海釣りが趣味という高齢男性(単身)の診察で、毎回のように、
「この病院でも毎年、何人かは転落事故で運ばれますよ。釣りのときには、くれぐれも気をつけてくださいね」
と声をかけていた。男性は、そのたび嬉しそうに「おうおう、大丈夫」と笑顔で頷かれた。
こういうのは「言わずもがなの心配」だろう。
我が身を振り返ると、43歳の俺は、65歳の母から「風邪ひかないように」「ストレスためないように」と言わずもがなの心配をされる。そのいっぽうで、6歳の長女や4歳の次女に「落ちるよ」「危ないよ」「暑いよ」「寒いよ」と言わずもがなの心配をする。
言わずもがなの心配を、「される」、「する」。
いまの俺は、その両方を体験する立場にいる。これはきっと幸せなことなのだ。
だがいずれ、母親がいなくなる。そうなれば、「される」は激減する。
「言わずもがなの心配」は、大人になるにつれてされなくなるものだ。それが単身者や夫婦二人だけで生活している人たちならなおさらだろう。だから、月一回の診察でされる「言わずもがなの心配」が、嬉しく感じられるのかもしれない。
「言わずもがなの心配をされること」には、子ども時代や若かりし日に親からかけてもらった言葉を思い出させる「ノスタルジアや照れくささを伴う嬉しさと癒やし」があるのではなかろうか。
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