留年で子どもの自信が奪われる、落ちこぼれの烙印が押される、いじめられる、という意見が多かった。そういう人に聞いてみたいのだが、小学校一年生で足し算も引き算も理解できず、読み書きも怪しいけれど、エスカレーター式に二年生になったという場合、その子は二年生の勉強が分かるだろうか。きっと分からない。そのまま三年生になって、四年生になって、学年が進むごとに勉強は高度になる、でもそこで必要になる基礎がまったく分かっていない。そうするとどうなるだろう。そのままみんなと一緒に中学生になれたことで、自信を失うこともなく元気に成長できたとして、それからどうするのだろう。高校は最底辺のところにも進学できず、友だちはみんな進学し、そんな友人らとは疎遠になってしまい、なんとなく持っていたはずの自信も崩れ去る。
と、これは極端にしても、この留年制度は要するに、
「次の学年で学ぶのに必要な学力だけは身につけようね」
ということであって、受験のようにみんなで競争させて上から90%を進級させて、残りの10%を落とそうというものではないはずだ。そう、決して競争を煽るような制度ではないのだ。そこをしっかり分かっていないと、変な方向に話が進む。
この記事に対して反対意見の日記を書いている人は、
「自分も学力は低かったけれど」
と、きちんとした文章を書いている人が大半。そういう人は、確かに学力は低かったかもしれないけれど、ここで問題になっている留年の対象にはならない。インターネットを駆使して、ニュースが読めて、それだけの文章が書ければ問題はない。ここで、援助する側とされる側とに分けて考える。留年対象者は援助される側になる。学校や親は当然援助する側だが、一緒のクラスの留年対象にならない子どもたちや我々も援助する側である。ネットの中で「留年制度反対」と言っている人たちは、すべて援助する側に入ることになる。援助する側とされる側の感覚の差というのは、お互いに感じ取るのが難しい。例えば医師が「この患者は絶対に入院が必要」と思っても、「どうあっても入院しない」と拒否する人たちがいる一方で、「退院して社会生活のほうが幸せだ」と勧めても「病院が好き、病院にいたい」という人たちもいる。援助する側される側で互いにすり合わせるのも大事なんだけれど、時には相手のためを思って入院も退院も強行することがある。
留年の話に戻ると、留年した子どもの「自信が失われる」とか「心に傷をつける」とか言うけれど、それはあくまでも自分たちは留年対象ではない人たちが「留年者はこう思うんじゃないだろうか、こんな立場になるだろう」という想像で語っているに過ぎない。そこで、想像ではなくて今現在ある状況を見てみると、小学校の一年生でつまずいたまま、引きずられるように進級させられて、授業の中身はさっぱり分からないから面白くもない、家族や友人からは「頭が悪い」と直接・間接に揶揄されながら、そのまま心の中をすり傷だらけにして、ようやく義務教育を終えて解放されて、「もう勉強なんて御免だ、高校なんて行ってたまるか」という人が、実は結構たくさんいる。これを読んでいる人の周りにも、似たような人がいたはずである。そういう人たちを、まだ始まりの段階でセーフティ・ネットに引っ掛けるための留年制度なのだ。最低限わかっておいて欲しいことや知っていないと将来その人が損をすることを、学年が進む前に身につけてもらうために留年をさせるということ。
「いくら勉強してもできない子もいるのに」という意見もあったけれど、「だからみんなと一緒に進級させるべき」というのではマズい。いくら勉強しても、というのは、たとえば数年勉強しても足し算すら分からないということだ。そこまででもない子は「いくら勉強してもできない子」とは言わない。いくらやっても足し算も引き算も理解できない子は、本来であれば特別支援学級などで行なわれる「療育」を必要とする。国語も算数も成績が悪すぎるという子が、人づきあいや社会のルールだけは人並みにやれるということはない。もしあったとしたら、それはご両親の熱意ある療育の賜物だ。そして、そこまでやれる親はそう多くはいない。だから、うまく生きることを教えるような療育などが必要になる。普通の学級でそこまで期待してはいけない。療育というのは技術的に非常に高度で、ストレスも大きいからだ。
留年制度に反対の人は、この留年制度が単なる学力偏重主義ではない、というくらいは分かっておくべきだ。記事にも「目標レベルに達するまで面倒を見る」と書いてある。学力の底上げというと、なんだかえげつないのだが、個々人に合わせて最低限必要なことを身につけてもらい、最終的には「それなりの能力はあるはずなのに、どこの高校にも進学できないくらいの学力」の人を減らそう、ということだ。高校に「行かない」選択は誰でもできるが、行きたくても学力的に行けない、という人を減らすのだから意義がある。
「義務教育はエスカレーターで、高校から成績重視でいいじゃない。小中学校では、そこでしか学べないことを学ぶべき」という人もいるが、そういう方式だと高校に「行けない」人は相変わらず減らせないままだ。小学校一年生でつまずいた人が中学までエスカレーターで行ったら、高校進学なんてできないか、最底辺の高校に拾ってもらうかになる。小学校の段階で留年を設けて、最低限の知識を身につけさせれば、そういう人が少なくなる。ポイントはあくまでも「最低限」であって、なにも頭よくなれとか勉強しっかりしろとか成績をのばせとか偏差値あげろとか言っているわけではない。なぜか「学力偏重主義反対!」的な意見になって、「学校で身につけるべき社会性が失われる」と危惧する人もいるのだが、あくまでも最低限の知識を身につけさせるだけであってガリ勉を推奨しようというわけではないのだから、休み時間も夏休みも今まで通り、社会性を身につけるのを阻害する因子は何もない。
