2012年1月31日

イエスの生涯

まず最初に書いておくが、俺はクリスチャンではない。
イエスと、その周囲にいたペテロやイスカリオテのユダといった弟子たち、それからキリスト教そのものにわりと関心があるだけだ。そもそもは、マタイ受難曲の中の一曲である『主よ、憐れみたまえ』に魅せられて、ペテロという人に対しての興味が湧いたことから始まった。

なぜペテロに興味を持ったのかというと、彼がイエスを裏切ったからである。イスカリオテのユダがイエスを売ったことは非常に有名だが、ペテロを含めた他の弟子たちも裏切ったということは、世間的にはあまり知られていないのではないだろうか。ちなみに、ペテロは烈しくイエスを裏切りながらも、カトリック教会では初代教皇とみなされている。

「イスカリオテのユダこそが、弟子の中でイエスの最上の理解者であった」
キリスト教に関して調べていて、そんな一文をネットのどこかで見かけたことがある。そこには詳しい理由は書いておらず、ただその一文だけだったと記憶している。自分なりになぜだろうと考えた末の空想として、
「イエスは、自らが処刑されることこそが、神の教えを本格的に広める始まりとなりうると考え、ユダはそのイエスの考えを理解していたが故に、敢えてイエスを殉教に追い込むようなことをした」
そんなことを思ったが、この『イエスの生涯』を読む限りでは、実際には(事実は知りようがないにしても)、もっと深い憤りや苦悩があったようだ。



文中で、何度も何度も繰り返されるのが、イエスが現実に対して、「無力の人」であり、「役に立たぬ人」であり、「何もできぬ人」だったということと、ペテロをはじめとした弟子たちは決してイエスの理解者ではなかったし、「弱虫」で「ぐうたら」で「臆病」で「卑怯者」で「駄目人間」だった、ということである。そして、イエスは死して神格化され、弟子たちはイエスの死後、自らの命さえかえりみずにイエスの教えを広める心強き人間となる。

著者は言う。
私たちがもし聖書をイエス中心という普通の読み方をせず、弟子たちを主人公にして読むと、そのテーマはただ一つ------弱虫、卑怯者、駄目人間が、どのようにして強い信仰の人たりえたかということになるのだ。
これはあくまでも、クリスチャンであった遠藤周作が自身の研究に基づいて創りあげた本である。内容が正しいのか間違っているのか、そんなことを考えても仕方がない。ただ、クリスチャンでもない俺が、イエスやペテロやキリスト教への興味がもとで読み始めて、最初は歴史や人名や地名に苦手意識を感じつつ、読み進めるにつれて、無力で役立たずだったイエスの苦悩や、弱虫で卑怯者で駄目人間な弟子たちの心理に、徐々に引き込まれ、魂を揺さぶられる思いがしたことは確かである。

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