2012年1月31日

イエスの生涯

まず最初に書いておくが、俺はクリスチャンではない。
イエスと、その周囲にいたペテロやイスカリオテのユダといった弟子たち、それからキリスト教そのものにわりと関心があるだけだ。そもそもは、マタイ受難曲の中の一曲である『主よ、憐れみたまえ』に魅せられて、ペテロという人に対しての興味が湧いたことから始まった。

なぜペテロに興味を持ったのかというと、彼がイエスを裏切ったからである。イスカリオテのユダがイエスを売ったことは非常に有名だが、ペテロを含めた他の弟子たちも裏切ったということは、世間的にはあまり知られていないのではないだろうか。ちなみに、ペテロは烈しくイエスを裏切りながらも、カトリック教会では初代教皇とみなされている。

「イスカリオテのユダこそが、弟子の中でイエスの最上の理解者であった」
キリスト教に関して調べていて、そんな一文をネットのどこかで見かけたことがある。そこには詳しい理由は書いておらず、ただその一文だけだったと記憶している。自分なりになぜだろうと考えた末の空想として、
「イエスは、自らが処刑されることこそが、神の教えを本格的に広める始まりとなりうると考え、ユダはそのイエスの考えを理解していたが故に、敢えてイエスを殉教に追い込むようなことをした」
そんなことを思ったが、この『イエスの生涯』を読む限りでは、実際には(事実は知りようがないにしても)、もっと深い憤りや苦悩があったようだ。



文中で、何度も何度も繰り返されるのが、イエスが現実に対して、「無力の人」であり、「役に立たぬ人」であり、「何もできぬ人」だったということと、ペテロをはじめとした弟子たちは決してイエスの理解者ではなかったし、「弱虫」で「ぐうたら」で「臆病」で「卑怯者」で「駄目人間」だった、ということである。そして、イエスは死して神格化され、弟子たちはイエスの死後、自らの命さえかえりみずにイエスの教えを広める心強き人間となる。

著者は言う。
私たちがもし聖書をイエス中心という普通の読み方をせず、弟子たちを主人公にして読むと、そのテーマはただ一つ------弱虫、卑怯者、駄目人間が、どのようにして強い信仰の人たりえたかということになるのだ。
これはあくまでも、クリスチャンであった遠藤周作が自身の研究に基づいて創りあげた本である。内容が正しいのか間違っているのか、そんなことを考えても仕方がない。ただ、クリスチャンでもない俺が、イエスやペテロやキリスト教への興味がもとで読み始めて、最初は歴史や人名や地名に苦手意識を感じつつ、読み進めるにつれて、無力で役立たずだったイエスの苦悩や、弱虫で卑怯者で駄目人間な弟子たちの心理に、徐々に引き込まれ、魂を揺さぶられる思いがしたことは確かである。

じいちゃんの金庫から出てきたもの

じいちゃんが大切にしていた(?)金庫があり、「開かずの金庫」と思われていたが、葬儀の後に金庫を開けるための説明書を探そうとしたら、すでに鍵が差してあったらしい。まさかじいちゃんが死期を悟ってそこまでしたとは思えないが、息を引き取るまでの1ヶ月のじいちゃんの行動を思うと、それもありえなくはない。

ところで、じいちゃんの金庫からはいろいろなものが出てきた。お札がたくさんあったが、1円札が出てきたのには驚いた。それから一銭硬貨もあったが、調べると、どちらも大して価値はないのだとか。ただ、じいちゃんが大切にとっていたものだから、我が家では家宝になる。叔父が言っていた。
「この家の、最初のご先祖になる人だからね」

さて、金庫にあったなかで最も感動したのは預金通帳で、それも、じいちゃんからしたら甥っ子名義の通帳が2つあったことだ。母や叔父からしたら従兄にあたる人たちのための通帳である。詳しくは分からないが、彼らの父上が早くに亡くなったので、じいちゃんが「甥っ子たちのために」と毎月1000円ずつ貯金していたらしい。ずいぶん昔の1000円だから、決して少ない額ではなかったと思う。そういうことも、誰に誇ったり自慢したりするでなく、ひっそりとやるじいちゃんなのだ。そうして貯めたお金で甥っ子の就職のときにブレザーを買い、さらに彼が、今度は俺の叔父(彼からしたら従弟)の就職のときにブレザーを買って返したというエピソード。

俺のじいちゃんはやっぱりすげぇと思った。

2012年1月30日

親鸞

じいちゃんの死をきっかけに読み始めた宗教関係(とはいえ小説)の第一弾。吉川英治は初めて読んだのだが、1巻の冒頭から読点(、)の多さに辟易してしまった。読みにくくて仕方がないのを堪えて読み進めていったのだが、2巻に入るとやや読点が減ってきて、物語りも面白くなってきた。最終的に3巻までいくと、
「なんだか、ちょっとキレイすぎる話だなぁ」
と眉に唾をつけたくなるようなストーリーも多かったのだが、これはあくまでも小説だから当たり前といえば当たり前。

ところで、じいちゃんの家の宗教が浄土真宗ということは1月28日の法事で知った。なんという奇遇であろうか。
「これもなにかの仏縁でござろう」
吉川英治の描く親鸞和尚なら、そう言いそうである。


じいちゃんの開けたミカンジュース

じいちゃんはミカンだけでなく、いろいろなものを作っていたけれど、やはりじいちゃんといえばミカンが思い浮かぶくらい、ミカン畑が大半を占める。

子どものころからミカンは身近に豊富にあったというのに、俺は昔からミカンを食べない。一年間でトータル1個食べれば多いほうだ。漁師の子どもで刺身嫌いという人は多く、親戚の肉屋の息子は肉嫌いだ。それと同じ、というわけでもないだろうが、とにかく俺はミカンを食べない。もっとも、ミカンに限らず果物全般をほとんど食べないのだが。

仕組みは詳しく知らないが、ミカン農家がミカンを出荷すると、出荷した量に応じてミカンジュースを買わなければいけないようだ。子どものころ、このことを知って「なんたる搾取だ!」と怒りを覚えたことがある。そのミカンジュースを個人的に販売すれば、それなりの売り上げになるのかもしれないが、そういう個人商売が上手くできるような農民は少ないんじゃないだろうか。

そういうわけで、俺が子どものころ、じいちゃんの家の倉庫にはミカンジュースが腐るほどあった。「腐るほど」というのは比喩ではなく、実際に腐ったミカンジュースを捨てる手伝いをしたことがある。当時はビン(1リットル?)に入っていて、捨てるときにビンをクルクル回すと、中身のジュースが渦をつくるのでスムーズに捨てられると教わった。子ども心には半分納得、半分疑問だったが、いま現在も実は半分は疑問のまま。

ある時期から250mlの缶ジュースになった。これは現在のコーヒーのようなスチール缶で、フタが硬かった。まだ小学校に入る前の俺には、このフタを開けるのが一苦労。今なら多少硬くても、テコの原理なんかを利用して開けられそうだが、当時の俺にそんな知恵があるわけもなく、じいちゃんに開けてもらうことが多かった。そして、じいちゃんに開けてもらったミカンジュースの缶は、農薬の臭いと味がした。正直なところ、この農薬の臭いと味が好きじゃなかった。それを面と向かってじいちゃんに言ったことはなかったけれど。

もし今、じいちゃんにその話をしたとしたら、じいちゃんはどんな顔をするだろう。怒りはしないだろうけれど、苦笑いくらいはするだろうか? 
いやいや、やっぱり、ただニコニコ笑っている顔しか思い浮かばないし、実際じいちゃんは、声を出すことなく、ただ笑顔を浮かべるだけだろう。

そんなじいちゃんに開けてもらったミカンジュースの思い出でした。

2012年1月29日

最高の一枚

img002
俺が今までに見てきた世の中のありとあらゆる写真の中で、いちばん胸打たれる一枚。抱いているのは俺だ。カメラのレンズなど気にすることなく、孫の顔を見て笑うじいちゃんが最高に好きだ、素敵だ。




この写真から35年くらい経って。




IMG_9730
ひ孫を抱くじいちゃんは、やっぱり素敵だ。抱いているのは俺の甥。

2012年1月27日

じいちゃんの教え 「バチ」

じいちゃんから怒られた記憶はまったくないが、そのかわり「バチがあたる」というのは何回か言われた。「ごはんつぶを残すとバチがあたる」というのがその代表例だ。

これはもの凄く良い教育方法だったと思う。じいちゃんが怒るのではなく、じいちゃんよりもっと偉い誰か、その誰かをじいちゃんは神様とか仏様とか明言することはなかったけれど、とにかくじいちゃんよりも上の立場の存在が「バチ」をあてる、というのだ。どんなバチが、どんなふうに当たるのかも言わない。ただ、バチがあたる、それだけ。誰よりも慕っているじいちゃんが口にする得体のしれない「バチ」、これは怖い。この「バチを恐れる感覚」は子どものころに身にしみついたので、今でもバチあたりなことはしないように、と心がけてはいる。

「日本人は恥の文化」(※)というけれど、どっこい、きちんと罪の文化を教えてくれる人もいたのだ。

ルース・ベネディクトの主張。
日本の文化を外的な批判を意識する「恥の文化」と決め付け、欧米の文化を内的な良心を意識する「罪の文化」と定義

じいちゃん76歳のころの写真

img051-2
若干ヨボヨボしながらも、こんなこともやっていた。





img051
カラーバージョン。

2012年1月26日

コメントをありがとうございます

多くの励ましや慰め、お悔やみのコメントをありがとうございます。

祖父の葬儀から一週間が過ぎ、気持ちも多少は落ち着いてきました。人間の生死と、それにまつわる運命的で不思議な出来事を通じて、いろいろなことを考えました。とても一言では表せませんが、人にはやはり運命というようなものがあるんでしょう。俺が祖父の初孫として生まれたのも運命、俺が36歳になるまで祖父が生きていて、そして祖父が87歳で潔く生涯を閉じたのも、やはり運命だったのだろうと思います。「晩節を汚さない」とは、まさにあんな生き方だろうと、我が祖父ながら感心しました。

俺は無宗教なのですが、宗教そのものやその教えにはもともと興味がありました。それで、いつか読もうと購入して放置していた宗教関連の本を読み始めました。といっても、吉川英治の『親鸞』や遠藤周作の『キリストの誕生』、『沈黙』、『ダ・ヴィンチ・コード』、『クムラン』、『小説・新約聖書』といった本で、宗教書ではありません。宗教に入る予定も一切ありません。後回しにしていた本を読むというだけです。

本来であればコメントを下さった皆さんお一人お一人にお返事を書くべきところなのですが、いかんせん内容が内容なもので、明るく返すというのも憚られてしまい、こういう形ではありますが、お礼を述べさせていただきます。本当にありがとうございます。


