2018年7月6日

「他山の石」として、あれこれ考えさせられる 『精神科病院で人生を終えるということ』


酷評します。

83歳、意思表示のできない寝たきり女性。この人に胃ろうを造ったというエピソードがある。家族に説明し、家族が希望したので、というのが理由かもしれないが、胃ろうを選択肢として提示して説明する時点で誤りではないかと思う。

「家族にすべての選択肢を提示するのが医師の義務であり、それをしないのは説明義務違反だ」という信念や、「家族の選択する権利を尊重しなければならない」という信念をもつ人もいるだろう。あるいは「のちの訴訟トラブルを予防するためにも、こういう説明と提示はしておく必要があるのです」というのなら、それも一つの信念だろう。そういう信念のもとでの行動であれば、受け容れられる。ところが、そんな俺の気持ちを逆なでするように、こんな記述が出てくる。
一応弁明しておきますが、僕が無理やり勧めたり、強く誘導したわけではありませんよ。
なんだそりゃ……。そんな弁明を、誰に対してしているんだよ。
「胃ろうを選んだのは僕ではありません、家族です」
こんな弁明を書く必要があるのだろうか?

こういう弁明をしながら胃ろうを提示することも、医師の説明義務であり、「家族の選択する権利を尊重」するためには必要なことなのだろうか?

俺はこの記述を読んで、「患者さんにとって良かれと思って選択肢を提示している」わけではなく、「まったく良いなんて思っていないことを選択肢として提示している」ように感じてしまった。ここで提示された家族が「しない」と選択したら、家族は「自分たちが見殺しにした、命を縮めた」という罪悪感を抱かないだろうか。

著者は俺より一学年上の精神科医(ほぼ同世代と言って良いだろう)である。本書を読みながら、研修医を終えて1年目、精神科病院で勤務していたときのことを思い出した。

ある日、中年の入院患者さんが心肺停止に陥った。当時50歳くらいの主治医が家族に連絡すると、到着まで心肺蘇生をして欲しいと希望された。到着見込みは40分後……。延々と心臓マッサージするも反応はまったくなし。ようやく家族が到着しても、主治医が蘇生中止を指示しないので、それから15分くらい胸を押し続けた。その間、家族はずっとその場にいた。

そして、ついに主治医が家族のそばまで行って耳打ちした。
「かれこれ50分以上、心臓マッサージをしていますが、反応がありません……」
そう説明するところまでは良かったが、次の一言に呆れた。
「どう……します?」
家族は涙でぐしょぐしょになった顔で、蘇生の継続を希望された。

主治医は数分おきに家族に確認した。
「どう……します?」

蘇生処置を続けるか中止するか。それを主治医から「どうします?」と聞かれて「やめます」と答えられる家族なんているのかよ!!

俺は腹の中で怒り狂いながら心マしていたが、何度目かの「どうします?」にとうとう我慢できず、
「先生、もう……」
と声をかけて首を横に振った。そして、そこでようやく中止が指示された。

こんなやりかたは間違っていると強く思った。蘇生処置を続けるかどうかは、家族ではなく医師が決めるべきだ。そうでないと、家族は「自分たちが諦めたから死んだ」と自責することにならないか。

あのときの思い出が甦り、やり場のない鬱憤がこのレビューの原動力になっている。


胃ろうや終末期医療について考えるとき、テーマははっきりと二つに分けられる。
一つは「いま考え話し合える『わたし』や『あなた』が、将来どうしたいか」。そしてもう一つは、「いま認知症などで意思表示ができず、今後も回復の見込みがない寝たきりの人への胃ろうなど、選択肢を提示すべきかも含めて、どう考えるか」だ。

ところが、この二つはゆるやかに話題がすり替わっていくことが多く、「認知症の人への胃ろうをどうすべきか」といったテーマで話していたはずなのに、最終的に「わたしたちは元気なうちに話し合っておかなければいけない」なんて結論で締められることがよくある。

いま目の前にいる患者さんの治療をどうするかと、将来わたしやあなたがどうありたいかとは、本来は分けて考えるべきなのだ。「将来わたしはこうありたい」から「この患者さんにもそうしてあげる」というのなら同時に語るのも良いだろうが、その考えは決して正しいわけではない。ともすれば「同意なき安楽死」という独善に走る恐れもある。

もちろん、わたしやあなたの「終末期医療をどうしたいか」を考えておくのは非常に大切だ。ただ、これまで意思表示をしてこず、いま意思表示ができない認知症状態にある人への終末期医療をどうしたら良いか、家族にどう提案すべきか、あるいは提案しないのかは、まったくの別問題なのだ。

胃ろうに限らず、家族への、
「○○すれば、あと数ヶ月は命が延びる」
という選択肢の提示は、その選択肢を選ばなかった人に、
「『あと数ヶ月』を奪い縮めた」
という強烈な罪悪感を植えつけないか、そんな危惧がある。

