2013年1月10日

体罰は、愛のムチになりうるか

高校生が、教師からの体罰を苦にして自殺したことを受けて、体罰についての考えを書いてみたい。

まず、体罰が必要な場面があるかどうかに関してだが、各論はともかくとして、総論としてはあるだろう。ただし、何でもかんでも叩いて言うことを聞かせるというのは、これは体罰ではなく、暴力による強制・矯正である。体罰とは伝家の宝刀のようなもので、本当に大切な場面で出すから価値も効果もある。決して見せびらかすものではないし、まして脅すために鞘から抜いてみせるなんてのは論外だ。誰だって日常的に宝刀を持ち出されたらうんざりするし、そこにありがたみなんてない。

体罰の質についてだが、体罰に必要なのは痛みそのものではない。「いつも護ってくれるあの人が叩くほど怒っている」という衝撃のほうが大切なんだと思う。だから日常的に体罰をしても意味はないし、痛ければ痛いほど効果があるわけでもない。ここぞという時であれば、痛くない体罰でも効果があるし、体罰なんかに頼らなくても充分に何かを感じさせる方法はある。

例えば、子どもの万引きが見つかったとき。日頃は威厳のある父親が、店長に泣きながら土下座して謝っていたら、その姿を見た衝撃からくる教育効果は高い。逆に普段からすぐ叩くような父親が、店長の前で子どもを殴って「もうさせません」と言ったところで、それが再犯防止につながるかと考えると怪しい。ここで思い出すのが、機動戦士ガンダムのアムロ・レイがホワイトベース艦長のブライトから殴られたシーンである。以下、その場面。

アムロが出撃を拒否した時、艦長のブライト自らアムロの所へ行く。そして、アムロの態度に怒って殴る。
アムロ「殴ったね」
ブライト「殴って何故悪いか。貴様はいい。そうして喚いていればすむのだからな」
アムロ「僕がそんなに安っぽい人間ですか」
その言葉を受けて、さらにブライトが殴る。
アムロ「二度もぶった。オヤジにもぶたれたことないのに」
ブライト「当たり前だ。殴られもせずに一人前になった奴がどこにいるものか」
アムロ「もうやらないからな。誰が二度とガンダムに乗ってやるもんか」
ブライト「俺はそれだけの素質があれば、シャアを越えられる奴だと思ったが……。残念だよ」
ブライトが出て行く。
アムロ「ブライトさん……」

この後、アムロは成長していく。アムロは父親にも殴られたことがなかったわけだが、もしアムロが荒くれ体罰オヤジの息子で日常的に殴られていたら、
「ぶったな! ブライトさんもぶつんだな! 大人なんてみんな一緒だ!」
となってしまい、教育効果はゼロに近く、その後の成長も望めなかっただろう。

ただし、ブライトが顔を殴ったことに関しては賛成できない。体罰などないのが一番なのは確かだが、やむを得ず体罰を加えるにしても、重要なこととして、顔を叩くのは絶対にダメだと思っておく方が良い。顔は感情の表現器官で、顔を叩くのは相手の感情、ひいては人格までも否定していると受け取られかねず、そうなると心に傷をつけたり、ただ反発心だけを感じさせたりすることになる。今回自殺した高校生は顔が腫れていたという話だが、それはつまり、教師がこの生徒の心の大切な部分を傷つけていたということだ。

話は少しそれるが、DV加害者は顔を叩く効果を無意識にでも分かっているから、殴ることによる関係性を維持していける。敢えて相手の人格を否定し、自尊心を傷つけることで、相手の自己価値観を落とし、自分に隷属させるのだ。顔を殴らないDV関係はそう長続きしない。

ここまで読んで、
「ならば体罰は教育ツールとして、淡々と頭を叩けば良いのか」
と思う人がいるかもしれないが、そんな不気味な体罰ならしないほうが良い。最初に述べたように、体罰は伝家の宝刀なのだ。「ここぞという時」は当然怒っているわけで、まったく冷静であるということはありえない。淡々と叩けるなら、それはまだ宝刀の抜き時ではないということだ。

前述したことの繰り返しになるが、「普段は手を上げない人なのに、思わずこちらの頭を叩くほどに“怒らせた”」という衝撃こそが大事なわけで、体罰が愛のムチとして有効であるためには、まず「普段から叩く教育がないこと」が大前提である。そのうえで、「叩かれるほど怒らせた」と、こちらの怒りという感情もセットにして伝える。ただ冷静に叩けば良いというようなものではない。

以上、頻繁に子どもを叩いてしまう人に伝えたいこと。


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