2011年12月7日

「質のわるい生」に代わるべきは、「質のよい生」であって、「美しい死」ではない。 『不動の身体と息する機械 ~筋萎縮性側索硬化症~』

「質のわるい生」に代わるべきは、「質のよい生」であって、「美しい死」ではない。
筋萎縮性側索硬化症は一般にはあまり馴染みのない病気ではないだろうか。「Amyotrophic Lateral Sclerosis」の頭文字をとってALSと言われる。ホーキング博士を思い浮かべてもらったら良い。脊髄の左右の部分が硬化する病気だ。脊髄は神経の塊みたいなモンで、その一部分が硬化すると、硬化した部分の神経は機能しなくなる。
amyotrophy(筋萎縮)という言葉は、骨格筋を支配している脊髄前角細胞(下位運動ニューロン)に原因があって筋肉が萎縮してくるもの(神経原性筋萎縮)を言い、骨格筋自体の病気で筋肉が萎縮するもの(筋原性筋萎縮)は含みません。また、lateral sclerosis(側索硬化症)とは、脊髄の側索(錐体路=上位運動ニューロンの神経繊維)が変性し、グリア細胞の増殖のため硬化していることを示します。このように、筋萎縮性側索硬化症は下位運動ニューロンと上位運動ニューロンの両方を侵し、結果として筋肉の動きを低下させてくるものなのです。
筋萎縮性側索硬化症では、純粋に運動神経のみが侵され、感覚神経や自律神経など、他の系統の神経は侵されません。
医学部でALSと一緒に習う病気に、多発性硬化症(Multiple Sclerosis 略してMS)というものがある。ジャクリーヌ・デュ・プレというチェロ奏者がMSだった。この病気は簡単に言うと、脳と脊髄の一部がランダムで多発的に硬化する。ALSが脊髄の左右だったのに対して、MSはランダム(とはいえ、硬化しやすい場所というのはある)。どちらも硬化した部分の神経は機能しなくなる。MSは硬化する場所がランダムなので、機能しなくなる神経もランダムで、出てくる症状も多様である。主に視力障害、認知障害、疲労、排尿排便困難などだが、症状にはありとあらゆる可能性がある。

ここでのメインテーマであるALSでは“自分で動かせる筋肉”が萎縮する。この「自分で動かせる筋肉」とはどこの筋肉かというと、ほぼ全身である。顔も手も足も、胴体も筋肉で動いている。内臓は自分では動かせないから、この病気は内臓には影響がない。
では呼吸する時の筋肉は?
呼吸は無意識でやっているが、自分で意識して止めたり早くしたりできる。呼吸筋は“自分で動かせる筋肉”であり、ということは、ALSになると呼吸も難しくなる。だから、人工呼吸器が必要になる。


不動の身体と息する機械

この本にあるのが本記事の冒頭に書いた一文だ。
「質のわるい生」に代わるべきは、「質のよい生」であって、「美しい死」ではない。
ALSでは、意識は正常と同じで非常にはっきりしているのに、手足は動かくなる。これは患者にとって非常に苦痛だろう。口の筋肉も動かなくなるので意思の疎通も困難になっていく。その苦しさはとても容易には想像できない。目の筋肉は比較的冒されにくいようで、目でパソコンを動かす技術も開発されている。

生命維持に関して悩ましい問題がある。患者は人工呼吸器を付けるかどうかの選択はできるが、外すという選択をしても自分では外せないのだ。また、人工呼吸器を外す手助けをすれば自殺幇助となってしまう。ALSで呼吸ができなくなっても、人工呼吸器をつければ生き永らえることができる。そして、人工呼吸器を外せば呼吸困難で確実に死に至る。もし患者が寝たきりの生に絶望したとしても、自分では人工呼吸器を外すことができない。そういうなかで、人工呼吸器をつけるかどうか、本人・家族が決めないといけない。

非常に酷な選択だ。誰だって生きたいし、誰だって家族に生きて欲しい。ただ、人工呼吸器をつけて寝たきりで生きるためには、家族や周りの人の介護が必要になる。人工呼吸器をつけるか否かの選択の時には、同時にその覚悟も問われるわけだ。人工呼吸器をつけるタイミングは、患者が呼吸困難になった時。だからALSの患者・家族は『人工呼吸器をつけるかどうか』の話し合いをしておかなければいけないのだ。

本文中に、妻がALSになった夫の話がある。妻が呼吸困難で病院に運び込まれ、彼は人工呼吸器をつける承諾の記憶が曖昧なままで手術に同意する。目を覚ました妻は、目で文字盤をなぞり、「どうしてたすけた。しんだほうがよかった」と訴えた。

その逆の話もある。日ごろからの話し合いで、人工呼吸器はつけないと決めていたのに、だんだんと呼吸が苦しくなっていくのに耐え切れず、家族に「呼吸器つけて!」と頼んだ人の話だ。

人工呼吸器をつけるのは、確実に数年から数十年単位で生きながらえる方法である。数時間数日間の延命治療ではないし、意識もはっきりしている。身体は動かないので苦しみを外には表現しにくいが、呼吸困難は相当に苦しい。人工呼吸器をつけないということは、その苦しい呼吸困難で死ぬことを選ぶということなのだ。

今の仕事は、ALSとはほとんど関わりないが、一例だけ、ALS患者の不眠の相談があった。不眠は改善したが、その患者のその後は伝わってこない。


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2 件のコメント:

  1. Ciao Willwayさん
    いちはさんのがよいのでしょうか? 笑

    2009年にイタリアでやはりALSの男性が死なせてほしいとイタリア国大統領に嘆願ビデオを送ったケースがあります
    その後、彼の医師が彼の生命維持装置をはずして、その医師は罪に問われました

    生まれることも親を選んで生まれてくると言うことを聞いたことがあります
    単なる気まぐれでなく、何をもって生きていると定義するか?と言うことのジャッジは非常に難しいと思いますが、
    意識がはっきりしている中でのこの苦難は、本人にしかわかりえないもので、私だったら、自分がどう生きるか?と言うことの選択をする自由は与えてもらいたいと思うし、そしてどう死ぬか?と言うことが、どう生きるか?と言うことにつながる場合もあると
    この場合は、そういうことであるのではないか?と思うのです
    いずれにしても、非常に難しい問題ですよね

    イタリアはバチカンの影響、介入もあって、尊厳死はまだまだ認められないようです

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  2. >junkoさん
    呼び名は、お馴染みさんはどちらでも(笑)

    イタリアでそんなことがあっていたんですね。
    興味深い、というと不謹慎ですが、考えさせられる話ですね。

    バチカンが自殺を否定するのはまぁ分からなくもないんですが、
    医学が進み過ぎて、今までなら死ぬ(死ねる)ような人が、
    病院が本気を出せば半永久とはいかないまでも、
    かなり長く生きながらえさせることができる今、
    尊厳死をどこまで自殺と考えるのか、そこらへんをもっと追求すべきですよね。

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