2018年7月12日

医療において「患者の没個性化」は必要なときがあるが、それがあらゆる場面に及び始めると危ない……

医療では、患者一人一人が異なる個性をもった個人であることを忘れてはならないが、それぞれを没個性化しなければやれないような治療も多々ある。

手術はその最たるもので、滅菌ドレープをかけて術野以外を見えなくするのは、もちろん清潔のためではあるが、同時に没個性化の手段の一つでもあるだろう。もしも技術が大いに進歩し、滅菌ドレープなしでも清潔が保たれるようになったとしても、おそらくほぼすべての外科医が「手術台に乗せた裸の人を切る」ことには抵抗を感じ、ドレープを用いて術野のみが見えるようにするはずだ。

この没個性化は患者だけに当てはまることではない。

引き続き手術を例にすると、もし私服で手術ができるようになっても、多くの外科医は「血液が付着するから」という理由以外でも、私服での手術に抵抗を感じるだろう。ガウンや白衣やスクラブは、医療者を没個性化する手段でもあるのだ。

余談ではあるが、精神科医には私服で仕事をする人たちも多い(自分も一時期だけ試してみた)。これは「『個性ある私』があなたに向き合う」という強烈なメッセージになりえるので、状況によってはマイナスになることもあるだろう。

さて、医療者は必要に迫られてとはいえ「患者を没個性化している」ことについて、ときどき考えるべきなのかもしれない。没個性化して挑む治療を意識すればこそ、それ以外の場面で個々人を尊重する意識も芽生えるというものだろう。
ただ漫然と「医療は個々人を尊重」とお題目を唱えていてはダメなのだ。

医療者による患者の没個性化が最悪のかたちで出たのが、大口病院事件の斜め上から飛び出した「寝たきり高齢者の実情を知ろう」問題だろう。敢えてきれいごとフレーズで言うなら、

「寝たきり高齢者」という人はいない。そこに寝ているのは「銀行員であった志村さん」であり「戦争寡婦で子ども3人を育てあげた加藤さん」であり「天涯孤独で生き抜いた高木さん」なのだ。

ところが、患者の没個性化があらゆる場面で無意識になってしまうと、このように個々人の名前がはぎとられてしまい、「寝たきり高齢者」「天井を見つめるだけ」「胃ろう」「医療費」「年金」などの単語を用いて一括りに語られることになるのではなかろうか。

大口病院事件で、安楽とは真逆の方法で尊厳を奪われながら殺された人たちについて、それぞれの人生が多少なりとも語られ、それらを知ったとき、それでも「この機会に寝たきり高齢者の実情を知ろう」なんて言えるのだろうか。

もし言えるとしたら、医療者としては避けられない「患者の没個性化」という病いが、末期状態にあるのではなかろうか。

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