さて、祖父に関するブログは、あと少しで終了の予定です。だいぶ気持ちも落ち着いてきましたし、ブログ書いていて良かったなぁと思います。祖父の思い出を残すということで、細やかながら慰めを感じることができました。また、思いのままに書くことで自分の感情を見つめ、そうすることで、漠然とした心の中の動揺に「哀しみ」というラベルをつけて整理することができました。そういうわけで、読み専の方にはぜひブログを始めることを勧めます。

家族の大切さ

夜道を一人で歩いてたら、お化けがいっぱい見えますけど、非常に強い人が端におってくれたら、ススキはススキに見える。その人があれはススキですよ、お月さんですよ、と言わなくても、ちゃんと見えてくる。それと一緒で、わかっている者が端についているというのは重要なことなんです。
じいちゃんが亡くなってから、寂しがり屋になった。もともと寂しいのは苦手だが、だからといって実家に帰省しようとまでは思わなかった。今はちょっと違う。寂しいから帰省しようかな、と思う。じいちゃんの法事に参加するために、という理由は確かにそうなんだけれど、それとはまた別に、俺の中で何かが少し変わったような気がする。その変化はうまく言えないけれど、ふと上に引用した河合隼雄の言葉を思い出した。

じいちゃんとは、上記引用でいうところの「端についているわかっている者」だったのだろう。怒られたこともないし、アドバイスのようなものを受けたこともないだけに、この引用がしっくりくる。道しるべとして「努力」と「正直」というのは与えてもらったけれど、それだけだ。ちなみに、褒めてもらった記憶もあまりない。ただ、俺が行くとすごくニコニコしていて、そんなじいちゃんを見ると、
「あぁ、俺がいるだけで嬉しいんだなぁ」
と、そう思えるから、俺たち孫は自分たちの存在について自信が持てたんだと思う。

そんなじいちゃんがいなくなったのだから、孫たちの動揺は推して知るべしというもので、まして初孫としての立場と特権を持っていた俺の心の置き所がなくなるもの当然だ。そりゃ寂しがり屋にもなるというものだ。

考えてみると、じいちゃんに限らず、家族というものは、お互いに「端についてくれている人」という感じなのかもしれない。

それにしても、人生というものは酷であると同時に、なんとも言えない妙味がある。じいちゃんがいなくなってから、じいちゃんの大切さに気づいたって手遅れなのに、そのかわりというか、他の家族に対する愛情、というとちょっと気恥ずかしいが、そういった気持ちが今までとは違った形で自分の中に芽生えた。

じいちゃんが、最後の最後に、背中で教えてくれたことだろう。

トラックの助手席から

e0011818_14491675
大した話はせず、ゴトゴト揺られながら、本屋に行ったり、畑に行ったり。





e0011818_23405756
こちらは携帯電話で撮影。

2012年1月25日

不動の構えのじいちゃん

06-05-03_18-36
メイが落ちつきなく動くというのに……。





06-05-03_18-36~01
じいちゃんは不動の構えである。





06-05-03_18-36~02





06-05-03_18-37





06-05-03_18-37~00

妹の結婚式にて

IMG_1236





P1010712

無人市に出す野菜の値札作りをするじいちゃん

e0011818_18472849
携帯電話で撮影。

夫婦でトラック

IMG_8391
このコンビでトラックに乗るのを最後に見たのはいつだったか。
非常に貴重な一枚だと思う。

2012年1月24日

幽霊がいたら良いのに

ここのところ、寝る前には毎日のように泣いている。さすがに声をあげて泣くことはないが、涙がはらはらとこぼれてしまう。それもこれも、じいちゃんのことを考えるからだ。じいちゃん、孫をこんなに泣かせて良いのかよ。

1月15日、様子が変だと思った、確かに思った。ただの疲れじゃなくて病的なものだと、医者の俺が気づかずに誰が気づくだろう。そう考えると、俺が気づいて一日早く受診していればもしかしたら……、と思うこともある。それは結果論に過ぎないし、一日早くても手遅れだった可能性は高いと分かってはいるが、いやいやそれは自己弁護のための言い訳じゃないのかと悶々としてみたり。

考えすぎても仕方がないから、気持ちを切り替えようとする。じいちゃんが俺を呼ぶ声を思い出す。
俺が帰省したときの、じいちゃんの嬉しそうな顔を思い出す。叔母たちに「どりゃ、いちはにビールどん出して飲ませろ」という言い方を思い出す。歩き方、挨拶のときの頭の下げ方、農具の扱い方、そんなことを思い出す。そしたらやっぱり涙が出てくる。

しつこいようだけど、じいちゃん、孫を泣かせすぎ。

じいちゃんが亡くなってから今日までで、じいちゃんの夢を一回だけ見た。デイサービスに行ったじいちゃんが、行方不明でそのまま帰ってこないという夢だった。

怖がりだったけれど、じいちゃんが亡くなってから、暗闇が怖くなくなった。もし悪いオバケがいても、じいちゃんが守ってくれるはずだと信じている。子どもじみているけれど、本当にそう思う。幽霊がいたら良いのに。そうしたら、じいちゃんもきっと幽霊になっている。きっとそこらへんにいるのだろう、そう思える。だけど同時に、なんで出てきてくれないのか、と哀しくなる。

一昨日、金縛りにあった。ちょっと嬉しかった。今までだったら怖かったのに、じいちゃんがどこにいるのか探してしまった。じいちゃんはどこにもいなくて、金縛りもすぐに解けて、ため息をついて寝た。

幽霊がいたら良いのに。


じいちゃんは、どこにいるのだろう。

じいちゃんの背中

IMG_8384
男は背中で人生を語るという。





IMG_8385
子や孫は大人の背中を見て育つという。





IMG_8340
じいちゃんが見せ続けた背中は、ひたすら「実直」を体現したものだった。





IMG_8387
手を抜かず、愚痴をこぼさず、黙々と。





IMG_8389
手伝いもせずに写真を撮る孫に文句の一つもたれることなく。





middle_1099715880
ただ笑顔。

韓国から怒って帰ってきたじいちゃん

e0011818_917364
ずいぶん前の話だが、農協かなにかの旅行で、じいちゃんが韓国へ行ったらしい。しかし、途中で怒って帰ってきてしまった。理由がなんともじいちゃんらしい。なんと、その旅行がいわゆる「売春ツアー」だったのだ。そうと知らずに参加したじいちゃんが激怒して帰ってきたという話。

写真は7年くらい前のものだと思う。じいちゃんが80歳くらいか。周りから引退しろと何度勧められても、決して農業をやめなかった。この写真を印刷して、法事で持って帰ったら母が言っていた。

「じいちゃんは、いっつもここに座っとらしたねぇ。年とってからも、ずっとここ。ここはね、景色が良いんよ」

次に帰省したら、座ってみるか。


一緒に写っているのは、数年前に息を引き取ったメスのゴールデン、メイ。

2012年1月23日

葬儀後

今回の仮通夜、お通夜、告別式、それから火葬場と通じて、俺ら家族にとって不幸中の幸いは、5歳と3歳になる甥っ子たちが無邪気にはしゃぎまわってくれたり、8ヶ月の姪っ子が泣いたりスヤスヤ眠ったり、ニコッと笑ったり、それから、もうすぐ俺の子どもが生まれるということもあって、ただ哀しいだけではなく、じいちゃんの血脈が受け継がれていることを感じられたことだ。子どもたちを見て、大人はほんの一瞬だけ哀しみや苦しみから解放された。葬儀全体を通じて、湿っぽくなりすぎない、本当に良い葬儀だったと思う。

じいちゃんの葬儀以外で、これまで俺は二回、葬儀に参加したことがある。一人は医学部時代の後輩で、20歳くらいで亡くなった。もう一人は高校時代の同級生で、寮でも同室になったことのある友人で、32歳ころだった。どちらも家族の悲しみは見るからに深くて暗く、笑顔の片りんもなかった。若くして逝った二人に比べて、じいちゃんの葬儀では思い出話も数倍多く、哀しみのなかにも笑いがあり、冗談を言い交したり、良い最期だったと頷いたりした。悲しくない葬儀なんてないと思うが、幸せな葬儀があるとしたら、じいちゃんの葬儀はまさにそうだった。

葬儀では、遺影とは別に、俺が年末に撮った家族写真を飾った。それから、俺の結婚式の時にじいちゃんとばあちゃんと俺とで写った写真も飾った。
IMG_0414 (2)
「じいちゃんの、こんな満面の笑みを見るのも久しぶり」とヒロアキが言っていた。

帰宅して、親族やお世話になった近隣の人たち、御住職と酒を飲んだ。御住職に挨拶しとこうと思って近寄ると、
「おっ、来たな、初孫」
と言われた。
「仮通夜でこの家に来たとき、お前を見て生意気そうにしとるのがおるなぁと思ったんぞ。だけどなぁ、そうかぁ、やっぱりお前が初孫やったか、うんうん、辛そうにしとったもんなぁ」
本当かよ、と思いながらも涙が出た。

その日も家族で遅くまで飲んだ。しんみりしたり、笑ったりして、こんなときに変かもしれないけれど、楽しかった。

翌日、東京へ帰るヒロアキを空港まで送った。ヒロアキの父親であり、じいちゃんの長男であるタケシ叔父が玄関で見送った。
「叔父ちゃんって、今までにヒロアキを見送ることあったっけ?」
「いや……、初めてよ……。やっぱりお父さん気落ちしとるなぁ」
そんなことを話しながら、やっぱりじいちゃんのことを思い出していた。

火葬場

初めて行った。

とうとう、じいちゃんの体と最後のお別れだ。じいちゃんは、あちこちガタのきた体を脱いで楽になるはずだ。あくまでも、俺の知っている「じいちゃんの体」がなくなるだけだ。俺が子どものころはゴツい体だった。それよりもっと前は、それよりもっとゴツかった。いつしか小さくなって、皺しわになって、ヨレヨレになったじいちゃん。その体は、たぶん、じいちゃん本人以上に家族が愛した。だから、別れが惜しい、見納めが辛い、もう触れられないのが哀しい。でもきっと、火葬することでじいちゃんは楽になるのだ。

じいちゃんの体の入ったお棺が竃の中に入っていく。ああ、じいちゃん、それでもやっぱり俺はイヤだよ。こんなことになるんなら、なんでもっと遊びに行かなかったんだろう。じいちゃんと一緒の部屋で寝ることだってできたのに。もっとたくさん顔を見せておけばよかった。そんな今さら思っても仕方がないことが頭に浮かぶ。じいちゃんが元気だったら、きっとそんなことしなかったくせに。いつでも会える、いつまでも会えると、そう油断していた。そんなわけがないのに、そんなはずがないのに。

