2013年2月5日

小論文的思考と作文的思考

このブログではこれまで、てんかん、胎児診断、安楽死などをキーワードとした色々なニュースについての意見をネットで見たうえで、それらの意見に対するアンチテーゼのようなものを書いてきた。こういう記事を書くとき、いつも疑問に思っているのが、どうしてこうも想像力に欠けた意見が多いのだろうかということ。言っていることは論理的であったり感情的であったり、それは人によって様々ではあるが、どっちにしても想像力の欠けたものには反論したくなるのだ。もしかしたら、彼らは敢えて想像力を排除しているのかもしれないが。

先日、「本人が望むなら良い」という単純な話では終わらないというエントリについてフェイスブックで友人らや高校時代の先生と話し合っているうちに、ふと『小論文的思考』と『作文的思考』という言葉を思いついた。

情報過多の社会では、ニュースのキーワードは、それぞれが記号のようなものになってしまっているのではないだろうか。現代用語辞典の見出しと大雑把な解説がありさえすれば、小論文でそれなりのものは書けるようになる。でも、決して、現実の自分や家族のこととしては考えない。そこに想像力を交えることをしない。これを小論文的思考とする。

一方で、「お父さんの仕事」とか「お姉ちゃんの妊娠」とか「お母さんの入院」とか、そういうタイトルで語るように、自分や家族の身近な問題として捉える。たとえ言葉づかいが高尚でなくても想像力を駆使して考える。これを作文的思考とする。作文的思考では、てんかんや胎児診断、安楽死については、ごく簡単な具体例として以下のようになる。

「お父さんはてんかんで薬を飲んでいますが、ぼくが生まれる前からずっと発作は起きていません。でも免許が取れなくなってしまって、そのせいでタクシー運転手ができなくなりました」
この人に、てんかん患者からは一律で免許を取り上げて当然だ、という言葉を投げつけることができるだろうか。

「お姉ちゃんが妊娠して、ぼくにも甥っ子、もしかしたら姪っ子ができるかもしれないと嬉しく思っていました。でも採血で検査したら、ダウン症が見つかりました。お姉ちゃんは、お義兄さんと何日も話し合っています」
このお姉ちゃん夫婦に、ダウン症と分かっているのなら生むべきではない、などと言えるだろうか。

「お母さんが事故に遭って、目と耳が不自由になりました。お母さんは、こんなことなら安楽死させてもらったほうが良いといつも泣いています。ぼくはお母さんが死んでしまうのは嫌です」
この子に、お母さん本人が望むなら安楽死も認めるべき、と簡単に主張できるだろうか。

もちろん、感情論混じりな作文的思考で全ての話がまとまるわけがないのだが、想像力を欠いた小論文的思考だけが優先されて行きつく先は、「間違いの少ない世界」ではあるかもしれないけれど、「楽しい世界」ではないように思えるのだ。

<関連>
てんかん患者には運転免許を持たせるな!?
ある未来を選ぶことは、別の未来を捨てること
「本人が望むなら良い」という単純な話では終わらない

8 件のコメント:

  1. 想像力に欠けた意見が生み出される背景について想像してみるですね。
    想像力があまりにありすぎると怖くて何も言えなくなるしできなくなっちゃうので、人間には想像力のリミッターがあるのではないかと想像します。そして、そうしたリミッターの多様性が、もしかすると人間の繁栄に繋がっているのかもしれません。繋がってないかもしれませんが。

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    1. >のんくりさん
      想像力のリミッター、良いですね、そのアイデア。確かにそういうのあると思います。想像力の欠けた人は、逆に怖いもの知らずで冒険して世界を広げたりするので、それで人類が進歩してきた、という感じですよね。面白いです。

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  2. ベルギーで45歳の双子の兄弟が、視聴覚障害に苦しんだ末に安楽死を選んだというニュース
    では、45歳になってある程度人生を経験した中での自ら出した結論だから、それはそれで尊重すればいいと思います。

    てんかんの既往がある人がわざわざ車の運転を仕事にするか、あるいは、別の仕事にするか、それは本人の自己責任だと思いますが、運転中にてんかん発作が万一起きた場合、何の落ち度もない小学生の列に突っ込んで、死なせてしまったり後遺症をもたらしてしまったりしたら、本当に悔やんでも悔やみきれないでしょうね。。。。

