2019年5月31日

読むのが辛く、良書なのに人に勧めるのを躊躇う本 『津波の霊たち 3・11 死と生の物語』


2011年3月11日。
東北地方で起きた地震、そして津波のニュースを、俺は自分が勤務する病院の待合室にあるテレビで見ていた。一台の車が津波に飲み込まれた。とんでもないことが起きている、そう思った。帰宅してもニュースは津波や炎上する街の映像を流し続けた。

まるで地獄だ……。

妻に向かってそう呟いた。

その1ヶ月半後。
俺は南三陸町志津川へ医療支援に行くことになった。当時、まだ長女は生まれていなかった。現地でさまざまなものを見て、いろいろなことを考えた。派遣が終わり帰ってから、しばらくは不眠に陥った。車を運転していると津波に飲み込まれた車の映像を思い出し、命を落とした多くの人たちのことを想像し、急に息苦しくなることもあった。

その後、津波に関する本を何冊か読んだ。どれもが辛かった。だが、それらはまだ、現実感を伴う辛さではなかった。そのことを今回の読書でひしひしと感じた。というのも、本書の中心が大川小学校だからだ。

大川小学校では74人の児童と10人の教師が亡くなった。長女と同じ年齢の子たちが、怯え、戸惑い、逃げ走り、飲み込まれていく様子が描かれ、そして彼らの遺体に対面した親の言葉が記されている。読みながら、何度も、何度も、娘たちのことを思い出してしまい、読むのを止めて、改めて読み始めて……、読み終えるのにずいぶんと時間がかかってしまった。

平成に読み始めた本だったが、読み終えたのは令和の5月2日。平成の大震災に関する本を、このタイミングで読むことができたのは有意義だった。

本書は多くの人に勧めたくもあり、勧めるのをためらう本でもある。よほど精神的にタフでないと、こころが不調をきたすかもしれない。しかし、読んでおかなければいけない本という気もする。

以下は長めの引用。読むのが辛いだろうということは事前に警告しておく。

11歳の娘を喪った母の言葉。
「夫は毛布を持ち上げました。するとうなずきながら担当者の男の人に何か言いました。それを見たとき、わたしは思ったんです。なんのためにうなずいているの? うなずかないで。お願いだからうなずかないで。近づかないように言われていましたが、わたしはすぐに駆け寄りました。千聖がそこにいました。体は泥で覆われていて、裸でした。眠っているかのように、とても穏やかに見えました。わたしは体を抱きしめて持ち上げ、何度も何度も名前を呼びましたが、答えは返ってきません。呼吸を取り戻そうとマッサージしても、効果はありません。頬の泥をこすり落として、口の泥も拭き取りました。鼻のなかにも、耳のなかにも泥が詰まっていました。でも、手元には小さなタオルが二枚しかありませんでした。ひたすら泥を拭いていると、すぐにタオルは真っ黒になりました。ほかには何も持っていなかったので、自分の服で泥を拭いました。千聖の眼は半開きでした。あの子はそうやって寝ることがよくありました。とても深い眠りのときの姿と同じでした。でも、眼には泥がついていました。タオルも水もなかったので、わたしは千聖の眼を舌でめ、泥を洗い落としました。それでも、きれいにすることはできませんでした。泥がどんどん出てくるんです」
大川小学校で津波に巻き込まれて生き残った唯一の教師である遠藤先生について。
大川小学校に赴任するまえ、彼は北東に一〇キロほど離れた相川という漁村で教鞭を執っていた。
相川小学校での彼の仕事のひとつに、災害準備があった。多くの教師はこれを日常業務の一環として扱い、避難訓練の実施と保護者の電話番号リストの更新だけで済ませた。ところが、遠藤教論はさらにもう一歩踏み込んだ。相川小の既存の緊急マニュアルには、津波警報が発令された際、児童と職員は三階建ての校舎の屋上に避難するべきだと書いてあった。遠藤教論はそれを不充分だと判断し、学校の裏山の急な斜面を登って神社に避難するべきだとマニユアルを書き換えたのだった。
相川小学校は海からわずか二〇〇メートルほどの場所に位置し、海抜ゼ口に近い平らな土地に建っていた。三月一一日に襲ってきた津波の高さは一五メートルにも及び、学校は屋上まで水没した。もし屋上に避難していれば、みんな死んでいたにちがいない。しかしながら、教師と子どもたちは改訂された手順に従ってすぐに裏山に登ったため、怪我人ひとり出ることはなかった。
つまり、以前の勤務先である相川小学校では 遠藤純二教論こそが何十人もの命を救ったといっても過言ではなかった。
ほかの状況下であれば、遠藤教論は同情と賞賛の対象となっていたかもしれない。しかし震災翌日の朝以降、彼はどこかに雲隠れしてしまった。居場所が査として知れず、彼の口から直接話を聞くことができなかったせいで憶測が憶測を呼んでいた。
流される子どもたちの声を聞いた人の証言。
別の音もかすかに聞こえてきた。「子どもたちの声でした」と秀子さんは語った。「『助けて! 助けて』と叫んでいました」
別の山肌にいた高橋和夫さんもその声を聞いた。学校の裏山の斜面を命がけでよじ登った彼は、途中で水の流れに体をとられたものの、運よく安全な場所へと流されたのだった。「子どもの声は聞こえるんだけど」と高橋さんは言った。 「水が渦巻いて、バリバリバリという瓦の音と水の音がぶつかって……子どもの声はだんだん遠くなっていった」
妻や子どもたちと、災害時のことについて話し合おう、取り決めをしておこうと強く感じさせる本だった。

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