じいちゃんが灰になるのを待つ間、俺たちは酒を飲み語り合った。あんなことがあった、こんなことがあった。人それぞれ、同じ出来事でも見る立場が違うから思い出の形はさまざま。初孫で外孫、もっとも可愛がられる条件にあった俺。そんな俺でも、内孫である従弟妹たちを羨んだ時期がある。逆に、彼らから俺はどう見えていたのだろう。そんなことを、とりとめもなく考えているうちに、時はきた。

お迎えに行った部屋には、なんとなく人の形を遺した骨があった。農業で鍛えていたからか、意外にしっかりした骨が多かった。大腿骨を骨折した時に入れた金属もあった。一人ずつ、骨を拾って骨壺に入れた。全員が入れた後、火葬場の人が頭の骨を壺に入れてくれたのだが、その前に壺からあふれそうな骨をザクザクと潰していた。おいもっと丁寧に扱えよ、と思ったが、他を知らないからあれが普通なのかもしれない。

そうして、俺たちはじいちゃんの骨と一緒に、じいちゃんが何十年もかけて広げて大きくした家に帰った。居間に、最近じいちゃんがずっと座っていたソファがある。そこに俺も座って、天井やら周りの壁やらを眺めた。じいちゃんは、どんな思いでこの景色を見ていたんだろう。吹き抜けのおしゃれなリビングも、昔は天井が低くて掘りごたつがあって、今は廊下になっている場所には土間があって、テレビも小さくて。風呂上がりの俺が裸ん坊のままで走り回って、ばあちゃんに追いかけられて、そんな俺の姿をじいちゃんはどんな顔で眺めていたんだろう。

酔った頭で、あちらこちらへつらつらと思いを馳せた。

2012年1月22日

告別式 平成24年1月18日

告別式の朝が来た。
別れを告げる式。
そうか、そうなんだよなぁ、お別れなんだよな。

俺と従弟のヒロアキは、タケシ叔父を残していったん家に帰った。叔父と母から、
「あんたが孫代表で送る言葉を言いなさい」
と、ものすごく光栄な役割をもらった。
「弔辞!?」
「いや、送る言葉」
どう違うのか分からなかったが、とにかくじいちゃんに送る言葉だ。

そういえば、俺の予備校時代に、じいちゃんは足の手術を受けた。どういう病気でどういう手術だったのかはよく分からなかったが、じいちゃんに手紙を書いた、毎日、書いた。そうすると、じいちゃんから母づてに伝言が来た。
「手紙はもうよかけん、勉強せろ」
手紙を書くのは勉強からの現実逃避的な部分もあったから、喝を入れられた感じだった。

叔父の事務所に行って、パソコンに向かった。手書きにすべきかとも思ったが、時間がなかった。思い出は本当にたくさんある。でも、全部を書くわけにはいかない。

孫を代表して送る言葉という大役。それは、当然、俺の仕事だ、俺がやりたい、と思う自分がいた。
同時に、じいちゃんと同じ家で生活していた内孫である従弟妹たちや、じいちゃんと一緒に農業をする時間の長かった俺の弟に対する後ろめたさもあった。だって、俺は本当にただただ甘えて、甘やかされただけだから。
そんな俺が、みんなを代表して送る言葉なんて……。
じゃあお前は送る言葉を読みたくないのか、と聞かれたら、いや、絶対に俺がやりたい、と言うのだけれど。孫の中で、じいちゃんと最初に喋った初孫として、最後も俺に喋らせてくれ。みんな、ごめん。
そんな思いで、文面を練った。キーボードを打ちながら泣いた。誤字脱字がないか読み直しながら泣いた。心の中で、本番での予行演習をしながら泣いた。本番では、完璧に、スッキリ、ハッキリ読み上げよう。そう心に決めた。できあがったものは、結局、俺の個人的な想いを綴ったものになってしまった気がした。

告別式では、かなり予想外に俺の送る言葉の順番が早かった。まだ心の準備もできていないというのに……。しかし、呼ばれたからには仕方がない。

じいちゃんの前に立った。遺影を見上げたが、違う、じいちゃんはそっちじゃない。お棺に目をやった。深呼吸をした。
「おじいちゃん」
その最初の一言が出なかった。声をあげて泣き出しそうだった。もう一回、深呼吸した。俺の震える背中の後ろから、御住職が低くゆっくりと、
「なんまんだぶ、なんまんだぶ」
そう唱える声が聞こえた。
それで、少し落ち着けた。
おじいちゃんへ。

おじいちゃん、孫とひ孫を代表して手紙を書きました。今から読むので、聞いてください。

おじいちゃん、あっけなく逝ってしまったね。裏の畑の様子でも見に行くくらいの、そんなあっさりとした亡くなり方に、ただただ呆然とするばかりでした。主治医の先生から20時40分が臨終時刻ですと言われても実感がなくて、なんだかキリの良い時間だなぁとか、そんなことを思っていました。

でも、だんだんと現実が見えてきています。おじいちゃんと呼んでも、もう返事はないんだなぁと思うと、さびしくてさびしくてたまりません。

おじいちゃん、おいはおじいちゃんが本当に大好きやったよ。子どものころは一緒に布団に入って、おいが寝つくまで背中をかいてもらって、夜中はトイレに行くのが怖くて何回も起こしてついてきてもらったね。
そういう思い出が、とんでもなくいっぱいあるよ。でも長々と書いたら、おじいちゃんも聞き疲れするだろうから、あと一つだけ、思い出を書くね。
酔っぱらったおじいちゃんは誰彼かまわず「握手ばすぅで、握手ばすぅで」って言うけん、おいたちはおかしくて、笑って真似したりしてたよ。で、九大に合格したお祝いの時やったかな、おじいちゃんがおいに「握手ばすぅで」って言ってきてさ。目ば真っ赤にして、涙ぐんで。「じいちゃんは人生で二つのことだけを大事にしてきたとぞ。努力と、そいから正直。こいだけは守らんばぞ」って。同じ話を3回くらい繰り返しよったよ。あれから18年、正直は残念ながら時どき守れんこともあるけど、努力だけはおじいちゃんに言われたように人一倍してきたよ。一応、医者にもなったし。精神科医になるって言った時の、おじいちゃんのちょっとガッカリした顔も忘れられんけどね。

おじいちゃん、一個だけ、文句言っていい? なんであと一ヶ月、待てんやったね。おいだけのワガママやけど、あと一ヶ月、待ってほしかった。二月にはおいの子どもも生まれるとよって、何回も言っとったたいね。子どもをおじいちゃんに会わせられんかったのが、悔しくて、残念で、たまりません。

おじいちゃん、36年間、甘えるだけ甘えさせてくれて、ありがとう。でも、なんも返せんやったね。その代わりといっては変だけど、おいもおじいちゃんみたいに一生懸命に生きて、おじいちゃんみたいなおじいちゃんになるよ。
それまで、おいたち皆を見守っていてください。
何十年かして、おいがヨボヨボになってから、天国のおじいちゃんに会いに行くけん、そんときは、また握手して、それからいっぱい甘えさせてください。
それじゃ、またね。

平成24年1月18日  孫とひ孫を代表して  初孫 Y
途中、何度も泣きそうになって声が震えた。手が痺れ、足が震え、過呼吸かとさえ思った。でも緊張はしていなかった。あれが、哀しみの震えというものなのかもしれない。ものすごく言葉が詰まって、同じ場所を二度読んだ部分がある。それは、「初孫」という部分だ。

計画では、初孫と自分の名前はかなり元気に読み上げるつもりだった。しかし、実際にじいちゃんのお棺を前にして手紙の「初孫」という文字を見たとき、その言葉の持つありとあらゆるものが頭と心にこみ上げてきてしまった。じいちゃんにしてもらったいろいろなことが、一瞬にして爆発した。
子どもの俺が、膝をついたじいちゃんに体当たりをしていた。抱っこしてもらって、本を買ってもらって、たくさんのお祝い事をしてもらって、じいちゃんはいつも笑っていた、言葉はほとんどないけれど、いつも笑っていた。
また、御住職のなまんだぶが聞こえてきた。それで、改めて胸を張った。「初孫」のあと、手紙には俺のフルネームを書いていた。俺とじいちゃんは苗字が違う。だけど、今はじいちゃんの孫の一人として締めくくりたい。そう思った。だから、苗字は読まなかった。じいちゃんからずっと呼ばれてきた、俺の名前だけで送る言葉を終えた。ちなみに、じいちゃんから君やちゃんをつけて呼ばれた記憶はない。

話は少し未来に進むが、告別式のあと、この送る言葉について従弟妹らは、
「自分たちが思っていたことを言ってくれた」
そう評してくれて、それがまた嬉しいやら切ないやらで泣けた。しかし、ばあちゃんは、
「メ~ソメソして、半分くらいしか聞こえんかったぞ」
と手厳しく、それがまたばあちゃんらしくて泣けた。

次に、跡取り息子のヒロアキが、特別な弔電を代読した。これは祖父の甥にあたる(つまり俺の母の従弟)ケンジおじさんからのものだ。母の世代は、従兄弟・従姉妹が本当の兄弟姉妹のように仲が良い。呼び名も「あんちゃん」「ねえちゃん」といった感じだ。ケンジおじさんは、現在アメリカで牧師をしていて、告別式に参加できなかった。
叔父さん、アメリカ在住のケンジです。
再び会うことができなくなって、とてもとても残念に思っています。
告別式にも駆けつけることができなくて、申し訳ありません。

もう一度、叔父さんにお礼を言いたいです。
昔、母が結核療養をしているとき、叔父さんは、母に栄養をつけさせてあげようと、うなぎを取ってきて、食べさせてくれたそうですね。
そのうなぎの入った箱が、山田の家のそばを流れる小川にあったことが、私の心には、今もはっきり焼きついています。
叔父さんの優しいお気持ちに、もう一度お礼を申し上げます。

また、私が茨城の家を出て、私にアメリカに行く決心をさせたのも、実は、叔父さんの一言があったからでした。
叔父さんは、言いました。「ケンジ君、茨城の家は、シュンジ君に継がすっとが、一番よかばい」
私は涙を流しながら、そのことばを守りました。
今は、叔父さんの助言に心から深く感謝しています。
アメリカでも、叔父さんの子孫がしっかり根を張って、広がっていくことでしょう。

帰国したときには、アメリカの土産を持って、必ず墓前に出向きます。
安らかにお休みください。

ケンジ
アメリカ合衆国ノースキャロライナ州シャーロット
最後はまたタケシ叔父の出番。お通夜の時よりはさらに気丈に、しっかりとした挨拶だった。あの姿には、甥の俺も心から尊敬した。


