西洋ではそうらしいが、キリスト教とは縁の薄い日本で13階段ってのは変だと思っていたのだ。日本で日本式に階段つくるなら、やはり煩悩の数である108段でしょ。上りきったころには看守も死刑囚もクッタクタ。膝の悪い年配の看守なんか、途中で休憩したりして。「死刑執行で絞首台までつき添う役目を仰せつかったときから、皇潤はじめました」みたいな。それどころか、死刑囚の食事に皇潤がついているとか。最後の十数段、ヨイショヨイショの掛け声で、妙に意気投合する看守と死刑囚。現実逃避的に思わずピクニック気分にひたってしまう死刑囚、頂上で一声。
「生きているって素晴らしい!」
与太話はおいておいて。
冤罪の人が死刑になった後、真犯人が見つかったら、そいつは無条件で死刑。「刑のバランス」というようなことを映画の中で言っていた。それはなんとなく分かる。でもこれ、死刑以外で考えたら、ちょっと変なんだよね。
たとえば、学級で給食費がなくなったとする。で、先生が勘違いして、無実の子ノビタをゲンコツ。ところが数日後、真犯人ジャイアンが見つかったとして、そいつをゲンコツだけで済ませるってのは、ちょっとバランス良くない。無実なのに犯人扱いされて、そのうえゲンコツまでされたノビタとしては、ジャイアンはビンタくらいされて当然だろう、と俺としては思う。
この小さな例えを限りなく大きくしたのが、死刑の冤罪事件。冤罪の人が死刑になったあとに、真犯人が死刑になったからってバランスとれるか? それでバランスオッケー、均衡とれてますなんて言う奴とはお近づきになりたくないね。死刑というのは、バランスという言葉が腹立たしいくらい取り返しのつかない究極の方法なわけ。
俺は死刑存続には賛成だし、廃止には反対である。ただ、冤罪がありうるということを考えると、死刑判決、死刑執行には、これ以上にないというくらいの慎重さが必要だろうとは思う。
さて。
ストーリー自体は比較的骨太で良かったのだが……。
途中に出てくる寺のセットの安っぽさ、都合の良い展開、そういうものは邦画だから仕方がないと思うくらい、邦画の評価がもともと低い俺。だいたい、最後に植物状態の女が涙を流すところがうざい。良いシーンなんだけど、正直、映画をダメにしている。あそこは、厳しい現実を、厳しくて哀しい現実として描写すべきだろ。なにファンタジーに突入してんだよと。
今回強く思ったのが、役者どもの滑舌の悪さ。この映画で名演技かつ素晴らしい声を発揮していたのが山崎努。この人の声は、ささやきでも呟きでも、叫んでいてもよく通る。それに比べて、他の出演者のひどさったら……。映画の演技というのは、現実世界をそのまま写しとれば良いというわけではない。役者がリアリティを追及しても、観衆がリアルだと感じるとは限らないのだ。
この映画、死刑について考える機会にはならない。俺はというと、死刑について考えたかったから借りてみたのだ。観たあとは、結局、あまり死刑そのものについては考えなかった。
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