2015年3月2日

靄の中のバス停

数十メートル先を行くバスの後姿を見ながら、俺は思わず舌打ちした。今のバスを逃したら、次のバスまで二時間半以上待たなくちゃいけない。なんだってんだ、こんちくしょう、このド田舎バス停め。時刻表のポールを蹴っ飛ばすと、爪先が痛くて顔をしかめた。ため息をつきながらベンチに座った。見上げれば、きれいな青空にパンのような雲がいくつか浮かんでいて、春の終わりの日差しが気持ち良い。先ほどまでの苛立ちも少し治まり、小さくため息をついて伸びをした。少しぬるめの風が頬を撫でた。

はっと目が覚めると、動き出したばかりのバスの背中が見えた。追いかけようかと思ったが、バスはぐんぐんとスピードを上げて走り去っていく。あーもう。自分のバカさを呪いたくなる。時刻表によると、次のバスが来るまで四時間近くある。あまりの待ち時間の長さにうんざりする、と同時に腹が鳴った。腕時計を見ると、もう一時前だ。どこかでメシでもと思いあたりを見渡しても、それらしき建物なんてどこにもない。ベンチに座りなおしてどうしたものかと考えていると、見知らぬ中年女性が近づいてきた。
「どうかされました?」
「いや、お恥ずかしい話なんですが」
俺は女性に、うっかりバスに乗り遅れたこと、それから腹が減ったけれど近くに店がないことなどを話した。女性は優しげに、そうですか、と言って、石釜工房と書かれた紙袋からパンを二つ取り出した。
「よかったらどうぞ」
見知らぬ女性から食べ物をもらって良いものかどうか。俺はほんの少しだけ迷ったが、空腹には勝てなかった。女性は俺が食べ終えるのを見届けると、そそくさと帰っていってしまった。
焼きそばパンのタマネギが奥歯の間に挟まっている。舌をもぞもぞさせたり、指でつかんでみようとしたりしたがなかなか取れない。口をすぼめて吸引してみる。ダメだ、取れない。気持ち悪い。舌をまた動かす、指を入れる、吸引してみる、舌を……。

カクンと頭の落ちる感覚で目を覚ますと、バスがもうずっと先を走っていた。あぁ、行ってしまった。時刻表を見ると、どうやらこれが最終便のようだ。一日に三回もバスに乗り過ごすなんて……。ここで野宿はさすがに風邪ひきそうだし、なによりまたちょっと腹が減ってきている。困ったな……、と途方に暮れていると、学校帰りだろうか、制服を着た少年が声をかけてきた。
「どうしたの?」
いきなりの馴れ馴れしい言葉遣いに思わずムッとしかけたが、困っているのはこちらだし、それを助けようとしてくれているのだから、本当はきっと良い子なのだろう。
「いや、実はね」
俺はバスに三回も乗り遅れたことを正直に話し、しかも泊まる場所も食べるものもないのだということを説明した。すると少年は、
「じゃ、うちにおいでよ」
そう屈託なく笑って、すたすたと先を歩き始めた。少し戸惑いはしたが、ここで野宿するわけにもいかず、なにより空腹がどんどん増していく。背に腹はかえられない。俺は少年のあとについて行くことにした。

「ただいまぁ」
少年が元気よく声をあげる。
「お邪魔します」
俺はおずおずと家に上がった。畳敷きの居間にはちゃぶ台があり、その上には石釜工房と書かれた紙袋が置いてある。台所から出てきた女性が、エプロンで手を拭きながら、
「ささ、座って座って」
そう言って俺に座布団を勧め、湯飲みに茶を注いだ。俺は奥歯に挟まったタマネギを舌でもぞもぞしたり、指を入れてつかもうとしたり、吸引したりしながら考えた。なんか変だぞ。

「お母さん。おじいちゃん、今日もバス停で寝てたよ」
「うん、知ってる、お昼ご飯もいつものようにあげたから。今日はパンよ」
「お父さんの運転するバスに乗りたがるのって、何か意味があるのかな」
「どうだろうねぇ、それは本人のみぞ……、いや本人にも分かってないかも」
そう言って笑いあう二人を見ながら、俺はなんだか居心地の良いところだなぁと思うのだが、はて、どうしてこんなところにいるのだか。なにはともあれ、明日こそは早起きしてバス停に行こう。妙に手になじむ湯飲みを傾けて、俺はグイと飲み干した。

IMG_1057

9 件のコメント:

  1. 4時間に2本だと・・・御殿場線を上回るいかれっぷりだ。
    それよりもなぜこういったダイヤで動いているバス停で、1~2度はわかるが3度も主体が乗り過ごしたのかが気になります。
    あと一種偏執的な口腔内につまった玉ねぎへの描写が気になります。
    総評すると...気になります。
    お話の出だしとして、優秀だとおもいます。
    おもしろくなりそうです。

    返信削除
    返信
    1. >匿名2015年3月2日 19:36さん
      この小説は自分で撮った写真を題材に書いているのですが、歯に挟まったものに対する執着というか、不快感というか、そのあたりは実体験です(笑)

      削除
  2. 教科書に載せたい話ですね。

    返信削除
    返信
    1. >匿名2015年3月2日 20:38さん
      国語の小話あたりで(笑)

      削除
  3. はじめましてー。上の匿名さん。
    いやいや。
    教科書ってw
    これ、主人公完全に口腔内の行動描写と異常な忘我状態から、精神障害または神経疾患きちゃってるはずなので、面白くなりそうだとは言ったものの教科書にのっけて高等部などの教科書に乗せる内容にはならないはずです。
    むしろ参考として専門職用の教材?
    とおもいますです。はい。
    完全にフィクションではないはずですので。

    返信削除
    返信
    1. >匿名2015年3月2日 21:50さん
      完全にフィクションです(笑) でも上にも書いた通り、歯に挟まったのは気になって仕方ないのは実話です(笑)

      削除
  4. あれ、なかなか取れないんですよねー。
    にしても描写がアレな感じでGoodです。
    さすがです。
    僕ならこの後少年つながりで、バット振ってみたらおもいのほかのめり込んで変な外人とか出てきて友情あたためたりスポコンに持っていきます。
    いや。それやったら台無しになる可能性あるんですがw

    返信削除
    返信
    1. >匿名2015年3月3日 12:55さん
      バット振り出して外人が出てくると、とんでもない方向性のものになってしまいそうです(笑)

      削除
  5. いやいや。
    それがあってこそいちはさんの情景描写が生きてくるんですよ。
    振り回すバット...じっとりとした少年にかしてもらったピティピティのユニフォーム...
    震える指先...
    振り回す腕が思い描いたように軌道を描かないもどかしさ...
    稲妻走り、運動経験者特有の頭の中でなにか細いゴムのようなものがちぎれた感覚...
    これぞスポコンです。
    いろいろ高まってきました。

    返信削除

コメントへの返信を一時中止しています。
一部エントリでコメント欄に素晴らしいご意見をいただいており、閲覧者の参考にもなると思われるため、コメント欄そのものは残しております。
また、いただいたコメントはすべて読んでおります。