お棺を閉じる時がきた。親戚みんなでお棺の中に花を入れた。足の先から顔が覆われるくらいに花で埋め尽くされた。
「じいちゃん、やぐらしかって言いよらすよ」
叔母がそう言ってみんなで笑って、声を出して泣いた。仮通夜からずっと気丈だった妹のイズミも、声をあげて泣いていた。俺はじいちゃんの頭を撫でた。仮通夜でも何回か撫でていたが、本当にこれが最後だから。俺がじいちゃんの冷たい頭を撫でていると、イズミが、
「触っていいの!?」
そう言ってじいちゃんの頭を撫でて、また声をあげて泣き出した。それを皮切りに、近しい人たちがみんなじいちゃんの頭を撫でた。その時には、俺はただただ、ばあちゃんが触るかどうかが気になっていた。このタイミング逃したら、ばあちゃん、もうじいちゃんに触れんのよ!!
結局、婆ちゃんが触れたかどうかは分からずじまいだ。

最後はお棺をまた男衆で持って霊柩車に乗せた。ここにきて、やっぱり俺は、じいちゃんを焼きたくなかった。こんなに未練たらたらだと、じいちゃんが困るだろうなとは思ったが……。クラクションを鳴らして、霊柩車は火葬場へと向かった。

2012年1月21日

お通夜 平成24年1月17日

俺も従弟のヒロアキも、スーツは持ってきていないし、当然のことながら喪服もなかった。叔母(ヒロアキの母)から「なんで持って来とらんと~」と言われ、ヒロアキは、
「そがん縁起の悪かと、持ってくるわけなかろうもん!」
とぼやいていた。俺もまったく同じ気持ちで持ってこなかった。私服で行って、
「ほらね、やっぱりしぶとく乗り越えたじゃん」
そう言えることを願っていたから。

俺と妹のイズミ、生まれて8ヶ月のサヤちゃん、従弟妹のタカコとヒロアキで喪服を買いに行った。こんなメンバーで出かけるなんて初めてだ。てっとり早く喪服を買い、サヤちゃんのベビー用品を買って、みんなで焼き肉屋に入った。
「俺のおごりだ~、食え~!!」
と注文して出てきた肉が美味しくてビックリした。俺もヒロアキもビールを何杯か飲んだ。談笑しながら、でも時々しんみりしつつ、俺たちは肉を腹いっぱい食べた。不思議と腹が減って仕方がなかった。

家に戻ると、じいちゃんがお棺に入れられていた。
なんというか、もの凄く複雑な気持ちになった。
「じいちゃんをそげん狭かとこに入るんな!!」
と思ったり、
「あぁ、じいちゃん、本当におらんごとなるんやなぁ」
と哀しくなったり。
昨夜はじいちゃんを布団に寝かせていたから、亡くなったといっても近くにいる感じだった。最近のじいちゃんは口数も少なかったから、じいちゃんの体さえそばにあれば、それだけでじいちゃんがいるという安心感というか、そういうものがあった。正直に書くと、その時の俺は、じいちゃんの体を冷凍保存しておきたいとさえ思ったのだ。そうすれば、じいちゃんの体は冷たくても、会いに行けば顔が見られて、手や顔にも触れられる、そんなことを夢想した。もちろん、そんなのはじいちゃんが可哀そうだとすぐに思い直したが。

俺を含めた孫や叔父らの手で、家からお棺を出して車に乗せた。ああ、じいちゃんの体がこの家からいなくなる。次に帰ってくるときには骨になっている。じいちゃんがいなくなる、本当にいなくなる。
イヤだなぁ、イヤだなぁ、イヤだなぁ。玄関の表札がチラッと目に入った。じいちゃんの名前が書いてあった。涙が出た。


お通夜の会場は予想していたより広かったが、母は「狭かっ」とバッサリ。


御住職の読経の間は、さすがに前夜の疲れが出てウトウトッとしてしまった。じいちゃん、ごめん。
お線香をあげてくれる人の多くが、叔父らと挨拶をかわすときに、「(闘病が)長かったと?」とか「伏せっとらしたと?」とか聞いてきた。それくらいに、だれもが驚く突然の幕引きだったのだ。
「いや、前日まで元気に歩いとって、昨日、朝から起きてこずに、病院行って、夜にあっさりです」
長男であるタケシ叔父が何度となく同じ説明を繰り返していた。あまりボケなかったし、多少オトボケはあっても、ほとんど家族の手を煩わせなかった。長く闘病して家族も看病が大変だ、なんてことがなかった。誰も疲れなかった。
じいちゃんは実に鮮やかな「去り際の魔術師」だった。もう少しヘタクソに、モタモタと去ってもらっても良かったのだが。

タケシ叔父の挨拶は圧巻だった。
「喪主にかわりまして」
から始まり、時どき声を震わせながらも、最後まで淀みなく言い切った。長男でもあり、跡取りとしての姿が、じいちゃんにも頼もしく見えたんじゃないだろうか。

お通夜でのじいちゃんのお供には俺とヒロアキがついた。ヒロアキは高校卒業までじいちゃんと住んでいた内孫であり、跡取りでもある。それから、タケシ叔父と、じいちゃんからすれば甥っ子にあたる人(だと思う)がバックアップ。最初はヒロアキが仮眠して、俺ができるだけ長く起きとこうと決めた。時どきじいちゃんの顔を覗き込んで、線香を焚いて、ボーっとして、本を読んで、またじいちゃんの顔を覗き込んで、線香を焚いて、というのをひたすら繰り返した。10時間はもつという線香も焚いてあったが、やっぱり本物の線香が良いなと思った。時どきウトウトしては、ハッと目覚めて線香を追加、ウトウト、ハッ、ウトウト、ハッ。2時半くらいにヒロアキが起きて、「代わろうか」と言ってくれた。「いや、大丈夫だよ」と強がる気力もなく横になった。そして思った。こうやってギリギリまで体を痛めて追い込むから、逆に余計なことを考えずに済むのかもしれない。

泥沼のような睡眠から、時どき息継ぎするように目覚めては、交代したヒロアキの様子を見るというのを繰り返していたが、ふと気づけば沼の底にいたようで、朝の7時にタケシ叔父に起こされた。

こうして、初孫と跡取り息子二人によるお通夜が明けた。

仮通夜 平成24年1月16日

じいちゃんの臨終後、じいちゃんは葬儀社の車で自宅へ帰った。俺たちもじいちゃんの家に行った。座敷に布団を敷いて、じいちゃんが寝かせてあった。御住職が来られて、念仏をあげてもらった。俺はじいちゃんの枕もといちばん近くに座っていて、その隣にばあちゃん、さらにその隣に長男のタケシ叔父という順番だった。この並びは半分は偶然だったが、半分は俺の気持ちも影響していた。じいちゃんの近くにいたくて、ずっとそばに座っていたので、御住職がいざ念仏をあげるとなった時にも、じいちゃんに一番近かったのだ。

そのあと、叔父二人や母やばあちゃんは、夜遅くまで葬儀について話し込んでいた。かなり大変だろうなと思った。思えば、俺たち孫はじいちゃんの「祖父」としての姿しか知らない。じいちゃんとの付き合いも、一番長い俺で36年間だ。しかし、母や叔父らは、「父親」としての姿も知っているし、長女である母は、じいちゃんと60年の付き合いだ。ばあちゃんは、さらに「夫、男」としてのじいちゃんを知っている。当然のことながら、良い想い出も嫌な思い出もいちばん多い。孫である俺たちとは、広さと深さの違う悲しみがあるのだろうと考えると、そんな母や叔父叔母、ばあちゃんたちの姿が切なく映ると同時に、ちょっと嫉妬した。

じいちゃんを独りにしないようにと、男の孫たちで不寝番をした。従弟のヒロアキとひたすら酒を飲み、ばあちゃんと三人で語り合った。
「ばあちゃん、じいちゃんと最後にキスしたのって、いつ?」
俺がそう聞くと、ばあちゃんが笑って「なんて?」と言う。
「キスって、まぁ、接吻のことね。最後の接吻はいつしたの?」
ばあちゃんが素っ頓狂な声を出して笑った。
「じゃ、ばあちゃん、俺とヒロアキは席をはずすからさ。じいちゃんに接吻しなよ」
そうからかうと、ばあちゃんが、
「ひょんげたことばかり言うて」(ひょんげた、とは“ひょうきんな”“悪ふざけの”といった意味)
と言って笑った。初孫として可愛がられ過ぎたからか、俺は家族内では傍若無人なひょんげもの担当なのだ。

途中からは俺の弟を無理に誘って、孫三人で飲んだ。俺が鈴(りん)を何回も鳴らすもんだから、弟からそんなことはするなと注意された。
「じいちゃんが寂しくないようにだよ。それに悼み方は人それぞれだから良いだろ」
ムキになって反論して、そんなくだらないことで揉めてしまった。いくら誘ってもなかなかじいちゃんの枕もとに来ようとしなかったくせに、あんまりに常識常識とうるさいから、そんなに嫌なら帰れ、とまで言ってしまった。本当は、悼み方はそれぞれなんだから、弟を無理に誘うべきではなかったのだ。まぁ、そんなことでケンカになるくらい、みんな気が立っていたのだろう。

気が立っていたといえば、もう一つ忘れられないエピソードがある。仮通夜に来てくださった近所の方の中に、礼儀や形式に厳しい方がいらっしゃったのだが、近所の人たちがみんな帰って、親族だけになってから、ふと何かの話題から、
「○○さんが、住職の枕経んとき、なんでお前が一番上座におるとや、ってちょっと怒っとらした」
叔父が苦笑いでそう言ったとき、俺の中で何かが弾けてしまって、
「そがんと他人に言われる筋合いなかっ」
と、吐き捨てるように言ってしまったら、それまで我慢していたのか、どこかに隠れていたのか、なかなか出てこなかった涙が溢れてしまってどうしようもなかった。叔父も、俺の不作法や無礼になにも言わず、ただ黙って待っていてくれた。この近所の人には最初腹がたって仕方がなかったが、気持ちが少し落ち着くと、じいちゃんの隣家のオジサンだから、じちゃんとの付き合いが深くて、それだけじいちゃんの仮通夜から葬儀までを真剣に考えてくれたからだろうし、家族みんなが気落ちして動揺して混乱しているときに、横で助言してくれて、感謝こそすれ恨むということはなく、カッとなってすいませんと思えるようになった。そもそも、いざこざや争いが大っ嫌いなじいちゃんだったから、このあたりのやり取りは、きっと渋い顔で見守っていたんじゃないかと思う。

仮通夜の不寝番。
なんだかんだで、最後は俺と従妹のタカコとで飲み交わしていた、というか俺だけ飲んでいた。家にあった焼酎を飲みつくした俺は、タカコに頼んで日本酒を持ってきてもらった。タカコによると、最後まで起きていたのがタカコ、というかタカコは徹夜したそうだ。俺は朝5時くらいに、じいちゃんの枕もとに崩れるようにして寝てしまったらしい。不寝番と言いつつ、なにやってんだと我ながら情けなく思ったものの、最後の最後でじいちゃんに添い寝してもらう形になって、それはそれで満足している。

こうして、仮通夜が終わった。

戦争は「大変なこと」

戦争を教科書でしか知らない世代に、戦争の評価を聞くことの意味があるだろうか。
間違いだったかどうかなんて、戦争世代にだけ聞けば良い。

じぃちゃんに戦争について聞いたことがある。じぃちゃんは何て言ってたっけな?

