2012年7月17日

「嫌なことなんて忘れてしまったら良いじゃん」

「嫌なことなんて忘れてしまったら良いじゃん」
小学校五年生の時に近所に引っ越してきたアリ君は、何か嫌なことがあると、そう言っていつもヘラヘラ笑っていた。

アリ君は、近所の上田さんという老夫婦のところに、母親と二人で引っ越してきた。どうやら、上田さんの孫になるようで、アリ君は「有田」という苗字からきたあだ名。アリ君は都会から引っ越してきていて、標準語みたいな喋り方をして、サッカーが得意で、勉強もまぁまぁできて、そしてなにより、明るかった。

アリ君が転校してきたことで、クラスは十四人から十五人になった。田舎の小学校に、アリ君は簡単に馴染んだ。クラスのリーダー格といった感じになるのも早かった。だけど、アリ君がいないところで、時どき、
「アリ君ちって、リコンしたんだって」
という話題が出た。五年生にとって、リコンという言葉には、怖さと、不気味さと、切なさと、それから貧しさというイメージがあった。自分の親がリコンになったらどうしよう。そう考えると、僕は不安でたまらなかった。だから、アリ君がいつも明るいことが不思議だった。

ある日の朝。教室でアリ君が、いつものようにヘラヘラしながら、
「今日から、俺、上田になるけぇ」
ちょっと違和感のある方言でそう言った。詳しい事情は分からないけれど、きっとリコンが関係している。誰も口には出さなかったが、みんな、そう思ったはずだ。

アリ君は、苗字は上田になったけれど、あだ名はアリ君のままだった。きっと、あだ名を変えることに、みんな抵抗があったのだと思う。上田君とか下の名前でカズキ君とかに呼び方を変えるのは、親がリコンしたという現実をアリ君に突き付けるような、そんな感じがした。

クラスの誰も知らない、誰にも話したことのない出来事がある。

アリ君の家に、回覧板だったか何だったか、用事を頼まれて行ったことがある。僕が玄関の呼び鈴を押そうとすると、中からアリ君の声が聞こえてきた。学校では聞いたこともないような、アリ君の怒ったような、いや、泣いているような、震えて、甲高い声。
「強くないって」
アリ君はそう言って、その後は明らかに泣き出した。上田のじいさんが、アリ君をなぐさめていた。
「お母ちゃんは、カズキは強いけぇ大丈夫って、そう思っとるんよ」
「強くないって」
アリ君は、同じ言葉を何回も繰り返して泣いていた。
「ちょっとの間じゃ。お母さん、また絶対に帰ってくるけぇ」
立ち聞きは良くないと思ったが、僕は動くのが怖くて黙って立っていた。
「お母さんも、どうせ捨てるんでしょ」
アリ君のその言葉に、リコンという文字が重なった。
「俺、強いわけじゃないもん。俺が泣いたら、お母さんも泣くもん。お母さん困るもん」
家の中から、大人の男の人が鼻をすするような音が聞こえた。きっと、上田のじいさんも泣いているのだ。そのことに気づいて、ようやく体が動いた。僕は、走って家に帰った。

翌日、何ごともなかったかのように、アリ君はヘラヘラ笑っていた。授業参観の時も、運動会の時も、何も感じないかのようにヘラヘラと。アリ君は、本当は物凄く寂しくて辛かったと思う。お母さんを泣かさないように、困らせないように、という理由で笑うアリ君は、僕から見たら、やっぱり強くて、不思議な存在だった。

あれから二十四年。三十五歳の僕たちは同窓会を開いた。十人しか集まらなかった。その中にアリ君はいなかった。噂では、あまり広くない借家に住んでいるらしい。奥さんと子ども三人と、それからアリ君のお母さんの六人暮らし。嫁姑問題があったり、子育てが大変だったりで、いろいろと苦労しているらしい。みんなは口々に、
「嫁と姑の板挟みって大変だねぇ」
と気の毒そうに話していた。しかし、あの日、アリ君の泣き声を聞いてしまった僕は、アリ君が今すごく幸せなはずだと、そう確信している。

2 件のコメント:

  1. Ciao Willwayさん
    偶然私も子供のころの級友の話を書いたばかり
    アリ君きっと幸せだと思います ^^

    私もさ
    「強くない」と泣いたことがあるのを、ふと思い出しました 汗;
    周りから強いと思われてしまった子の辛さってあるんですよね
    本人強くもなんともなくて
    ただ頑張ってるだけ、一生懸命背伸びしてるんだけどさ、
    その背伸びの部分をわかってくれる人がいると救われるんですよね...笑

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    1. >junkoさん
      俺も「悩みがなさそう」なんてよく言われたものです。そんな奴おるかいな、と内心は思いつつ、「そうだろ~」と笑っていました。

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