外科医というものは、患者さんが回復し、わたしたちのことをすっかり忘れたとき、ようやく責務をはたすことができる。手術が成功すれば、どの患者さんも最初は心から感謝する。だが、いつまでも感謝するようであれば、なにか根本的な不調が治っておらず、患者さんが将来またわたしたちのお世話になるかもしれないとおそれているからだ。(中略)患者さんが自宅に戻り、日常生活を取り戻し、二度とわたしたちのことを必要としなくなるときにこそ、外科医は成功を実感する。脳外科医ヘンリー・マーシュによる臨床エッセイで、自身の失敗についても正直に、赤裸々に告白されている。脳外科医に限らず、他科の医師が読んでも得ることの多い本である。
印象的なエピソードを一つ紹介する。毎朝のミーティングでの一コマで、若手医師が新患のプレゼンをしている。患者は事故で前頭骨を骨折している。頭蓋骨は脳の中に陥没し、脳は出血している。
「この脳画像は重度の脳損傷を負っていることを示している」わたしはそう説明したあと、彼女に尋ねた。精神科では、強制的に入院させた患者の興奮が激しい場合などに、保護室という部屋に外から鍵をかけて隔離することがある。そういうとき、家族から、
「予後はどうだろう」
「よくありません」と、彼女が答えた。
「よくありませんとは、どの程度、よくないんだろう?」と、私は尋ねた。「50パーセント? 90パーセント?」
「回復する見込みもあります」と、彼女が言った。
「まさか! 前頭葉が両側ともつぶれているんだぞ。事故前の状態に回復する見込みはまったくない」(中略)
「でも、ご家族は治療を望まれるはずです。選ぶのはご家族ですから」と、彼女が言った。
きみがご家族にどう話すかによって、ご家族の判断は変わってくるのだよと、わたしは説明した。
「『手術をおこない、損傷を負った脳の部位を摘出すれば、生き延びることができるでしょう』ときみが言えば、当然、ご家族は手術を希望なさる。だが『手術したとしても、患者さんがまた自立した生活を送れるようになるのはまず無理です。生き延びたとしても、重度の障害を負うことになるでしょう。はたしてご本人は、そうした状態で生き長らえることを望まれるでしょうか?』と言えば、ご家族はまったく違う対応をする。そもそも前者の説明は『四肢麻痺になったあともゆきとどいた介護ができるほど、あなたは患者さんを愛していますか?』という問いかけを暗に含んでいる。だから、そんなふうに尋ねられれば、いやおうなく、ご家族にはほかの選択肢がなくなり、手術を希望することになる。包み隠さず事実を説明し、ご家族とつらい会話をするよりも、手術をするほうが楽だからだ。こうして手術をおこなったあと、患者さんが生き延び、退院していけば、きみは手術が成功したように思うかもしれない。ところが、何年かたってから患者さんと再会したとき、手術が人為災害をもたらしたことを思い知るのだ、わたしはこれまで何度もそういう体験をしてきた」
「面会に来たほうが良いですか?」
と尋ねられる。家族にしてみれば、無理やり入院させたうしろめたさがある。それと同時に、状態の悪い患者を病院に連れてくるまでの期間で疲労困憊もしている。そんな家族に対し、
「ご家族が会いたいと希望されるなら、面会してもかまいませんよ」
そう答えてしまう医師がいる。これは上記のマーシュ医師の言葉と同じで、
「保護室に入れられた患者さんに面会に来るほど、あなたは患者さんを愛していますか?」
という問いかけを暗に含んでいるのだ。そう言われたら、家族は面会に来るしかない。あるいは「面会に来ない」という選択肢を、うしろめたさを抱えながらすることになる。だから、俺は主治医の権限として「面会謝絶」であることを伝える。家族には、胸を張って、堂々と、休んでもらう。
一流の脳外科医であるマーシュ医師と同列に語ってはおこがましいが、家族の精神的な負担を減らすことは、どの科の医師にも共通して求められる配慮だろう。
引用した部分からも分かるように、医療職でない人が読んでも充分に理解できる内容であり、とてもエキサイティングな読書になるはずだ。
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