東北で大規模な地震があったというニュースを、診察室前にある待合室のテレビで眺めていた。その後、医局に上がると津波の映像が少しずつ入ってきていた。広がっていく津波にビニルハウスが飲みこまれた。その横の農道を走るトラックは、津波に気づいていないのか、のんびりとした速度で進んでいるように見えた。そして、津波に追いつかれた……。
そんな光景を見ながら、これはとんでもないことになる、そう思った。妹夫婦のいる東京にも津波がくるかもしれない。妹の携帯電話にかけたが、回線がパンク状態だったのだろう、何度かけてもつながらなかった。結局、メールを送るしかできなかった。
「なるべく高いところにいろ。海や川には絶対に近づくな」
実は地震の発生時、妹は子どもを連れて埼玉の友人宅に遊びに行っていたらしい。そこでもかなり揺れたそうで、後に「裸足で家から逃げ出した」と語っていた。
病院から帰宅しても、ニュースは津波被害の映像ばかりだった。津波に流されつつ、さらに火事で燃え盛る炎に包まれた町が、暗闇の中で赤々と映し出されていた。まるで地獄だと思った。胴震いしながら、俺は妻に、
「日本中が、もしかしたら大変なことになるのかもしれない」
そう言った。しばらくすると、原発の問題も飛び出してきた。
遠い地のことであり、自分に関わることは少ないかと思っていたが、その年の4月末には医療支援として南三陸町へ派遣された。地震・津波から1ヶ月半後の南三陸町、それから志津川は、瓦礫や流された車の山だった。
遠くからだと瓦礫の山だが、近づいて見ると、たくさんのものが落ちていた。ランドセル、ぬいぐるみ、ピアノ、飛行機のオモチャ、「マリンパル夕涼み会」(※)と書かれたビデオテープ、卒塔婆、映画をコピーしたと思われる「ボーン・スプレマシー」と手書きされたDVD。
1週間の派遣が終わって帰宅して、しばらくすると「がれき処分」の問題がニュースになった。放射能汚染が怖くて受け入れたくないという自治体などが話題となっていた。そんな話を聞きながら、現地で見た様々な遺留品を思いだした。オモチャやピアノだけでなく、家の柱、壁、天井にだって、人の思い入れ、家族の思い出は宿る。子どもたちの成長を残した「柱の傷」のついた木材だって、きっとあっただろう。「がれきはただのゴミじゃないんだよ……」と哀しくなった。
本書の舞台は福島で、取材対象は主に福島民友新聞の記者たちである。記者の一人は、津波の取材に行き、そこで人を助け、自らは命を落としている。また別の記者は、迫りくる津波から必死に逃げる高齢男性と彼に抱かれた子どもを目撃するが、助けられなかったことを悔やみ続ける。
記者たちは、震災翌日の新聞が欠行になること(「紙齢が絶える」という)を避けるべく奮闘する。そんな彼らの姿は、涙なくして読めなかった。
平成29年2月25日には文庫も出版される。
『記者たちは海に向かった 津波と放射能と福島民友新聞』
※マリンパル夕涼み会は復活しているようで、南三陸観洋ホテルのブログで紹介されていた。
マリンパル福興だより パート3 8月その1
あの被災地が、復興への確かに道を歩んでいるのだなと思うと、思わず目頭が熱くなってしまった。
被災地での写真を改めて載せておきたい。
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