「医師になって人を助けたい」
そんな志しに燃える医学部一年生がひしめくにぎやかな教室。そこへ腕まくりの白衣を着た初老の男性が入ってくると、教室の中がすっと水を打ったように静まった。一年生はまだ教授陣の名前も顔も分からない。教壇の上に立った教授が口を開いた。
「さて、いきなりですが」
全員の視線が教授に集まる。教授はビーカーを取り出して目の高さまで持ち上げた。中には薄黄色い液体が入っていた。
「これは、糖尿病の患者の尿です」
と言うが早いか、教授は指をビーカーに入れて、そして指をペロッと舐めた。教授の予想外の行動にどよめく教室。教授は澄ました顔で、
「うん、ほのかに甘い。医師は、患者のためなら尿を舐めてでも診察するくらいの気概がないといけない。少なくとも、僕らの世代ではそうだった」
そう言って、教室の中を見渡した。
「さて、この中にそこまでのことができる学生は、どれくらいいるだろうか」
ざわつく学生たち。無理だって、と男子学生がニヤつけば、女子学生が私も無理と顔をしかめる。そんな会話がひそひそとかわされる中で、それでも数人の奇特ながらも熱い学生らがポツリポツリと教壇の前に進み出ていった。
「今年の学生は、いつもより少ないなぁ」
教授の見え透いた挑発に乗って、さらに数人が志願した。教授は満足げに頷いて、改めてビーカーに自分の指を入れて舐めてみせた。それから学生らにビーカーを差し出した。おそるおそる尿に指をつけ、それから舐める勇敢な学生たち。皆、自信なさそうな顔で首を傾げている。そして、それを遠巻きに眺める臆病な学生たち。もはやニヤつく余裕もない。
「どうだ、甘いか?」
教授に尋ねられて、ある学生は頷き、また別の学生は首を傾げたままだった。
「正直に感想を言ってみなさい」
しばらく沈黙が漂ったが、ある学生が思い切って口を開いた。
「なんというか、お茶の味が……」
教授の顔がほころぶ。
「うん、そう、これはお茶なんだよ」
どっと沸く教室。教授は続ける。
「君たちは勇気があったね」
勇敢な学生たちは少し誇らしい顔でそれぞれの席に戻った。臆病な学生たちは、それを嫉妬交じりに見つめた。そんな学生たちを見渡して、教授は言った。
「さて、今回のことで分かって欲しかったことはなんだと思う?」
勇敢な学生のうちの一人が手をあげた。
「勇気がないと、真実は見えない、ということだと思います」
教授は微笑んで、そしてキッパリと言った。
「皆さんの中で真実を見ていた人は、実は一人もいません」
またしてもざわつく教室。ちょっと意外そうな顔をする勇敢な学生たち。なぜか安堵したような表情の臆病な学生たち。そんな学生たちを見ながら教授は続けた。
「わたしは、このビーカーにこうして」
彼は人差し指をビーカーに入れた。
「それから、こうやって」
そう言って、彼はゆっくりと中指を舐めた。
「皆さん、医学の徒として、先入観に惑わされない観察力を身につけてください」
笑顔の教授。教室は、割れんばかりの熱い拍手に包まれた。
後日、一年生の一人がこの感動を先輩に話したところ、
「あぁ、またか」
そう言って先輩は苦笑した。
「あの人、教授じゃないよ。それどころか、医者ですらない」
戸惑う一年生を見ながら先輩は続けた。
「あの人は、精神科に長く入院している患者さんだよ。毎年、そうやって一年生をからかいに来るんだ。気づかなかったかい?」
そんなこと気づくはずがない、と一年生は思ったが、先輩は続けた。
「ほら、リストバンドしてたでしょ。患者名と病棟とバーコードの入っているやつ」
先入観に惑わされない観察力を身につけてください。
男性の笑顔が思い出された。
ひねりの利いた小説ですね。
返信削除昔ひき逃げされた死体の解剖に立ち会いましたが解剖医は遺体の胃袋の残留物を舐めて所見をまとめていました。
その日、一緒にいた連中がフグを誘ってくれたのです。
見るからに、、でもうまかったなあ^^。
>佐平次さん
返信削除ありがとうございます。
ところで、遺体解剖に立ち会うなんて、とんでもない体験されてますね!! しかも、解剖医……、なんという熱い魂の持ち主なんでしょう。そこまでする人はなかなかいないですよ。
しかもそのあとフグとは……(笑)
舐診(笑)
返信削除よくできた話ですね。さすが…
>あー太
返信削除舐診は医学の基本ですw
面白い!
返信削除取材もできたことですし、今度は裁判所の話などは…なんて、ないかな?
>こばねさん
返信削除裁判所もの……、といっても、法廷の中しか見ていませんからねぇ^^;
でもなんか、ひっくり返す系の裁判ものって面白そうですね。
あ、逆転裁判のパクリになっちゃうのかな。