2012年6月1日

ひきこもりに悩む親だけでなく、治療家や学校の先生にもお勧め! 『社会的ひきこもり 終わらない思春期』

ひきこもりというのは奥が深い。相談を受けることも稀ならずあるが、どれも一筋縄ではいかない。明らかに統合失調症やうつ病などが関与していると思われるケースは、実は対応しやすい。先輩たちが築き上げた治療方法というレールがあるので、そこへ乗せるまでの苦労だけだ。しかし、原因が一見しただけでは分かりにくいひきこもりは、まずレールそのものを用意しないといけない。大学で学ぶ精神医学、あるいは最初に赴任した精神科救急病院では、そういうひきこもりケースに用意するべきレールなど教わらないし、もちろんレールへの乗せ方も習わない。見よう見まねといったって、見るべき先輩がいないのだ。そこで、本書のような本が非常に役に立つ。


これは研修医時代に精神科を志すと決めてから読んだ本。以下、印象的な部分を抜粋する。
引きこもりが心因性か統合失調症によるものかの見分け方。主治医が手紙を書いて、それを親から本人に手渡してもらう。手に取って読むようなら心因性、まったく興味を示さないなら統合失調症を疑う。
引きこもりに対して、「一方的な受容」は、一方的なお説教と同じくらい有害である。
我が子が引きこもりはじめたら、まずその理由を尋ねてみる。そして、少なくとも一度はじっくりと説得を試みて欲しい。そのような試みによって、本人がどんなことを悩んでいたのか明らかにされることもある。
引きこもりに対し周囲の人だけでも何らかの治療的対応へ向けて動き出す目安は、引きこもり開始から6ヶ月。それより短期間だと家族や周囲の過剰対応になりがち、一年くらいだと対応が遅れてしまう。
引きこもりに特効薬はない。一般的に、適切な対応がなされた場合で、立ち直りに短くても半年、平均して2-3年の時間が必要。「周囲がどれだけ待つことができるか」が、その後の経過を大きく左右する。
引きこもりにおいて、本人がある日突然、理由もなく活動的になったり意欲的になったりしても、「やっと目を覚ましてくれた」と手放し歓迎は危険。急激な変化は、しばしば精神疾患の始まりを意味していることがある。
手をかけずに、目をかけよ。
人は自分を愛する以上に、他人を愛することができない。いやできる、と主張する人は自覚のないナルシストである。家族に対する愛も同じ。
引きこもりでは、家庭こそが本人の唯一の居場所であり、そこで安心してくつろげることが治療の大前提。そのためには「怠け」と考えないこと。本人が感じている引け目、挫折感、劣等感は周囲の想像を絶するものである。
家族は「親の心子知らず」のように感じていても、本人はむしろ普通以上に家族と同じ価値観を共有している。親の説教や正論が通用しないのはこのためで、身にしみて判っていることをさらに諭されるのは誰だって不愉快。
引きこもりでは、家族は返事を強要せず、挨拶、声かけ、本人が応じるなら話題をふくらます。他愛ない世間話、趣味についてなどが良い。仕事や学校、同年代の友人や結婚話は本人の劣等感を刺激するので避けた方が無難。
会話が増えてくると、過去についての理不尽な非難が向けられることがあり、冷静でいられる親は少ない。しかし、とくかく言いたことは遮らず最後まで言わせる。本人がどのような思いで苦しんできたかを丁寧に聞くことに意味がある。
「いつも同じことをくどくど聞かされるので参ってしまう」とこぼす家族も少なくないが、そのような家族は、しばしば本人に言いたいことを充分に言わせていない。
「何が正しいか」ではなく本人が「どう感じてきたか」を充分に理解する。誤った記憶であっても、「記憶の供養」をする気持ちで付き合う。本当のコミュニケーションに入る前の儀式のようなものである。
注意すべきは「耳を傾けること」と「言いなりになること」はまったく違うということ。本人が腹立ちのあまり謝罪や賠償を要求してくることがあるが、こういう要求には原則として応じるべきではない。底なしの受容は本人に「呑みこまれる恐怖」を与えかねない。
受容には「底」や「枠組み」が必要で、それが破られる時には毅然として拒む態度が必要。親は「受容の姿勢」と同時に「受容の枠組み」を判りやすく本人に示すべきである。
一度はじめた働きかけは必ず続けることが重要。はじめは皆熱心だが、だんだん行われなくなることも少なくない。これは何もしないよりまだ悪い。本人にしてみれば改めて「お前を見捨てる」と宣言されるに等しい。
両親が全面的に関わることが治療上不可欠。両親以外の家族、親戚の関与は不要、あるいは有害。父の無関心も問題で、気まぐれに叱ったり激励したりで責務を果たしたつもりなことが多い。そのような関わりは治療の足を引っ張るだけ。
父は「母の教育方針が間違いだった」と主張し、母は「父の無関心が原因だ」と譲らない。これは最も避けるべき「犯人探し」の論理。とにかく、両親が夫婦として仲良くなること、そのことの治療的効果は絶大。
引きこもり治療という長期戦、消耗戦をやり遂げるには、両親それぞれが自分の世界をしっかり確保する必要がある。24時間、本人と向きあって過ごすようなやり方はまったく好ましくない。パートや趣味、社交などの時間を確保すべし。
母親が外に出かけることを非常に嫌がる事例もあるが、振り切ってでも出かけることで、本人の中に「母親という個人」があらためて認識される。自分とは異なる個人としての母親を認め、その事実を受け容れることは極めて重要。
会話が不自然になる、緊張して上手く話せないという親がいる。長年ひきこもって話さなかった子どもに対して、不自然にならないほうがどうかしている。不自然でも構わない。親が自分と話したがって努力していることが伝われば良い。
将来、仕事、結婚の話を持ち出すのは残酷。過去の楽しかったころの思い出話すら本人は忌避する。同年代のタレントの話題も少しずつ本人を傷つける。時事的、社会的な話題が無難で、そういう話題に興味ある引きこもり青年は多い。
小遣いは「充分に与える」「金額は必ず一定」「額については本人と相談して決定」。「欲しい時に欲しいだけ」は浪費か、逆に欲望減退につながり危険。消費活動も社会参加の一つの形、かつ本人が社会と接するための唯一の砦。
スキンシップの禁止。甘えの需要は言葉のレベルに留め、身体接触を伴う甘えの要求は、原則として退けなければならない。引きこもりの家庭内暴力を受け入れるのは間違い。
暴力の底にあるのは悲しみ。暴力をふるって自らも傷つき、自分を許せなくなり、そんな自分を育てたのは両親なのだと自責と他責の悪循環に陥る。
(筆者の)基本的立場は暴力の拒否。これは暴力との対決ではない。暴力を抑え込むための暴力も拒否するということ。
暴力の程度によっては警察への通報も考えるべき。これは「警察が何とかしてくれる」からではない。「家族は場合によっては警察を呼ぶほどの覚悟ができている」ということが理解されれば良い。
パソコンへの没頭で引きこもりが悪化するという心配も聞かれるが、対人関係が充実することはあっても、引きこもりが悪化することはほとんどない。傍目には逃避に見えても、社会との接点を回復するための窓口として役立っている。
本人に対して家庭の資産や借金などの経済状況を詳細に説明すること。「親はいつまでも生きてはいないよ」「うちはもう余分なお金はぜんぜんないよ」といった曖昧な脅し文句はただ有害なだけ。

