2013年8月9日

錆びたボタン

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最後の一けた、『7』のボタンを押せないまま、もう何度、受話器を置いただろうか。そのたびに、つり銭口に落ちる十円硬貨の乾いた音が、電話ボックスの中に響き渡る。もう一度だけ声が聞きたい、ちゃんとさようならって言いたい、名前を呼んで欲しい、そんな可愛らしくも未練たらしい想いがないわけではない。でも、別の、真逆の、すごく黒々とした気持ちもある。批難、恨み節、呪詛の言葉。いま会話したら、きっと最後はそういう負の感情をぶつけて終わってしまう。そう思うと悲しくて、そんな幕引きをするのが嫌で、そのあとの自分の心が怖くて、少し錆びたボタンが押せない。

私は十円硬貨を再び電話器に入れた。ゆっくりとボタンを押していく。

嘘をついていた彼は悪い。でも、騙されたふりをしていた私は、ずるい。彼の左手に残る指輪の跡を見ないようにしてきた。私の頬に残る涙の跡は見せないようにしてきた。そういうふうにして、お互いに背中を見せないような付き合い方をしてきた。こんな嘘つき男とずるい女で、行きつく未来なんてたかが知れいていたけれど、それを盲目というのなら、彼はともかく、私はまさにそうだった。先が見えないことを無理やり良いほうに考えようとしていた。だけど本当は、先は見えないんじゃなくて、そもそも先なんてないってことも分かっていた。

そしてまた、最後のボタンを押せないままに、私はため息をついて受話器を置いた。

あなたのことを好きだった。あなたは私を好きだったの? 私はいまも好き。あれから、あなたを何度も夢に見た。私はあなたの夢に出たのかな? 奥さんと別れて欲しいなんて言えなかったよ。あなたは奥さんと別れようなんて思ったことはある? あなたを殺して私も死のうと考えたことがある。私に殺されるかもしれないなんて、あなた思ったことはある?

私は、これが最後と思い定めて、十円玉を電話機に滑り込ませた。その時だ。電話ボックスの外でワイワイと騒がしい声がし始めたかと思うと、突然ドアが乱暴に叩かれた。
「すいませぇん、すいませぇん」
間延びした声が聞こえ、振り向くと金髪の若い男性が立ってこちらを覗き込んでいた。私は体を硬くする。受話器を持つ手が震えた。見ず知らずの男性に間近で声をかけられた驚きや怖さというより、私にとってすごく大切な時間を邪魔された怒りからくる震えだった。私はドアに顔を近づけて、思いきり若者を睨みつけた。

「うわっ」
「おいおい、ふかしやめろって」
「いや、マジだって」
「ビビりすぎだっつの」
「いやマジ、女が睨んでたんだって」
「おめぇウワサ信じすぎだし」
「じゃ、おまえらもやってみろよ」
「やめとくわ、オバケとか興味ねぇし」

だんだんと騒がしい声が遠ざかっていく。私の大切な時間が戻ってくる。私は受話器を握りしめ、ゆっくりと、ゆっくりと、錆びたボタンを押していく。

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