戦争当時は自分たちが正しいと信じていた。戦争が終わって、色々なニュースや本を読んで、あぁ自分たちは大変なことをしてしまったんだなぁ、と思った。

そこに、「良いか悪いか」「正しいか間違いか」の価値観はない。

「大変なこと」

それがじぃちゃんの意見だ。
戦争世代の人の気持ちって、人それぞれ違うのかもしれないけれど、

「大変なこと」

というじぃちゃんの言葉は、俺の中にすっと入ってきた。
<戦争調査>「間違った戦争だった」43%
2005 年 8 月 15 日 毎日新聞実施

戦後60年の終戦記念日を前に、毎日新聞は13、14の両日、戦争の評価などについて全国世論調査(電話)を実施した。日本が米国や中国などと戦った戦争を「間違った戦争だった」と答えた人は43%で、「やむを得ない戦争だった」の29%より多かった。「分からない」という回答も26%あり、日本人の戦争の評価は必ずしも定まっていなかった。戦争責任に関する戦後の議論については「不十分だった」との回答が75%に上り、「十分だった」の14%を大きく上回った。
◇「やむを得ない戦争だった」29%
「間違った戦争」との回答は男性44%、女性43%でほぼ差がなかった。年代別では、20代と70代以上が3割台で、ほかの年代に比べてやや低い傾向がみられた。
これに対し、「やむを得ない戦争」という回答は男性36%、女性24%と男女差が見られた。戦争を体験した70代以上では、「やむを得ない」(45%)が「間違った戦争」(37%)を上回り、60代でも「やむを得ない」が36%と全世代平均に比べて高かった。20~30代では「分からない」との回答が3分の1を占めた。
支持政党別では、自民党支持層で「やむを得ない」(44%)が「間違った戦争」(31%)より多かった。しかし、自民党支持層以外では「間違った戦争」との認識が、民主51%、公明69%、共産79%、社民81%といずれも高率だった。
戦争責任に関する議論が十分だったかどうかでは、男女とも「不十分」との回答が7割を超えたが、年代別では20代と70代以上で6割台だった。自民党支持層でも「不十分」は68%を占めた。「十分」と答えた人の49%は「やむを得ない戦争だった」と答えた。
また、近い将来に日本が外国と戦争する可能性があると思うかとの設問では、「ないと思う」が73%と高率だったものの、「あると思う」も22%あった。特に20代では「あると思う」が34%を占め、年代別で唯一3割を超えた。戦後日本の出発点が戦争との決別だったにもかかわらず、2割以上が戦争の可能性を認識していることは、60年間の変化であるようだ。【中田卓二】
(毎日新聞)

年越しソバの思い出

小学校一年生くらいのころ。
なにかの本で、年越しソバのことを知った。
「長生きするねがいを、ソバのめんの長さにたくしています」
そんなことが書いてあった。
そうか、年越しソバは長生きするために食べるんだな。

極度のおじいちゃんっ子だった俺が、
「おじいちゃん、年越しソバ食べると?」
と聞いたところ、祖父は、
「うんにゃ、食べん」
そう言って笑っていた。
ショックだった。
涙ぐんだ。
さすがに泣かなかったけれど。

そんな祖父も、もう87歳。
まだまだ元気だ。

IMG_0757-2



祖母に、
「いま何歳になった?」
と聞いたら、
「34歳」
と言っていた。
さすがにサバ読みすぎで、チタロウ氏は爆笑していた。

IMG_0646
83歳である。
34歳という答えはともかくとして、まだまだボケていない。
精神科医の俺が、冷徹な目で見て、身内びいきでなく、頭は冴えている。
年寄りの常で、ちょっとクドかったり、話の流れを読まないところはあるがw



IMG_0757
ほぼ加工なしの祖父の写真。



「いざっていう時のために、写真を撮っとかなきゃだしw」
と言いながら二人の写真を撮った。
まぁ、俺のキャラだと許されるw
そうは言うものの、まだまだ元気でいてもらわないと困る。



※以上、平成23年12月31日に撮った写真で、記事もその日に書いた。
それからたった2週間ちょっと、平成24年1月16日20時40分、祖父が亡くなった。
まさか、こんなに早く「いざという時」がくるとは思わなかった。

じごくの思い出

じごく、という言葉を祖父から教わったのは、まだ小学校にあがる前のことだった。わたしは両親が共働きだったこともあって、近くに住む祖父の家に預けられることが多かった。幼小児期は、ほとんど祖父の家にいたと言っても良いくらいだ。わたしは初孫だったこともあって、それこそ目に入れても痛くないくらいに可愛がられた。そんな祖父にわたしは、それこそ目に入れられても痛がらせないくらいになついた。

祖父は優しい人だった。わたしが泥のついた靴で白い車のボンネットやルーフの上を歩き回り、そのくつ跡を祖母に見つかってこっぴどく怒られたことがある。そこへ通りかかった祖父が、車に残された泥のくつ跡を見て、
「これは、ネコの足あとじゃないか」
そう言って、それで祖母の気もそがれたということがあった。

そんな祖父から、ほんの少しだけ厳しく言われたことがある。
「生きものを殺したら、死んでからじごくに行くぞ」
それを聞いて、わたしは子ども心に、
「あぁ、もうだめだ。ぼくは死んだらじごくに行く」
と怖くなった。
それというのも、田舎で育ったからというわけではないかもしれないが、「じごく」というものを教わったときには、すでに虫の一匹や二匹どころではなく、たくさんの生きものを殺したことがあったからだ。そして同時に、殺虫剤で虫を殺している祖父の姿を思い出し、
「あぁ、おじいちゃんもじごくに行くんだ」
そう思うと、なんだか悲しくなった。
「おじいちゃんがじごくに行くのはいやだ」
いてもたってもいられず、涙がにじんだ。しかし、そこは子ども心。ちゃっかりと、こんなことも思ったのだ。
「じごくに行っても、おじいちゃんがいる」
ほんの少し、心強かった。

2012年1月20日

じいちゃんと周りの不思議な1ヶ月

思えば、この1ヶ月間は不思議なことが多かった。
それは、俺だけではなく、母も同じことを言っていた。

俺は昨年末に帰省した。12月31日、島へ戻る前にじいちゃんの家に行って叔父と二人で酒を飲んだ。その場には、俺と叔父のほかに、祖父、ばあちゃん、叔母、従妹、母もいた。それで、せっかくだからということで、俺の一眼レフで家族写真を撮った。ちなみに、これまでそんな写真は撮ったことがなかった。なぜか、あの時あの場所で、家族写真を撮りたいと思ったのだ。ピントは、真ん中に座ったじいちゃんに合わせた。そんな改まった写真を撮るなんて、初めてだった。
じいちゃんに「よいお年を」と言って、俺は帰った。

年が明けて、しばらくすると里帰り出産で帰省している妻が切迫早産で入院することになった。そのお見舞いで、俺はまた帰省した。妻の入院がなければ、年末にじいちゃんに会っているから、今回は会わずに帰島の予定だった。しかし、母から電話があって、
「おじいちゃん、今日はデイサービスを休んでいるから、会いにおいで」
そう言われたので行ってみることにした。行ってみると、じいちゃんは仏壇に線香をあげているところだった。ちなみに、じいちゃんの家は分家なので、その仏壇の位牌第一号はじいちゃんになった。じいちゃんは少し元気がなかった。仏壇からソファまで、もの凄く時間をかけて小刻みに歩いていた。いつもなら、俺の顔を見て嬉しそうに笑ってくれるのに、声をかけても反応が薄い。とにかく歩くので精いっぱいという感じだった。従妹に「どうしたんだろう?」と聞くと、従妹も「今日はちょっと元気がない」と言っていた。ソファに座らせた後、咳きこんで痰をなかなか拭けずにいたので、ティッシュで拭いてあげた。俺がじいちゃんにそんな介護めいたことをしたのも、初めてだった。
帰り際、言い忘れていた「明けましておめでとう」を伝えた。

翌朝、空港へ送ってもらいながら、母といろいろ話した。じいちゃんの様子が変だったということも話題になったが、お互いに、歳も歳だからそういう日もあるだろうね、という感じだった。近所に住む俺より一歳下の女の子が子宮頚がんの末期らしいということや、俺の同級生が調子が悪そうだという話などしながら、人間の生死について少し語った。そんなことを母と話したのも、初めてだった。

朝からじいちゃんが起きてこない、と叔母から母に連絡があった。母は、その日の朝に俺と話した内容が気になって、病院に連れていくよう勧めた。ベッドから起きない祖父を叔母だけでは病院に連れて行けず、叔父が帰宅して連れて行った。そしてそこで脳出血が判明した。

母から連絡があった。国立病院の主治医から、
「会わせたい家族には、早めに会わせてあげてください」
そう説明があったらしい。
涙声で震える母の声を聞くのは、俺が医学部に合格したとき以来だから10年ぶりだ。
「あんたは昨日も会っとるし、お通夜と葬式に参加せんばけん、今日はもう帰ってこんちゃ良かよ」
そう言われたけれど、やっぱり後悔はしたくなかったから飛行機を予約した。

空港から出たのが夜7時。俺と母は腹が減っていたので、叔父の事務所で二人しておにぎりを食べた。しばらくは談笑した。夜9時に東京から駆けつける叔父や妹、従弟を空港で拾ってから病院に行こうと計画していた。だけど、なぜだろう。母も俺も二人して、とりあえず先に今すぐ病院に行こう、そんな気持ちになった。先日書いたように、俺たちが病院に到着して30分くらいして祖父はスッと亡くなった。