    ダウン症を身ごもった夫婦が悩むのも当然だと思いますし、夫婦が下す結論を他人がとやかく言う必要はないと思います。ダウン症でなくても、今の世の中、子供がいじめや競争社会、不景気にうちかって生きていくのは大変だと思います・・・

    まだ成人していない子供がいる親が自分の都合で死にたいと言うのは、しょうがないのかもしれないけど、子供のことをちゃんと考えているのかどうか、疑問に思います・・・


    とにかく、みんな、それぞれ、自分の価値観人生観で生きているのでしょうが、他の人が助言なりするのはよいとしてしても、非難するのは間違っているでしょうね・・・

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    1. >匿名2013年2月5日 17:13さん
      人生観って、本当に人それぞれなんですよね。俺も診察室では、助言すら控えてしまいます。一般的な見解と、こうやったら良いかもしれない、くらいのことは言うこともありますが、でも最後は本人の人生観、価値観、生きがいといった問題になってくるので、患者からは厳しいと思われるかもしれませんが、「決めるのは、あくまでもあなたです」というスタンスです。

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  3. ものすごくポジティブな考えでいけば

    てんかん が治る医療、ダウン症 が治る?医療、 視力が 耳が聞こえる医療 

    そんなことができるといいな、と まず思いました。

    こうあるべきは 誰にも言えない、と思いますが 
    こうありたい、と思うことも その人のキャパとして自由だと思うのです。

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    1. >あじさいさん
      ポジティブに考えることは大切ですね。てんかんは新しい薬が出ているので、それによって治まる発作もたくさんあると思います。視聴覚障害もいずれ克服されるでしょう。ダウン症は……、これは染色体をどこまで操作することが認められるか(そもそも可能かどうか分かりませんが)、という問題にぶち当たりそうです。
      ありたい自分は自由、無限大、まさにそうだと思います。

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  4. いきなりお邪魔してすまない。

    『小論文的思考』と『作文的思考』というか、
    『希望論的帰納法』と『科学的演繹法』の対立だな。
    あんたのとりたがる方法は前者。
    意識してないだろうが、まず感覚的、感情的に自分にしっくり来るほうの答えを設定する。
    後付けでそれを補強する論を探してきて、正当性を主張する。
    脳がオバサン的なんじゃね。
    だからオジサン的演繹法と対立する。
    そういうことなんだと思うよ。

    あんたのいう「想像力」って一体なんだ?
    つきつめて考えてみ。
    それはおそらくあんたにとって心地の良い「ヒューマニズム」ではないのか?
    (「ヒューマニズム」自体を否定するわけじゃないから勘違いせんでくれ。)

    そんなもんを下敷きにして文章を書くから破綻するんだよ。
    (てんかんに関する別の記事で細かい論理構築であんたを追い詰めているやつがいるが
    あの記事では完全にあんたの負けだよ。あんたのやってることは論点のすり替えだ。)

    あんたはこう書いている。
    >「間違いの少ない世界」ではあるかもしれないけれど、「楽しい世界」ではないように思えるのだ。
    あんたも半分きづいてるじゃないか。

    結局のところ、法とか制度ってもんを考えるときには、可能なかぎり無謬を排した「間違いの少ない世界」
    を目指すしかないんじゃないのか?
    その結果生じた矛盾で取り残されるやつがでるなら、それはそれとして別枠で救済を考えるしかないだろ。
    それが人間が作る社会制度の限界ってもんだろ?

    「楽しい世界」の話をするなといってるんじゃない。
    ただ「楽しい世界の話」は「楽しい世界の話だ」と断った上で展開すべきであって、
    「~であってはならない」のような制度論として論じるべき話ではないだろ。
    理由はわかるよな。
    それは、あんた自身が否定している「人生観の押し付け」になるからだ。

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    1. >匿名2013年6月8日 1:49さん
      あなたがそう考えるということだけがよく分かる文章でした。
      実に想像力に欠けた人、といった印象を受けましたが、ま、あくまでも印象ですから気にせずに。

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