2012年3月13日

「思春期を考える」ことについて


「精神科」「心療内科」を標榜しておいて、「中井久夫」を知らなければ、それはモグリの精神科医である。それくらいに中井先生は精神科の中で高名であり、俺は心底尊敬している。もしあなたが精神科か心療内科に通っていて、主治医が中井先生を知らないようであれば、そんな病院は早々に替わるほうが良いだろう。そう思うくらいに。

さて、そんな中井先生の論文や寄稿を集めたものが中井久夫コレクション。全4巻から成り、本書は3巻目にあたる。非医療従事者が読んでも十二分に理解できる内容であるが、決して内容が浅いわけではなく、むしろ奥深い。こんな奥深い話を、これほど平易に書けるというところが中井先生の凄いところだと思う。

以下、印象深かった部分を引用する。
大衆大学は、酷薄な言い方をすれば失業者プールでもありうる。親からいえば、中学やハイスクールを出てぶらぶらしているくらいなら、大学へ入れて学歴をつけておけば景気が回復したときに社会的地位の上昇が期待できる。一方政府からいえば、親の負担で何百万人かの青年たちを大学に入れておけば、失業手当も払わず社会不安も興さずにすむ。
治ってゆく過程を医者がひとり占めしてはならない。
些細な励ましが、もうすでに中毒量であることもある(そもそも励ましは、余力のある人にはよくても、力を出し切ってそれでもなお自らに鞭打ち、焦っている人には、ただ辛いだけである。そして患者は一般にはそういう人である)。本人を見捨てず、そっと見守っている、という感じが微かに伝わるのが一番良いことが多い。
治るとは病気になる前の状態に戻ることではない。それはいつ発病するか分からない危うい状況である(精神科の病気に限らないことだ)。治った時は、たとえ以前より見栄えがしなくとも、以前より安定度の高い、余裕の大きい状況でなければならない。 
治るとは元の生き方に戻ることではない。せっかく病気になったのだから、これを機会に前より余裕のある生き方にであれれば再発は遠のいていく。しかし、60代、70代の人にそういうのは酷であり、高齢まで一つの生き方を貫けた強さ、その生き方の適合性を買って、そのままのコースを歩んでもらうことも多い。
「薬は最初ですから軽いので、効かなくてもがっかりせず、効きすぎてもびっくりしないように。何日かの疲れがどっと出てくるはずだし、それは眠りの形で流してしまうのが良いです」。薬については「低めにいうこと」と「まだいろいろあります」ということの2点がポイントである。軽症の時は「効くのは二週間たって」とは私は言わない。それより早く効くことがけっこうある。プラシーボ効果は、処方箋を手渡す時の言葉と話調による。 
新改築は面積が広くなるのが普通で、うつ病になりやすい女性は、今までと同じ丁寧さで広くなった新しい家を掃除しようとして、それだけでも結構まいるものである。
「人間はシングルパンチでは参らないけれども、姿勢を立て直さないうちに次の波がきたらきついですね」ということはたいてい事実に即しているし、この言葉は幾分患者の救いになる。
(うつ病患者に対して)ズバリと「病気である」と告げることが自責感の軽減になる。
「治る途中でそれまでの遅れを取り戻そうと倍働くようなヤマ気は出さないでください」
家族は予後をよく聞くが、「患者と医者と家族の呼吸が合うか合わないかで、予後は大幅に変わってくる。呼吸が合わないと、治るものも治らないのでよろしくご協力をお願いします」ということを中心にして述べる。 
「黙って座ればぴたりと当る」という魔術師めいた印象はできるだけ与えないほうが良い。医者というものはそう人の心を分かるものではないのだ、ということを伝達するのが大事である。医者といえどもなかなか分からない、しかし耳を傾けようとする姿勢を示しているからこそ、患者は自分の家庭の内情や心の秘密を話してくれるのである。
うつ病患者には「君の気持ちが分かる分かる」と言ってはならないので、「うつ病患者の苦しみはうつ病になった人でないと分からない、いや、当人でないと分からない」というほうがずっと分かられたような気がするものである。
うつ病患者が少し元気になるとさっそく何かしたくなることについて。これは、長い間小遣いをもらえなかった人にちょっと臨時収入が入った時の心理に似ているらしい。つまらないものを買って、いつの間にか使ってしまっている。ちょっと会社へ出てみたり、ジョギングを始めたり、習い事をしたりである。「ここでぐっと我慢して、少し元手が増えると、むしろむだ遣いせずに、貯金ができてきます」という説明は、わりと通じるようである。
「効いた薬は損も得もなく眠くなるから、安心して、翌日はぐっすりと休んでください」
躁病者は、現在や未来を語るときには観念奔逸的であるが、過去を語る時はぐっとまとまってくる。回想するという行為が、前へ前へ行こうとする思考を束の間でも転導するのかもしれないし、躁うつ病者は本来は過去志向的であって、躁状態はいわば首だけねじ曲げて前を見ているようなものであるから、その無理を一瞬は直しているのだという考察もあるだろう。
アルコール依存症患者が奇装をしたりヒゲを伸ばしたりすることも少なくないが、家族には、これは良徴であることを告げる。「ヒゲを剃れ」という周囲の圧力に抗する能力と酒を飲まずにいられる能力とは並行するようだ。まちがっても母親や妻が剃らせたりしないように言う。これは端的な「去勢」に近い意味を持ちうる。
アルコール依存症は、酒を飲むことが病気なのではない。止められないのが病気なのである。

前2巻含めて、精神科に携わる人のみならず、非医療従事者にもお勧めの本であるが、後半はちょっと興味がないと辛い部分があった。

2 件のコメント:

  1. > (うつ病患者に対して)ズバリと「病気である」と告げることが自責感の軽減になる。

    自分の初診のときを思い出しました。
    先生が、「それはうつ病です。治りますよ」ときっぱり言ってくださったことで、随分と気が軽くなったのを、20年経った今でも克明に覚えています。

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    1. >匿名2014年5月19日 10:02さん
      俺も患者さんから、
      「あの時に治ると言って、先生がニコッと笑ってくれたのが救いになった」
      と言われたことがあります。精神科医に限らず、患者さんにとっての一言を大切にしたいです。

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