2011年12月4日

認知症の彼女は、なぜ泣いたのか

ずいぶん前、『精神科救急24時』というテレビを観た。その中で、認知症の女性をカメラが追っていた。彼女は、病院に入院した後、
「子どもが会社でいじめられているから、今からそこに行かなきゃならない」
というようなことを言っていた。

テレビでは、これを「被害妄想」と表現されていた。彼女は入院当初は毎日のように、その被害妄想を理由に病院を出たがった。そんな彼女も、次第に病院生活に慣れていったようだ。しばらくして、彼女は外泊できることになった。待ちに待った外泊だというのに、いざ外泊の直前になって彼女は、
「子どもたちが死んでしまった」
と言って泣き出した。

あれ?
出たかったんじゃないの?

と思う人が多いかもしれないが、俺は彼女のこの反応にあまり違和感をおぼえない。認知症の人は、「遠い過去の記憶を保持しながら、今この瞬間だけを生きる人」だ。「今この瞬間だけを生きる」とは、目の前のことだけを認知する、ということ。「現在の状況」と「近い過去」との整合性を気にしなくなるのが認知症だ。

そういう目で、彼女の最初の「被害妄想」について考えてみる。彼女は見ず知らずの病院に入院させられた。もし以前に入院したことのある病院であっても、「瞬間人」である彼女にとっては“初めての場所”だ。不安だから帰りたくて仕方がない。しかし、どんなに帰ると言っても、誰も話を聞いてくれない。そこで、彼女の中で他人を納得させられる言い訳としてとっさに浮かんだのが、「子どもたちがいじめられているから帰らなければならない」だったのではないだろうか。

彼女は「瞬間人」であるから、数分から数十分後には、「言い訳として」という部分が消去されてしまう。そして、彼女の中では「子どもたちがいじめられている」ということが事実になる。現実との整合性は無視され、彼女は真剣に子どもたちを心配することになる。

同じように、「子どもたちが死んでしまった」と泣く彼女の心に寄り添ってみる。「瞬間人」の彼女にとって、病院は不満はあれども「今いる場所」だ。それに対して、病院の外は徐々に未知の世界になりつつある。そんな状況で、外に出ることを許されれば不安になる。「いやいや入院させられた」という記憶がない彼女にとって、外泊は“許可”でなく“命令”に近いのかもしれない。不安だらけの外の世界に出なくて済む理由は?

「娘が迎えに来ない」

なぜ来ない? 

とっさに、ふと、何気なく言い訳が浮かぶ。

娘が死んだから。

そして、言い訳という部分は消え、娘が死んだことが彼女の中で事実になる。だから彼女は泣けて仕方がない。

ところで、死んだはずの娘だが、現実には生きているので迎えに来た。さっきまで泣いていた彼女は、ケロッとした顔で「来るの遅いわ」と悪態をついていたが、画面を通してほんの少しだけ彼女の気恥ずかしさが感じられた。「来るの遅いわ」と、彼女がうつむきながら小声でボソッと言ったからだ。決して、娘を責めるような大声ではなかった。「瞬間人」である認知症患者ではあるが、娘の姿を見た時、彼女はまだ「死んだ娘のために泣いていた瞬間」を持っていたのではなかろうか。そして、いずれは「泣いていた瞬間」も彼女の手を離れ、「来るの遅いわ」という怒りだけに置き換わるのかもしれない。

不安を打ち消したり、行動を正当化したりするために、言い訳を考えることは健常な人でも行うことである。
「会社に行きたくない → 親戚が危篤」
といった具合に。認知症の人の思考もここまでは同じなのだが、「言い訳として思いついた」という事実が消去されるところが違うのではなかろうか。

認知症の人の妄想を聞いた時、「この妄想は、もともと何に対する言い訳だったのだろう?」と考えてみると、少しだけ気持ちが分かるかもしれない。

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