「留年したら一生落ちこぼれの烙印が押される」なんて人もいるが、では今現在、勉強ができないままエスカレーター式で中学までいって卒業して高校進学できなかった人には、何の烙印もないような社会だろうか。高校や大学では留年をよく見かけるが、彼らが社会に出て何らかの烙印を押されているだろうか。高校や大学の留年と一緒にするなという人もいるが、それはなぜだろうか。高校や大学での留年はそれなりに社会的に受け容れられているからだ、という理由なら、だったら小学校や中学校での留年も制度化されればいつか受け容れられるようになるとは思えないだろうか。むしろ、留年なんて気にすることないというような社会を作ろうというほうに気持ちを向かわせる方が建設的だ。いじめとか疎外とか烙印とかを問題視するなら、むしろ、留年した子も分け隔てなく接するようなクラスを目指すべきで、子どもはそれくらいの溶け込みやすさは持っていると思う。そんな柔軟性など子どもにはない、というのなら、どんな教育方式にしたってダメなものはダメだ。
「エスカレーターで進級して、できない子を支え合うクラス」
これは良いことを言っているようで、実は援助する側のエゴである。援助される側は、勉強が分からなくても学年だけは強制的に上げられる。基礎が分かっていないのに、それより高度な学問を押しつけられる。授業が面白いわけがない。身長は伸びていないのに大きな服を着せられるのに似ている。「小学生が留年なんてありえない!」と言う人は、10歳になったからこのサイズ、11歳だとこのサイズ、と体格を見ずに服を着せているようなもので、彼らが自分に合った服を着るチャンスを奪っている、とも言える。援助される側が「留年したくないよ」なんてまだ誰も言っていないのに。それに「うちの子は留年させてでも算数だけはできるようにさせたい」という親からも、学ばせる選択肢を奪っている。援助される側の視点に立つというのは難しくて、留年制度を導入することで果たして援助される側が喜ぶかどうか分からない。分からないけれど、少なくとも社会に出て損をしない程度の学力はつけさせる。そして、その制度を運用していく中で、小中学校での留年なんてたくさんいるし大したことがないという社会にする。そこまで行けば、副産物として、不登校になった子も安心して学校を休めるようになる。登校できるようになったらやり直そう、で済むから。でもこれはまた別の話。
mixi内でいろいろ議論した結果、思いついた折衷案が進級・留年を選択制にするというもの。分からないまま進級する・させるでも良いし、せめて最低限を分かるまで留年する・させるというのも可能。ただ、子どもはなかなか判断できないだろうから親が決めることにはなりそうで、そうすると、「うちは何年も学校に通わせる余裕はない」という理由で進級を選ぶ親も出てきて、学力の二極化に拍車をかけそうではある。また、科目ごとの留年というものがあっても良いのかもしれない。
小学校6年間で学んでほしいことを6年間で学び終えてもらうためにはどうしたらいいか。少なくとも今のままでは、つまずいて転んだまま引きずりまわされる子を減らすことはできないのだから、本気で留年制度の長所短所を考えながら、より良い方法を模索することは大切だと思う。
最後に、留年制度を導入するなら飛び級も併せて取り入れるべきだ、という意見についてだが、俺は飛び級に関してあまり賛成の立場ではない。アメリカのように、12歳で大学生、というのは心理発達的にあまり良くない。飛び級を導入するにしても、小学生のうちはせいぜい2学年が限度かなと思っている。10歳で中学2年生というのはまずい。これはギャングエイジ(10歳前後)という成長発達の段階が非常に大切だと思うからである。
大阪市の橋下徹市長が、小中学生であっても目標の学力レベルに達しない場合は留年させるべきだとして、義務教育課程での留年を検討するよう市教委に指示していたことが分かった。法的には可能だが、文部科学省は年齢に応じた進級を基本としており、実際の例はほとんどないという。ちなみに、俺も中学校の数学でつまずいた一人である。入学したすぐのころ、妙に集中力がなくて、方程式の授業を完全に右から左という状態で数コマ過ごしてしまった。あとはもう、それから先の授業はさっぱり分からず、退屈だから空想に耽って、ますます分からなくなるという悪循環の状態だった。「2X=4」が解けないレベルだったのだ。幸いにも、俺の数学のノートを覗き見た母が俺のつまずきに気づいて、毎夜10時ころから1時間前後、俺の数学教師となってくれたおかげで、かろうじて追いついた。あの時、母が気づいていなかったら、俺は落ちこぼれていただろうし、今の俺もない。でも、もし母がいなくても留年制が存在していたら、今の俺に近いところにはいたはずである。こういうことは、本当につまずいた者にしか分からないことだと思う(「2X=4」が分からないって、けっこうひどいよね?)
橋下市長は、市教委幹部へのメールで「義務教育で本当に必要なのは、きちんと目標レベルに達するまで面倒を見ること」「留年は子供のため」などと指摘。留年について弾力的に考えるよう伝えた。
文科省によると、学校教育法施行規則は、各学年の修了や卒業は児童生徒の平素の成績を評価して認定するよう定めており、校長の判断次第では留年も可能。外国籍の生徒で保護者が強く望んだ場合などに検討されることがあるという。
市教委も「学校長の判断で原級留置(留年)できる」としているが、実際は病気などで出席日数がゼロでも進級させているという。担当者は「昔は長期の病気欠席などでごくまれにあったと聞いているが、子供への精神的影響も大きい」と話している。
橋下市長は22日に予定されている教育委員との懇談で義務教育課程での留年について提案、意見を求める予定という。
(毎日新聞)
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『橋下市長 小中学生の留年検討』に対する反応に一言
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