2013年4月24日

霊は存在するが、霊感なんてものはない。

霊は存在するが、「霊感」なんてものはない。あるのは、霊を知覚化する装置(人、場所、モノ)である。

霊の存在を真っ向から検証しようとしても不可能なので、ここでは霊が存在するものとして話を進める。


「霊の知覚化説」は、病院のエコーやCTで例えると分かりやすいかもしれない。肉眼では見えないものを、ああいった装置を使って見えるようにする。それで全てかというとそうではなく、エコーやCTの写真は、人によって写っているものの見え方が違う。医師はそこに胎児や腎臓や肝臓や脳が「みえる」し、そこに存在する病気を見つけることさえできる。一般の人は「みえかた」に違いが出てくるし、人によってはそれが体の中を写していることさえ分からない。

「霊の知覚化」説は、個々人に霊感があったりなかったりするわけではなく、エコーやCTのように、霊を知覚化させる人や場所やモノがあるという説だ。知覚化された霊は、ほぼ等しく全員に知覚されている。視覚、聴覚、触覚、嗅覚、ときには味覚、そしてなんとなく感じる第六感。知覚化された霊の性別や年齢、訴えたいことまで分かる人が時どきいて、そういう人たちが「霊感がある」と言われているに過ぎない。逆に、エコー写真を見ても、それがなんだかサッパリ分からない人がいるように、霊を知覚してもまったくなんとも思わない人は「霊感がない」と言われているのだ。

「この人といると、不気味な体験をすることが多い」
「あの場所には、霊が集まっている」
「このカメラは、霊が写りやすい」
これらは、実はすべて霊を知覚化しやすい装置の話なのだ。

一霊、もとい一例をあげる。大学時代から仲の良い後輩にシンジという男がいる。彼が浪人時代、遠方の親戚が亡くなった。受験勉強の真っただ中だった彼は葬儀には出席できず、後日、旅行がてら親戚のところへ墓参りに行った。さすがに喪服は大げさなので、彼は黒いジャケットを着て向かった。親戚の家から帰るとき、親戚の一人がジャケットを脱いで帰れと言う。墓参りのあとだから、霊がついてくるというのだ。田舎の迷信だと思ったシンジは、その助言を聞き流して帰路についた。彼がそのジャケットを着て帰省するとき、高速バスのチケット売り場では、
「二名様ですね」
と言われた。
「え?」
と振り返ると誰もいない。窓口係も「あれ?」という顔をしている。その後に入ったマクドナルドでは、注文の後に、
「お連れの方もどうぞ」
と言われ、やはり、
「え?」
と思って振り返ったが誰もおらず、店員も慌てた様子で「失礼しました」と謝った。さらに、高速バスを降りてタクシーに乗り込み行き先を告げると、なぜか運転手が車を出そうとしないので、不審に思ったシンジが改めて行き先を言うと、運転手が、
「お連れの方は乗られないんですか?」
と聞いてきたという。

大学時代に聞いたこの話を、なんとなく思い返していて、
「窓口係、店員、タクシー運転手が三人とも霊感を持っていた」
と解釈するのはあまりにも無理がありすぎると思って考えついたのが、霊の知覚化説である。この出来事の場合、知覚化装置はシンジではなく、ジャケットの方であろう。

ま、与太話である。

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