2012年8月25日

恋の軽自動車

最初は、純粋に試乗目的だった。大学卒業を目前に控え、ペーパードライバーを卒業するべく、車を買おうと思ったのだ。もちろん、目当ては軽自動車だ。

午後三時。担当してくれた上原さんは、僕より少し年上っぽくて、外見は美人でも可愛い感じでもなかったけれど、物腰が凄く柔らかで、笑うと右の頬にエクボができて、左の目じりのホクロが妙に色っぽい人だった。僕は、そんな上原さんに、一目惚れしてしまったのだ。ショールームのイスに座ると、上原さんがパンフレットを広げる。上原さんから色々な説明を聞きながら、僕の視線の八割は上原さんに向けられていた。彼女の言葉は、どこかの訛りが混じっているようで、そこがまた可愛らしかった。

僕たちは、車の話以外でも盛り上がった。年齢が近かったからだろうか。上原さんは入社して三年目で、ようやく接客を一人で任されるようになったらしい。僕は、彼女が最初から最後まで一人で接客する初めての客ということだった。この時点で、僕は上原さんのために、ここで新車を買おうと決めていた。軽自動車なんて、どこで買っても同じだろう。そんな気持ちもあった。

結局、ショールームへ行った初日は試乗しなかった。上原さんから試乗しませんかと勧められたけれど、
「また、次回に」
そう言って、僕はショールームを出た。ペーパードライバーの僕にとって試乗は壁が高かったというのもある。それ以上に、また上原さんと会う機会をつくる、そんなやましい理由もあった。時間は、夕方五時を少しまわっていた。結局、二時間近く上原さんと話していたことになる。

僕は、何度も何度もショールームに足を運んだ。正直なところ、上原さんに会いに。少し長めに話をすることもあったし、ほんの少し立ち寄るだけのこともあった。車を見るだけのふりをしながら、横目で上原さんを見ていた。いつ見ても、上原さんのスーツ姿は新鮮だった。

ある日のこと。上司のような井川さんという男性と三人で話すことになった。僕が足しげく通うわりに、試乗もせず、上原さんと話してばかりいたからだろうか。井川さんは押しつけがましくなく、むしろ優しい大人の男という感じだった。とはいえ、僕はちょっと戸惑った。なんとなく、すぐに決めなくてはいけないというプレッシャーを受けたのだ。そんな僕の緊張を察してくれたのか、上原さんが、
「今日こそ、試乗しませんか」
そう言ってくれた。僕はその言葉に救われた気がした。
「あ、お願いします」
そう答えると、井川さんが立ち上がって、
「では、準備いたします」
と言って足早に立ち去った。上原さんは僕を見て、小声で、
「大丈夫ですか?」
とささやいた。そういえば上原さんは、僕がペーパードライバーということを知っていたのだ。

準備された車に乗りこんだ僕は、きっと不安げな顔をしていたのだと思う。井川さんと一緒に見送りに来た上原さんだったが、井川さんが、
「一緒に乗っといで」
と言ったので、上原さんが助手席に乗ってくれた。僕は、安心するような、緊張するような、嬉しいような、妙な気持ちだった。

ギアをドライブに入れて、僕は車を発進させた。最初はぎこちなかった運転も、徐々にスムーズになった。上原さんは、最初のうちは細かく指示を出してくれて、それからだんだんと、普通の会話になっていった。僕は、二人きりの空間が楽しくて、もっと一緒にいたいと思った。とはいえ、これはあくまでも試乗。決して、楽しいドライブではない。そう思うと、寂しい気がした。上原さんと、個人的に遊びに行きたかった。

ショールームが近づくにつれて、上原さんも僕も口数が減っていった。僕は、上原さんに何か気のきいたことを言って、なんとか二人で遊びに行く機会を作りたかった。そんなこと、できるだろうか。
ショールーム近くの信号は赤。上原さんは、もうほとんど無言だった。僕は、ギアをパーキングに入れた。もう、今しかないと思った。信号が青になった。
「上原さん」
そう呼んだ僕の声は、もしかしたら、少し大きかったかもしれない。上原さんが、驚いたように僕を見た。僕は前を向いたまま、ギアをドライブに入れた。それから、
「上原さんへの気持ちも、“D”にして良いですか」
我ながら、ベタベタというか、意味不明というか。告白にしてもキザというよりアホのレベル、もう顔から火が出る感じ。横目で上原さんを見ると、彼女の顔も赤かった。あとは、二人ともなにも言わなかった。

「どうでした」
笑顔で話しかける井川さんに、僕は作り笑いで、
「良かったです」
そう答えるのが精一杯だった。とにかく、この気まずい空間から早く逃れたかった。僕は足早にショールームを出た。歩道を歩いて少しすると、後ろから呼び止められた。振り向くと、上原さんが立っていた。上原さんは真剣な顔で、
「あの……、私、オートマ苦手で……」
それから、続けて少し小さな声で、
「一速からでも良いですか」
顔を耳まで真っ赤に染めた上原さんを見て、僕のブレーキはぶっ壊れた。

ショールームの入り口に立った井川さんが、笑顔でワイパーのように両手を振っていた。

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