モニターの表示で、心拍数がどんどん減っていった。
それを見ながら、母が、
「はぁ? え? え? はぁ? え? え?」
と放心したような声を出していた。主治医がやってきて、20時40分の死亡宣告があった。じいちゃんとずっと一緒に暮らしてきた叔父が、
「ウーッウッウッウッ」
と、小さく声を詰まらせていた。俺は、じいちゃんキリの良い時間に亡くなったなぁと思いながら、間に合ってよかった、間に合ってよかったと、ただただ安堵していた。

じいちゃんの入れ歯を取りに帰っていたばあちゃんや叔母、従妹は臨終に間に合わなかった。ばあちゃんは、じいちゃんの枕もとに行って、
「こりゃあ、なんでそがん焦がって逝くとぉ、おとさん、こりゃあ」
そう呼びかけていた。それで俺もなんとなく実感できて、少し涙がにじんだ。

母は、じいちゃんがこの一ヶ月ですごくたくさんの人に会っていて、それが不思議だと言っていた。しばらく行っていなかった自分の生家や、祖母の実家に挨拶まわりに行き、また、いろいろな縁のある人たちが普段以上にたくさん会いに来てくれたらしい。じいちゃんは亡くなる前日まで元気に歩いていたから、誰も亡くなるなんて思っていなかったはずだ。それなのに、なぜだか人が次から次へとやって来て、じいちゃんと話して帰ったらしい。虫の知らせ、というものなのだろうか。

世の中の無念な亡くなり方をした人たちには申し訳ないけれど、じいちゃんの最期がこんなにも素晴らしかったのは、じいちゃんの功徳あってこそだと思う。まだじいちゃんが若いころ、母らが通う小学校の便所の汲み取り作業を買って出たらしい。
「誰もやらんのやっけん、おいが泥かぶる」
じいちゃんのことだから、そんなことは口に出さなかっただろうが、母や叔父らはじいちゃんの背中を見てそう思ったんじゃないだろうか。そして、その地味な功績が認められて、文部大臣だか何だかの表彰も受けたそうで、これまたじいちゃんはそんなこと自慢しないから、俺も葬儀の日まで知らなかった。俺の自慢のじいちゃんは、謙虚すぎて自分のことを誇らないから、ここで俺が自慢したい。

そんなじいちゃんだったから、こんな最期を与えられたのだと信じている。

農夫

男は農夫だった。
家が農業を営んでおり、男は子供の頃から農夫だった。
戦争で少年兵として満州へ行っていた期間を除いて、
男は人生のほとんどを、農夫として過ごした。

男には兄と弟がいた。
実家の土地は、兄が継いだ。
弟は就職して、東京へ行った。
男は近くの農家の娘と結婚し、
何もない土地へ移り住んだ。
農地ではなく、ただの土地。
夫婦はその土地を耕し、農地にした。

夫婦は毎朝四時に起きた。
男は朝から土地を耕しに出た。
妻は洗濯や朝食の準備をした。
男が二時間ほど作業をして家に戻ると、
妻が朝食を作って待っている。
朝食を終えると、今度は二人そろって土地を耕しに出た。
昼には握り飯を食べた。
夕方六時に家に戻り、男は薄明りの下で本を読んだ。
一時間ほどすると妻が、
夕食の準備ができた、と男に告げに来る。
二人で夕食を取り、毎日少しだけ話をした。
食事を終えて、月の出ている夜は十時まで野良に出た。
月の出ていない夜だけが、彼らの休息日だった。
次の朝も四時に起きる。
そんな毎日。

夫婦は三人の子をもうけた。
一番上は女の子だった。
女の子は弟たちの面倒をよく見た。
そのおかげで、妻は子育てに追われることなく働き続けることができた。
農地は広がり、収穫も増えた。
男は、脂肪のない体と太い腕で、
みかんの詰まったコンテナを一度に二つ持って歩いた。

そして彼らは、通帳に百万円を貯めた。
十年かかった。
妻は毎日台所で通帳を眺めていた。
その金で、彼女は新しい冷蔵庫が欲しいと言っていた。
新しい冷蔵庫について、長女と何遍も話し合っていた。
氷を作れる冷蔵庫が欲しいと、男に何度も話した。
それ以外には手をつけず、貯金する事にしていた。

男の父が亡くなった。
葬式に出るために、東京から弟が帰ってきた。
そして弟は、自分にも相続権があることを主張した。
相続税を払うと、遺産は土地しか残っていなかった。
弟は、土地の一部を相続することを主張した。
相続した後は、おそらく売ってしまうのだろう。
男は悩んだ。
自分は土地など相続するつもりはなかった。
全て兄にあげてしまえば良い。
そう思っていた。
兄から土地を奪うと、農業ができなくなる。
農業は土地が命だ。
男はそう思っていた。
男は弟を説得した。
しかし、弟は説得に応じなかった。
男は、弟を納得させるため、通帳と印鑑を渡した。
百万円が入っていた。
全て持って行け。
男は言った。
だから、兄貴から土地だけは奪ってやるな。
そう言った。
そして弟は、通帳と印鑑を持って東京へ帰って行った。
妻が台所で泣いていた。
長女がその姿を黙って見ていた。
その二人の姿を見ても、男は後悔しなかった。
間違ったことはしていない。
そう確信していた。

子供たちはやがて成人し、それぞれに結婚した。
男に孫ができた。
男の子だった。
孫は男によくなついた。
男はその孫を色々なところへ連れて行った。
畑、川、海。
孫がせがむと、彼は電車を見せに連れて行った。
飛行機を見るために空港にも行った。
夜は一緒に寝た。
夜の間、便所へ行くのに何回も起こされた。
休む時間が少しだけ増えた。
夜の十時には床につくようになった。
朝は五時に起きるようになった。
孫とはよく相撲をした。
男は膝をつき、孫は走って体当たりをした。
男はびくともしなかった。
時が経ち、
男の孫は増え、
男の体は細くなった。
みかんのコンテナは一つしか持てなくなった。

初孫が高校を卒業し、他県の大学へ行くことになった。
男は孫のために百万円を用意した。
妻も喜んでいた。
孫の出発の前日、男は孫と二人で酒を飲んだ。
そして、人生の様々な事について話した。
孫が成長したのが嬉しかった。
まだ小さな子供に感じられた。
しかし、体は孫の方が大きくなっていた。
男は孫と握手をした。
努力と正直。
男はそれを繰り返した。
人生で、それだけは守れ。
努力と正直。
真っ赤な目で、男は繰り返した。

男の背中は曲がってしまった。
もはや、相撲などとれなくなっていた。
夜九時には床につくようになったが、
朝は五時起きのままだった。
ある日、彼はみかんのコンテナが重いと感じた。
農業は長男に任せよう。
そう思いかけた。
そして。

努力と正直。

大学へ行った孫のことを思い出した。
男はコンテナにみかんを半分だけ詰めた。
トラックまで往復する回数が二倍になるだけだ。
コンテナを持ち上げてみると、それでも少し重かった。
腰が少し痛かった。
努力、正直、努力、正直。
コンテナを持ってトラックまで、
男は一歩ごとにリズムを取りながら歩いた。

男は農夫だった。
家が農業を営んでおり、男は子供の頃から農夫だった。
戦争で少年兵として満州へ行っていた期間を除いて、
男は人生のほとんどを農夫として過ごした。

そして、今も農夫である。

足跡

ある日、まだ五歳くらいだった俺は素晴らしい遊び場を見つけた。じいちゃん家にある白い乗用車のボンネットとルーフである。ルーフに上って、そこからフロントガラスを滑り台代わりにしてボンネットに滑り降りる。幼い俺にとっては刺激的な遊びだった(1980年頃の田舎には、ゲームどころか普通のオモチャさえなかった)。

やがてその遊びにも飽き、庭の隅で次の遊びに熱中していた。すると突然、ばぁちゃんの鬼のような怒り声が聞こえてきた(今でこそカワイイばぁちゃんも、当時は恐怖の対象だった)。その声は、聞き間違うことなく、明らかに俺の名前を呼んでいた。いや、叫んでいた。俺は何事が起こったのかと思い、ばぁちゃんの声のする方へ走った。ばぁちゃんは白い車の横に立っていた。恐ろしい形相で、

「なんで、靴のまま車に上ったとや!」(言葉遣い悪い)

と怒っている。白い車には俺の泥だらけの靴跡がハッキリと残っていた。靴裏の模様まで見て取れた。「しまった~」と思ったが、時すでに遅し。ばぁちゃんは怒り狂っている。そこへ、ばぁちゃんの声を聞きつけたじぃちゃんが、ばぁちゃんとは余りにも対照的なのんき顔で現れた。

「どうしたとや?」

と、じぃちゃん。

「こいば見んしゃい」

と、ばぁちゃん、白い車についた俺の靴跡を指さした。じぃちゃんは言われるままに、その靴跡を見つめる。

「ははぁ」

じぃちゃんはしばらくその靴跡を眺めたていた。そして、犯人を確信した刑事のように、ばぁちゃんにはっきりと告げた。

「こりゃぁ、猫の足跡やろ」

2012年1月19日

最愛の祖父が亡くなりました

こちらのブログでも、以前のブログでも、何度となく話題にあがったじいちゃん。年末にじいちゃんに会って、元気な姿を写真にとってブログに載せた。1月14日、切迫早産で入院になっている妻のチタロウ氏のお見舞いに行った。そのあと、1月15日にじいちゃんに会いに行ってみた。ちょっと元気がないなと思ったが、年始の挨拶をして、じゃあまたねと肩を叩いた。

1月16日、朝から島に戻って、二時間後、母から電話があった。じいちゃんが起きてこないからかかりつけの病院に連れて行ったら、脳出血があったとのこと。すぐに国立病院に搬送されたが、主治医からは親族を呼ぶようにと言われたそうだ。昼にその連絡をもらった俺はすぐにでも駆けつけたかったが、島の飛行機は便数が少なくて、18時過ぎの便が一番早かった。病院に到着したのは20時ころだった。じいちゃんの心拍数は45前後で、たしかにもう長くはないのかもしれないと思った。それでも、かすかな奇跡に期待もしていた。

しばらくは、病室にいる叔父や従妹、母と談笑していた。それから、なぜそうしたのか分からないけれど、布団に手を入れてじいちゃんと手をつないだ。じいちゃんと手をつなぐのなんて何十年ぶりだろう。そのまま手を放す気になれず、揉んだりさすったりしていて、そうして15分後。

20時40分、あっけないくらいにあっという間に、じいちゃんの心臓は止まった。仕事柄、何人もの臨終を見てきたが、こんなあっさりと逝った人は初めて見た。裏の畑の様子でも見に行くか、というくらいのあっさりした勢いで、俺を愛して愛して愛して、愛し尽くしてくれた、俺の大好きなじいちゃんは逝ってしまった。