いささか引用だらけになってしまったが、これだけ引用しても足りないくらい含蓄に富んだ本。ひきこもりに悩む両親だけでなく、治療家、それから学校の先生などにもお勧めな一冊。

4 件のコメント:

  1. この本は読んでいませんが、
    斎藤先生の公演には、
    去年の2月、行ったことがあります。

    冷静に分析はされていると思いますが…
    渦中にあるご本人や家族には
    なかなか敷居は高い本だと思います。

    ひきこもりの家族を支える家族を
    さらに支えるモノが必要だと痛切に感じます。

    家族に「こうありなさい」と指導しても
    混乱している家族には理解も実践もできないことのほうが大きいかと。

    医療とあるいは学校と「家族会」のようなものは
    つながることはできないのでしょうか…
    まずは家族が落ち着くことも大切ですよね…

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    1. >さいきみなみさん
      確かに、これを読んでその通りにやれというのは難しいでしょうね……。援助者が読んで、今後の援助につなげていくというのが良いのかもしれません。

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  2. 微妙な痛みとか、なるほどと思う事とか…
    以前家人某がこれに近い状態になったことがあるので。

    『底なしの受容』 は結構怖いもの(?)だったのですね。
    というか、とてもタイムリー!
    私が今見直し中の原稿、もしかして読んでます? みたいな。
    この部分は再検討してみますね。貴重な情報ありがとうございます!

    私は時々 ナルシストになってみたくなったりします。^^

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    1. >こばねさん
      この本は非常に読みごたえのある良い本でしたので、ぜひ!!

      原稿は、こっそりは見ていませんよ(笑)

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