2013年9月20日

人魚の季節に晩餐を

「この島には、夏になると人魚がやってくる漁村があるんですよ」
彼女は、僕の反応をうかがうような表情でそう言った。そこら中から押し寄せてくる蝉の声が、ひときわ大きくなったような気がした。

二十代最後の夏、一人旅の途中だ。
毎年、蝉の声が聞こえ始めると僕はいてもたってもいられなくなって旅に出る。高校三年生の時に身についた悪癖のせいだが、恋人にも教えていないし、知ったら二度とキスなんてしてもらえなくなるだろう。僕自身はグルメだと思っているのだが、ゲテモノ趣味と言われても仕方がない。夏の一人旅はこれで十一回目になる。旅の目的地は例年どおり適当に選んだ。今回はなんとなく島にしてみた。

テント以外のキャンプ用具をリュックに詰めて、僕は船に乗り込んだ。わりと小ぶりな船ですんなりと着いたはいいものの、そこはタクシー乗り場なんてないような小さな港だった。船から降りた人たちは、皆それぞれ家族と思われる迎えの車に乗っている。バスもなさそうだ。
ネットで印刷した地図では民宿もそう遠くなかったはずだと思い、歩くことにしたのだが、地図にない小さな道が多くて行きつ戻りつするうちに自分の位置を見失ってしまった。途方に暮れかけたころ、白いワンピース姿の若い女性が声をかけてくれた。恥ずかしながら道に迷ったと言うと、「同じ方向だから」と民宿まで案内してくれることになった。
その道すがら、人魚がやってくるという漁村の話をしてくれたのだ。

「それで、どうすると思います?」
彼女はイタズラっぽい表情で、僕の顔を覗き込んだ。間近で見ると、どことなく初恋かつ初体験の子に似ていて胸が高鳴った。胸元から白い肌が見えた。
「どうするっていうと?」
「そのやってくる人魚を」
「え……と、みんなで人魚をつかまえるとか……?」
ふふ、と彼女は笑って、半分あたり、そう言った。
「つかまえて食べるんですかね? ってことは、その村の人たちって、もしかして不老不死? たしか、人魚の肉を食べたら不老不死になるって言いません?」
「あはっ」
と彼女はおかしそうに吹き出した。
「確かにそんな伝説ありますね」
「まぁ、ただの昔話みたいなものですよね。僕は嫌いじゃないけど、そういう話。それに実際に食べられるんなら食べてみたいな。不老不死には興味ないけど」
「じゃ何のために食べるの?」
「いや、単に人魚の味に興味があるってだけで」
半ば本気で言ったつもりだったが、彼女は本気にしていないのか、ふーんと言ったきり、また別の話をし始めた。細い路地を右に曲がり左に曲がりしながら僕は会話を楽しんだ。

三十分も歩いたろうか。少し先に海が見えた。テトラポッドもある。地図では分からなかったが、民宿までは意外に距離があったようだ。毎度のことながら、地図を読むのは下手だ。一人旅には向いていないのだろう、と苦笑する。
「もうすぐですよ」
夏の日差しにうたれすぎて、汗がシャツにはりついている。背中のリュックも重く感じる。さすがに歩き疲れて、返事もあいまいになってしまった。そんな僕の様子に気づいてか、
「ちょっと休憩しましょうか」
そう言うと、彼女はテトラポッドに上った。ワンピースが風に揺れ、白い柔らかそうな太ももが顕わになった。思わず見とれてしまった。テトラポッドに上るのは高校以来だ。潮風で汗がひいていくのが気持ちいい。彼女の後ろ姿が青い海に映える。しばらく、海と彼女を眺めていた。彼女はふと座り込み、テトラポッドの下の海面を覗き込み始めた。
「魚か何かいますか」
「人魚が」
そう言って、彼女はふふと笑った。そのなにげない雰囲気が、やっぱり初めての子に似ていて、僕は思わずくらくらしてしまった。彼女の近くに行こうとしたその時、
「おーい」
さっき通った路地のほうから男性の声が聞こえた。振り向くと、麦わら帽子をかぶった作業着姿の人が、小走りにこちらへ向かっていた。
「あぶねーぞー」
ひょっこらひょっこらと跳ねるように走る姿がおかしかった。
「知り合いですか?」
そう言って振り返ると、彼女がいなかった。落ちたのかもしれない。あっ、と声を出して、僕は慌ててテトラポッドの下を覗き込んだ。波のたてる音がテトラポッドに反射して不思議な響きをつくっていた。
「おい、あんた」
肩で息をしながら男性が言った。
「あぶねーから、こっちゃこい」
「この下に、若い女性が」
僕は海面を覗き込んだまま叫んだ。
「いーから! こっちゃこい!」
その声の剣幕に驚いて顔をあげると、
「死にとーないなら、こっちゃこい!」
男性の必死の顔と声にうながされて、僕はテトラポッドから海岸に降りた。

「人魚の季節にテトラポッドに乗る奴なんざ、久しぶりに見た」
男性がため息をつきながら首をふった。呆れたという様子がありありと分かる。
「あの……、人魚の季節って……?」
「あぁ、あいつらは夏になるとやってくんのよ、この村に。よその村や他の島に来たって話は聞かねぇから、きっとこの島のこの村だけなんだろうな」
「なんかあるんですか、この村に?」
「いや、なんもねぇ」
「だったら、なんで」
男性が右足のズボンの裾をたくし上げた。僕は思わず唾を飲み込んだ。男性の筋肉質なふくらはぎは何ヶ所もえぐれていて、瘢痕となってひきつれていた。人の歯形のような古い傷もあった。
「人をとって喰うために来るんだ」
「え……、人を……ですか?」
「それであいつら不老不死になれるってんだから、こっちゃたまったもんじゃねぇ」

テトラポッドの底のほうで、大きな魚が暴れるような、そんな音がした。
僕は背中のリュックを地面におろした。さっきの女性の顔や体を思い出すと同時に、高校三年生のときの「初めて」の子の記憶が甦ってくる。ゆっくりリュックを開けると、中の調理器具がぶつかり合って硬い響きをたてる。
まさか、人魚と食の好みが同じとは。
僕は男性の脂肪の少なそうな足を見ながら、リュックにしのばせたナイフにそっと手を伸ばした。

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