俺の中で、キリスト教に興味を持ち始めたのは、マタイ受難曲の中の一曲『Erbarme dich mein Gott』から。
この曲の美しさから、マタイ受難曲というものを知った。さらに、それがイエスの最期を描いた劇であることも分かった。では、その劇の中で、この曲がどの場面かというと、一番弟子であるペテロがイエスを否認してしまう有名な場面である。
こうして、キリスト教への興味が徐々に強くなっていって、そこで出会ったのが、『イエスの生涯』(ブログ内レビュー)で、これは衝撃的だった。評判は良い本だが、一部には遠藤氏のイエス観は危険だという評価もあった。俺はむしろ、遠藤氏のイエス観、弟子たちへの眼差しが斬新で好きだ。
あまりに胸に迫る内容で、そのあとに映画『パッション』を観直した。
それからしばらくして読んだのが、『キリストの誕生』(ブログ内レビュー)で、これもまた魂が揺さぶられた。特に聖ポーロ(パウロ)の熱さに痺れた。パウロが題材の小説がないかと探したが見つけきれなかった。
さて、今回は、
『沈黙』
史実をもとにした小説である。こんな素晴らしい本を今まで読んでいなかったのか、とは思わなかった。この本には、いま出会わないと分からないものがたくさんあった。先に前述の二冊を読んでおいたのが非常に良かったし、自分の内的世界も今くらいに成長していないとダメだったと思う。
物語りで重要な役割を果たす転び切支丹(迫害を受けて棄教したキリスト教徒)のキチジローは、拷問や恫喝に負けて、すぐに踏み絵に足を乗せて棄教してしまう。時には同じ切支丹の仲間を売ることさえする。そんな卑怯で弱いキチジローだが、心の底からキリスト教を棄てるということができない。ロドリゴ司祭が捕らえられた後も、ずっとあとをついてくる。おそらく数年前までの俺なら、そんなキチジローのことが嫌で仕方がなかったはずだ。ロドリゴ司祭と一緒になって、キチジローを軽蔑していたにちがいない。だが、イエスとその弟子についての本を何冊か読んだ今、キチジローを一方的に非難する気にはなれない。
キチジローは訴える。
「俺は生まれつき弱か、心の弱か者には、殉教さえできぬ。どうすればよか」ロドリゴ司祭は、キチジローをイスカリオテのユダと重ねていた。しかし著者の遠藤氏は、ユダに限らずペテロやその他の弟子たちもイエスを裏切ったことを知っている。知っていて、あえてロドリゴ司祭に一方的な見方をさせ続けたところがなんとも意味深く思える。
弱いキチジローは、イスカリオテのユダであり、ペテロであり、その他の弟子たちであり、そしてイエス以外の皆、つまり我々でもあるのだ。現代に生きる我々の中に、キチジローを真正面から指差して批難できる人が何人もいるとは思えない。だから、キチジローの叫びには胸が詰まる。
「俺にゃあ俺の言い分があっと。踏絵ば踏んだ者には、踏んだ者の言い分があっと。踏絵をば俺が悦んで踏んだとでも思っとっとか。踏んだこの脚は痛か。痛かよォ。俺を弱か者に生まれさせておきながら、強か者の真似ばせろとデウスさまは仰せ出される。それは無理無法と言うもんじゃい」ロドリゴ司祭の苦悩より、キチジローの悪足掻きのほうに涙がにじむ。殉教していく強い者たちより、弱くて無様に転ぶキチジローに魂が強振する。強いことは良いことかもしれないが、だったら弱いことは悪いことなのだろうか。そんなことはないはずだ。
踏み絵に足を乗せるロドリゴ司祭の頭の中でイエスが語る。
踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。これはロドリゴ司祭の頭の中で、彼の自己弁護のために都合よく浮かんだ考えかもしれないが、それでも、胸の奥に沁みこんでくるような、イエスのそんな優しさと迫力とが伝わってくる。
相変わらずクリスチャンになるつもりはさらさらない。しかし、イエスやペテロ、パウロ、イスカリオテのユダといった人物を中心とした聖書や、切支丹弾圧にまつわる物語には興味を魅かれるものがある。
この曲、マタイ受難の中で私も一番好きなものです。カウンターテナーが歌います。最初に聴いた時には腰抜けそうでした。「沈黙」はほぼリアルタイムで読んだ世代です。狐狸庵先生との落差が又興味深いものでした。イエズス会系の大学に行ったのですが、キリスト教はもっぱら芸術としてしかとらえられないまま今に至ります。
返信削除>tsuruhaさん
削除お返事が遅くなり申し訳ありません。
自分にとっても、G線上のアリアと並んで、バッハの中でも大好きな一曲です。
俺もキリスト教は芸術、というより、俺の場合はほぼ文学と少しの音楽のみに限定された興味からしか考えきれません。
遠藤周作の本は、まだ積読が何冊かあって、そろそろ取り掛からなければいけないなぁと考えている今日この頃です。