2016年9月9日

スマイル抜きで

「スマイル抜きで」

そう注文されたことがある。

二十歳のころ、福岡のマクドナルドでアルバイトをしていたときの話だ。

大学入学してすぐの五月。正式に採用される前の試用期間で接客の練習をやらされたが、どうにも自然に笑うことができなかった。ただ、一応の愛想笑いができたことと、人手不足だったこともあってか、本採用ということになった。

最初はガチガチだった俺も、レジ打ちなどは徐々に慣れていった。しかし、どうしても笑顔が難しかった。
「いちは君、笑顔は笑顔なんだけどねぇ。もう少し自然さが欲しい」
店長からも数回指摘された。

そんなある日のこと。レジに並んだスーツ姿の若い女性から、
「テリヤキバーガーセット、スマイル抜きで」
という注文を受けた。
「お飲み物は何になさいますか?」
と笑顔で尋ねたら、真顔で、
「スマイル抜きなんですけど」
と言われ、非常に困った。

商品を渡す時も、いつもの癖で笑ってしまった。
「スマイル抜きって言ってるじゃないですか。すいませんけど、店長呼んできてください」
俺は笑顔が凍りついてしまった。真顔と笑顔の中間でスタッフルームへ向かい、店長を呼んだ。
「スマイル抜きって頼まれたお客様に笑顔で応対してしまって……。 なんとなく怒らせたみたいで、店長を呼んでと言われました」
机で作業していた店長も表情を固くしてレジに向かった。

レジでは、さっきの女性が待っていた。 その女性を見るなり、店長が、
「えっちゃん、ひさしぶり~!!」
と言った。
「店長、おひさしぶりです~」
“えっちゃん”と呼ばれた女性は、満面の笑みでそう答えた。
「新人君みたいだったんで、からかってみました。笑顔も固かったし」
俺はホッとして、体の力が抜けた。店長が俺を見て笑っていたので、俺もつられて笑った。
「その笑顔だよ~、新人君」
“えっちゃん”も笑っていた。

後から知ったのだが、“えっちゃん”はエツコさんで、就職を機にアルバイトを辞めた先輩だった。エツコさんも入りたての頃は笑顔が固かったらしい。彼女は、店長や古株の先輩たちと仲が良く、「スマイル抜き」事件の後、バイトの飲み会に何回か参加した。

そうこうするうちに、俺とエツコさんは仲良くなって、友人とも、恋人とも、姉弟とも言えないような関係になった。俺は大学での出来事を相談したり自慢したり、エツコさんは仕事について熱く語ったり愚痴をこぼしたりした。週に二回くらい会っては、そういう時間を笑いながら過ごしていた。

その年のクリスマスはエツコさんと過ごしたし、初詣にも二人で行ったけれど、男女の仲にはならなかった。エツコさんは、いつも笑っていた。

翌年、二月の最初。エツコさんが東京に転勤することが決まった。やりたかった仕事に一歩近づけるらしい。その日は、二人して笑顔で乾杯した。

バレンタインデーも、ホワイトデーも、一緒に笑って過ごした。そして、三月末、とうとうエツコさんが東京に行く日になった。

博多駅、新幹線のホーム。

乗車口に来るまではお互いに色々と明るく話していたけれど、新幹線のつるっとした姿を目の前にすると、エツコさんが遠くに行ってしまうという実感がわいた。会えなくなるわけじゃないだろうけれど、会わなくなるだろうと思った。

新幹線に乗る直前、エツコさんが俺に右手を伸ばした。
「握手!」
初めて握るエツコさんの手は意外に温かかった。そして、エツコさんは、手に力を込めて言った。
「バイバイって言って。スマイル抜きで」
初めて見るエツコさんの泣き顔。スマイル抜きでと注文されたけれど、俺は自分なりに最高の笑顔を作って答えた。
「バイバイ!」

新幹線の窓に映る俺の顔は、最低の泣き顔、スマイル抜きだった。

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