87歳だった。

1月15日には、妻の切迫早産という予定外の出来事のおかげで元気なじいちゃんに会えた。もしかしたら、生まれてくる娘が、俺とじいちゃんを引き会わせてくれたのかもしれない。離島勤務なのに臨終の場にも立ち会えたし、最期は手までつないでいたという偶然の重なり。一緒に生活しているばあちゃんや叔母でさえ臨終には間に合わなかったのに。
「あなたは、最後の最後まで、本当におじいちゃんにとって特別な孫だったね」
叔母の言葉を何度も何度も何度も思い出す。

しばらく、じいちゃんの写真を引っ張り出してはここに掲載しつつ、思い出を綴りたい。今回のじいちゃんの最期は、不思議なエピソードがたくさんある。周りの人たち、特に家族親戚に感謝したいこともたくさんある。そういったことを、俺の中での喪の作業として書いていきたい。


コメントはしばらく返せませんが、俺の大好きなじいちゃんの話に、しばしの間お付き合いください。

2012年1月16日

座敷わらしの正体

座敷わらしって、なんだろう?
「妖怪でしょ」
なんて言われそうだが、まぁ最後まで話を聞いてくれ。
いや、読んでくれ。

座敷わらしとは何か?
自分で書くのは面倒なので、ちょっと検索してみた。
座敷童子(ざしきわらし)
一般的には、赤面垂髪の5、6歳くらいの小童(童子のことも童女のこともある)で、豪家や旧家の奥座敷に居り、その存在が家の趨勢に関ると言われるため、これを手厚く取り扱い、毎日膳を供える家もある。座敷童子は悪戯好きで、夜になると客人のふとんの上にまたがったり枕を返したりするが、見たものは幸運が訪れるといわれる。 小さな足跡を灰やさらし粉の上に残し、夜中に糸車をまわす音を立てるともいわれ、奥座敷で御神楽のような音をたてて遊ぶことがある。その姿は家の者以外には見えず、また、子供には見えても、 大人には見えないとする説もある。狐持や犬神持に類似した構造を持つが、座敷童子の住んでいることを迷惑がらず、むしろ神として保護し、周囲の人間も座敷童子の居る家に対して、一種畏敬の念を持って接する点が、狐持や犬神持とは異なる。座敷童、ザシキワラシ、座敷童衆とも表記する。同様のものに「座敷ぼっこ」「蔵ぼっこ」「座敷小僧」などがある。

座敷わらしは子どもの姿をしている。
大人には見えないけれども子どもには見える。
その家の者にしか見えないとも言われる。
いたずら好き。
座敷わらしがいる家は裕福である。
奥座敷に住んでいる。
周囲の人間も座敷わらしの居る家に対して、一種畏敬の念を持って接する。
手厚く取り扱い、毎日膳を供える。

これらから考えついたことは、『座敷わらしが実在する人間、それも、ダウン症などなんらかの障害児だったのではないか』というものである。デリケートな問題を含むのは承知だが、一つの説として書くこととする。

なぜ、ダウン症児が座敷わらしの正体だと思うのか。まずは、俺が書いた『ダウン症児は親を選んで生まれてくる』という記事を読んでいただきたい。これを読むと分かるように、ダウン症児が生まれてくるには、良好な母体環境や周囲の愛情が必要なのだ。

江戸時代やもっと前の時代で考えてみよう。
今と比べて圧倒的に物のない時代。そういう時代では、母体の状態は家が裕福であればあるほど良いだろう。裕福な家とは、その時代のその地域ではそこそこの権力者だ。例えば庄屋とか地主とか。逆に貧乏な農家では、母体の状態がさほど良くなく、ダウン症児はおそらく胎内で自然流産してしまう。つまり、その時代にダウン症児が生まれてくるのは、圧倒的に裕福な家、富豪の家が多かったはずなのだ。

そんな家にダウン症児が生まれたとする。現代では、偏見もまだ残っているとはいえ、ダウン症の原因も分かっているし、ダウン症児に対する理解はかなり広まっていると思うが、江戸時代にはかなりの偏見があったと思う。偏見を持っていたのは、周囲の人たち、そして親。だから、彼らは生まれてきたダウン症児を人目につかない奥座敷で生活させたのではないだろうか。

ダウン症児の成長は児によって異なるが、概して一般の人より遅れる。いくつになっても無邪気な子どもの部分が残る。お客さんの布団にいたずらするのも頷ける。座敷わらしが子どもたちと遊ぶのは、子どもたちにはあまり偏見がないからじゃないだろうか。しかし、周囲の大人には偏見がある。農家の子どもたちはダウン症児が「見える」し、ダウン症児と「一緒に遊ぶ」こともできる。一方、農家の大人たちは、親(権力者)が奥座敷に住ませてまで隠そうとしている子の姿が「見えてはいけない」から、「見えない」。子どもから「あの子だよ」と指さして言われても、見えないふりをする。そして子どもたちに言うのだ。

「それは座敷わらしだよ」
「裕福な家にいるんだよ」
「大人には見えないんだよ」

しかし子どもは納得しない。
「でも、庄屋さんはあの子とお話してたよ」
そう言う子どもに対して、大人はこう説明する。

「座敷わらしはその家の人には見えるんだよ」


前述したように、ダウン症児は権力者の家に生まれるのだから、「周囲の人間も座敷わらしの居る家に対して、一種畏敬の念を持って接する」のも当たり前だ。手厚く取り扱い、毎日膳を供えるのは、座敷わらしが生きている人間、隠しているとはいえ自分たちの子どもだからだ。

見たものは幸運が訪れる。
これについてはどうだろうか?
理由は二つ考えた。

1.ダウン症児をテレビで見たことがある人なら分かると思うが、彼らは非常に素敵な笑顔を見せる。その笑顔を見て、非常に幸せな気持ちになれる。

2.座敷わらし(ダウン症児)は奥座敷に隠されている。来客がたまたまその姿を見てしまった場合、親が来客に口止め料として金品その他を提供した。

もちろん、俺は(1)の説の方が好きだが、これは江戸時代より前の話だから(2)の説もありうると思う。

座敷わらしがダウン症児だったのかどうかは確かめようがない。しかし、現代社会においてはダウン症児は富豪のもとではなく、素敵な親の元に生まれてくる。ダウン症児のお父さんやお母さんが創られているホームページやブログを見ると、「この子が生まれなかったら感じれなかっただろう幸せを感じる」というようなことを書いていらっしゃる方が多い。とすると現代社会においては、ダウン症児は幸せを運んでくる本物の座敷わらしなのかもしれない。

<関連>
ダウン症児は親を選んで生まれてくる
ある未来を選ぶことは、別の未来を捨てること

それぞれの

IMG_8634

アンティーク小物

IMG_9202





IMG_9207





IMG_9208





IMG_9214

2012年1月15日

笑顔と真顔、タイミングの難しさを考える

笑顔と真顔を比べた場合、適切なタイミングをつかむのは笑顔のほうが難しそうだ。

真顔は時と場合をあまり選ばない。たとえば相手の冗談を分からずに笑わなかったとしても、
「なんだ、コイツ、つまんねぇ」
というくらいで済む。それで周囲から避けられても、自分一人が傷つくだけだ。

ところが笑顔は、タイミングが難しい。不適切な場面で笑顔を見せると、相手を傷つけたり、怒らせたりする。

「空気を読めない」という人たちをかなり大雑把に、明るいタイプと暗いタイプに分けるなら、暗いタイプの人の方が社会適応は良いのかもしれない。

Lucky Catch for 57 Dollars !

兄のダンが働いて稼いだ125ドルのお札をばらまき、弟のジャックが空中でキャッチできた分だけあげる、という素敵な企画。

結末がw ダンのリアクションが良いお兄ちゃんというのを物語っているw まぁ、こんな企画を思いつく時点で、かなり素敵なお兄ちゃんだよね。


タイトル通り、57ドル、つかめちゃったみたい。

2012年1月14日

患者から夢について相談されることが多いが……

精神科医の中には、夢を熱心に分析する人もいるようだが、自分はまったく興味がないし、あまり信憑性もないと思っている。ところが、精神科の診察室では、よく患者さんから夢の相談をされる。

たいていの場合、
「毎晩、同じ夢を見るんですが、これはなんですかね?」
「一晩中、夢を見るんですが、どうしてでしょうか?」
という質問が多い。

時には、
「人が死ぬ夢を毎日見るんですが」
「家の鍵を締めてまわるのに、どれも壊れているという夢を毎日見るんですけど」
といった具体的な夢の内容を相談されることもある。

まず「毎晩同じ夢を見る」ことについてだが、理由はよく分からない。実際に毎回同じ夢を見ているのだとしたら、それはそのことが気がかりだからだろう。しかし、本当のところは、『自分にとってインパクトのある夢を覚えている』ということだと思う。だから、毎日ではなくで数日おきくらいに似たような夢を見ていたとしても、インパクトのない夢は忘れてしまうから、結果として毎回同じ夢を見ているという記憶になる。

「一晩中夢を見る」というのはどうか。夢は、周期的にくる浅い眠りのときに見るもので、しかも基本的には目覚める直前に見たものだけを覚えているそうだ。しかも、本人は長い夢を見たような気がしていても、実際のところはほんの数秒からせいぜい数分程度の夢しか覚えていないものだという。だから「一晩中夢を見る」ということはありえなくて、「一晩中夢を見たような気がする」というのが正確なところなのだろう。一晩中夢を見るという人は、同時に「眠りが浅い」と訴えることが多い。そして、こういう人たちの多くが長時間の昼寝をしている。だから、夢のことはともかくとして、まずは生活改善を、とアドバイスをすることが多い。

具体的な夢について解釈を求められても、「さぁ」としか答えようがない。それだとあんまりなので、せめて「そのことが気になっているんでしょうねぇ」と言うくらいはする。でも、これだけで患者さんは結構満足してくれるようで、
「あぁ、身近で不幸が続いたので」
とか、
「そうなんですよ、うちは家が広いのに一人暮らしだから、戸締りが気になって」
とかいう具合に納得している。

夢なんかにあまりこだわらないほうが良いと思うが、「自殺する夢」を見たという人に関しては、ちょっと気をつけるほうが良いのかもしれない。精神科医・中井久夫先生は著書の中で、
「現実での問題を夢の中で処理・解決しようとし、解決できなかったものを起床時に覚えている」
といったことを書かれていた。これが正しいとすれば、自殺する夢は、現実での問題解決策として、一瞬とはいえ自殺の選択肢を考慮したということかもしれない。これはあくまでも中井先生の本を読んだうえでの私見であって、自殺する夢を見たら精神科を受診しろということではない。家族や友人が「自殺する夢を見た」と言っていたら、いつもより少し気をかけてあげるくらいで良いのかもしれない。

