多くの日本人に読んで欲しい一冊。

2016年2月8日

感染症と人類との果てしなき戦いを描くノンフィクション 『カミング・プレイグ』


面白かった、が、疲れた。

ページの文章構成が上下二段組みで、びっちり詰まった単行本。1冊が約450ページで、さらにそれが上下2巻組ときている。読み始めたのが平成27年11月8日、読み終えたのが同月19日で、12日近くかかったことになる。

寄生虫、細菌、ウイルスといった微生物に関する科学・政治・政策などの歴史をひもといて教えてくれる、非常に優れた啓蒙書だった。医歯薬の学生にはぜひとも読んで欲しいが、それだけでなく、もっと幅広い人たちにも読んで……、いや、チャレンジしてみて欲しい。読み応えは充分にあるはずだ。

※平成27年12月20日時点で、下巻はAmazonで取り扱っていない。

2016年2月3日

感動を与えて逝った12人の物語


終末医療に携わる医師によって書かれた11人の患者にまつわる物語。

あれ? 12人目は?

それは、あなた自身である。

と、ちょっとクサイ締めくくりがなされている本書ではあるが、中身はそれぞれに考えさせられることがあって面白かった。分量は少なめで、ゆっくりした時間があれば一日で読み終わる。

2016年2月2日

貧困の原因について社会制度の責任論に寄っているので、読んでいて、なんとも言えないモヤモヤ感がつきまとう 『現代の貧困』


当院の精神科患者には経済的に貧しい人が多い。まず生活保護受給者の割合が高い。正確な数字は把握していないが、外来の約2割くらいだろうか。生活保護を受けていなくても、障害年金だけの「貧困」と言える生活をしている人たちもけっこういる。そうしたこともあって、本書を手にとった。

著者は、
「長い人生で、絶対に貧困にならない人、一時的に貧困に陥る人、そして常に貧困に固定されている人がいる。若い一時期に貧乏を経験することは悪いことではない」
と言っており、それには俺も賛同する。若さゆえの体力と気力があれば、貧乏暮らしも面白いものだ。俺にしても、九大経済学部時代の家賃1万5千円のアパート暮らしは良い思い出である。

著者が問題視するのは、固定化された貧困である。そして、著者の意見としては、こうした貧困の固定化はとにかく社会制度に問題があるということだが、果たして本当にそうなのだろうか? 例えば貧困の原因として低学歴が挙げられており、親の貧困が原因で教育を受けられず、そのせいで自らも貧困に陥り、そして貧困が連鎖していく、固定化する……。確かにそういう人もいるだろうけれど、いわゆる低学歴の人たちの中で、純粋に本当に「貧困が原因」で高校への進学を諦めたという人はどれくらいいるのだろうか?

貧困の全てが自己責任と言うつもりはないが、全てが社会制度の責任ということもないだろう。本書はかなり社会制度の責任論に寄っているので、読んでいて、なんとも言えないモヤモヤ感がつきまとった。