2012年8月3日

いじめ問題を考える 『十字架』

イジメについて考え発言する時、みんなはどこの視点に立っているのだろう。おそらく、多くは被害者か被害者の両親の立ち位置だろうと思う。でも、被害者がいるということは、加害者もいるわけで、加害者にも両親がいる。被害者・加害者双方に友人がいるだろうし、共通の知人も当然いるはずだ。それから担任、校長、教育長といった学校関係者もいる。この中の誰の目を通してイジメを見るかで、その様相は違ってくる。

自分の子どもが中学生になって、もしクラスでイジメがあっていたとしたら、子どもにはどの役割について欲しいだろうか。被害者になって欲しい親なんていないだろう。加害者にもなって欲しくない。「人を自殺に追いやるほどの加害者になるくらいなら、いっそ我が子が被害者になれば……」なんて思える親なんていない。理想で言えば、イジメをやめるように子ども同士で話し合いを呼びかけたり、あるいは大人に対して上手く働きかけたり、そんな子どもになって欲しいが、いささか高望みが過ぎるだろう。

テレビのイジメ特集を見ていて加害者に対する激しい怒りが沸くのは当然なのだが、そこで一歩だけ思考をわき道にそらして、自分の子どもが加害者に、あるいは傍観者になるかもしれない、と想像してみる。もっと先の将来、自分の子どもが教師になるなんてこともありうる。担任しているクラスでイジメがあって、我が子はそれに気づかずに、被害者は自殺してしまう、なんてこともないとは言い切れない。つまり、最近報道されているイジメ自殺に直接関わる人たちほぼ全ての立場に、もしかすると自分や家族が立たされるかもしれないということだ。

だから、加害者の立場とか人権とかを守ろうなんて、そういうことを言いたいわけでは決してない。ただ、当事者以外の我々はもっと想像力を逞しくしても良いんじゃないだろうか、ということを言いたいのだ。少し冷めた目で観察しなければ、イジメが起こるメカニズムはどうなっているのか、イジメられて自殺に追い込まれる状況とはどういう場合か、自殺しないで済むようなシステムはどういうものか、そういったものが見えてこない。

底なしの泥沼にかかる細い橋を皆で渡っているとしよう。イジメっ子たちが誰かを追い詰めた結果、その誰かは橋から落ちて溺れ死んでしまった。非当事者の我々が取り組むべきは、顔も声も知らないその加害者を天誅とばかりに泥沼に突き落とすことではない。それはもっと身近な人たちがやることだ。それより我々は、どこかで泥沼に落ちようとしている人たちがどうすれば落ちないで済むのか、あるいは仮に落ちたり落とされたりしても溺れ死なずに済むためには何が必要なのか、そういうことを考えることじゃないだろうか。

十字架

イジメが社会問題として沸点に達している今、自分なりに色々考えてツイッターやブログで受信・発信してきた。その流れというか勢いというか、買ったまま待機していた本書を手にとった。重松清さんの本はほとんど全て読んでいるが、これも良かった。多くの人に読んでもらいたい一冊。

2 件のコメント:

  1. CIao Willwayさん
    重松清さんの視点が大好きなので、彼がいじめをどう見ているか、非常に興味があります
    早く日本に行って購入したい!! 笑

    いじめって、子供の心の中だけでなく
    私たち人間の誰でも多かれ少なかれ持ってる一面ではないのでしょうかね?
    だから「いじめ」を考える時、誰もがいじめられた子が気の毒だと言うことプラス、何か訳のわからない重いものを体内に感じるのではないか?と
    だからこんなに、「いじめ」に相対することが難しいのではないか?と

    WIllwayさんの記事をよみながら 
    、ふとそんなこと思いました

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    1. >junkoさん
      この本はお勧めです。それから、重松清さんがお好きなら、森達也という映像作家の本もけっこう好みに合うかもしれません。どちらも優しい視点で、かつ「加害者側に立つこともあるかもしれない」ということを常に忘れない人ですね。

      イジメの加害者に絶対にならないと言いきれる人なんて、いないんじゃないかなぁと思います。

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