「医師はすべての選択肢を提示すべき」という考えや姿勢は否定しない。そう考える医師でも、おそらくそれぞれの知識や経験や人生観に基づき、選択肢の「重みづけ」をして提示しているはずだ。そういう重みづけなしで、すべてを等しく紹介し「お好きなものをどうぞ」という「丸投げ」をする医師もいるかもしれないが、同僚としても患者や家族としても近づきたくない。

ところで、「選択肢として胃ろうを提示しない」ことへの批判のうち極端なものに「神さまでもない医師が、その人の命を決める権利があるのか」というのがある。この言いかただと、提示されて選択を迫られる家族は「神さまの役目」を負わされることにならないのだろうか。家族には「神さまの役目を担う権利」があるのだろうか。これはまぁ、あくまでも「神さま云々」という「極端な批判」についての反論である。

そういう極端なものは別として、「医師が選択肢を提示しない」なんておかしい、という批判はたくさんある。

そのとおりかもしれない。

しかし、たとえば重度の認知症で寝たきりの人であっても、胃ろうは必ず家族に提示するという医師が、人工心肺や透析や、その他あらゆる「やれば命が延びる」ものを提示しているのかどうか(※人工心肺や透析などについて専門的な知識はないので、あくまでも「延命治療」の例え話と考えてください)。

胃ろうは提示するが、人工心肺までは提示しない、という場合、それは「医師が選択肢を提示しない」にはあたらないのだろうか。

家族の希望と納得が一番大切、という人もいる。では、意思表示できないほどの認知症で寝たきりの高齢者について、家族が、
「現代医学で可能な限り徹底的に、一秒でも長く延命する治療をして欲しい」
と希望した場合はどうだろう。胃ろうはもちろん、その他の治療(?)も、費用や機材のことを無視して、徹底的にやるべきなのだろうか。家族の希望にそって、何時間でも心肺蘇生をすべきなのだろうか。

「家族が希望しているのだからやるべきだ」
そう疑問なく考えて、徹底的にやってしまうのが一番楽かもしれない。しかし、おそらくたいていの医療者は疑問を抱いて葛藤する。
「コレもやるべきなのか?」「ココまで必要なのか?」

そしてここで、胃ろうの問題に立ち返る。

この空想の中で問題となるコレやココという治療(?)と、胃ろうとを分けるものは、いったい何だろう?

費用なのか、侵襲性なのか、手間暇なのか、「一般的かそうでないか」という曖昧な基準なのか。

ぐるぐると分からなくなってくる。

ホスピスや在宅医療やターミナルケアを専門にしているわけではない。だから、そういう分野を専門にされている先生に比べれば、経験数が圧倒的に少ない。その限られた経験のなかで、寝たきり認知症の人の家族に対して、「選択肢としての胃ろうを提示」したことはない。

もちろん、胃ろうについて、まったく話題に出さないかというとそういうわけではなく、
「胃ろうという方法もあるにはあるが、まったく勧めない」
という触れかたをする。

誤解されたくないので書いておくが、「胃ろうはすべて悪い、反対」という思想信条はまったくない。本人や家族を説得してでも胃ろうを造らせるほうが良いときだってあるだろうと思う。

さて、最後に「倫理」とはなにかについても頭を抱えてみる。

本書に、身寄りがおらず、意思表示もできない高齢患者さんの終末期治療について、病院内の倫理委員会で話し合いをして、「胃ろうは造らない」と決定した話が出てくる。もしもこの人に家族がいて、選択肢として胃ろうを提示して、希望があって胃ろうを造ったとする。これだと、命の分かれ目は家族の有無ということにならないか。それはそれで仕方のないことなのだろうか。

まったく同じ状態の人でも、家族がいれば胃ろうを造るかもしれず、家族のいない人は倫理委員会で造らないと決まる。その乖離はやむをえないこと、なのだろうか。院内の「倫理」委員会で胃ろうを「造らない」と決定するような状態の患者さんに、家族がいたら胃ろうを提案し、家族が希望すれば胃ろうを造る。ではこの「倫理委員会」の「倫理」とは、いったいなんなのだろうか。


こういうことをあれこれ考えさせる本ではあったが、あくまでも「他山の石」としてである。


ただし、本そのものは「精神科病院での看取り」という、これまで光の当たらなかったところを取りあげていて、一定の価値はあると思う。著者の臨床姿勢、特にレビュー冒頭に引用した弁明に強い反発を抱くので、それが影響して星は2つにしている。


それから、出版社には文句を書いておきたい。ネットで連載したものをまとめて、ちょっと加筆修正して書籍版3780円はとんでもなく高い。新書で1000円くらいの本である。

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