レトロ

IMG_8834

たくましさ

IMG_9117
植物というのはたくましいねぇ。

2012年1月13日

君が代で起立は当然、しかし、起立しない自由がない世の中はイヤだ

橋下大阪市長が、君が代斉唱時に教職員への起立を義務づける条例案を提出するらしい。国歌を斉唱するときに起立をするのは当然だ。が、しかし、同時に「起立しない自由」が認められていない世の中はイヤだなと思う。

小学校4年生のころ、日教組の先生が「君が代」について、
「あれは天皇を崇め奉る歌なんだから、あんなもの歌わなくても良い」
というようなことを言っていた。

中学校のときには、やはり日教組の先生が、
「君が代も国旗もくだらない、蛍の光も軍歌だ、仰げば尊しなんて要らない」
と息巻いていた。

小中学生に対してああいう教育は良くない。教師が自分の信じる意見を述べるのは決して悪いことではない。ただ、教室内に大人が一人だけという絶対的な強者の立場で、そんな発言をすることが間違っている。それは洗脳、押しつけと言われても仕方がない行為である。持論を展開したいのなら、全校集会などを利用して、校長や教頭と公開討論するべきなのだ。そうすることで、子どもらは大人のいろいろな見方を知ることができる。こんな考え方もあるんだよと「教」え、そのうえで子どもたちの考える力を「育」む。これが「教育」であって、教室で一方的に教えるのは断じて教育ではない。

今回の橋下市長の条例案に話を戻す。起立しない自由がなく、強制的に起立させられる大人たちを見て、果たして子どもたちの中に真の愛国心は育つのだろうか。自由というものについては、ガンジーのこんな言葉を思い出す。
間違いを犯す自由が含まれていないのであれば、自由は持つに値しない。

俺は橋下市長は好きだが、この条例には反対だ。
橋下大阪市長、君が代起立条例を提案へ  2012/1/13
大阪市の橋下徹市長は13日、学校の入学式や卒業式の君が代斉唱時に教職員の起立を義務付ける条例案を2月議会に提出する方針を明らかにした。君が代起立条例を巡っては市長が代表を務める地域政党「大阪維新の会」が昨年の府議会に提案し、維新の賛成で可決・成立しており、同様の内容になるとみられる。

府の同条例は、府教育委員会が任命・処分権を持たない政令市の大阪市、堺市の教職員も対象に含めているが、罰則規定などは設けていない。

維新府議は提案の背景について「市で再提出することで条例の実効性を高める狙いがあるのではないか」と指摘する。

橋下市長は同日、大阪都構想を念頭に「(都の実現で導入される)選挙で選ばれる区長のもとでは起立して歌わなくていい区があってもいいが、今は僕が選挙を受けている唯一の立場として、条例を出す」と語った。

旅行先で子どもに携帯ゲーム機を持たせる親たち

DSやPSPが手軽に入手できるようになったせいか、旅先でゲームしている子どもをよく見かける。駅の構内、電車の中、空港、飛行機の中、レストラン、そしてまさかのディズニーランドでも。

ディズニーランドでゲームしている子どもらを見たときにはかなり驚いた。確かに、長蛇の列に並んで退屈なのは分かるけれど……。そこでふと周りを見渡すと、ゲームを持っていない子どもの親は、子どもたちの退屈しのぎの相手をするので大変そうだったのだが、ゲーム機を持たせた親は、子どもが静かだから余裕の表情でボーっとしていた。なるほど、これは親が楽をするためのツールなんだな。

そう考えると、駅でも空港でも、電車でも飛行機でも、子どもを黙らせようと思ったらゲーム機を持たせるのが一番楽だ。ただ、そんな風にして育った子どもたちは、成長してから「何もせず静かに待つ」ということができるのだろうか。

と、ここまで書いて、しかし俺だって携帯を扱ったり本を読んだりするじゃないか、と思い至った。それは単に時間つぶしの種類が違うというだけで、本質的には同じことなのかもしれない。まぁさすがにディズニーランドで本は読まないが。

今のところ、生まれてくる子どもが成長しても、携帯ゲームは買わないつもりだ。


参考 「ファミコンが日本を駄目にした」論 について


ちなみに、ディズニーランドで並んでいるときに、PSPのモンスターハンターを黙々とやっているカップルがいた。数十分の待ち時間の間、その二人には会話が一切なかった。そんなところで本気出して狩るなよw

電柱

IMG_9788

無題

IMG_9336

みかんの抜けがら

IMG_8570

まつぼっくり

IMG_0745





IMG_0415





IMG_0418
手はチタロウ氏。

女性の喫煙がアウトな理由

俺は、知っている女性がタバコを吸っていて、その人にまだ子どもがいなかったら、「タバコはやめたほうが良いよ」と言う。もう子どもがいて、新たに妊娠するつもりもないようなら、なにも言わない。

子どもができたらやめるよ、という女性も結構いた。まぁ、たいていの場合はやめきれない。彼女の喫煙は、もちろん胎児に影響を及ぼす。だから、喫煙は良くない……、という話ではない。喫煙は、妊娠前の卵子に悪影響を及ぼすからやめたほうが良いのだ。ある不妊症治療関係のサイトには、こう書いてある。
調査によると、タバコは卵巣に有害で、そのダメージは、これまでの喫煙の期間によります。喫煙は卵子の老化や生殖機能低下を早め、閉経を数年も早めます。タバコの煙の成分は、卵巣の女性ホルモン分泌能力を低下させ、遺伝子異常を誘発するリスクを高めるのです。
これを信じる信じないは個々人の自由だが、何かあった時に「タバコのせいかな?」と思いたくなければやめるにこしたことはない。ちなみに、精子が毎日どんどん造られるのと違って、卵子は女性が赤ちゃんの時に造られたのを排卵していくだけだ。だから、大切にしてあげたほうが良い。

こうやって説明しても、結局、みんなやめないんだよなぁ。だから、タバコを吸い続ける女性の中の卵子ちゃんたちには、こう言うしかないのだ。


君たちも、大変だね。


ペアベア

IMG_8576

2012年1月12日

入試問題が“的中”するとはどういうことか

普段、あまり真剣に人のブログを読むことはない。まぁたいていの人がそうだろうけれど。だが、これは非常に読み応えのある素晴らしいブログで、ほぼきちんと読んだ。医学部や精神科領域に進みたいと思いながら、このブログをつらつら眺めている人がいたら、ぜひとも以下のブログを読んでみることをお勧めする。なにか一つだけでも、勉強のヒントになるかもしれない。

入試問題が“的中”するとはどういうことか
http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/matsubara/201201/523106.html

なにげなくビーグル動画を検索してみたら


こんな頭のいいビーグルもいるんだなぁ。
太郎は、俺が手を放して1分も待てないぞ。

でも、うちの太郎がやっぱり一番カワイイなw

チタロウ氏の入院

本日は34週目の健診日だった。

昼頃に電話があり、チタロウ氏が入院することになったと知らされた。子宮頸管長が17mm……、とこれがどうなのかよく分からなかったので、当院産婦人科の働き盛りF先生に聞いてみたら、普通の半分くらいとのこと。大丈夫かどうか心配だったが、F先生は、
「安静にしていたら大丈夫よ」
ということで、一応は安心。36週までいけば、あとは退院して出産を待つことになるそうだ。

自分としてはハラハラしたものの、わりと平静を保っていたつもりだが、夕方にA子先生から、
「大丈夫? ちょっと動揺してたもんね」
と言われて、やっぱり心の振幅は表に出てしまうものなんだなと思った。A子先生は精神科医だから、そういうところに目が行き届くというのもあるかもしれない。

赤ちゃんは、現在、1923グラム。

しばらくは不安な日を送ることになりそうだ。

非専門家が買っても、あまり得した感のない本だと思うが、時どき琴線に触れる名フレーズの多い本 『精神療法面接のコツ』


難しかったので時間がかかり、ようやく読み終えた。印象に残った部分をいくつか引用。
溺れる者を救助するときの責任ある選択とは、まず、救助者自身がしがみつかれて溺れてしまうことを防ぐことである。
親子関係で「自立」するためのもっとも有効な方法は親孝行であり、最も効果の薄い方法は家出である。
精神科の治療は、はじめ、「浅く」「狭く」 『短く」「軽く」を目指すほうが良い。
精神科医の患者への関わりは、はじめ薄味にしつらえて、必要に応じてやむなく濃い味へと進むのが良い。その逆がほとんど不可能である点は、料理に似ている。
合奏は、精神療法家にとって良いトレーニングになる。相手の出す音を聴きながら自分も音を出し、それも聴きながら両者を調和させようと努める。しかも、その三つを同時進行させるのだから。
患者が読む本に書いてある情報の中には、患者が勉強すると患者自身の治療に役立つ情報もあれば、役に立たない情報もある、中にはかえって治療を妨げる情報もある。
子どもは親の教えるようにはならず、親のようになる。
精神療法にかよっている間には生活上の重大な決定を延期するように、と勧める治療者は多い。だが、生活上の重大な決定を延期することは、それ自体、人生にとって重大な決定であることが多いから、むしろ、生活上の重大な決定の前後には精神療法をお休みしなさい、あるいは生活に影響の及ばない程度の精神療法に止めましょう、と勧めるのを定石にすべきである。
相手が「分かりません」と答えたら、その瞬間、結果として相手を粗末にする関係を造ったわけである。この呼吸は、相手が幼児であろうと老人であろうと変わらない。ことに、痴呆老人に対するさいは、答えに窮させる状態を引き起こさないように配慮しながら対話してゆくと、思いもかけぬ歴史の証言を聞き出すことがしばしばあり、そうした確かな記憶が再現したことが老人自身にも確認されることで、人としての自信が回復し、自己制御の機能が瞬時に向上するものである。これが痴呆という状態への精神療法である。
理想像とは、旅人にとっての北極星のようなものである。旅人はそれを目指して歩いてゆくことで、方向を間違えることなく北へ進むことができるが、その結果、北極星に到達するわけではなく、ほとんど近づいてさえいない。
家庭内暴力は、暴力の快感への嗜癖ではない。一見怒りや攻撃のように見えるものは、悲しみの変形物もしくは悲しみへの慰撫工作である。家庭内暴力に限らず、一般に、悲しみに支えられていない怒りは持続性をもたない。
非専門家が買っても、あまり得した感のない本だと思うが、時どき琴線に触れる名フレーズの多い本でもある。

花たち

IMG_9356





IMG_9746





IMG_9545





IMG_9556





IMG_9559

すすき

IMG_9657





IMG_9664





IMG_9665